鬼蜘蛛姫




第八話 織り成された姦計



 一匹の蜘蛛が、簾に張り付いていた。
 横に区切られた光を受けた体は縞模様になり、担ぎ手達の足取りに合わせてかすかに上下している。黄色と黒の 毒々しい色合いが八本足を彩り、縦長の腹は斑になっている。恐らく輿の中に糸を張りかけていたのだろう、その 足先にはきらきらと輝く細い糸が絡み付いている。部下達が輿の中も手入れしていたはずだろうに、なぜこんなにも 目立つ虫を見逃したのだろうか。その理由は考えるまでもない、城内の人間は皆、蜘蛛を恐れているからだ。肝に 毛が生えていると噂される大男も、矛を振り翳して戦場を駆ける武将も、蜘蛛を見た途端に女の如く悲鳴を上げて 逃げ出す始末である。故に、本条藩の士気は地に落ちている。
 それもこれも儂のせいだ、と荒井久勝は口中で呟いた。鬼蜘蛛の八重姫が荒井久勝に与えた禍々しき呪いは、 留まるところを知らずに久勝の血縁者達にも及んでいた。近隣の藩主との縁談が纏まりかけていた異母妹は相手 が謀反者に討ち取られたことで嫁げなくなり、遠方の大名に仕える武将に嫁いだ種違いの姉は御産で命を落とし、 元服前の異母弟は落馬して首を折り、死んだ。異母妹は藩主と何度となく恋文を交わし、並々ならぬ思いを寄せて いたので、自ら命を断つのは時間の問題だろう。久勝に家督を譲った父親は当の昔に病死し、母親もまた幼い頃に 病死しているので、久勝を除いた荒井家の生き残りは嫡男である菊千代だけとなった。

「いや……糸丸か」

 八重姫が我が子に授けた名を口にし、久勝は頬を歪ませた。我が子を菊千代と呼べたのは産まれてから三ヶ月 足らずの月日であって、その何倍もの年月を糸丸という名で過ごしている。ということは、我が子は既に糸丸なので あり、菊千代ではないのだ。それ以前に、菊千代という名で呼ばれていた幼少期を覚えているかも怪しい。
 瞼を閉じると、我が子の顔が浮かぶ。丸々と太った手足に柔らかく膨らんだ腹部、産毛と見紛うほど薄い髪、数珠 玉のように丸く黒い目、どことなく久勝に似た目鼻立ち、声を上げて笑う様。その我が子は今や、悪しき人食い蜘蛛 の嫡男であり、愛息であり、玩具なのだと思うと背筋が総毛立つ。出来ることなら、今日の祭事も断ってしまいたくて たまらない。叢雲山と八重山は隣り合っているのだから、近付いただけでも八重姫に感付かれるかもしれない。そう なれば、八重姫は久勝を奪い去ろうとするかもしれない。あれが執着して止まないのは糸丸ではなく、久勝なの だ。 糸丸はダシにされているだけであり、八重姫は久勝の気を惹きたいがために母親の真似事をしている。
 もしかすると、この蜘蛛は八重姫の眷属なのかもしれぬ。嫌な想像が過ぎった久勝はそっと手を伸ばし、人差し指 と親指で女郎蜘蛛を挟んだ。蜘蛛は突然現れた外敵に驚いて八本足を蠢かせたが、久勝の指には届かず、空しく 虚空を引っ掻いた。指の間で潰してしまおうかと考えたが、それでは八重姫に感付いてくれと言っているようなもの だと思い直した久勝は、懐から手拭いを出すとその中に女郎蜘蛛を収めた。手拭いを丁寧に折り畳んでから再び 懐に収め直し、代わりに帯から引き抜いた紋所入りの扇子を広げて軽く扇いだ。
 暑くもないのに、額に汗が滲んだからだ。




 数日前から、麓の集落が騒がしくなっていた。
 聞けば、春祭りが行われるからだそうである。チヨは楽しみでならないのか頼みもしないのに饒舌に話してくれた。 春の田植えが終わった後、農民達の田植え疲れを労うためと田畑に欠かせない水を与えてくれる水神に感謝する ために行う祭りだという。普段は滅多に口にしない御馳走や甘い菓子が振る舞われ、男達は酒を酌み交わし、女達 は家事の手を休めて語り合い、子供達は水神を奉るために舞い踊る。思い返してみれば、毎年のように新緑の頃と 晩秋の頃に下界が騒がしくなっていたが、その理由はこれだったのかと今更ながら腑に落ちた。
 八重姫は糸丸の夏用の着物を仕立てつつ、思慮していた。傍らでは、チヨが喋り続けている。その膝の上で姉に 甘えている糸丸は春祭りに興味津々で、身を乗り出してさえいた。それもそうだろう、糸丸が祝い事に行ったことは 生まれてこの方ないのだから。糸の端を牙で断ち切った八重姫は、縫い目を指の腹でなぞって確かめた。

「だすけんに、こって祝うんだいや。そったら、水神様も御元気になるろ?」

 チヨの得意げな言葉に、糸丸は不思議がった。

「村の人達が大騒ぎすると、なんで龍の爺様が御元気になられるの?」

「水神様が前に仰っとったんだども、水神様は神様だすけんに、色んな人に信じてもらうのが一番の御飯なんだと。 糸丸も知っとるだろうけど、今、水神様はちっとお体を悪くしてもうてな、御元気になるためには村んしょからお祝い してもらうんがええんだと。糸丸もおらと八重姫様がめごいめごいってしとったら、嬉しくなるろ? それと同じだ」

 チヨは糸丸を撫で、少し寂しげに微笑んだ。

「そしたら龍の爺様、またお喋りするようになる? 色んなお話、聞かせてくれる?」

 糸丸は話が良く飲み込めていないなりに理解したのか、期待に目を輝かせた。チヨは頷く。

「そったらもう!」

「そなた達だけで里に降りるつもりかえ」

 仕立て上げた夏用の着物を伸ばし、折り畳んだ八重姫は、二人に目を向けた。

「あったり前だいや。おらと糸丸だけだったら、どうにでもなるすけん。八重姫様まで来られたら、大騒ぎだいや」

 チヨはむっとして糸丸を抱き寄せると、糸丸はぐずった。

「母上も一緒がいい、その方がいい」

 糸丸の言う通りだ。第一、チヨが里に降りられるものか。無様に穴が空いた左目を曝したままだし、田舎であれば あるほど余所者に対する猜疑心も強い。春祭りに訪れた人々の数が多かろうと、皆、顔見知りどころか親類縁者と いう間柄なので一時もせずに余所者だと見破られてしまうだろう。そうなれば、チヨはともかくとして糸丸が無学な上 に閉鎖的な農民達に追い立てられるかもしれない。それだけは許せない。

「わらわも行こうぞ」

 八重姫が口元を綻ばせると、糸丸は両手を挙げて喜んだがチヨは渋った。

「んだども」

「これでも文句を申すのかえ」

 妖力を高ぶらせた八重姫は、人間の女に姿を変えた。巨大な土蜘蛛の下半身が溶けて縮み、すらりとした二本の 白い足が出来上がる。額の六つの目と耳元まで裂けた口が皮に覆われ、ただの滑らかな肌と化す。裾をはだけて 小屋の板の間に横たわった八重姫が嫣然と微笑んでみせると、チヨは観念したようだった。

「そんなら、まあ」

「わらわの傍で、その醜悪な面を曝すことは許さぬぞえ」

 八重姫は二本の足で歩くと、小屋の隅の棚に重ねてある着物の間から眼帯を取り出し、放り投げた。

「お、おおお……」

 それを受け取ったチヨは、戸惑い気味ではあったが嬉しそうに眼帯を眺め回した。糸丸の着物を仕立て上げた際 に残った端切れを継ぎ接ぎにして作ったものなので、眼帯としては派手すぎではあるが、チヨは気に入ったらしく 早々にそれを頭に巻いて左目の穴を隠した。糸丸は母親の姿が変わったのが落ち着かないのか、しきりに目線を 動かしていたが、八重姫が近付いて抱き上げてやると違和感が消え去ったらしく、ほっとした顔をした。
 糸丸に新緑の季節に相応しい着物を着せてやり、短い髪を結ってやった。不本意ではあったが、チヨにも糸丸の 傍にいても差し支えがないであろう綺麗な着物を与えた。本来は八重姫が身に付けるために仕立てたものなので、 それ相応に派手であり、どこを取っても泥臭い外見のチヨには不釣り合いだったが致し方ない。八重姫もまた普段 身に付けている赤地に椿の着物から農民の一張羅と同等であろう色と柄の着物に着替え、長い黒髪を柘植の櫛で 梳いた。椿油を数滴垂らした櫛の歯で丁寧に髪を梳いてから丸く結い上げると、柘植の櫛を根本に挿した。この姿 を是非とも久勝にも見せてやりたいものだが、貧相な村祭りになど来るとは思いがたい。だからせめて、着飾ること だけでも楽しもうではないか。茶箪笥の引き出しを開け、近頃は使う頻度が下がった白粉と紅入れを取り出した。
 蛤の紅入れを開き、小指に載せた紅を唇に引いた。




 神社の境内には、的屋が店を広げていた。
 鳥居から本殿に続く石畳の参道に沿って、敷物を広げて思い思いの売り物を並べていた。狭い集落に住まう人間 よりもいくらか多い人間が、ざわつきながら行き交っている。日の高さも気にせずに酒を呷っている男達が、獣肉で あろう干物を囓っては大声で笑い合っている。子供は母親の袖を引き、ゴザの上に散らばる品を指差してねだって いる。母親は辟易しつつも懐に手を入れているので、的屋の男はここぞとばかりに売り込もうとしている。菓子売りの 店先から甘い匂いがねっとりと漂い、それに惹かれたチヨがふらついたので八重姫は強かに足を踏んだ。すると、 チヨは少し間を置いてから痛みを感じて飛び跳ね、不服そうに頬を膨らませた。

「そんな怒らんでもええろ」

「はて、何のことかのう」

「まあ、こういう日だすけんにおらもケンカしたくねぇすけん、何も言わんけども」

 チヨはいくらか大人びた態度を取り、踏まれた足を脹ら脛に擦り付けて拭った。

「んだども、どうせなら鴉どんも誘ったらえかったんに。そったら、もっと面白可笑しく楽しめたがんに」

「あれはわらわには無用ぞ」

「うぇ? そったら、なんでいっつも一緒におるん?」

「あのような下賤な輩に懐かれるのが、わらわの望みであるはずがなかろう。気付けば、傍におるだけぞ」

「つまり、鴉どんは八重姫様がお好きなんろ? そったら、もっと仲良うしとったらええんに」

 チヨは唇を尖らせ、小走りに八重姫に付いてきた。八重姫は糸丸を抱きかかえたまま、張り子の面を売っている 的屋に向かった。チヨは後ろ髪を引かれているのか、何度も何度も菓子売りの店に振り返っていたが、八重姫の背 を見失わないように小走りになって追ってきた。八重姫は裾を押さえて膝を折り、張り子の面を二つ買った。面売り の男は八重姫に見取れていたのか、渡した銭を受け取り損なって慌てた。的屋の群れから離れた八重姫は二人を 伴って神社の外れに移ると、物陰に隠れてから二人に面を被せた。糸丸にはひょっとこを、チヨにはおかめを。

「……嬉しくねぇ」

 おかめの面を顔の左半分に被せたチヨは、唇を思い切りひん曲げて文句を漏らした。糸丸は生まれて初めて面を 被ったのが楽しいらしく、きゃっきゃと歓声を上げている。八重姫は糸丸の後頭部で紐を締めてやり、微笑む。

「よう似合うぞえ」

「どうせおらはおかめだいや」

 チヨは幼子のように頬を張ると、右目で八重姫を見返した。

「次に産まれるんなら、八重姫様みてぇなお顔になりてぇもんだいや」

「それはならぬ」

「なんで?」

「そなたのように凡庸な面構えの女がおらぬと、わらわが映えぬぞえ」

「聞くんでなかったぁ!」

 チヨは大袈裟に嘆いてから、手近な木の肌を殴り付けた。糸丸はひょっとこの面に空いている穴の下で両目を丸く していたが、得意げな母親と悔しげな姉を見比べて首を捻った。
 神社の境内には、叢雲を崇める者達が私財を奉納した証しとして立てられたのぼりが連なっている。本殿の更に 奥にそびえている御神木からは、叢雲の神通力が濃霧の如く漂っている。ここしばらく馴れ合っていたからだろう、 八重姫に対する威圧感もなければ警戒心もない。だが、叢雲が常日頃から滲ませていた人々への慈愛の情すらも 感じ取れず、鬱屈としたものが地面に沈殿していた。神の名に相応しからぬ、怨念にも近しい情念である。叢雲の 調子が悪いことは知っていたが、まさかここまで悪化していたとは。八重姫は思わず足を引いたが、人間に似せた 素足に絡み付く不快感は払えなかった。顔をしかめてしまっていたのか、糸丸が不安げに覗き込んできた。

「母上、お怒りなのか?」

 それに答えようと八重姫が口を開いた時、不意に人々のざわめきが高ぶった。大名行列が来られるぞ、と石段を 駆け上ってきた男が青ざめながら報告すると、それまで春祭りを楽しんでいた農民達は蜂の巣を突いたかのように 騒ぎ始めた。今までそんなことあったろか、ねかったねかった、そったらなんでだ、そんなん知らんて、それよか早く 脇に避けんとならんすけん、と農民達は言葉を交わし、香具師達も手早く参道に広げていた店を片付けた。
 皆が皆、息を潜めて口を閉ざした。参道に沿って地面に膝を付いてひれ伏した農民達は、固唾を呑んで大名行列が 現れる時を待った。誰も彼も額を地面に擦り付けているので、肝心の大名の顔は見えないだろう。八重姫はチヨ が早々にひれ伏したので、それに倣う形で膝を付いて頭を垂れた。愛して止まない荒井久勝でさえなければ、他人 に礼儀を示すことなど死んでもしないだろうが。
 大人数が石段を登る足音と気配が徐々に近付き、よけろ、よけろ、と露払いの声が聞こえてきた。看板侍、町総代、 警固、と糊の効いた紋付き袴を着て胸を張った男達が先に境内に至ったので、八重姫は額の目を薄く開いて窺った。 神社の石畳をいくつもの草鞋を履いた足が擦り、荒井家の家紋が印された看板が春の日差しを撥ねた。露払いに 続き、具足櫃とその担ぎ手、弓を携えた兵、鉄砲を携えた兵、とやってくる。久勝はまだ来ない。それは当然だ、 御駕籠に収まる大名なのだから。胸が早鐘を打ち、骨と皮を破って肝が飛び出してしまいそうだ。八重姫は唇を 結び、大名行列のしんがりを今か今かと待ち侘びた。
 出来ることならば、御駕籠ごと久勝を奪い去ってしまいたい。そなたの子ぞえ、と立派に成長した糸丸を差し出して 腕に抱かせてやりたい。そのまま八重山に連れ去り、夫婦として添い遂げたい。祝言だって挙げたい。けれどその ためには新居の支度が、と一足飛びに考えた八重姫は、伏せている顔を手で覆って恥じらった。糸丸の身の安全と 久勝の大名としての地位を揺らがせないためには、何もしないのが良策であるというのに。八重姫が久勝を呪った のは、何も荒井家を断絶させたいわけではなく、糸丸以外の誰も荒井家を継がせぬためであり、久勝には八重姫 以外の女を妻として娶らせないためである。それなのに、何を。
 かすかに火照った頬を押さえた八重姫が八つの目を伏せていると、不意に大名行列が乱れた。同時に馬の嘶きも 聞こえ、ぎゃあ、うわあ、と野太い悲鳴が上がった。八重姫は首は上げずに目だけを上げると、石段を駆け上る 蹄の音が接近してきた。馬上には当世具足を身に付けた武者が跨り、穂先の太い槍を携えている。春祭りの様子 見にしては重武装であり、これから戦にでも出向くかのようだった。面頬の下では血走った目が見開かれ、手綱を 握る手元も力が籠もりすぎている。馬にも負けぬ荒い呼吸を繰り返す鎧武者に、大名行列の者が声を掛けた。

「赤城どのではないか! 大名行列を乱すとは何事だ、無礼なり!」

「殿の御前であるぞ! しかもなんだ、その姿は! この地では戦など起きてはおらぬぞ!」

 さては蜂狩に取り憑かれたか、と警護用の槍を構えた侍が凶相を作ると、赤城鷹之進は一笑に付した。

「蜂狩など知らぬわ! 俺は殿に対して無礼を働いたつもりなどない、むしろ殿をお守りしにやってきたのだ。そこの 社で神として崇め奉られておる、人喰い龍を屠りにな!」

 鷹之進が鮮やかに振るった槍の穂先が神社の本殿を示すと、農民達はどよめいた。

「聞け、者共! ここのところ叢雲川にて年頃の娘の水死が頻発していたのは、他でもない大山叢雲神オオヤマムラクモノカミが娘の命を 欲しておったからだ! 毎年のように山に捧げられる娘の命だけでは飽き足らず、神通力を乱用して罪もない娘達 を喰らっておったのだ! 故に、奴は最早神ではない、蜂狩貞元に勝るとも劣らぬ怨霊だ!」

 激昂する鷹之進に、本殿から慌てながら出てきた壮年の神主が駆け寄り、ひれ伏した。

「お待ち下さいませ、御侍様。水神様に娘の命を捧げたことなどございませぬ。娘達が立て続けに水死したことも、 水神様の御意志とは何の関係もございませぬ。無礼を承知で申し上げますが、御侍様は何か」

 思い違いを、と言いかけた神主に、鷹之進は槍を振り下ろした。太い穂先が神主の白髪交じりの頭を貫き、捻り、 引き抜いた瞬間に夥しい量の血が噴き上がった。がくがくと痙攣しながら息絶えた神主に、農民達は悲鳴を上げて 逃げ惑い始めた。鷹之進は槍を抜くと血を払い、辺りを睨め回した。

「おのれ水神、神主までもを惑わしておったとは! 益々許せぬ!」

「待たれよ鷹之進、まずは馬から下りて槍を捨てよ! 何があったかは知らぬが、まずは落ち着かぬか!」

 侍の一人が鷹之進の前に立ちはだかると、鷹之進はその侍を槍を突き付けた。

「俺は十二分に落ち着いている! そなた達こそ、なぜ殿をこのような穢れた神の元に連れ出したのだ!」

「大山叢雲神が娘達を喰らっているとの話を、どこの誰から耳にしたのだ。まずはそれを話してくれぬか」

 鷹之進を強く見据えながら、その侍は腰を落として刀の柄に手を掛ける。

「そのようなこと、今、話さずとも良かろう! どちらが正しく、どちらが間違っているかなど、穢れた水神を亡ぼせば おのずと解るというものだぁっ!」

 鷹之進は猛り、馬の腹を強く蹴り付けた。待てい、と侍は鷹之進を止めようとするが、鷹之進が逆手に持った槍で 首を薙ぎ払われてしまった。余程切れ味の良い槍だったのだろう、侍の首は宙を舞い、高々と血飛沫が上がった。 晴天に似合わぬ赤黒い雨が降り注ぎ、石畳を荒々しく叩く。農民達の悲鳴は更に高ぶり、つい今し方までの春祭り の朗らかな空気が一変した。大名行列を行っていた者達も及び腰になり、久勝の収まっている御駕籠を止めるため に何人かが石段を駆け下りていった。八重姫はチヨと糸丸を抱え、頭上の杉の枝に糸を吐き付けると素早く跳ね、 樹上に姿を隠した。糸丸の面を深く被らせた上で牙を立て、ほんの少し毒を与えて眠らせると、チヨに抱かせた。
 八重姫は下半身を蜘蛛に戻し、枝に上下逆さまにぶら下がり、目を凝らした。鷹之進は雄叫びを上げながら本殿 に突っ込むと、縦横無尽に槍を操った。賽銭箱は真っ二つに砕かれて銭が散らばり、朱塗りの柱は折れ、祭壇の 供物が蹴散らされた。その奥に据えられている叢雲の御神体に鷹之進が眼差しが、祭壇からずり落ちかけている 鏡越しに見えた。焦点が定まらず、濁りきり、面頬から垣間見える顔色も土気色である。吐き出される呼気に酒の 匂いこそ混じっていなかったが、胸が悪くなるような獣臭さが含まれていた。それは叢雲山に漂っていた狐狸妖怪の 匂いと同じものであり、八重姫が八重山に迷い込んだ蜂狩貞元と共に痛め付けた妖狐のものであった。
 しきりに女の名を口にした鷹之進が叢雲の御神体である翡翠に槍を突き立て、無惨に砕いた瞬間、前触れもなく 雷鳴が轟いた。同時に強い雨が降り出して石畳は隈無く濡れ、死んだ者達の血も筋となって流れ始めた。
 どこからか、唸りが聞こえた。





 


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