鬼蜘蛛姫




第八話 織り成された姦計



 刹那、濁流が踊った。
 千切れた大木や岩を巻き込んだ、猛烈な泥が渦を巻く。大量の雨水を含んだ土砂は山肌を削りながら滑り落ちた かと思うと、神社を一呑みにした。樹齢数百年は超えているであろう御神木が実に呆気なく薙ぎ倒され、立派な造り の本殿が押し流され、石畳が剥がされ、朱塗りの鳥居が根本から抜けて泥に浮かぶ。轟音を伴って人界に下った 邪神は泥で成した巨体をうねらせ、八重姫の手で放り投げられたチヨに鼻面を向けた。
 砕けた岩を埋めた牙を剥いた濁流、否、濁龍は大口を開けて哀れな娘に迫っていった。ひぃっ、と悲鳴を止めて 小さく息を飲んだチヨは身を縮める間もなく、濁龍に喰われた。顎を閉ざした瞬間にがぼっと泥水が噴出し、枯れ葉 と泥が絡み合う巨体が不気味に波打つ。ツノもなければ目もなければヒゲもない龍は、死期が近い老人のような咳 をして鼻の穴から茶色の水を噴いた。それは最早叢雲ではなく、それに近しい姿をした怨念の固まりだった。

「なんと……!?」

 唖然とした丹厳は拳を固め、怒る。

「おのれ叢雲! ようやくあの娘が我が手元に至ると思うたに、それを阻むというのか!」

「否」

 ごぼ、と口の端を泡立たせながら、濁龍が呟く。腐敗した獣の如く、泥水の滴る顔を持ち上げる。

「我は娘に報いたい。ただ、それだけのこと」

 それを横目に見ていた八重姫は、なんとなく面白くなかった。要するに、丹厳と叢雲でチヨを取り合っているのだ。 野暮ったいだけの村娘のどこがそんなに良いのかは解らなかったが、他人事ながらどうしようもなく苛立ってきた。 だが、下手に手を出すと糸丸が巻き添えは喰ってしまうので、八重姫は我が子を抱きながら静観した。
 丹厳はくつくつと喉の奥から笑みを漏らしていたが、上体を反らして哄笑を放った。場違いなほどに清々しく、また 自信に満ち溢れた声色であった。泥水を吸い込みすぎために本来の色合いとは程遠くなった法衣を引き摺り、丹厳 は怨念と土砂がとぐろを巻いて巨体を成している濁龍に歩み寄っていった。

「報いるとは、御立派な土地神様にしては随分と弱気な言葉ではないか」

 崩れた石段を身軽に飛び跳ね、境内であったであろう場所に辿り着いた丹厳は、一つ目を歪めた。

「娘の一人も救えぬ身の上で、神を名乗るなど片腹痛いわ! ならば救わずに捨て置け! この世の悦びを知らず に常世へと導かれた哀れな娘に、拙僧が限りない享楽を与えてくれる!」

「愚かな」

 丹厳の言い分に辟易した濁龍が粘り気のある淀んだ言葉を発すると、大木が倒れ、丹厳の上に倒れた。だが、 一つ目入道は大柄な体格に似合わぬ身軽さで飛び退くと、泥溜まりに浮かぶ鳥居に軽やかに降りる。

「ならばこうも言ってやろうぞ、土地神よ! そなたこそがチヨの命を奪ったのだ!」

 濁龍の目元らしき部分が歪み、岩と倒木が擦れて軋む。丹厳は裂けた口元を綻ばせ、笑う。

「元来、人間が神を信じるのは、己の力ではどうにも出来ぬ災厄を引き受けてもらわんがため。理不尽な出来事を 擦り付け、汚名を被せることもしばし。また、死した者を恐れるあまりに崇め奉ることも多し。そこに信仰心などあり はせん、苦痛の止まぬ現実から束の間目を逸らさんがためよ。あの娘とて、そなたを心から信じておったわけでは あるまい。世間知らずの生娘故、これから始まる拙僧との日々に可愛らしい恐れを抱いておったのだ。チヨが一言 でも、拙僧に桶から出してくれと頼み申してくれたならば、百年といわず、一日足らずで桶から出してやったものを。 それをあの娘は無駄な意地を張り、挙げ句の果てに土地神に攫われてしまった。手前勝手な親切心でだ!」

 丹厳は鳥居から跳ねると、斜めに倒壊した本殿の屋根に飛び移った。

「あの娘は心優しい、それ故に命を奪い去ったそなたに対して恨み言の一つも零さなかったであろうぞ。だが、それ をいいことにそなたは増長したのであろう。チヨの望まぬものを与え、更なる苦悩に至らせたのではなかろうか?」

 心当たりがあるのだろう、濁龍はぐぶりと泡を吐き出す。丹厳はしたり顔になる。

「仏でさえも人間を救えぬのだ、たかが土地神に人間を救えるものか。故に、娘は拙僧が救ってしんぜよう」

 さあ早う、と、丹厳は汚れた手を差し伸べてくる。濁龍は泥と石で出来た肌から枝葉が飛び出している首を縮め、 後退るような格好を取るが、その姿勢から動かなくなった。降りしきる雨が途切れ、あれほど分厚かった雲に隙間 が生まれ始める。だが、雷鳴は鳴り止まない。まだらな雨脚に叩かれながら、丹厳が一歩進めると、濁龍は呻きを 漏らしながら僅かに口元を開こうとした。すると、その内側から別の声が響いた。

「そんげんことねぇよう!」

 恐怖で引きつり気味ではあったが、チヨの声であった。途端に、ぎゅば、と濁龍の顔に二つの目が生まれる。

「あ、あのな、水神様」

 恐る恐る顎を緩めた濁龍の内側から、頭からつま先までどろどろに汚れ切ったチヨが這い出してきた。八重姫が 貸した着物も眼帯も濡れに濡れて茶色く染まり、おかめの面もなくなっていた。紐が緩んで外れかけた眼帯を外した チヨは肌に貼り付いて動きづらいのか、着物の裾を捲って素足を曝し、いつも叢雲にしていたように濁龍の鼻面に よじ登った。裾を直して正座し、濁龍の二つの目と向き合ったチヨは、恥ずかしげに汚れた髪をいじった。

「おらな、えっとな、うんと……」

 いつになく照れているチヨは、泥まみれの顔でも解るほど頬を火照らせて俯いた。

「水神様が御蚕様を下すった時、本当に嬉しくって嬉しくってどうにかなりそうだったんだいや。御蚕様なんて、おら に似合うはずがねぇもの。んだども、水神様は下さったろ? だからな、豪儀に気が引けちまって」

 チヨは叢雲と目を合わせるか否かを迷いつつも、言い淀みながらも、懸命に話す。

「それとな、あん時は体はとっくの昔に死んどるのに生きとるのが変に思えてどうしょもなかったすけん、つい弱気な ことを言っちまったけんども、今はなんも思っとらん。それどころかな、水神様と御一緒に過ごせるのが嬉しいんよ。 水神様のことを信じて人柱になったことも、水神様にお会いするためだったって思えば辛いことでもなんでもねぇよ。 それに今だって、水神様はおらを助けて下すったろ? 村んしょとか、他んしょらが水神様を鬼だ何だのと言うよう になったとしても、おらは水神様をずっとお慕いしとる。だから、暴れんでおくんなせぇ。お願いだ、水神様。おらは、 誰よりもお優しい水神様が大好きだ」

 濁龍の目の間に近付いたチヨは、目を閉じ、泥に身を委ねた。濁龍は見開いた目を震わせ、開き切っていた瞳孔を 徐々に細めていった。完全に気を許しているチヨは、寝床に横たわって寝入るかのような面持ちだった。不意に雨雲 が裂け、雨が止まった。空から差し込んだ鮮烈な光が、濁龍と水神を思う娘を照らす。
 さながら、蛇が古い皮を脱ぎ捨てるが如く。朝日よりも眩く、夕日よりも清冽な光条が濁龍の泥を瞬く間に乾かし、 集落に雪崩れ込みかけていた膨大な土砂が、凍り付いたように止まった。チヨの全身にこびり付いていた泥やらも 干涸らび、いくらかの湿り気を残しつつも剥がれ落ちていった。濁龍の体の表面から浮き上がった泥もまた、独りで に零れ落ちては土砂に埋まった。茶色く濁ったウロコの下から現れたのは、叢雲川の川底に漂う藻に近しい色味の 青緑のウロコだった。岩と樹木の牙が抜けて石英の如く輝く牙が生え、一対のツノが天を示す。穏やかな光を帯びた 双眸が愛おしげに眉間に横たわる娘に向いた後、歯噛みしている丹厳に据えられた。

「水神様ぁ! うわぁい、元のお姿だ!」

 空の明るさに気付いたチヨは、泥が消え失せた叢雲を一望して歓喜した。

「我を信じてくれるのか」

 若干の不安と懸念の混じった叢雲の問いに、チヨは満面の笑みを浮かべながら頷く。

「そったらもう! だって、水神様はおらのお願いをちゃんと聞き届けて下すったんだ! 信じねぇわけがねぇ!」

「ならば、我はそれに報いようぞ」

 叢雲は笑みを返す代わりに一度瞬きし、泥に巨体を這いずらせて丹厳に迫った。

「……解せぬ」

 丹厳は醜悪な顔を更に醜悪に歪ませながら、後退る。チヨは叢雲のツノの影に一度隠れたが、そっと顔を出し、 困惑しきりの丹厳を見下ろした。またも恐怖に襲われかけたが、意を決して丹厳に向かい合った。

「やいやいそこの生臭坊主っ!」

 今にも足が震え出しそうではあったが意地と根性で踏ん張りながら、チヨは丹厳を指して啖呵を切った。

「おらはもう騙されやしねぇし、お前のことなんか好きでもなんでもねぇ! ちっと親切にしたぐらいでいい気になる んでねぇや、クソッ垂れ妖怪が! おらはお前んとこになんか嫁に行かねぇ! とっくの昔に水神様の嫁だ! これに 懲りたら、二度とその面を見せるんじゃねえいや!」

 思い掛けないことに丹厳は面食らったが、見苦しく食い下がった。

「チヨや、今一度落ち着け。拙僧はだな、そなたを穢れた水神の手から救ってやろうと」

「馬鹿こくんでねぇや! お前がそのつもりでねぇことなんて、最初から解っとった!」

 チヨはしゃくり上げかけながらも、涙を堪えて捲し立てる。

「狭くて寒くて苦しい桶ん中入れられてから、おらはお前が桶を掘り起こして蓋を開けてくれる時を今か今かと待って いたんだいや! んだども、待てど暮らせど掘り起こす気配すらねかった! 本当にそう思うんなら、蓋を開けて外に 出してくれいや! おらの目ん玉、返してくれいや! この嘘吐き、お前なんか絶対に信じるもんか!」

 息を切らせながら崩れ落ちたチヨを、叢雲はヒゲの先で慰めた。チヨは泣くまいと必死に耐えていたようだったが、 叢雲のヒゲが頬を撫でた途端に堰が切れたように泣き出した。丹厳は唖然としていたが、身動いだ。

「チヨ……」

「業の深き者よ。去れ」

 叢雲はヒゲを巧みに操ってチヨを守ってやりながら、丹厳を睨み付ける。

「おぬしは人にあらず。否、妖怪にすらあらず」

「拙僧は嘘など吐いてはおらぬ、拙僧がいかにそなたを愛しておるのか解らぬのか!?」

 遅れて沸き上がってきた怒りに声色を震わせながら、丹厳は拳を固める。

「否」

 叢雲は丹厳に視線を強く据え、重苦しく述べる。

「斯様な愚念、愛にあらず。妄執に他ならぬ」

「ならば、目にも見せてくれようではないか!」

 丹厳は素足で本殿の瓦屋根を踏み切り、大柄な体を高々と跳ね上げた。妖力を放って地中に埋もれていた錫杖を 引き抜いて両手に収めると、それを豪快に振り回しながら、叢雲の頭上のチヨを目指していく。叢雲は神通力を 高ぶらせようとするが、御神体を叩き割られたために上手く働かなかった。逃げ場のないチヨは叢雲のツノに縋り、 身を固くする。丹厳が何をしようとしているのかは明白である、最早手に入らないと解ったからチヨを滅してしまう気 でいるのだ。三文芝居にも劣る愛憎劇に相応しい結末だが、面白くないことこの上ない。八重姫は先程から腹の底 で燻っていた苛立ちがとうとう熱し、浅く息を吸った後に一つ目入道に糸を吐き付けた。

「ああ、下らぬ。惚れた女など、己の力量だけで振り向かせぬか」

 毒の滲む糸切り歯で糸を切り、八重姫は毒突いた。

「あ……?」

 何事もない、と目を開いたチヨが見上げた先には丹厳が空中に縫い付けられていた。八重姫が身を潜める杉の木 や地滑りを免れた木の間に長短様々な糸を張り、見事な巣が作り上げられていた。その中心には、錫杖を今正に 放とうとせんとする一つ目入道が貼り付いていて、無様に藻掻いている。丹厳は負け惜しみを吐き捨てながら、巣に 貼り付いた手足を引き剥がそうとした。が、力を込めた右手の指が一本残らず落ち、巣に蹴りを打ち込もうとした足 は膝から下が切れ、胸を剥がそうと上体を捻ると頭がめり込んで頭の皮から瞼から耳から何から刮げ落ち、残った 左手で錫杖を振り回すと錫杖は輪切りになり、勢い余って巣に突っ込んだ左腕は根元から落ちた。
 八重姫がつうっと糸を軽く引くと、巣が縮み、丸まった。その内に飲み込まれた丹厳は細切れの肉片と化し、気味の 悪い汁を飛び散らせながら、境内であった場所に肉の雨として降り注いだ。糸を放り捨てて妖力も抜き、ただの糸に 変えてから、八重姫は深く寝入っている糸丸を抱き上げて樹上に立った。

「少しは気が晴れたえ。そなたら、帰るぞえ」

「……へぇ」

 丹厳の呆気ない最期に拍子抜けしたのか、チヨは力なく答えた。

「水源に戻り、神通力を溜めねばならぬ。この姿も、あまり長くは」

 保てぬ、と言おうとしたがその余力すらなかったのか叢雲は黙り込んだ。すると、チヨの足場が消え失せてまたも 空中に投げ出された。柔らかな泥溜まりに突っ込んだチヨは、綺麗になったばかりの着物が再び汚れてしまった。 落ちた場所に異物がなかったので怪我はしなかったものの、痛いことには変わりない。チヨは強かに打ち付けた腰 をさすりながら起き上がると、泥溜まりでうねっている蛇を見つけた。

「ん?」

 青大将にしては小さいけど毒蛇の色じゃねぇな、と思いつつ蛇を抓んだチヨは、蛇の顔に見覚えのあるツノとヒゲ が生えていることに気付いてぎょっとした。どう見ても叢雲に違いないのだが大きさが異様だった。叢雲川そのもの の長さと幅を誇っているはずなのに、これでは野山を這いずる蛇と同格ではないか。チヨが二の句を継げずにいる と、叢雲と同じ姿形の蛇はチヨの腕にするりと巻き付き、口を開かずに覚えのある声を発した。

「チヨや。我である」

「どうして水神様は、そんなにちっこいお姿になってしまったんだいや?」

 チヨが首を傾げると、叢雲はチヨの腕から肩に移動して柔らかく絡み付いてきた。本当に蛇である。

「御神体を砕かれたばかりか、荒れ狂ったが故。我の神通力にも底はあるというもの。本来の姿に戻るまでには、 百と二十は季節を過ごさねばなるまい」

「そっかぁ……。でっけぇ水神様の上に乗るん、こって好きだったがんに」

 残念そうなチヨに、叢雲は項垂れた。

「すまぬ」

「まあ、でも、でっこくてもちっこくても水神様は水神様だいや! それに、これなら御一緒に寝らんるろ!」

「はて」

 叢雲が首を捻ると、チヨは照れ笑いした。

「おらは水神様の嫁っこだすけん、床を御一緒するのは当たり前ろ?」

「なんと」

「お嫌なんけ?」

 一足飛びな考えに叢雲が驚くと、チヨがしゅんとしたので、叢雲は言葉を選びつつも返した。

「そういうわけではない。しかし、あまりにも早急では」

「そうかもしれんねぇ。祝言挙げるっつっても、その前に結納とかせんとならんもんな」

 そったら準備せんとね、と浮き足立ったチヨは、だらしない笑顔を浮かべながら、土砂に覆われた斜面を上がって いった。常人であれば足を取られて転ぶか、倒木に引っ掛かるか、割れた石で足を切るか、などと何かしらの災難 に見舞われるのだろうが、叢雲を肩に載せているチヨは図らずも水神の加護を受けているおかげで、なだらかな道 を昇るかのような軽やかな歩調で歩いていった。この分だと、遠からず叢雲はチヨと祝言を挙げる羽目になるだろう が、そうなってしまえば八重姫に角隠しと白無垢を縫えと注文を付けられるのではあるまいか。
 渋い顔をしつつ、八重姫もまた八重山に戻るために八本足で太い枝を蹴り付けた。その拍子に雨水が貼り付いた 枝葉から雨粒が飛び散り、下半身と足先を濡らした。次に足掛かりにする木を見定めながら、妖力を用いて湿った 空気の中を漂っていると、雲の切れ端が散る空に鴉天狗が弧を描いているのが見えた。懸念が過ぎったが、今は それどころではない。春祭りを楽しめなかった糸丸は目が覚めたらぐずるだろうから、御機嫌取りをしなければ。
 母親である以上、優先すべきは我が子である。





 


11 9/10