鬼蜘蛛姫




第九話 結ばれた契り



 ひどいものだった。
 早川政充は幼馴染みの変わり果てた姿を見、なんともいえない感情が込み上がってきて思わず目元を押さえた。 藩主である荒井久勝から直々に賜った御用命を無事果たし、本条藩に帰ってきてみれば、南西の集落が大規模な 地滑りで飲み込まれていた。折り悪く、その集落で行われていた春祭りに大名行列を伴った久勝が赴いていたの だが、蜂狩貞元の首の供養を請け負った無縁寺の僧侶、丹厳がその場に居合わせていたのだそうだ。丹厳が念仏を 唱えてくれたおかげで、久勝一行は辛くも難を逃れたのだそうだが、その土砂崩れの原因を作ったのが他でもない 赤城鷹之進だとは。そして、乱心した鷹之進を斬り捨てたのが荒井久勝自身であったとは。一体何があったのか、 いずれ知らなくてはならないが本心では知りたくなかった。
 政充の目の前には、鷹之進の首が曝されていた。男臭い顔立ちに似合わぬ人懐っこい笑顔を浮かべていた顔は 干涸らびた肉が僅かに貼り付いているだけで、目玉は鳥にでもほじくられたのか暗い穴が空いている。髷は解けて ざんばらになり、乱暴に断ち切られた首の骨が粗末な板の上に斜めに載っていた。早川家と同じく、荒井家に長らく 勤めていた功労を慮って墓は建てられたようだが、彼の一族が眠っている墓とは全く別の場所に建てられていた。 本条藩に忠義を誓い、誇りを持って刀を帯びていた鷹之進が、なぜ叢雲神社の御神体を壊したりしたのだろうか。 その上、神主と同僚の侍に手を掛けるとは。考えれば考えるほど、訳が解らなくなってくる。
 泣きたい気持ちではあったが、大の男が人前で涙を流すものではないので、政充は込み上がるものを堪えながら 鷹之進の首が曝されている処刑場を後にした。その足で、檀家になっている寺に向かった。道中の農家で菊の花を 買い求め、白と黄色の花が混じった束を携えた。小柄で柔和な面差しの僧侶に挨拶し、軽く世間話をした後に墓場に 向かった。町人達の小振りな墓の群れを通り過ぎた先にある早川家の墓に辿り着いた政充は、桶に汲んできた水 を柄杓で掬って年季の入った墓石に掛けてやった。枯れた菊の花を取り去ってから新しい花を供え、線香に火を 灯し、手を合わせてから深々と礼をした。長い間の後に顔を上げた政充は、姉に思いを馳せた。

「姉上……」

 政充の十四歳年上の姉、咲は、他でもない荒井久勝の正室であった。かつては本条藩の家老をも務めた早川家 は祖父の代での失態が尾を引き、家臣の座こそ保てているが昇進は望めぬ立場にある。そんな中、久勝は城下で 政充と言葉を交わす咲を見初めてくれ、正室として迎え入れてくれた。身内の欲目もあるが、咲は抜きん出た美貌 の持ち主であった。しかし、咲はなかなか子に恵まれず、三十を過ぎても尚も、ただの一度も孕まぬ始末であった。 だが、それは久勝が見初めて掻き集めた側室達も同じだった。それ故、幸か不幸か世継ぎ争いは起きずに済んで いたのだが、四年前に咲は大勢の人間が待ち望んだ子を孕んだ。側室達は咲を疎みはしたが、久勝が目を掛けて くれていたので咲の身は無事に守り通され、十月十日が過ぎた夜中に咲は立派な男児を産み落とした。それこそが 荒井家の嫡男である菊千代だが、その赤子は鬼蜘蛛の姫に攫われてしまった。
 咲のためにも、是が非でも嫡男は取り戻さねばならない。そのために赤城鷹之進の力が不可欠であると心の隅で 思っていたのだが、当の鷹之進は死んでしまった。以前、鷹之進が叢雲山で出会ったと話していた左目の欠けた娘 を上手く利用すれば、嫡男だけでも取り戻せるのではないかと考えたのだ。しかし、叢雲山は前触れもない大雨で 派手な地滑りを起こし、土砂もそのままなので、当面は近付けないだろう。

「早川様でござりまするか?」

 線香が中程まで燃え尽きた頃、不意に声を掛けられた。政充が振り返ると、墓参り姿の娘が立っていた。

「おや、お玉さん」

 それは、赤城家の屋敷で働いていた若い女中の玉であった。玉は砂利に膝を付き、深々と礼をする。

「この度は御愁傷様でござりまする」

「お玉さんこそ、気苦労が絶えませんでしょうに」

 政充は玉の顔を上げさせてから、励まそうとしたが上手い言葉が出てこなかった。玉の面持ちは痛々しく、泣きに 泣いたために瞼がひどく腫れ上がっていた。無理もないだおう、鷹之進から特に目を掛けられて可愛がられていた のだから。玉は染め絣の袖で顔を覆うと、嗚咽を堪えながら答えた。

「へい。ですが、鷹様はきっと何かお考えがおありだったのでございましょう。そうでもなければ、あの御方は決して 動かれませぬ。あたしだけでも鷹様を信じてやりとうござりまするが、他の方々は……」

「屋敷の者達はどうした」

「皆、次々に辞めてゆかれました。御屋敷に残っているのは、最早あたしだけでござりまする」

「ならば、お玉さんもそうした方が良かろうぞ。主がいないのだ、賃銀も払えぬのだから尚更だ」

「それは嫌でござりまする」

「何故か」

「鷹様や赤城家の皆様がこれまで守り通してきた御屋敷から離れてしまうなんて、奉公人としてあまりにも忍びのう ござりまする。お金などいりませぬ、せめて、せめて、御屋敷のお手入れだけでもさせておくんなまし」

 切なげに肩を震わす玉に、政充は少し胸が詰まった。

「ならば、こうしよう。お玉さんは、城に奉公人として参られい。拙者の伝手もある、必ずや働き口が見つかろうぞ。 その御給金と拙者の小金を合わせた金で人を雇い、赤城家の屋敷を手入れさせるのだ。さすれば、良かろう」

「ですけれど、そんなの、早川様に悪うござりまする……」

 すん、と洟を啜った玉を、政充は励ました。

「拙者とて、鷹之進には随分と世話になったものだ。彼が生きている間には何の恩も返せなかったのだから、今こそ 恩を返す時が来たのだ。そう思っておる。だから、お玉さんが気に病むことなどない」

「なんとありがてぇ御言葉でござりましょうか」

 玉は這い蹲らんばかりにひれ伏したので、政充はそれを制した。

「では、お玉さん。城で会える日を待ち兼ねておりまする」

「この御恩、玉は生涯忘れませぬ」

 玉は再三再四頭を下げたので政充も頭を下げ返し、水の残った桶と柄杓と枯れた花を携えて墓前を去った。玉は 赤城家の墓を参りに行くらしく、墓前を通り過ぎていった。その足取りは少々弱っていたが背筋は伸びていて、生来 の気丈さを感じさせるものだった。政充は寺の僧侶に挨拶をしてから、墓地を後にした。
 鷹之進が玉に入れ込んだのも、今なら解る気がする。玉は女中としての立場だけではなく、赤城家を心の底から 慕っているのが肌で感じられた。家柄を重んじる侍からしてみれば、そんな女こそ掴まえておきたいものだ。故に、 玉が登城するようになれば、独り者の侍達が放っておかないだろう。今でこそ垢抜けない田舎娘ではあるが、化粧 をして着飾れば遊女にも負けぬ色気を醸し出すことだろう。そうなれば、鷹之進が嫉妬に駆られて死の淵から蘇る かもしれない、と想像を巡らせた政充は、つい笑みを零した。だが、玉が誰に好かれようと好かれまいと、政充には 関わりのないことである。あの一件以来、女には生涯触れまいと腹に据えて生きてきたのだから。
 だから、玉の行く末など気に留めるものか。




 チヨは不満げであった。
 それもそのはず、結納を挙げるために欠かせない仲人にろくな輩がいないからである。差し当たって思い付くのは 鬼蜘蛛の八重姫と鴉天狗の九郎丸だけであり、人間は一人もいない。糸丸がいるにはいるのだが、幼すぎるので 仲人としての役割を果たせるわけがない。事実上、チヨと叢雲を引き合わせてくれた八重姫に任せるにしても、途中 で八重姫が嫉妬に駆られて余計なことをしでかしたら、せっかくの結納がぶち壊しだ。かといって、鴉天狗の九郎丸 では頼りなさすぎる。しかし、他に頼めるような相手はいないのである。

「うー……」

 チヨは行儀の悪く胡座を掻いており、何度目か解らない唸りを漏らした。

「嫁入りってぇのは物入りだいや。結納するってだけでも、色々と買い出しにいかんとならんし」

「仕方あるまい。契りを結ぶには、それ相応の手順が必要故」

 チヨの胡座の中で、蛇とほぼ同じ大きさに落ち着いた叢雲がとぐろを巻いた。

「んだども、結納っつうのは家同士のことなんだいや。おらと水神様は違うろ?」

 次第に面倒臭くなってきたチヨが唇を尖らせたので、叢雲は細い尾の先を振った。

「我とそなたは、神と人。家と家ではない故、尚のこと手順が欠かせぬ」

「もしも、それを蔑ろにしちまったら?」

「そうさな……。そなたと我の間に齟齬が生じ、我はまたも我を失うやもしれぬな」

「ソゴって何だいや」

「行き違いと言えば解ろう」

「おらと水神様はちゃんとお話し出来るっちゅうに、何が行き違うんだいや?」

「言葉は通じれど、互いの心と心が行き違えば始末に負えぬ。成すべき手順を踏んで婚礼に至らねば、我はそなたを 妻として認識出来ぬであろう。さすれば、我がいかにそなたを恋しく思おうとも、我の思いはそなたへは至らぬ」

「へあ!?」

 チヨがぎょっとして腰を浮かせたので、足場がぐらついた叢雲は滑り落ちかけた。

「これこれ」

「す、水神様、そんなにおらんこと好いておられるん?」

 口元に手を添えてどぎまぎしているチヨに、叢雲はちろりと細い舌を出した。

「好いておらねば、嫁には取らぬ」

「そったらこと当たり前だども、だ、だって、水神様ってば何を仰っても落ち着いておられるから……」

 そんなん全然解らん、と俯いたチヨに、叢雲は体を伸ばして鼻面を近寄せる。

「我は神ぞ。故に、人とは異なる。些細なことで魂は揺れぬが、ひとたび魂が揺れれば、先日のような荒事となる。 それ故、何を申すにしても、何を行うにしても、魂は常に凪いでおかねばならぬ」

「んあ?」

 チヨがきょとんとしたので、叢雲は言葉を噛み砕いて言い直した。

「つまり、だな。我は水神であるが故、常に精神を穏やかに保たねばならぬ。小さなことで怒りに駆られたり、憎悪を 覚えたりしてしまえば、先日のような嵐が起きてしまうのだ。それ故、そなたに向ける言葉もまた然り」

「へえ」

 チヨは理解はしたが不満に思ったのか、叢雲を両手で掴んで寝転がった。

「そったら、おらが馬鹿みてぇでねっか」

「馬鹿、とは」

「おらがどんだけ好きだ好きだ言ったところで、水神様はなんも思わんっちゅうことだろ?」

「そうではない」

「そったら、なんで?」

 目を据わらせたチヨに、叢雲はいくらか戸惑った。同じような言葉を返して欲しい、と言われたのは一度や二度 ではないし、叢雲もその方がチヨが喜ぶのだと言うことも重々承知している。しかし、元々叢雲は人間を生け贄として 欲する神ではなく、土地に住まう人々や農作物を守護するのが勤めであって、チヨにばかり好意を集中させるのは 我ながらどうかと思っていた。寄り添い合うだけでも、夫婦となった意味があるのではないのか。だが、チヨの欲求を 無下には出来ない。悪しき一つ目入道ほどではないが、叢雲も叢雲なりにチヨに執着を抱いている。亭主関白には なれそうにもないし、うっかり泣かせでもしたら、それこそ叢雲も辛くなって辺りに大雨が降る。しかし、面と向かって 好意を示すのは。神としての立場と一介の男としての体面の間でぐらついた叢雲は、ヒゲを垂らした。

「ま、ええいや」

 チヨは答えを聞くことを諦めたらしく、叢雲を地面に横たえてから立ち上がった。

「そったらことをしとる暇があるんだったら、とっととここを片付けんとならんすけん」

「う……うむ」

 叢雲は安堵と落胆を交えつつ、遠からず妻になる娘を仰ぎ見た。腰に両手を当てたチヨが向き合っているのは、 洞窟の内側に入り込んだ大量の泥だった。チヨが住まいにしていた洞窟は、先日の地滑りの直撃こそ受けなかった ものの、雪崩れ落ちる土砂の端が引っ掛かってたっぷりと入り込んでしまった。家財道具一式も多少なりとも被害を 受け、鍋が一つ紛失し、火打ち石も片割れを失い、寝床にしていたムシロが土に巻き込まれ、粗末な着物の着替え もドロドロに汚れて使い物にならなくなってしまった。だが、決して住めないこともない。しかし、元通りの生活にする には土砂を外に運び出さなければならない。叢雲が健在であれば神通力でどうにか出来たのだろうが、当の叢雲は 荒れに荒れたせいで神通力をほとんど使い果たしてしまった。山頂の氷室の傍から流れ出ている源流は清水を ちろちろと流しているが、叢雲の本体である川そのものは汚泥に埋め尽くされているので、泥水しか流れていない。 その上、地滑りで神社が押し流され、御神体が砕かれていて、人間でありながらそこそこの神通力を生まれ持って いた神主も殺され、集落の人々の信仰心も災厄で離れてしまった。故に、憎悪に飲み込まれかけた叢雲の自我を 引き戻してくれたチヨの心を捉えておかねばならないのだが、それが一番厄介なのである。

「うー……」

 己の身の丈の数倍は悠にある土砂の山と睨み合い、チヨはまたも唸った。

「なあ、水神様」

「何用か」

「夫婦ってぇのは、手に手を取って力を合わせて生きていくもんだすけん」

「道理なり」

「そったら、ここを片付けるのを手伝ってくれねっか? おら一人だと、十年掛かっても終わらんすけん」

「それは……」

 叢雲は口籠もった。それは土台無理な頼みだ。神通力さえあればいくらでも手伝ってやるのだが、肝心の神通力 がまるで足りていないのである。手を貸してやろうにも、トカゲの親戚のような格好ではまず無理だ。小石一つ運ぶ のが精一杯であり、尻尾で砂を掻き出すにしても匙一杯分が限界だ。しかし、真っ向から手伝えないと言ってしまう のはチヨに悪いような。だが、手伝うと言ったところで何の助力にもならないのでは。叢雲がそんなことを考え込んで いると、チヨは不満げに唇をひん曲げた。

「もうええ。水神様は神様だもんな、お手を煩わせるわけにはいかんな! 好きっちゅうのと働き手になっとくれる っちゅうのは根っこから違うすけん!」

「これ」

 叢雲が呼び止めるが、チヨは立て掛けておいた使い古しの鋤を握り、威勢良く土砂の山に突き刺した。崩せそうな ところから崩していくつもりなのだろうが、所詮は娘の力、一度に掘り起こせる土砂の量はタカが知れていた。チヨは 背後に小さな土砂の山が出来ると、それを板に載せて引き摺っていって洞窟の外に捨てた。それを何度も何度も 繰り返すが、突き崩せたのはほんの一角に過ぎなかった。十年掛かっても終わらない、というのは冗談ではなさそう だった。居たたまれなくなった叢雲は濁流が粘っこく流れる支流に身を浸したが、気分が晴れるどころか沈む一方 であり、黙々と働き続けるチヨに言葉を掛けることすら憚られた。そうこうしているうちに日が暮れ、チヨもやっと働く 手を止めた。頭からつま先まで泥まみれになった体をそのままに、湿気を吸い込んでいるので寝心地の悪いムシロ に横たわると、チヨは呆気なく寝入った。叢雲はとうとうチヨには声を掛けられず終いだった。
 不甲斐なさが染み入ってきて、情けなくなる一方だった。本を正せば荒れ狂った己が悪いのだから、チヨの手伝い をするのが道理であるのだが、この期に及んで神だの何だのと考え込んでしまった。人に焦がれるがあまりに大い に道を踏み外した丹厳の姿を目の当たりにしたからだろうが、チヨに近付くことを内心で恐れている。嫁に取る相手を 好かないでどうする、とも思わないでもなかったが、ついつい二の足を踏んでしまう。
 神であるということが、こんなにも面倒だとは。





 


11 9/13