機動駐在コジロウ




佐々木家の一族



 どこもかしこも線香臭い。
 ジャージだけでなく、制服もそんな有様だろう。通夜の読経の最中にもたっぷりと線香が焚かれていたし、今夜は どうしたって線香の煙を浴びる羽目になる。一晩中線香の煙を絶やしてはいけないのが、通夜だからだ。もっとも、 それを知ったのはつい数時間前のことだった。そして、その通夜の線香の番をする人間が自分しかいないと知った のも数時間前のことである。美野里が作った原稿を読んでどうにかこうにか喪主を務めて、見知らぬ大人ばかりの 弔問客達をもてなし、見送り、明日の葬儀もよろしくお願いします、と通夜を終え、やっと一休み出来ると思ったのも 束の間、線香の番をするのが喪主の務めだと言われて斎場に泊まることになった。

「お姉ちゃんの人でなしぃ」

 付添人が寝泊まりするための控え室で、つばめはぼやいた。部屋自体はホテル並みの豪華さでベッドはダブルで ソファーも立派でバスルームも浴槽が広くマッサージチェアまで設置されているので文句の付けようもないのだが、 一人で使うには広すぎる。それもこれも、美野里が仕事の引き継ぎを行うために一旦帰宅したからだ。
 美野里の職業は弁護士であり、その両親もまた弁護士という弁護士一家なのだ。つばめが幼い頃は母親の景子は 休業していたが、つばめが中学生になってからは復業し、父親である備前柳一が経営する個人事務所に勤めて いる。美野里も現在は父親の雇われ弁護士だが、いずれ事務所を構えて独立するのだそうだ。昔は金持ちだから つばめの養育を引き受けたのだろうと漠然と感じていたが、吉岡りんねの態度を踏まえて考えてみると、何か裏が あるような気がしてきた。だとしても、一体どんな裏があるというのだろうか。

「ま、いいか」

 どうせ、大したことではないだろう。余計なことを考えて頭が疲れると余計に眠たくなってくる。つばめは欠伸をして から、会場に繋がるドアを開けて祭壇に向かった。時刻は午前二時を回っていて、斎場の従業員も切り上げたので ここにいるのは祖父の遺体とつばめだけだ。今更ながらそれを認識してほんの少し怖くなったが、会場には煌々と 明かりが点っているので、幽霊が出そうな雰囲気は欠片もない。音がないと寂しいのでテレビを付けっぱなしにして あるし、もしも何か起こったら美野里に連絡すればいい。
 ロウソクの火を使って火を灯した線香を立て、蚊取り線香のような渦巻き状の線香の火も衰えていないことを確認 してから、つばめは思いがけず空腹を覚えた。この近所にはコンビニがあったはずだ。他に誰もいないのだから、 夜中のコンビニに行っても咎められない。それどころか、なんだって好きなものが買えるのだ。限りあるお小遣いは 無駄には出来ないが、ちょっとした贅沢をするぐらいなら構わないだろう。
 場違いな高揚感に駆られたつばめは軽くスキップしながら祭壇を降りようとしたが、視界の隅に異物が入り込んで きた。祭壇を降りかけたところで止まり、恐る恐る振り向くと、あの金属製の棺の上に男が横たわっていた。喪服姿 で革靴も履いているので弔問客の一人だとは思うのだが、その顔に見覚えはなかった。黒いネクタイは解ける寸前 まで緩めてあり、ワイシャツの襟元も大きく開いていた。髪はまだらに脱色されていて、長さも半端で斜めに垂れた 前髪が目元を隠している。顔立ちはなかなかで背も高いのだが、いかんせんだらしない。

「ど……どちら様で?」

 つばめがおっかなびっくり声を掛けると、青年は前髪を掻き上げてつばめを見やる。

「あ?」

「てか、なんでここにいるんですか? 弔問客の方ですか?」

 敵意剥き出しの態度につばめは尻込みしかけたが、踏ん張り、愛想良くした。

「誰がこんなジジィを弔うかよ。お嬢の命令だよ、んなもん」

「お嬢って誰ですか?」

「吉岡りんねだよ。黒髪ロングでメガネのメスガキ。つっても、ガキに様を付けたくねーから、お嬢。そんだけ」

「てことは、線香の火の番に来てくれたんですか?」

「は? 何それ? この俺がんなことするわけねーじゃん、クソめんどっちい」

「ですよねー」

 それについては全面的に同意する。つばめが愛想笑いを保っていると、青年は急に上体を起こした。

「抜け駆けの防止っつーか、まーそんな感じ?」

「抜け駆け、って」

 誰が何を抜け駆けするのだ。りんねとのやり取りでも感じたものと同じ不可解さを感じ、つばめは首を捻る。

「うっわ、マジで知らねーんだ。それでよく佐々木の孫なんてやってられたな」

「知るも何も、今朝……じゃないや、昨日の朝にお姉ちゃんから教えてもらって、身内がいるってことを初めて知った んですよ。だから、お兄さんやりんねさんが言っていることの意味がさっぱり解らないんです。ごめんなさい」

「ダッセェ」

 青年はあからさまにつばめを蔑んできたので、つばめはむっとして顔を背けた。

「どうもすいませんでしたね! そっちの御嬢様みたいじゃなくて!」

「逃げんなら今だぞ」

 不意に、青年の口調が変わった。何事かとつばめが目線を戻すと、青年は鼻筋に掛かった前髪の下からつばめ を注視していた。その眼差しは異様に澄んでいて、表情も強張りさえあるほど真顔だった。どういう意味か解らず、 つばめは聞き返そうとしたが、青年は金属製の棺に再び寝そべった。寝心地はひどく悪そうだ。だが、見ず知らずの 男を控え室に招けば同じ部屋で一晩過ごすことになってしまうので、つばめは一礼してから会場を後にした。
 財布を握り締めて深夜のコンビニに行くと、疲れ果てた大人達から不審そうな目を向けられたが、空腹に勝てる 気はしなかったので陳列棚を見て回った。菓子パンやデザート類などを吟味していたが、あの青年の分も買っていく べきかどうかをちょっと考え込んだ。青年からすればありがた迷惑かもしれないが、祭壇にいる以上は線香の番を していることには変わりないわけで、つばめは喪主であって青年は弔問客であって、吉岡りんねの関係者ということ は親戚のような間柄であるわけで、だとすればそう無下には出来まい。そんな答えを出したつばめは、夜食にする 卵のサンドイッチとイチゴエクレアとレモンティーと一緒に、無難な路線で缶コーヒーとカレーパンを買っていった。
 斎場に戻ったつばめは、寝ているのか起きているのかすら解らない青年の枕元に缶コーヒーとカレーパン入りの レジ袋を置いてみた。控え室に戻って空腹を満たしたつばめは、線香を灯すべく再び祭壇に向かうと、青年の格好は 一切変わっていなかったが、缶コーヒーとカレーパンは空になっていた。とりあえず食べてくれたらしい。
 それから夜が明けるまでの間、つばめは猛烈な眠気と戦いながら、何度となく線香に火を付けた。蚊取り線香の ような線香があるから平気だ、と思おうとしたのだが、ふかふかのベッドに潜って寝入ろうとすると却って目が冴えて しまって落ち着かなかった。疲労と睡魔に耐えること数時間、待ちに待った夜明けが訪れたが、青年はただの一度 もつばめの様子を確かめには来なかった。線香の匂いを落とすためと目を覚ますために風呂に入ったつばめは、 これから始まる葬儀で寝落ちしなきゃいいな、とささやかに祈った。
 土台無理かもしれないが。




 葬儀に訪れた弔問客は、通夜の倍以上だった。
 セーラー服の裾に喪主の印である黒い花飾りを付けたつばめは、人生で最も多く頭を下げた。下げすぎたせい で、眠気も相まって貧血を起こしかけたほどだった。仕事から戻ってきた美野里が弔問客の香典を預かり、記帳を してもらい、挨拶をしていた。美野里のおかげでつばめの仕事量は大幅に減ったが、頭を下げる回数だけは変わら なかった。やはり制服姿の吉岡りんねも弔問に訪れたが、彼女の周囲には奇妙な人間が控えていた。あの青年と、 喪章を腕に填めたメイド服姿の若い女性、りんねの倍近い体格の屈強な男、それとは対照的にやたらと小柄な男、 と訳の解らない取り合わせだった。特に強烈なのが屈強な男で、色の濃いサングラスと古傷が付いた強面のせいで ヤクザにしか見えなかった。りんねの繊細な美しさとは対照的な彼らの異様さに驚いたのはつばめだけでないよう で、弔問客の間からはざわめきが漏れていた。
 長い長い読経と焼香、花輪の数だけ届いたお悔やみ電報の後、ようやく出棺の段階になった。火葬場までは距離 があるので、親族達はマイクロバスに乗って移動する手筈になっている。その間は少しは眠れるかも、とつばめは 内心でほっとしていたが、他の弔問客達は別だった。軽い興奮状態にあるようで、誰も彼もが言葉を交わしている。 会話が入り乱れすぎているのでよく聞き取れなかったが、皆、遺産を話題に出していた。祖父、佐々木長光の遺産 のことなのだろうが、正直言ってあまり気分は良くなかった。祭壇の後ろにはまだ祖父本人がいるのだから、多少は 生臭い話題を控えるべきだ。すると、つばめの隣に座っていた美野里が立ち上がり、祭壇の前に出た。

「皆々様、ご静粛に願います」

 美野里がハンドバッグから古びた封書を取り出すと、水を打ったように静まり返った。

「それではこれより、故人の遺志に従い、遺言書を開封させて頂きます」

 封書から中身を取り出した美野里は、四つ折りにされていた和紙の便箋を開き、一度黙読した。皆、息を飲んで 美野里の手元を見据えている。あまり興味のないつばめは欠伸を堪え、腕を伸ばさずに背筋を伸ばした。左側の 一列目に座っているりんねを何の気成しに窺うと、りんねは唇を真一文字に結んでいた。彼女の背後に控えている 奇妙な面々もまた、美野里を注視している。美野里は和紙の便箋を読み終えると、言った。

「遺言書。遺言者は、遺言者の有する財産の一切を、孫、佐々木つばめに相続させる」

 今、美野里はなんと言った。つばめはぎょっとしすぎて眠気が吹き飛び、目を瞬かせた。

「うえっ?」

「遺言者、佐々木長光。以上です」

 美野里は遺言書を折り畳んで封筒に戻してから、一礼した。先程まで美野里に集まっていた視線の全てがつばめ に突き刺さり、囁きがざわめきに、ざわめきが陰口になった。りんね御嬢様ではないのか、どこの娘だあれは、長孝 の娘なんていたのか、一族の誰にも似ていないから赤の他人じゃないのか、など。つばめはそれらの陰口に怒るより も先に、祖父の死を告げられた時を上回る戸惑いに襲われ、隣の席に戻ってきた美野里を問い詰めた。

「遺産って何? なんで私なの?」

 遺産が転がり込んでくればいい、とちらりと考えたかもしれないが、あれはただの世迷い言だ。浅はかな願望だ。 動揺しきりのつばめを宥めながら、美野里は遺言書の封書をつばめの内ポケットに入れてきた。

「落ち着いて、つばめちゃん」

「お姉ちゃん、お爺ちゃんの遺産ってそんなに凄いの?」

 つばめが遺産と口にする度に、周囲が殺気立っていった。つばめは美野里に縋り、不安を紛らわす。

「う……」

「それについては後で説明するわ、まずは火葬場に行かなきゃ」

 ね、と美野里に励まされ、つばめは立ち上がった。神経が尖りに尖っている弔問客達に臆しているのか、斎場の スタッフは少々及び腰で葬儀を進行した。祖父の収まっている棺を外に運び出し、立派な霊柩車に乗せた。喪主で あるつばめは祖父の遺影を抱え、美野里は祖父の骨壺を抱え、霊柩車に乗った。
 霊柩車の助手席に収まったつばめは、サイドミラーでマイクロバスに乗る親族達をぼんやりと眺めていたが、バス に乗ってくる親族はほとんどいなかった。憤慨して帰っていく者もあれば斎場のスタッフに八つ当たりする者もあり、 これ見よがしに祖父の文句を吐き捨てる者もあり、つばめは悲しくなってきた。生前の祖父がどんな人間であったか は知らないが、これでは遺産にしか価値がないかのようだ。祖父自身の価値は無に等しいとでもいうのか。
 結局、マイクロバスに乗って火葬場まで同行してくれたのは、吉岡りんねとその奇妙な連れ合いと彼女の両親だけ だった。それ以外は一人残らず帰ってしまい、中には香典を取り返して帰っていく者すらいた。斎場に戻り、がらんと した会食場で黙々と料理を消化していると、火葬場から焼き上がったとの知らせが入った。再び火葬場へと戻った つばめは、骨と化した祖父と対面した。まず最初につばめが拾い、橋渡しして美野里やりんねに渡していった。
 骨壺に収まった祖父はとてもとても小さく、膝の上に載せると、スカート越しに染みてくる余熱はやたらと熱かった。 後はこの骨壺の中身を納骨するだけだが、佐々木家の墓はどこにあるのだろうか。つばめはそれすらも知らない。 そもそも、祖父はどこの生まれの人間なのだろう。いい大人が揃って取り乱すほどの凄い遺産を、一体どこで手に 入れたというのだろう。何も知らない、何も解らない、何も覚えていない。それなのに、なぜ自分なのだ。
 弔問客さえいなければ、両手を挙げて大喜びするのだが。




 明日は早朝から移動するとのことで、つばめと美野里は近隣のホテルに一泊した。
 斎場と火葬場の往復で思いの外時間が掛かってしまったのと、美野里が納骨に行くために必要な車を借りていく からである。ちなみに、美野里の愛車は母親の景子が取りに来てくれるのだそうだ。車を乗り換えなければならない ほど遠いのだろうか。また随分と疲れが溜まりそうだが、美野里とドライブに行くと思えばまだ気が楽だ。
 ツインルームのベッドに寝そべったつばめは、備え付けのバスローブの裾を持て余しながらテレビを眺めていた。 それまではあまり気にしていなかった吉岡グループのCMが、やけに目に付くようになった。それもこれも完全無欠 の美少女であるりんねのせいだろう。ショルダーバッグに詰め込んだはいいが、今まで出すに出せなかったパンダの ぬいぐるみを抱えて仰向けになったつばめは、湯気の立ち込めるバスルームから出てきた美野里に問うた。

「ねー、お姉ちゃん」

「ん、なあに?」

 長い髪をバスタオルでまとめている美野里は、ホテルに入る前に買い込んできた缶ビールを開けた。

「私、これからどうなっちゃうのかな」

「今まで通り、ってわけにはいかなくなるわね」

 つばめの重たい呟きに返しながら、美野里は自分のベッドに腰掛けて生温いビールを呷る。

「長光さんが亡くなった以上、私んちでつばめちゃんを養育するっていう契約書も意味を成さなくなるわけだし。あれ は長光さんが存命であることを前提にして書かれていたからね」

「やっぱりか……」

 予想していたが、明言されると切なくなる。つばめは、パンダのぬいぐるみを強く抱き締める。

「でも、私はいつまでもつばめちゃんの家族よ。もちろん、お父さんもお母さんもね」

 美野里はつばめの傍に移動すると、つばめの水気が残る洗い髪に指を通してきた。その手付きの優しさと暖かさ で気が緩んだつばめは、疲労も相まって涙が出そうになったが、シーツに吸い込ませて誤魔化した。

「あのね、お姉ちゃん。通夜の時、従兄弟の子に遺産を譲ってくれって言われたんだ。そうするべきだった?」

「確かにあの子は、つばめちゃんの次に相続権を得られる立ち位置よ。万一、つばめちゃんの身に何かが起きた としたら、優先的に遺産を相続出来る立場にあるもの。つばめちゃんがいなくなれば、孫って言葉が優先されるわけ だからね。だけど、それはあくまでも書類の上での話よ。つばめちゃんの身に何か起きるわけないじゃない。もしも あの子やその家族が、つばめちゃんを亡き者にしようと画策していたとしても、現代の法律が黙っちゃいないわよ。 それじゃ横溝正史の世界よ」

「誰それ?」

「古典ミステリの大御所よ。今度読んでみなさい、面白いから」

「うん、そうする」

「さ、明日も早いから寝ちゃいなさい」

 美野里はつばめを撫でてから、腰を上げた。つばめは頷くと、薄手の掛け布団を上げて中に入った。ぴんと糊の 効いたシーツは硬く、枕の柔らかさは自宅のそれとは違う。いや、元自宅か。

「ね、お姉ちゃん。お姉ちゃんちが、なんで私を引き取ることになったの?」
 
 白い天井を見つめながらつばめが言うと、書類を整理していた美野里は手を止めた。

「長光さんとうちのお父さんがね、昔から知り合いだったのよ。だから、その関係でね」

「そっか」

「眠れないなら、一緒に寝てあげようか?」

 美野里がにやけたので、つばめは掛け布団をすっぽり被った。

「やだよ、恥ずかしい。そんなに子供じゃないよ」

「寂しいなー、そんなこと言うなんて。ぬいぐるみなんかよりも、お姉ちゃんの方が余程抱き心地がいいのにぃ」

「そういうのは彼氏を掴まえてから言ってよ、私を誘ったってどうしようもないじゃん」

 布団から顔を半分出したつばめがくすくす笑うと、美野里も笑った。

「そりゃそうね」

「ねぇ、お姉ちゃんは遺産をもらったとしたら何に使う? 私は全然考えてもいないんだけど」

「そうねぇ、世界征服でもしてみようかしら」

「えぇー、弁護士の言うセリフじゃなーい」

「なんとでもお言い。こういう与太話は、言うだけならタダなんだから」

 それから、美野里はつばめのベッドに潜り込んできた。仕事はいいのかとつばめが心配すると、美野里は早起き して処理するから平気だと言ってきた。同じ布団で眠るなんて久し振りだ。つばめが幼児だった頃は、美野里がよく そうやって寝付かせてくれたものだった。美野里が成人して弁護士になると、つばめも大きくなっていたので、一緒に 寝る機会は自然と減った。だから、二人で同じベッドに入るのは懐かしくもあり、物悲しくもあった。
 明日からは、今まで以上にしっかりしなければ。





 


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