鬼蜘蛛姫




第七話 錦には裏目ありき



 重たい雪の粒が、蛇の目傘に降り積もる。
 白い息を吐きながら、玉は悠長に歩いていた。どうせ、早く帰ったところで辛気臭い空気が屋敷に淀んでいるだけ なのだから。二三日前から鉛色の分厚い雲が垂れ込めていたが、とうとう雪が降り出した。この土地の冬は厳しく、 長い。春が来るまでの間は身を縮めて生きなければならないが、赤城家の武家屋敷に戻れば暖かな布団と火鉢が 待っているのだから野山で過ごすことに比べれば辛くない。貞元に思うように会えないのは寂しいが、それさえ我慢 していれば人並みの暮らしを保てるのだ。酒が並々と入った徳利を抱えた玉は、赤城家の屋敷の正門の軒先で傘を 閉じ、外套に積もった雪を丁寧に払ってから、勝手口に向かった。
 台所には暖かみがあり、弔問客に料理を振る舞っていた名残なのだろう、かまどには火種が残っている。奉公人 達が出払った隙を見計らい、玉は離れた位置から両手を翳した。みだりに近付いてしまうと、体が勝手に火の気に 怯えてしまいかねないからだ。赤くかじかんだ手に息を吐き付け、擦り合わせて暖めていると、ようやく指先に血の 巡りが戻った。その手で頬を包み、木肌のように強張った顔も暖めていると、女中がやってきて酒を出せと言った。 玉はすぐさま立ち上がると、徳利を差し出した。年配の女中はそれを受け取り、あんたも仕事に戻れいや、と言って から座敷に戻っていった。玉は雪に濡れた外套を脱いで水気を払ってから、土間の梁に引っ掛け、他の奉公人に 仕事がないかと尋ねた。すると、下男がとろ火のかまどを示し、煮染めを持っていってくれと頼んできた。
 大根と棒鱈の煮染めを器に入れ、漆塗りの御膳に載せ、それを両手で抱えてしずしずと運ぶ。表座敷の襖の前で 膝を付き、中の来客と主人に断ってから襖を開けた。だが、来客は粗方帰った後らしく、並んでいる御膳と座布団の 数は多いが客人は一人きりだった。赤城家と付き合いの長い早川家の嫡男、早川政充である。

「気を遣わせてすまぬな」

 早川政充は玉を労ってから、杯に残っていた酒を口に含んだ。

「玉や。そなたも付き合えい、外は寒かったであろう」

 上座に座っている鷹之進は、玉を手招いた。玉は躊躇う素振りを見せてから、その言葉に従った。

「はい、若旦那様」

「もう四十九日とは、早いものだな」

 政充は湯気の昇る煮染めに箸を伸ばし、大根を口にした。

「全くだ。道中で何が起きたのかは未だに調べ切れておらぬが、余程急ぎの用事であったと見える」

 鷹之進も箸を伸ばし、良く煮えた棒鱈を頬張った。玉は少し温くなった徳利から、二人の杯に熱燗を注ぐ。

「若旦那様の御心労、痛み入りまする」

「惜しむらくは、孫の顔を見せてやれなかったことであろうな」

 鷹之進は物悲しげに目を伏せてから、床の間に並ぶ両親の位牌を見やった。晩秋、古い友人から手紙が届いたと 言って遠方に旅立っていった鷹之進の両親は、その道中で牛車の牛が暴れて谷に転落してしまった。牛を操って いた下男もまた谷底に転げ落ち、二目と見られぬ無惨な骸と化した。寒く乾いた季節であったので、腐り切る前に 三人とも亡骸を見つけ出せたのが不幸中の幸いかもしれない。

「あたしも、大旦那様と奥方様には恩返ししとうござりました」

 玉も悲しげな顔を作り、俯いてみせた。だが、内心では主の命を達せた喜びに満ち溢れていた。赤城家の両親と 下男を谷底に葬ったのは、他でもない玉であるからだ。鷹之進に取り入ってその心を思うがままにするためには、 両親が厄介だったからである。赤城家の当主であった赤城鷹之丞はなかなかの切れ者で、伴侶である赤城なつめも 女だてらに教養を持ち合わせていた。それ故、玉の正体が妖狐であると見破られでもしたら今後に差し障りが出て しまう。なので、下手に怪しまれる前に先手を打ったというわけである。手紙を出したのももちろん玉であり、鷹之丞 が保管していた古い友人の手紙を参考にして、似せた筆跡でそれらしい文面をしたため、送り届けさせた。その後は 実に簡単なもので、牛車が険しい山道に差し掛かったところで狐火を吹き付けて牛を脅かし、落としたというわけで ある。玉は目元を拭う振りをしてから、口元の弛みを整え、平静を保った。

「随分と長居をしてしもうたな。そろそろおいとまするといたそう」

 政充は腰を上げ、仏壇に線香を上げるために床の間に向かっていった。鷹之進は幼馴染みが両親の位牌に参る 様を見ているかのような顔をしていたが、その実は玉にばかり気を向けていた。玉もまた鷹之進の視線を気にして いるかのような素振りをして、恥じらう仕草をしてみせた。政充は深々と礼をしてから、床の間を後にした。鷹之進も 立ち上がり、玄関先まで見送りに出た。政充は鷹之進に気を落とすなという旨の言葉を掛けてやってから、外套と 笠を被って降りしきる雪の中を歩いていった。
 四十九日の精進落としの片付けを終えた後、他の奉公人達と質素な賄いの夕食を摂った。皆、それぞれの寝床 に付いて屋敷全体が静まり返った頃、玉はふと目を覚ました。寝息を立てる他の女中達に感付かれないように気配 を殺して布団から這い出すと、綿入れ半纏を羽織り、背筋が逆立つほど冷えた廊下をつま先立ちで歩いた。人間で あれば手探りでなければ歩けない暗さではあったが、そこは妖怪なので夜目が利く。玉は屋敷の中で唯一明かりが 灯っている奥座敷に至ると、障子戸の傍で膝を付いた。すると、待ち兼ねたように声を掛けられた。

「入られい」

 玉が音もなく障子戸を開けると、行灯の弱い明かりを帯びた鷹之進が布団の上で胡座を掻いていた。

「若旦那様」

 玉はさぞ焦がれていたかのような声色を出し、鷹之進に擦り寄る。鷹之進は腕を広げて玉を迎え入れると、夜気を 受けて冷えた体を撫でさする。その手付きは荒々しくも愛おしげだが、貞元のそれには遠く及ばなかった。

「ああ、お待ちになって。まだ支度が出来ておりませぬ」

 首筋に顔を埋めてくる鷹之進を制するような格好をしつつ、玉はしどけなく体勢を崩した。

「玉や、玉や……」

 余程欲していたのだろう、鷹之進は有無を言わさず喰らい付いてくる。貞元とは加減が違えども、求められるのは 悪い気はしない。むしろ、女冥利に尽きる。主のものらしく柔らかな布団に組み敷かれた玉は、総毛立つほどの寒さ にも関わらず肌に薄く汗を浮かばせながら、鷹之進に貪られた。貫かれ、揺さぶられ、噛み付かれ、肉が鬩ぎ合う。 どちらのものとも付かない荒い息が熱気を生み、奥座敷だけがほのかに暖まるほどであった。
 狂おしく玉を食い散らした鷹之進は二度三度と放った後、満ち足りた顔で横たわった。玉は彼に寄り添い、素肌に 手を這わせて髪が乱れた頭を骨太な肩に預けながら、嫣然とした微笑みを浮かべた。鷹之進は物足りないらしく、 玉の滑らかな太股に筋の硬い足を絡めてきた。夜明けまで付き合ってやってもいいのだが、あまりやりすぎると 早々に鷹之進の精力を喰らい尽くしてしまうので押し止めておいた。この男を喰らうのが目的ではなく、利用する のが貞元の本懐なのだから。玉は鷹之進の頬から首筋に掛け、しなやかな指先を沿わせる。

「若旦那様……」

「今はそう呼ぶなと言うたはずぞ、玉や」

「はい、鷹様」

 玉は内心で貞元を思い浮かべながら、愛おしげに囁いた。鷹之進は満足げに頬を綻ばせる。

「そうだ、それで良い」

「鷹様、玉は鷹様と契りを結べるのでござりまするか?」

 飴を含んだかのような甘ったるい声色で、玉は鷹之進に懇願する。鷹之進は玉の細腰に、厚い手を回す。

「誰がお前を離すものか」

「は、はい、玉も鷹様の御側にいとうござります」

 語尾を上擦らせながら、玉が物欲しげに腰をくねらすと、鷹之進は飽きもせずに玉の体を開かせてきた。火箸の 如く熱したものをねじ込まれ、玉は目尻に涙を浮かべながら嬌声を上げ続けた。その間、鷹之進は何度となく両親 が死んだことを喜ぶ言葉を連ねていた。それもそうであろう、両親は鷹之進が玉に入れ上げていることを気付いて いたのだから。何代も続いた武家の嫁にするのならば、それ相応の身分と血筋の女である方がいい。しかし、玉は 鷹之進を助けた村娘の姉という名目の村娘であり、血筋もへったくれもないのである。そんな女に種付けして跡継ぎ を産ませたところで、赤城家にとっていいはずがない。故に、両親は鷹之進に再三再四忠告していたのだ。けれど、 色恋というものは反対されると尚燃え上がるもので、鷹之進も例外ではなかった。
 崩れ落ちるように寝入った鷹之進に寝間着を着せ、布団を掛けてやり、玉は乱れた髪を掻き上げた。至るところに 付けられた赤い痕と内股を伝い落ちる生温い体液が鬱陶しく、意識せずとも奥歯に力が籠もった。玉は鷹之進に 剥ぎ取られた寝間着と綿入れ半纏を身に付け、乱れ髪を軽く整えてから、鷹之進の枕元の行灯の火を吹き消した。 途端に、玉の姿は本来の妖狐へと変化した。二本の尾と尖った耳を雪のちらつく夜風に揺らしながら、愛する男を 求めて一心に駆けた。武家屋敷から無縁寺までは遠く、夜半に降り積もった雪が足場を悪くしていたが、そんなものは 障害にもなりはしない。他の男の匂いをさせながら帰れば、貞元は決まって怒り狂う。玉、もとい、白玉を徹底的に 責め立ててくれる。鷹之進などでは満ち足りない。むしろ、半端すぎて燻ってしまうのだ。
 貞元に虐げられなければ、熱っぽい疼きは収まらない。




 夜な夜な爛れた快楽に耽っている最中にも、事は運んでいた。
 年明けまでに、更に五人の娘が川に落ちて死んだ。何者かに突き落とされた、化け物に引き摺り込まれた、などと 噂話が駆け巡ったがどれもこれもあやふやで根拠はなかった。城下町に立ち込めている陰鬱な気配を晴らすべく、 役人達は下手人を上げようと躍起になったが、それらしい輩はお縄を頂戴しなかった。そのせいもあり、今や川に 近付く人間はほとんどいなくなった。渡し船ですらも船頭が怯えてしまっていて、大枚を叩かなければ船を出さない 始末だった。そして、正月を迎えて間もない三が日の最中にも、また一人若い娘が川で死んだ。
 松も取れていないというのに使者に急かされた鷹之進が登城した留守の間に、玉は屋敷を抜け出した。赤城家の お使いであるような顔をして、正月前に買い込んでおいた酒を拝借した徳利を抱えて雪道を急いだ。雪は久し振り に止んでいたものの、空は相も変わらず重苦しかった。城下町から出て、足跡がほとんど付いていない道を歩き、 歩き、昼頃に辿り着いたのはあの無縁寺だった。蝶番が壊れている正門を滑り抜け、やはり足跡どころか雪掻きを した痕跡すらない敷石の上をざくざくと大股に進み、本堂に至った。観音開きの扉を叩くと、どこか億劫そうな動きで 開いた。本堂に入った白玉は藁靴を脱いで雪を払い落としてから、酒の入った徳利を差し出した。

「はぁい、お前様ぁ」

「うむ」

 本堂の中央で胡座を掻いていた蜂狩貞元は、赤黒い血が絡んだ右手でその徳利を受け取ると、親指の力だけで 栓を抜いて呷った。がぽん、がぽん、がぽん、と一気に半分程の酒を飲み下し、熱い吐息を零す。

「ああ、たまらぬな」

「拙僧にも寄越してくれぬか。寒くて適わぬのだ」

 そうぼやいたのは、凍り付いた末に体に貼り付いた法衣を剥がそうとしている丹厳だった。貞元は少々迷ったよう ではあったが、徳利を丹厳に投げ渡した。丹厳は貞元と同じように直接口を付け、一気に酒を胃袋に入れた。気が 済むまで飲んだ丹厳は、感慨深げな息を漏らしながら口元を拭った。

「酒ばかりでは足らぬわい。どれ、一つ肴でも」

 貞元は目の前に転がしてある娘の死体の肋骨を毟り取り、囓った。結ってある髪は硬く凍り付いていて、見開いた ままの目は驚愕と恐怖が染み付き、歪んだ唇からは今にも悲鳴が上がりそうだった。額は真っ二つに割れて肌色の 脳髄が零れ落ち、それなりに整っている目鼻立ちにはべっとりと血がこびり付いている。ばりばりに固まった着物の 裾と襟元は強引に広げられ、帯は断ち切られ、生前の柔らかさがいくらか残る内股の白さが目に付いた。

「あんれまあ、旅籠のお里ちゃんじゃありやせんか」

 狐の耳と尻尾の付いた遊女の姿に化けた白玉は、見知った顔の娘を見て目を丸めた。

「知っておるのか?」

 貞元は丹厳が名残惜しげに握っている徳利を奪い取ると、酒を口に含み、白玉を引き寄せた。有無を言わさずに 唇を重ねられた白玉の口中に、きつい酒と人間の血肉の味が入り混じったものが流し込まれた。と、同時に貞元の ねっとりと冷たい舌が舐め回してきた。酒と血の味、更には貞元の荒っぽい愛撫で呆気なく高ぶった白玉は、貞元の 世にもおぞましい色味の肌に腕を回し、錆びるどころか艶を増している当世具足に身を寄せた。

「はい。お里ちゃんは赤城の御屋敷で働いている女中の娘でして、何度か顔を合わせたことがあるんでさぁ」

「通じておったのか?」

 貞元の氷柱に似た感触の指先が裾を割り、尻から尻尾の根本に至った。

「たっ、大したことじゃごぜぇやせんよう。お暇を頂いた時に茶店に付き合って、ぇっ、話し込んだぐれぇで」

 背筋を這い上がる冷たさと刺激に身震いし、白玉は膝が笑い始めていた。

「それを通じておるというのだ。良き娘であったか」

 貞元は里という名の娘の胸元を押し広げると、丸い乳房を毟り取った。白玉はそれを見つつ、答える。

「そりゃあ、もう。気が良くて優しくて、そこにいるだけで回りがぱあっと明るくなるような」

「ならば、そなたが喰え。儂はもう、気が済んだ」

 貞元は石の如く強張った乳房を、白玉の口中に押し込んできた。舌の上に剥き出しの角材を突っ込まれたかの ような異物感が走り、喉の奥が破られるのではないかと危惧するほど力強く押さえ付けられた。無理矢理開かされた 喉の中に肉を詰め込まれ、白玉は口の端から血混じりの涎を垂らして苦労してそれを飲み下すと、貞元は満足げ に面頬の下で目を細めた。白玉は餌を乞う犬のように舌を垂らすと、貞元は再度肉を喰い千切り、白玉の口にねじ 込んできた。それもまた奥に突っ込まれ、えづきながら飲み下す。

「旨いか」

 血と涎で汚れ切った白玉の顎に手を添えた貞元は、屍臭と腐臭が混じったような息を零しながら顔を寄せてくる。 白玉は息苦しさと吐き気によって滲んだ涙を拭わないまま、唇の端を上向けて頷いてみせた。

「はい、お前様」

「して、丹厳。今し方お前が川に引き摺り込んだのは、どこの娘だ」

 白玉を抱き寄せて膝に座らせた貞元は、その目尻の涙を味わいつつ問うた。丹厳は辟易しつつも、答える。

「荒井久勝の側室が一人、お朱鷺だ」

「ああ……だから、鷹之進に早馬が来たっちゅうわけで、ぇおっ!」

 と、白玉が言い切る前に貞元の手が喉を締め上げてきた。どくどくと脈打つ血管が外側から塞がれたことで目の 奥に星が散り、景色が暗くなる。が、息が詰まりきる前に貞元は手を離したので、陶酔感はあまり味わえなかった。 息を荒げながら脱力した白玉の髪に指を通し、撫でながら、貞元は呟く。

「良い、良いぞ。だが、娘殺しはこの辺りにしておけ」

「そうか、喰い足りたのか。ああやれやれ、これで河童の真似事をせずに済むわい」

 丹厳は心底安堵したのか、胡座を崩した。一連の娘殺しの下手人は、他でもない一つ目入道の丹厳である。白玉 がすべきことではあるのだろうが、奉公人としての仕事と立場を保つためにこれは丹厳に任せた方がいい、と貞元 が判断して丹厳に命じたのだ。殺し方は至って簡単で、川底で身を潜めておいて年頃の娘が通り掛かったら妖術を 用いて引き摺り込み、溺れさせていただけだ。その後、墓場に葬られたらすぐさま掘り返し、貞元の元に届けていた というわけである。貞元は切なげに喘ぐ白玉の唇をなぞりながら、暗く笑った。

「楽しゅうなってきたわい」

 白玉は舌を伸ばし、紫と黒を渦巻かせて練り上げたかのような指を銜えると、貞元は口元を綻ばせた。会えない分 の寂しさを埋めるために氷よりも冷え切ったそれを愛でた。たとえ亡骸であろうと、この手が他の女に触れていた ことが許し難かったからだ。貞元が鷹之進の名を出した途端に白玉を虐げるのはそれと同じことなのだ。貞元から 与えられる苦痛の強さは、彼なりの愛情表現だ。生前から常軌を逸していたが、怨霊と化したことで益々度が増して きた。けれど、嫌だと思ったことは一度もない。むしろ、貞元から苛烈な愛情を注がれても耐え抜けるのは常世にも 現世にも自分だけだという自負が湧く。貞元の冷たくも硬い指に口中をなぞられながら、白玉は恍惚とした。
 なんと幸せなのであろうか。





 


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