機動駐在コジロウ




アバターも笑窪



 ここはどこだろう。
 記憶がない。行動履歴がない。各種センサーに記録も残っていない。痛覚がないはずの脳にじわりと広がってくる 圧迫感が焦燥感を生み、荒れるはずのない呼吸が乱れたような錯覚に陥っていた。記憶が正しければ、ついさっき まで別荘にいて、キッチンで夕食の支度をしていたはずなのに。その最中にりんねに紅茶を二杯淹れてくれないか と頼まれ、その通りにした。りんねが持て成した相手が誰なのかは解らなかった。否、見えなかった。
 暖炉の前の応接セットに紅茶を運んでいき、りんねの前に紅茶を並べると、りんねは視線で向かい側にも紅茶を 置けと合図してきた。疑問を抱きながらもそれに従い、盆を抱えてキッチンに戻り、夕食の仕込みを再開しようとした ところで記憶が途切れている。茫然自失として、道子は暗闇を仰ぎ見た。

「一体……何がどうなっているの?」

 とりあえず現在位置を突き止めようとGPSを作動させようとするが、回線が繋がらなかった。

「あれ? 電波が入らないの?」

 無線回線の再接続を行うが、やはり繋がらない。ハルノネットのサイボーグ専用回線のサーバーがダウンしたの かと思い、携帯電話と同じカテゴリーのシステムを使ってみるが、結果は同じだった。

「え、なんで!?」

 今度は別の回線を試してみるが、やはり。ならば手近な携帯電話の基地局をハッキングし、そこを経由してハルノ ネットに接続しようとするが、ハッキング自体が行えなかった。今し方まで目に見えるように絡め取れていた電波が、 情報が、ネットワークが、何一つ感じ取れなくなっている。もしかして、銀色の針、アマラが道子の脳からサイボーグ ボディを侵食したのだろうか。だとしても、その理由が解らない。
 ふらつきながら、道子は歩き出した。何はなくとも、この場所から移動しなければ。背の高い針葉樹と雑草が生い 茂っている山の斜面を進んでいくが、裾の長いメイド服と革靴では動きづらかった。至るところで虫が鳴き、金属質な 鳴き声が耳障りだ。辺りには明かりらしいものは何一つなく、夜間も見通せる機能が付いたサイボーグでなければ 足元も見えなかっただろう。スカートを持ち上げながら歩き、枯れ枝と腐葉土と化しつつある落ち葉を踏み締めると、 ぐじゅり、と大量の水気が溢れ出して靴下にまで染み込んできた。恐らく雨が降っていたのだ。だが、道子には そんな記憶はない。ない。ない。何もかもがない。
 高波のように襲い掛かっては収まり、思い出したように噴出してくる絶望感と戦いながら、道子は現状を打破する ために歩き続けた。もしかして、自分はりんねから捨てられたのだろうか。利用価値がなくなったから、情報だけを 抜き取って廃棄したのかもしれない。そうでなかったら、ハルノネットが成果を上げられない道子に見切りを付けて 遺棄したのかもしれない。いや違う、そんなわけがない。自分はまだまだ戦える、アマラを持つ者として能力を全て 発揮したわけではない、つばめとコジロウの思い掛けない行動によって戦況を覆されたことはあったかもしれないが、 今後はそれらを踏まえた作戦を展開する。だから、お願いだ。まだ捨てないでくれ。

「いぁっ!?」

 不意に足を踏み外し、道子は転倒した。石か太い枝でも踏んだらしく、足首が曲がった。倒れるまいと周辺の木に 手を伸ばすも、指が届く前に重量のある体は滑り落ち始めた。水気を含んで柔らかくなった枯れ葉は潤滑剤の如く 道子を滑らせていく。木の根に衝突して跳ね返り、勢いを余って岩に乗り上げても、落下速度は落ちなかった。手足 を必死に踏ん張って滑落を止めようとするが、木々に弄ばれるように闇の底へと吸い込まれていった。
 幾度となく回転した世界が停止し、三半規管に当たるバランサーが地面との平行を取り戻した頃、道子はようやく 平たい場所に落ち着いていた。だが、かなり強く叩き付けられたらしく右肩のフレームが歪んでいる。人工外皮にも 損傷があるのか、破れたメイド服の下から微細な漏電が起きている。全身隈無く泥だらけで、乱れた髪の間からは ムカデが一匹滑り落ちてきた。すぐさまチェックを行い、両足が稼働することを確認すると、道子は立ち上がった。
 すると、聞き覚えのあるエンジン音が近付いてきた。白いヘッドライトを背中から浴びた道子が振り返ると、武蔵野 のジープが道路を上ってきていた。どうやら、別荘からそれほど遠くない山道に転げ落ちてきたらしい。気が抜ける ほど安堵した道子は、道路の脇に身を引いた。ジープは速度を緩めながら、道子の前に停車する。

「よう、元気か」

 運転席のパワーウィンドウを下ろした武蔵野が顔を出したので、道子は笑みを見せた。

「武蔵野さぁーん、どうしたんですかぁーん?」

「何がどうなっていやがるのかは、俺の方が聞きたいぐらいだ」

 武蔵野は窓枠に肘を載せ、道子を窺ってきた。道子は最低限の身だしなみとして、顔の泥と枯れ葉を拭う。

「御嬢様はいかがなさっておりますかぁーん? 御夕食の支度、まだなんですよぉーん」

「そのことなんだが、道子」

「はぁーいん?」

 道子が聞き返すと、武蔵野はいやに神妙な顔をした。

「お前、お嬢を怒らせるようなことをしたのか?」

「いいえぇーん、そのような心当たりはございませぇーん」

「そうか。だったら、俺も気兼ねなく仕事が出来る」

 無造作に運転席の窓からブレン・テンが突き出され、銃口が道子の額を捉えた。

「へ?」

 これは何の冗談だ。道子が呆気に取られると、武蔵野は躊躇いもなく引き金に指を掛ける。

「お嬢に限って、私情で物事を判断するなんてことは有り得ないもんな。全く、信頼の置けるボスだよ」

 その言葉が終わる前に発砲された。が、道子は反射的に身を下げて初発を避け、不具合の生じていない両足を 使って跳躍と同時にブレン・テンを力一杯蹴り上げた。拳銃が虚空を舞うと、武蔵野に毒突かれたが、道子はその隙 に逃げ出した。一層混乱を来し、目眩すら起こしそうだった。武蔵野の言葉を信じるならば、りんねは道子を殺せと 武蔵野に命じたことになる。だが、何のために。役に立たなくなったからなのか。
 革靴が脱げて靴下が千切れても構わずに走り続けるが、ジープの速度には敵うはずがなかった。すぐさま道子は 武蔵野に追い付かれて進路を塞がれ、身を翻して元来た道を戻ろうとすると、破損した右肩を的確に狙撃された。 人工外皮の裂け目に吸い込まれた弾丸は右肩の接続部分を破壊して貫通し、人工体液の循環チューブが切れ、 凄まじい衝撃に道子は仰け反った。ブレン・テンとは異なる拳銃を構えた武蔵野は、運転席から下りる。

「あまり手間を掛けさせるな」

「う、うぅ……」

 接続部分の金具が弾けたことで右腕が完全に壊れた道子は、苦痛に呻きながら後退る。

「何があったんですかぁ、せめて教えて下さいぃ……」

「俺に聞かれても困っちまう。俺は兵士で、武器で、道具なんだ。俺に考える頭は求められちゃいねぇんだよ」

 武蔵野の語気はいつもとなんら変わらなかったが、それ故に冷酷さが際立っていた。同じ空間で暮らして日常的 に接していたから少しばかり忘れていたが、この男の本分は人殺しなのだ。恐らくは道子が生まれるよりもずっと前 から、他人に銃口を向ける仕事をしていたのだろう。だから、サイボーグの女を一人殺すぐらい訳もない。傭兵時代 には、きっとかつての仲間を何人も殺してきただろう、殺されかけただろう。だから、人殺しこそが武蔵野の日常で あり、現実なのだ。命乞いをしたところで、聞き入れてもらえるわけがない。聞き入れる価値がないからだ。
 サングラスに隠されている古傷の残る目元は険しく、暖かみはない。拳銃を握る手の皮は分厚く、一歩歩くたびに ナイフの鞘が重たげに揺れる。使い込まれて革が弛んでいるジャングルブーツは水溜まりを軽く踏み、ヘッドライトを 受けた浅い水面が場違いなほど眩しく煌めいた。一撃で殺すつもりだ。銃口は道子の額ではなく、比較的強度の 弱い人工眼球に狙いを定めているからだ。ロボットじみた外見のサイボーグであれば人工眼球とブレインケースは 直結していないが、道子のように人間的な外見のサイボーグは人体の構造を模倣して作り上げられている。だから、 眼球の奥にはブレインケースに包まれた脳がある。武蔵野が使用しているのが徹甲弾であればブレインケースを 貫通し、確実に殺されるだろう。

「なあ、道子」

「……ふぁい」

 死への恐怖で半泣きになった道子が弱く答えると、武蔵野は女の名前を口にした。

「桑原れんげって、知っているか?」

 桑原れんげ。

「それ、って」

 道子は恐怖も混乱も忘れ、立ち尽くした。それは、とても重大な単語だ。道子の脳が、アマラが、その単語を元に 情報を検索し、索引し、展開しようとしてくる。だが、思い出したくない。それを思い出してしまえば、きっと。

「殺して下さぁあああああいっ!」

 記憶のファイルを開くことすらもおぞましく、道子は絶叫する。武蔵野は身動ぐ。

「そいつはお前にとって何なんだ? 俺が見る限り、そいつはお前を中心にして発生している現象のようだが」

「お願いします、殺して下さい、武蔵野さん!」

 大股に踏み出した道子は、武蔵野の握る拳銃を自身の人工眼球に押し付ける。ごり、とシリコンが潰れて内用液 が滲み出し、睫毛が鋼鉄に擦れる。武蔵野は道子の豹変に戸惑うも、引き金は緩めなかった。

「そのために俺は来たんだ。確実に殺してやるよ、道子」

 一つだけ言っておく。この前のスクランブルエッグだけは旨かった、それ以外の料理は最悪だった。その言葉の 後、武蔵野は引き金を絞り切った。腹に響く発砲音の後に硝煙が立ち込め、サイボーグの女は眼球に焼け焦げた 弾痕を空けて仰け反った。泥と雨水をたっぷりと吸い込んだメイド服の襟元に人工眼球の内用液が染み込み、人工 脳漿が眼球の穴から噴出した。湿ったアスファルトに倒れ込んだ女は、会心の笑みを顔に貼り付けていた。

「で、どうする?」

 武蔵野は拳銃を下げてから、ジープに振り返る。

「回収して。ブレインケースを開けて、脳みそを切り分けて、無駄遣いされていたアマラを引っ張り出すの」

 ジープの後部座席から下りてきたのは、桑原れんげだった。

「うふふふふ。これでやっと、私のアバターを削除出来た。今、この瞬間から、私がオリジナルなんだ」

 桑原れんげは上機嫌に浮かれながら、設楽道子であったモノに近付いてきた。

「ボディごと運んでいくのか? 脳を回収するんだったら、首だけでいいだろう?」

 誰が持ち上げると思っていやがる、と武蔵野が億劫がると、れんげはにんまりした。

「首だけなんてケチなこと言わないでさぁ、全部持っていこうよ。ね? そしたら、とっても格好良いしぃ」

「効率を重視した方がいいと思うがな」

「そうかなぁー。あの人もタフな男の方が好きだと思うよ? んふふふ」

 ほら早く、とれんげに急かされ、武蔵野は渋々従った。だが、それについて疑問を抱くことはなかった。なぜなら、 桑原れんげは桑原れんげなのであり、桑原れんげ以外の何者でもないからだ。薄く、弱く、真水に塩水を一滴ずつ 垂らすように人間の意識がたゆたう階層を侵食し続けていたからだ。携帯電話を遺棄しようと、ネットワークを全て 切断させようと、サーバーをハードごと壊そうと、皆、桑原れんげからは逃れられない。
 それが桑原れんげだからだ。




 寺坂の住まう寺に来るのは、これが初めてだった。
 初七日、月命日、四十九日と、いずれも佐々木家の自宅で法要を執り行っていたからだ。更に言えば、佐々木家 の先祖代々が眠りに付いている墓も自宅の敷地内にあったので、納骨でさえも自宅の中で行った。それ故、これと いって用事も私事もなかったのと、寺坂本人がちょくちょく佐々木家に入り浸っていたので、敢えて寺坂の寺へと赴く 必要がなかった。だから、今の今まで、寺坂の寺がどこにあるのかすらも把握していなかった。
 浄法寺じょうほうじ。それが寺坂の実家でもある寺の名だった。つばめは自分の身長ほどもある表札を見上げながら、今更 ながら寺坂善太郎が本物の住職であると認識した。経を読む姿は様になっていたが、法衣を着崩しているのと言動 が仏門の人間らしからぬものばかりだったので、今一つ信用出来なかった。だが、これからは寺坂に対する認識を 改めた方が良さそうだ。もっとも、尊敬に値するかどうかは別問題であるが。

「まーだゲームやってる……」

 明かりの消えない本殿を見、つばめは愚痴を零した。あの後、暇を持て余した寺坂と一乗寺はゲーム機とソフトを 引っ張り出してきて遊び始めたのだ。つばめもほんの少しはプレイさせてもらったが、今までテレビゲームに触れた ことすらなかったので面白味が解らないうちにゲームオーバーになってしまった。だから、早々に二人に明け渡して やったのだが、二人はきゃあきゃあ騒ぎながらゲームに没頭した。時折、恐ろしく口汚い罵倒を言い合いながらも、 やけに仲良く遊んでいる。爪弾きにされてしまったが、不思議と悔しいとは思わなかった。

「これからどうしよっかなぁ。ね、コジロウ?」

 つばめは雨の降り止まない夜空を仰ぎつつ、傍らに立つ警官ロボットに話し掛けた。

「本官はその問いに対して答えるべき情報を持ち合わせていない」

「解っているってぇ、そんなこと。でも、何もしないってわけにもいかないんじゃない?」

 つばめが階段に腰掛けると、コジロウはつばめの一つ下の段に腰を下ろした。

「だが、つばめはアマラの行動に対して攻撃を行うべきではない。その手段も持ち合わせていない」

「うん」

 それはそうだ。つばめは素直に頷き、コジロウを見上げた。体格差のせいで、一段下に腰掛けていてもコジロウの 頭はつばめの目線よりも高くなっている。一番近いのは肩で、その次は胸だ。

「私だって、戦うのは嫌だよ。そりゃあ、命を狙われたら、それ相応の報復はするけどさ。でないと気が済まないし、 自分の身を守れないし。でも、なんだか悪いことをしているからとりあえずぶっ潰してやろう、とは思わないんだなぁ、 これが。人助けなんてお金にならないしね」

「それは道理だ」

「人として間違っているー、みたいなことは言わないんだ」

「本官は人間的な主観を持ち合わせていない」

「うん、解っているって」

 つばめはスニーカーを履いた両足を伸ばすと、二段下の板にかかとを付けた。

「でも、ちょっとほっとしたかな」

「その理由が見受けられない」

「そりゃ、私の中でのことだからだよ。だってさ、最初は桑原れんげって子は私のイマジナリー・フレンドだって思って いたんだもん。でも、そうじゃなかったんだ。他の誰かの想像で出来上がったモノが、アマラっていう遺産の力で増幅 されて形を成しているモノなんだって解ったら、なんか、安心しちゃって。まあ、コジロウには解らないだろうけど」

 つばめの呟きに、コジロウは僅かに首関節を軋ませてマスクフェイスを伏せた。彼には、解らない方がいいような 気もする。想像を働かせて自分を満たすことで現実に耐えて生きているのは、つばめに限った話ではない。それを 知ることが出来ただけで他人との境界が薄れたような安心感を覚える。桑原れんげがつばめを含めた人間にとって 脅威となることは確実であると理解しているのに、奇妙に落ち着いた。自分の想像が投影されたものが具現化すると いうのは、万人にとっての理想ではないのか。虚像であろうとも、感情の逃げ場が生まれることで人間同士の軋轢が 少しは弱まるのではないか。だとすれば、桑原れんげを全否定するのは間違いではないのだろうか。

「ねえ、コジロウにも桑原れんげは見えていたんだよね?」

「本官のメモリーにはそう記録されている」

「じゃあ、コジロウの目には、桑原れんげはどう見えていたの?」

「誰でもない。本官は、その個体を桑原れんげだと確認、認識しただけであり、特定の一個人に酷似した個体として 認識したわけではない。よって、つばめの問いには返答しがたい」

「……そっかぁ」

 降りしきる雨の冷たさが、心の底に追いやっている薄暗い感情をざわめかせてくる。つばめはコジロウの肩装甲に そっと寄り掛かると、外装の冷たさとその奥の機械熱を感じ取り、寂しさを紛らわした。美野里はいつ頃帰ってくる だろうか。一乗寺の携帯電話を借りて法律事務所に電話し、諸々の事情で寺坂の寺にいるという留守電を残した が、それに対する返事は未だにない。気付いていないだけだろうか、或いは桑原れんげに魅入られたのか。
 底知れぬ、暗い夜だった。





 


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