鬼蜘蛛姫




第七話 錦には裏目ありき



 遂に、この時が訪れた。
 祝言を挙げよう、と鷹之進は気恥ずかしげに目を逸らしながら言った。玉は口元を押さえて目を伏せて、目の縁を ほんのりと赤らめて恥じらうような様を見せた。武家屋敷の庭先に相応しい枝振りの松の木の下で、久し振りに顔を 出した日差しを浴びながらの出来事だった。庭の隅に固められた雪の山からの照り返しが眩しく、体は温かいのに 吸い込んだ空気には冬の気配が色濃く残っている。まだまだ春は遠そうである。
 鷹之進が差し伸べてきた手を取った玉は、控えめに頷いてみせた。彼はとても嬉しそうに笑うと、玉を引き寄せて きた。玉は奉公人達の姿が見えないことを確かめてから、それに従った。綿入れ半纏を着た懐に収まると、鼓動の 早まった胸に耳元が接する。かつては貞元も持ち合わせていた暖かみが染み入り、玉は不意に切なくなった。

「玉や。俺は幸せ者だ。お前のような良い女が、傍にいてくれるのだからな」

 玉の上掛けを羽織った背に手を回しながら、鷹之進は感慨深げに語る。

「あたしも幸福ですよぅ、旦那様。御侍様のお嫁になれるだなんて」

 鷹之進の表情を模倣した表情を浮かべてやると、鷹之進は一層強く玉を抱き締めてきた。実に単純な男である。 体を開いてたらし込んだ後は、何をしたというわけではない。目が合えば微笑みを返し、手が触れ合えば握り返し、 声を掛けられれば明るく受け答え、抱き締められれば喘ぎ、貫かれれば過剰なまでに反応してやっただけである。 陥落したというには簡単すぎて、いささか物足りない気がしないでもない。
 その後、玉を引き留めたがる鷹之進を説き伏せてから、買い出しに出かけた。主人の変化を薄々感じ取っている 奉公人達からは苛立ち混じりの目を向けられ、嫌味も言われたが、一切気にしなかった。藁靴を履いて厚い上掛け を羽織り、銭を入れた財布を懐に入れて雪が踏み固められた道に出る。鉛色の曇り空に圧迫されていたかのように 押し黙っていた城下町は息を吹き返したかのように騒がしく、人々の姿も目に付いた。久し振りの晴れ間を使って 布団を干している女達が交わす世間話や、はしゃぎ回る子供達の声が耳障りだ。川縁に差し掛かると、青く澄んだ 空を映し込んだ川面が波打った。玉は足を止めて目を凝らし、その下で巨躯を縮めている一つ目入道に気付いた。 貞元の手筈通りである。玉は襟元から財布を抜くと、手を滑らせたふりをして財布を土手に投げ落とした。

「ああ、大変!」

 道を行き交う人々の気を惹くために声を上げた後、玉は土手に駆け下りた。雪を掻き分けて財布を掴んだ瞬間、 水面から丹厳が太い腕を突き出してきた。氷そのものといっても差し支えのない冷たさの骨張った手が玉の細腕に 食い込み、一息に引き摺り込んだ。辺りに派手な水音が響いて凍えた飛沫が散り、土手の雪は玉が滑り落ちた形 に添って筋が付いた。川に没した途端、玉は身も心も縮み上がった。手足が固まって息が止まり、肝が凍り付く。 が、すぐに妖力を使って温もりを取り戻すと、両腕を掴んでいる丹厳の腕を思い切り振り払った。

「いつまであたしに触ってんのさ、いやらしいったら!」

「ああ、すまんすまん」

 玉が泡を吐き出しながら罵倒すると、丹厳は慌てて手を引いた。玉は乱れた髪を掻き上げ、顔をしかめる。

「なんだってあたしまでこんな目に遭わなきゃならねぇのさ。貞元様のお言い付けとはいえ」

「仕方なかろう。そなたも娘達と同じ憂き目に遭わねば、あの侍は我らの策に引っ掛かるまい」

「だからって……」

 二の句を継ごうとした玉は、濁った川底で光る物に目を留めた。財布を握り締めたまま、裾を割って両足を自由に すると、水を蹴って深みに向かった。流れの緩い川に積もっている泥と砂に、若い娘が付けるような派手なかんざし が刺さっていた。金物の冷たさに辟易しつつもそれを引っこ抜き、眺めていると思い出した。旅籠の娘である里が、 赤い糸で作ったくす玉が付いているかんざしを挿していたことを。茶店の軒先で隣り合って座って、団子と茶を口に しながら他愛もないことを話したことまでもが思い出された。里は度々旅籠を利用している行商人の男と惚れ合って いたらしく、その男が旅立つ前に送ってくれたものだと自慢げに語っていた。玉はそれを社交辞令で褒めてやると、 里は照れながらも喜んだ。その面差しは明るく、華やかで、若さと生命力に満ち溢れていた。

「ああ阿呆らしい」

 玉は泥水を含んだ口で舌打ちし、かんざしをへし折った。薄っぺらく愛し合うことの何が面白いのだろうか。そんな ものはままごとに過ぎない、本当の愛とはそんなものではない。腹立ち紛れに泥に埋め、唾も吐き付けた。

「生臭坊主。あたしはまたあの田舎侍のところに戻るけど、貞元様にお変わりはねぇだろうな?」

「何も変わらん。喰って飲んで寝ておられるわい。が、一つ気に掛かることがないわけでもない」

 丹厳は川の流れを受けて浮かびつつも、器用に胡座を掻いている。

「なんだい、そりゃあ」

 玉が訝ると、丹厳は骨張った顎をさすった。

「あの落ち武者どのは怨霊と化してから、差ほど時を経てはおらぬ。しかしだ、恐るべき強さの恨み辛みを力として 亡霊を手当たり次第に喰い漁り、死人に血肉までもを貪るようになったために、妖力が人の器に収まりきらぬほどに 高ぶりつつあるのだ。それ故、落ち武者どのが生まれ持った魂がねじ曲がりつつあるようなのだ」

「だからなんだってんだい。何がどうなったって貞元様は貞元様じゃあねぇか。あたしを脅かそうってのか?」

「拙僧も人のことは言えぬ立場ではあるが、程度を弁えておけと落ち武者どのに申されよ」

「貞元様はなんにも間違ったことはしちゃあいない、それもこれも荒井久勝と阿婆擦れ蜘蛛が悪ぃのさ」

 去り際に毒突いてから、玉は足元の岩を蹴り付けて上昇した。丹厳はまだ何か言いたげではあったが、玉の姿が 遠のくと川底を這い蹲るように泳いで去っていった。そんなことは余計な御世話だ。貞元が修羅の道を歩んでいる のは今更言われるまでもないことであり、玉もそれを承知の上で貞元に付き従っているのだ。貞元が与えてくれる 虐げの度が増すとすれば、喜ばしい限りではないか。痛め付けられるほど、愛は燃え上がるのだから。
 真冬の川から這い上がった玉は、激しく咳き込んで溺れていたかのようなふりをした。妖力を引っ込めると全身 に猛烈な寒さが襲い掛かってきて、芝居をするまでもなく、がちがちと歯が鳴った。玉が川面に引き摺り込まれた様を 目にしていた町人達が寄って集って道まで担ぎ上げてくれ、そればかりか上着まで貸してくれた。顔見知りの酒屋の 女将が近付いてきて、あんたは赤城様んところのお玉ちゃんじゃねっか、と言うや否や誰かが赤城家の武家屋敷に 走っていった。それから程なくして、血相を変えた鷹之進が駆け付けてきた。

「玉! 何があったというのだ!」

 町人達を掻き分けながらやってきた鷹之進は、動揺のあまりに声を荒げた。玉は返事をしようとするが、凍えた舌 が上手く動かないので言葉にならなかった。鷹之進は玉を助け出してくれた町人達に礼を述べてから、ずぶ濡れの 玉を担いで屋敷に駆け戻った。すぐさま風呂が沸かされ、女中達の手で凍り付きかけていた着物を脱がされた玉は 熱々の湯に入れられた。普段は鷹之進しか入ることが許されない広々とした湯船に手足を伸ばし、せっかくだからと 丁寧に髪を洗って体も清め、長風呂を贅沢に味わってから上がった。仕事仲間の女中が持ってきてくれた着替え の着物に袖を通し、洗い髪を手拭いで纏め、上気した首筋がよく見えるように広めに襟を抜いた。風呂場に程近い 広間では鷹之進が落ち着きなく彷徨いていて、玉が上がってきたと知ると案じてきた。

「どこも変わりないか、玉や」

「はい、若旦那様。御陰様でこの通りでござりまする」

 玉は膝を付き、床に額を擦り付けるほどに頭を下げた。鷹之進は顔を上げさせ、玉の頬に触れてきた。

「まさか、そなたまでもが川に落ちるとは。して、不届きな下手人の顔は覚えておらぬのか」

「下手人、でござりまするか」

「そうだ。そなたも知っておろうが、立て続けに若い娘ばかりが川に落ちて死んでおる。だが、未だにその下手人が 上がっておらぬのだ。些細なことでも構わぬ、手掛かりが欲しい。そなたを殺そうとした輩を許すものか!」

 鷹之進は玉の両肩を強く掴み、怒りに顔を引きつらせた。玉は怯えたような顔を作り、身を縮める。

「よく覚えてはおりませぬ、何せ急なことでしたから。誰かがぶつかってきたと思ったら、財布が抜き取られて土手の 方にぽんと投げられてしまいやして、それを拾おうとしたら川に引き摺り込まれてしまいやして。あれは人間の仕業 ではありませぬ。もっと禍々しい、恐ろしい者でごぜぇやした」

「さては鬼蜘蛛の姫だな!?」

 鷹之進が短絡的な結論を口にしたので、玉はその矛先を変えてやった。

「いえ、そうではありませぬ。あたしが目にしたのは、もっともっと恐ろしい、蛇の化け物のような……」

「蛇?」

「はい。川の底に大きな目がぎょろっと光っておりやして、鬼のような厳ついツノが生えていて、丸太のように太い牙 を剥いていたんでござりまする。あれは、そう、田舎の春祭りで目にした水神様の掛け軸のような」

「水神というと、叢雲山の水神か? だが、それがなぜ娘ばかりを狙って引き摺り込むのだ」

「水神様は、飢えておられるのでござりまする」

 玉は鷹之進の胸にしなだれかかり、辻褄の合う作り話をした。山間の集落で水神として奉られる叢雲は、元々は 毎年のように豪雨を起こしては田畑を押し流す荒神であり、若い娘を生け贄として捧げなければ収まらないのだと。 そのための娘は叢雲に身を捧げた証しとして片目を潰され、人里離れた山小屋に押し込められ、叢雲に喰われる 時を待つだけの身の上になっていると。そして、今年の生け贄となった娘こそが玉の妹であるチヨだと。持てる限り の力量を出し尽くして一世一代の芝居を打った玉の話を、物事を一本調子でしか捉えられない男である鷹之進は 呆れるほど容易く信じ込んでくれた。目元に薄く涙さえ浮かべ、鷹之進は玉の両手を握り締めてきた。

「相分かった。ならば、その邪なる水神を我が手で討ち取ってくれようぞ」

「若旦那様、いえ、鷹様……」

 玉が感嘆したかのような顔を作ってみせると、鷹之進は力強く頷いた。

「何、大したことではない。鬼蜘蛛の姫を討ち取る前の小手調べよ。水神を討ち取った暁には、そなたの妹も屋敷に 住まわせてやろうぞ。どうせ屋敷は広いのだ、一人二人増えたところで一向に構わぬ」

「ですが、鷹様。このことは、どなたにも口外なさらねぇで下さいまし。他の娘も目を付けられたらと思うと……」

「無論、承知しておるとも。これ以上の無用な犠牲は出さぬと誓おうぞ」

「なんと勇ましい御言葉でござりましょうか」

 玉は感涙したかのように目元を拭い、肩を震わせた。鷹之進は玉を立ち上がらせて奥座敷に促すと、手近な女中 に命じて飴湯を作らせた。火鉢で充分に暖められた奥座敷で鷹之進と身を寄せ合い、喉越しがまろやかな飴湯を 口にしていると、風呂だけでは暖まり切らなかった腹の中も温まった。何も心配することはないぞ、俺が傍にいる、と 頼もしい言葉を連ねながらも、鷹之進はしきりに玉に触れてきた。さすがに昼間なので事に及ぶことはなかったが、 この分では今夜も荒々しく貫かれることだろう。そのうちに鷹之進の話は不幸な姉妹への哀れみから愛する女への 甘言となり、最後になると祝言の日取りをいつにすべきか、というものに変わっていた。出会ったばかりの頃は精悍 だった顔付きはだらしなく弛み、玉に溺れるあまりに剣術の修練を怠るようになってしまったために筋張っていた腕は 緩んで腹にも肉が付き始めていた。もう一息、もう一押し、もうしばらくの辛抱だ。
 さすれば、外堀を埋められる。




 南天の実を千切り、袋に入れる。
 千切ったばかりの一粒を抓み、眩い日光に翳してみる。溶けた雪の水気を帯びた真っ赤な実は艶やかに輝いて、 兎の目には丁度良さそうである。だが、粒だけを取っては萎れてしまいかねないので、実が成っている枝を折った。 続いて椿の葉も毟り、厚い葉の色艶の具合を確かめながら袋に入れていった。こんなに女々しいことをしていると、 娘時代が蘇ったかのような気分になる。もっとも、そんな時代などありはしなかったのだが。
 八重姫は八本足で雪を踏み締めて、水源が凍り付いてしまったために一際流れが緩やかな叢雲川を一瞥した。 近頃、チヨが八重姫と糸丸の住まう洞窟に入り浸っているのはそのせいである。水神であり川そのものである叢雲 は、春先まで深く寝入ってしまう。そのために、チヨがどれだけ呼ぼうが何をしようが目覚めはしない。しかし、チヨは そうはならないので暇を持て余してしまい、八重姫と糸丸の住まう洞窟に来て子守をしているというわけだ。チヨは 八重姫が知らない冬の遊びを知っていて、糸丸が雪景色に退屈しないようにと色々な遊びを教えてくれて、雪兎も その一つである。雪を楕円形にして丸め、椿の葉で耳を作って南天の実で目を付けるのだ。糸丸はそれがやたらと 気に入ってしまい、雪兎が溶けてしまうたびに新しく作ってくれとせがんでくる。おかげで、八重山に生えている南天の 実はすっかりなくなってしまい、ほとんど手付かずであろう叢雲山に足を伸ばした次第である。

「……鬼蜘蛛の姫か」

 水源に程近い氷室の奥から、ひどく濁った声が響いた。叢雲である。

「起きておったのかえ」

 八重姫は南天の実と椿の葉が入った袋を抱え、氷室に近付いた。流れの鈍った川から巨体の龍が姿を現すと、 薄暗い氷室から鼻面を抜いて八重姫に目だけを向けてきた。だが、その眼差しはどろりとした澱を湛えていた。

「そなたにしては、いやに倦み疲れておるのう」

 まるで妖怪の目だ。八重姫はあまり良くないものを感じ、目元を顰めた。

「ここのところ、我に没して死する人間が多すぎるのでな」

 気怠げに頭を横たえた叢雲は、長く太いヒゲをのったりと波打たせた。

「それ故、我の内に亡者が巣くっておる。皆、望まぬ死を与えられたが故」

「わらわではないぞえ」

 ここ最近は糸丸の世話に忙しく、旅人ですら喰っていないのだから。八重姫が釘を刺すと、叢雲は答えた。

「存じておるとも。ああ……しかし、淀んでおる」

「チヨをわらわの元に置かせたのはそれ故かえ」

「いかにも。我の淀みをあの娘に与えたくはないのでな」

「そうかえ」

 叢雲らしい気遣いだと思いつつ、八重姫は袋を大事に抱えて八重山に向き直った。

「鬼蜘蛛の姫よ。すまぬが、チヨに言伝を頼まれてはくれぬか」

 叢雲は焦点が定まりきらない目を動かし、八重姫を捉えた。八重姫は面倒ではあったが、聞き返す。

「何ぞ」

「我を見限るならば今を除いて他はない、とな」

 それきり、叢雲は喋らなくなった。口は半開きではあったが言葉らしいものは発さず、ヒゲの尖端すらも動かさなく なった。そのうちに川と一体となり、龍は霧散したが、細かな霧の粒の中に叢雲が言っていた通りの怨念が溢れん ばかりに混じっていた。これは辛かろう、と八重姫は珍しく他者に同情したが、背を向けて八本足を曲げた。雪ごと 地面を蹴り付けて空高く跳躍し、帰路を急いだ。一刻も早く、我が子に新たな雪兎を作ってやりたいからである。
 叢雲になど、構っている暇はない。





 


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