鬼蜘蛛姫




第六話 継ぎ接ぎの劣情



 その年の春。
 丹厳は生まれも育ちも寒村の農民達を口八丁手八丁で丸め込み、特に必要でもない橋を掛けさせた。遠い目で 見れば必要かもしれないが、今のところは渡し船で事足りている。工事をするとなれば人も手間も掛かるので、肝心 の年貢を納めるための作物を育てられなくなりはしたが、いい加減なことを言って説き伏せた。これまで説法をして きたおかげで、農民達は丹厳を信用してくれるようになっていたからだ。それがなかったら、こうも上手く事が運びは しなかっただろう。傷が癒えたチヨは、その後も丹厳の住まう廃寺を頻繁に訪れていた。左目を失ってからは以前 のような底抜けの笑顔は見せなくなったが、憂いを帯びた面差しにもまた独特の色気があった。
 その日もまた、チヨは廃寺に来てくれた。本堂で胡座を掻いた丹厳の膝に収まったチヨに、丹厳は優しい手付きで 左目の布を替えてやった。傷はすっかり塞がっているが、空虚な眼窩を埋めるものはない。乱れた髪を櫛で梳いて まとめてやりながら、丹厳は笑みを浮かべていた。川の水を含んだ髪に櫛を通し、整えてやる。

「水垢離は忘れずにしておるようだな」

「へい、坊様」

「それで良い。一時の相手とはいえ、仮にもこの地を統べる水神の供物となるのだ。隅から隅まで清めよ」

「へい」

「水は冷えておったか?」

「いんや」

 チヨは躊躇いの後、小さく答えた。丹厳は櫛で梳いた髪を紐で結い、撫で付ける。

「では、拙僧以外に動いておるものは見えるかね」

「なんも」

 チヨは俯き、膝の上で両手を握り締める。

「ならば、良い」

 丹厳は耳元まで吊り上がった口元を綻ばせ、ずらりと連なる牙を剥いた。丹厳はチヨを向き直らせ、その空虚な 眼窩に舌を伸ばした。チヨは僅かに身を強張らせて唇を引き締めたが、抗わなかった。最初はそれは嫌がったもの だが、毎日のように触れてやると慣れてきてくれたらしく、丹厳の舌先が眼窩の奥をぞろりと抉ろうとも呻き声すらも 上げなくなった。花びらのように薄べったい瞼と睫毛がまばらに抜けた目元を捲り、目玉の形に添った丸みを舌先で 舐め回す。そのうちに唾液が溜まり、筋が切れているために閉じることのない目の縁から涙の如く滴る。粘り気の 強い体液は娘の頬と顎を濡らし、襟元の隙間に入り、鎖骨に糸を引く。

「何も見るでない。知るでない。感じるでない」

 ぢゅ、とチヨの眼窩から舌を引き抜いた丹厳は、虚ろな面差しの娘を単眼で見据える。

「その意味は、考えずとも解るな?」

「へ、い」

 チヨは口元を奇妙に歪ませ、決まり切った言葉を返す。

「おらの目は、坊様しか見ることが出来んすけん。だすけんに、坊様以外からは幸せは得られんの」

「そうだ。拙僧もまた、然り」

 繰り返し繰り返し教え込んでいけば、いずれ口だけの言葉も本心となろう。丹厳はチヨを抱き寄せると、その魂が 収まっている胸元に手を添え、少しばかり大きさを増した胸の膨らみの柔らかさと共に、命の鼓動を感じた。妖力を 弱く注いでチヨと感覚を通じ合わせると、チヨが目にしている光景が丹厳にも見えるようになった。
 それは、常世とも現世とも異なる、全く別のものだった。あらゆるものの色彩が消え失せ、燃え尽きたかのような 灰色に覆い尽くされた光景だった。物の形こそ陰影で縁取られているので判別出来るが、温もりもなければ冷たさ もない奇怪なものだった。手触りもまた、灰を被せたかのようにざらついている。口に入れるものも味がなく、砂や石 を噛んでいるかのようだった。日の光すら届かず、影の暗がりすら至らず、生からも死からも弾かれた異界である。 だが、その中で唯一色彩を帯びているのが、他でもない丹厳の法衣だった。使い古したために本来の色彩からは 程遠い色味に変わってしまった紺色が、チヨの視界の隅に入っている。人間と死体の狭間のような肌色の手足が、 ぎょろついた単眼が、尖り気味の耳が、獣臭い牙が。それがとてつもなく嬉しく、丹厳は肩を揺すった。

「おらが人柱になったら、どのぐらいで外に出してくれんですけ?」

 珍しくチヨから問われたので、丹厳は答えた。

「そうさな。百年は時を経よう。あまり早くに掘り返してしまえば、水神から怪しまれてしまう」

「次ん日とかじゃ、ダメなんで?」

「それでは、橋を掛け終えてすらおらぬではないか。そなたは袂に埋められるのだぞ」

「苦しいんかなぁ。痛いんかなぁ」

「それは束の間よ。眠りに落ちてさえしまえば、百年など呆気なく過ぎ去るというもの」

「水は入ったりしてこんのかな。おらが入れられるんは、仏さんを入れる桶だども」

「気にするなかれ」

「坊様……」

 チヨは首を捻り、右目を見開いて丹厳を仰ぎ見る。

「おら、死にたくなんかねぇ。坊様の嫁になんかなりたくねぇ。おらの目ん玉、返してくんろ。おらは、坊様なんか」

「黙れぃ!」

 笑みを消した丹厳は、すぐさまチヨの細い首を片手で締め上げる。それを軽々と掲げ、娘を見据える。

「良いか、チヨや。そなたは最早、現世には帰れぬ身の上。人間のようなことを申すでないわ」

 灰色の視界の中、娘の体が揺れる。チヨの右目が丹厳を見ている。丹厳の単眼がチヨを見ている。双方の視界が 重なるが、混じり合わない。手のひらの下で冷たい喉が引きつり、息が詰まっている。チヨは恨みがましい目付きで 丹厳を睨み付けてくる。それが癪に障った、と思った瞬間に丹厳は娘を放り投げていた。きぁ、と短い悲鳴が頭上 を過ぎって板張りの壁に叩き付けられ、積年の埃が舞い上がる。濁った霧を掻き分けると、板張りの壁で頭の皮 でも切ったのか、壁に背を当てて項垂れているチヨの頭上には赤黒い筋が擦り付けられていた。

「二度と、そのようなことを申すでない」

 丹厳はチヨの頭を掴んで今一度振り上げようとしたが、指先に絡む血塗れの髪に気付き、手を離した。

「すまなんだ! ああ、なんということを!」

 埃と血の臭いが鼻を突き、肝の辺りが締め付けられる。丹厳は結んだばかりのチヨの髪を解いて掻き分けると、 後頭部を横切るように刻まれた裂傷から滴り落ちる血を拭った。水を汲んできて何度も洗い、裂け目と髪に絡んだ 木材の棘を抜き、左目と同じように洗い晒しの布を巻いてやった。傷の手当を受けるうちに、チヨはまたもや反応を 示さなくなった。時折右目から涙を零すことはあったが、丹厳に抗うことも逆らうこともしなくなった。
 翌日から、チヨはいやに熱心に水垢離に向かうようになった。程なくして、丹厳はその理由を知った。月の障りが 始まっていたからだ。布を当てていても血が流れ落ちてくるので、洗い流すために身を清めていたのである。農民達 からは人柱になれないのではないかと危ぶまれたが、丹厳は無理矢理押し通した。他の娘に興味はないからだ。 護岸工事と並行した橋の建設は順調に進み、遂にチヨが人柱にされる日が訪れた。
 抜けるような白の着物を身に付けたチヨは、嫁入り姿のようでもあった。無論、相手は丹厳だ。橋の袂には注連縄が 張り巡らされ、浄めの酒と塩と米が入った皿が急拵えの祭壇に並び、土地の水神を奉った神社の神主が訥々と 祝詞を上げていた。その中心では、桶に入ったチヨが俯いていた。両手を前に組む形で縛られ、胸と腹にも荒縄が 食い込んで浅い段を作り、太股と膝と足首も戒められていた。丹厳はその姿に得も言われぬ扇情を覚えたが、僧侶 としての立場があるので堪えた。チヨは丹厳を見ようともせず、真っ直ぐに叢雲川を見つめていた。神主や野次馬 がいなければ、チヨの目をこちらに向けさせたのだが。祝詞が終わると、チヨの入った桶に蓋が被せられて太い縄 が掛けられ、事前に掘り起こされていた穴に埋められた。人夫達の手によって桶に土が掛けられ、埋められていく 様を眺めていたが、丹厳は菅笠を下げて表情を隠した。顔が緩んでいると知れたら、人々にどう思われるやら。
 妖怪からすれば、百年などあっという間だ。だが、人間からすれば気の遠くなる年月だ。チヨが埋められる寸前に 妖術を施しておいたので、肉体としての死は訪れないが魂は別だ。百年後に掘り返してやった時には、気が狂って いるか、丹厳に救いを求めて止まないか、はたまた恨み辛みを滾らせた妖怪と化して襲い掛かってくるか。いずれに せよ、楽しみで仕方ない。擦り切れた法衣を翻し、丹厳は本条藩を後にした。
 次に会う時は、常世か、現世か。




 大振りな徳利は空になり、一滴の酒も残っていなかった。
 ぐい呑みの上でそれを未練がましく振っていたが、これ以上は無駄だと悟って栓をした。飲み足りないので、丹厳 は肩を落としつつ目を上げた。話し込んでいた相手である落ち武者は当の昔に高鼾を掻いていて、金剛玉座の上 でひっくり返っている。白玉から貞元は酒に弱いとは聞いていたが、こうも簡単に潰れてしまうとは。怨霊なのだから 底なしに飲めるのでは、と思わないでもなかったが。

「そんで、その後はどうしたってんだい」

 貞元の傍でだらしなく裾を割っているのは、年頃の娘に化けている白玉であった。

「そこから先は、そなたらも知ってのこと。あの娘は水神に奪われ、鬼蜘蛛の姫に使役されておる」

 丹厳はそう答えてから、眉根を顰めた。貞元の飲み残しの酒を飲み干したのは、他でもない白玉である。

「しかして、妖狐。今、そなたは奉公に出ている身ではなかったか。このような夜中に出歩いて良いものか。おまけに しこたま酒を飲みおって、首を刎ねられても拙僧は知らぬぞ」

「馬鹿言ってんじゃねぇや、あたしがそんなヘマをするもんかい」

 けふっと酒臭い息を吐いてから、白玉は赤らんだ顔をしかめた。

「ああ嫌だ嫌だ、女々しい野郎ってぇのは。そんなにあの娘が気に入っているんなら、抱いちまえばいいのにさ」

「惚れ抜いた女ほど、気負うものでな」

 胡座を直した丹厳は、袖に手を入れて腕を組んだ。酔いが回った白玉は、目元を桜色に染めている。

「おまけに回りくどいったらありゃしねぇ。そんなことで、いちいち貞元様のお手を煩わせるんじゃねぇや」

「それはすまなんだ」

「あたしも気の滅入る仕事をしているんだ、御代はきっちり払っておくれよ。生臭坊主」

 白玉は熟睡している貞元にしなだれかかると、黒と紫がまだらになっている怨霊の肌を撫でさすった。

「して、何が入り用か」

 艶めかしい太股を隠そうともしない白玉に辟易しつつ、丹厳が尋ねると、不意に貞元が刮目した。

「死んで間もない人魂をくれぬか。亡霊などでは物足りぬようになってきたのでな」

「人殺しなど造作もないことではあるが、どのような殺しであれば満足するのだね」

 少々驚きつつ丹厳が問い返すと、貞元はゆらりと太い指を上げた。

「若い娘だ。川に引き摺り込み、殺せ。人魂だけでなく、血肉も喰らいとうなってきたわい」

「川、とな」

 それは、つまり。丹厳が目を見張ると、貞元は面頬の下で口元を緩めた。

「そうとも。生臭坊主、そなたが恨んで止まぬ水神をやり込めるための下拵えよ」

「白玉には命じて下さらねぇんですかい、お前様ぁん」

 不満げな白玉が拗ねると、貞元はにやつく。

「まあ待て、焦るでないわ。今のそなたは武家の女中ぞ、下手な真似はさせられぬ」

「お前様ったらぁ」

 途端に機嫌が直った白玉は貞元に擦り寄り、甘えている。貞元もまた、強い酔いも手伝って浮かれ気味に妖狐を 構っている。こうなってしまうと、二人は丹厳などお構いなしに睦み始めてしまうので、早々に退散した。穴の空いた 障子戸を開けて外に出ると、夜気が火照った体に絡み付いてきた。墓場から湿った臭気が足元から這い上がり、 死んでも死にきれぬ人魂が青白い炎の尾を引きながら彷徨っている。

「拙僧のどこに、至らぬところがあるというのか」

 障子戸越しに流れてくる怨霊と妖狐の嬌声を聞き流しつつ、丹厳は嘆いた。チヨを幸福へと導いてやれるのは、 他でもない自分だけだというのに。世俗の穢れから断ち切ってやり、常世で生きながら死ななければ、清い心の娘 は途端に濁ってしまうだろう。それこそが、チヨに相応しい幸福の在り方ではないか。それなのに、なぜチヨは丹厳 ではなく古びた水神など頼ったのか。水垢離の最中に、水神から良からぬ知恵を付けられたのかもしれない。だと すれば、チヨは水神に誑かされている。そうだ、そうに違いない。ならば、尚のこと水神を滅ぼさねば。
 完膚無きまでに。




 熟睡している我が子を見つめていると、自然と頬が綻ぶ。
 それもこれも、愛する男に良く似ているからだ。優しげに結んだ目元、少しだけ上を向いた鼻、頬の膨らみ方、唇の 形、眉の曲がり具合。どれにつけても、荒井久勝の血が感じられる。産毛の生えた頬を指の腹で柔らかく撫でて やり、涎の筋が付いた顎を手拭いで拭ってやる。ささやかな寝息を聞き取りながら、朧月から零れる弱々しい光を 浴びる我が子に見入った。どれほど見ていても飽きはしないどころか、物足りなささえ感じるほどだ。

「糸丸や」

 八重姫の囁きは小屋から洞窟に広がり、溶けて消える。板張りの床に上半身を横たえ、糸丸の寝床であるムシロの 傍に顔を置く。口元をもごもごと動かして寝言にすら至らない呻きを発した幼子は寝返りを打つと、ふっくりとした 小さな手で母親の顔に触れた。八重姫はその手を握り返してやると、耳元まで裂けた口元を緩めた。

「久勝や」

 この場に彼がいないことが、惜しくて惜しくてたまらない。こんなにも可愛らしい糸丸の寝顔を見せてやれないこと が悔しくなってくる。糸丸をこの世に産み落としたのは八重姫ではないが、久勝と八重姫との間に産まれてくるのは 糸丸に違いなかろう。糸丸は八重姫を母上と呼んでくれる。慕ってくれる。頼ってくれる。愛してくれる。

「ああ……」

 だから、久勝もまた八重姫を愛してくれるはずだ。八重姫がこんなにも恋い焦がれているのだから、届かないはず がない。いや、間違いなく届いている。その証しに、糸丸が手元にいる。久勝は八重姫が糸丸を攫っていった際に、 好きにせい、と言い捨てた。諦めと屈辱に震える声ではあったが、好きにさせてくれるというのは、久勝が八重姫を 思っている証しなのだ。女とは男の添え物に過ぎないのが世の常ではあるが、久勝はそうではないのだ。八重姫を 敢えて縛り付けず、妖怪としての本分を果たさせてくれている。また、糸丸を力ずくで奪取しようとしないのは、ひとえ に八重姫を信用してくれているからだ。そうでもなかったら、今頃は本条藩の兵士共が八重山に雪崩れ込んできて 雑草一つ残さずに刈り尽くしているだろう。

「わらわはそなたの妻ぞ」

 糸丸の枕元にそっと手を伸ばし、板と板の狭間に隠してある鈴を抓む。豆粒のように小さいが、久勝に贈られた 時となんら変わらぬ輝きを保ち続けている金の鈴を両手で包み、頬を擦り寄せる。それだけのことで胸が高鳴り、 目眩がしてくる。息が詰まり、喉が塞がり、肝が縮こまりそうになる。十数年前に若き日の久勝に隈無く触れられ、 求められた夜を思い出すだけで切なさで涙が滲みそうになる。生まれてこの方、誰かに欲されたことなど数えるほど しないからである。土蜘蛛として八重山に巣くっていた頃の己、女郎蜘蛛として八重山と叢雲山を含めた一帯で人を 惑わしていた頃の己、平家の落人である八雲姫として生きていた己。そのどれもが無益であり、無能であり、無駄で しかなかった。だが、今はどうだ。鬼蜘蛛の八重姫は母となり、いずれは久勝の妻となる身の上なのだ。
 単なる人喰い妖怪でもない。矮小な蜘蛛でもない。無学な姫君でもない。それが八重姫という女であって、妖怪で あり、蜘蛛である。だから、今以上に久勝を愛さねばならない。そのためには、糸丸をどこに出しても恥ずかしくない ような武家の跡取りに仕立て上げなければ。その暁には、久勝は喜んで八重姫を娶ってくれるであろう。
 祝言を挙げる日が待ち遠しい。





 


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