機動駐在コジロウ




百害あってイマジナリーなし



 目に映るものが全て新鮮だった。
 どうということはない地方都市の一角なのに、道子には真新しく感じた。山奥の浄法寺で体が求めるままに働いて いた時はテレビを見る時間も余裕もなかったので、外界の情報から隔絶されていたも同然だった。ネット配信される 新聞にはある程度目を通していたが、興味のない記事は読みもしなかったこともあり、必要最低限の物事しか頭の 中に入っていなかった。まるで脳の新陳代謝が行われたかのような感覚があり、心地良ささえあった。
 真紅のフェラーリ・458は滑らかに峠道を走行して市街地に下りていくと、青々とした田んぼだらけだった景色に 民家が点在するようになり、次第に民家が密集していき、行き交う車の数も徐々に増えてきた。山の側面を貫いて いるトンネルから伸びているリニア新幹線の高架橋が見えてくると、リニア新幹線が走行することによって発生する 電磁波を防ぐための防御板の群れも見えてきた。どこに行きたい、と聞かれ、道子は駅前に行きたいと答えた。
 目的などあってないようなものだった。ただ、道子は外の世界に行きたかった。妄想を切り捨てて身も心も綺麗に 洗い流した自分が社会に適合出来るのかどうか、試してみたいからでもあった。寺坂は道子の少し後を付いて歩いて きてくれ、道子が興味の赴くままに動き回ることを咎めはしなかった。離れすぎた場合は駆け寄ってきて、道子の袖口 を引っ張って諌めはしたが、それぐらいだった。手も肩も腕も掴んでこなかった。あれはきっと、寺坂なりに道子との 距離感を保つためだったのだろう、と後にして思う。キャバクラやソープなどで若さと性を売っている女達には、春を 買う代金に見合った行為を行うのと同じことだ。道子は寺坂に何も支払いはしなかったし、寺坂も道子に対価を要求 することもしなかったから、利害関係自体が成立していなかった。だから、二人の間には越えるべき線も出来て なければ、それを越える理由も意味もなかった。奇妙ではあるが、健全だった。
 その瞬間が訪れたのは、僅かな隙が生まれた時だった。駅前商店街を歩き回っていた道子は、向かい側にある 書店に目を留めた。横断歩道を渡るために信号待ちをして、ちゃんと青信号になったことを確かめ、対向車が来て いないことも確かめ、歩き出した。寺坂は道子の一歩後ろを付いてきていた。初夏の眩しい日差しを受けて白んだ アスファルトと白線を踏み締め、前に進んでいく。発光ダイオードの青信号が光り、仄暗いアーケードの下では書店 の店先に置かれている鉢植えが揺れている。
 次の瞬間の記憶はない。ただ一つだけ覚えているのは、駅前交差点に停車していたトラックが急発進してきた、と いうことだけだった。宙を舞った際に見た空の青さと、肉片混じりの血と、寺坂の絶叫が脳にこびり付いている。
 痛みを感じる暇なんて、なかった。




 目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。
 鮮明ではあるがざらついた視界。良く聞こえるがどことなく鈍い聴覚。手足を動かそうとしても、それがあるという 感覚が返ってこない。息を吸い込んだはずなのに、肺が膨らんだ感覚がない。ない、ない、ない。何もかもがない。 薄暗く、冷たく、寂しい。寺坂はどうしたのだろう。自分はどうなったのだろう。そもそも、何が起きたのだろう。
 疑問と不安を巡らせながら、道子は思い悩んでいた。すると、視界に何者かが入ってきた。ピントが合っていない のか、輪郭がぼやけている。目を凝らしたつもりでも、何も変わらなかった。すると、その何者かは道子の目元に手を やって水晶体を外し、別のものを填め直した。今度は目の焦点が合った。そして、道子はその者を捉えた。

「ひっ!?」

 そこにいたのは、ヴォーズトゥフだった。桑原れんげとセットで描かれることが多かった、ヴォーズトゥフそのものの 男が目の前に立っていた。色白で彫りの深い顔に切れ長の目、長い手足とすらりとした体躯を、氷結魔王の衣装で 包んでいた。だが、あれはゲームの中のことだ。プレイヤーキャラクターのうちの一体だ。ポリゴンで描かれただけ の実体のない存在だ。等身を高くしてかなりリアルな絵柄で描けばこうなるかもしれないが、ゲームの中では三等身 のキャラクターだった。だから、これはヴォーズトゥフの格好をしただけの人間だ。

「やっと助け出せたよ、君を」

 男は道子に触れてきたようだったが、道子には感じ取れなかった。

「あんた、誰……?」

 身動き一つ出来ないため、その手を払うことすら出来ない。男は過剰に装飾が付いた手袋で、道子を撫でる。

「私だよ、解るね」

「知らない、あんたなんか知らない!」

「そんなわけがないだろう。私と君は、共に幾度も世界を救ったではないか」

 冷酷さの内に秘めた一抹の優しさ、という設定通りにヴォーズトゥフは片頬を持ち上げて笑みを作る。それから、 男は桑原れんげと潜った高レベルダンジョンの話、プレイヤー同士で交流を持った時の話、運営側のトラブルで ゲームが一時中断していた時に交わしたチャットの話、ゲーム内で結婚し、夫婦ごっこをしていた話。恍惚として 語る男の姿から目を逸らそうとしても目は動かず、耳を塞ごうとしても手が上がらず、拷問も同然だった。
 ようやく逃げ出せたはずなのに、切り捨てたはずなのに、本来あるべき自分に戻れたはずなのに。それなのに、 ほんの一瞬の油断に付け込まれてしまった。寺坂と両親には迷惑を掛けてしまった。こんなことなら、あの時、魔法 少女アニメの映画なんて観るんじゃなかった。そんなものには興味がないと振り切って、児童館から出て家に帰る べきだった。アニメなんて子供っぽいと見切りを付けて、部活動にも参加して同級生と会話すべきだった。自宅から 外に出て青春を謳歌するべきだった。ネットゲームなんかプレイするべきではなかった。そのどれか一つさえ免れて いれば、きっと今頃は。涙が出そうになったが、道子の視界は歪まなかった。ただ、ピントがずれただけだった。

「不安にお思いでないよ、我が愛しの神聖天使」

 男は道子の視界の下に指を添え、ねっとりと語り掛けてくる。

「君は長い間、悪魔に魅入られていたんだ。肉の器に捉えられていた魂を解放し、本来の姿に戻してあげるには、 少々手荒な手段に及ぶ他はなかったのだ。どうか許しておくれ。人間界における仮の肉体は、君の神をも屈する 力を秘めた魂を収めておくには脆弱すぎた、それ故に」

 男は道子の目の前に、一枚の写真を提示した。大型トラックに轢かれ、無惨に轢死した少女がいた。変な方向に 捻れて傷口から頸椎が覗いた首、折れた肋骨の間から肺が零れた胸、ぬめぬめとした腸が垂れ下がる破れた腹、 根本から引きちぎれた手足、赤黒く光る血溜まり。そして、それに駆け寄ろうとする寺坂の姿が真上から撮影されて いた。間違いようがなかった。これは道子の死に様だ。
 気も狂わんばかりの悲鳴を上げ、道子は視線を外そうとするが、男はそれを力任せに押さえてくる。写真を目に 押し付けられ、ねじ込まれ、強引に画像を見させられる。嫌だ嫌だと何度叫んでも、男はまるで聞き入れようとしない どころか、嬉々として桑原れんげの設定を羅列している。神聖天使の自己再生能力は無限に等しい、だの、肉体が 滅びても精神体は不死身だから他人に憑依して生き長らえる、だの、どれもこれも馬鹿げている。それは過去に 道子が作り、声高に喋っていた設定だった。だが、そんなものを真に受ける人間なんて。

「平行世界にこそ真実がある。私にはそれが見えるのだよ」

 神託の針だ、と言い、男は懐から革製のケースを出して、その中から針を取り出した。道子の目には、どこにでも ある縫い針にしか見えなかった。長さも十センチ足らずで、裁縫箱の針山に突き刺さっているべき代物だ。妙な点が あるとするならば、糸通しの穴が空いていないことだった。

「これはさる人物から入手したものでね。この針は、神の意志を宿している」

 男はそれを道子に向け、一際楽しげに笑う。

「だが、私は魔性に堕ちた身。針を使うに値しない力が細胞の隅々にまで宿っている。よって、この神秘の力は神聖 天使たる君が持つべきだよ、れんげ。さすれば、この世は浄化され、真実の愛と幸福が花開くだろう」

「あんた、頭おかしいよ!」

 男の妄言に耐えかねて道子は叫ぶが、その声は音割れした。

「私を本気にさせたのは君ではないか、麗しの天使。悪魔と人の間に産まれ落ち、魔界と天界の狭間にて終わりの ない戦いに明け暮れていた私に愛を教え、慈しみを伝え、温もりを授けてくれたではないか。故に、今こそ私は君に 報いなければならない」

 そう言いながら、男は何かの容器の蓋を開けた。蓋の内側は薄黄色い液体で少し濡れていた。男の手が上がり、 針を抓む指が進んでいく。それが視界から消えて箱の中に差し込まれた瞬間、道子は痙攣した。かのような感覚が 全身を駆け抜け、言葉さえも出せなくなった。男は箱の蓋を閉め直し、にやついている。脳内に差し込まれた異物から 電気信号が迸り、神経伝達物質を焼け焦がしながら、膨大な情報を流し込んできた。
 その時、設楽道子は死んだ。




 ふと気付くと、道子はどこでもない空間に浮かんでいた。
 そして、自分が何者でもないことも認識していた。今の自分はただの情報の固まりであり、設楽道子という人間が 完成させた人格の残滓であり、膨大な情報が生み出した幽霊のような疑似人格なのだと。外界の様子は解らず、 デタラメな流星雨のように四方八方から襲い掛かってくる電波と情報の嵐をぼんやりと見つめていた。見覚えのある 映像が浮かんでいる電波を見つけたので、拾ってみると、そこにはヴォーズトゥフの姿があった。
 人形だらけの白い部屋の中心で、ヴォーズトゥフは脳が浮かぶ箱を覗き込んでは汚らしくにやけていた。ヴォーズ トゥフの周囲に設置されている医療設備はサイボーグ手術を受ける人間の生命維持用だ、と誰に教えられるまでも なく悟った。更には、この部屋がハルノネット本社の三十八階にある研究室で男の本名は美作彰であり、ゲーム内 でのプレイヤーネームがヴォーズトゥフであるということも。自分が生み出したキャラクターを愛するがあまりに外見 にも手を加えて整形手術を重ねたが納得出来ず、最終的には自分がデザインした美形の男性型サイボーグボディ に脳を移し替えたということも。その際に、佐々木長光なる人物がハルノネットに売却された謎の針を脳に差すと いう人体実験を引き受け、多少のハッキング能力を手に入れたことも。その力を使い、桑原れんげとして振る舞って いた過去を捨てた道子を執拗に追い掛けていたことも。浄法寺に住むようになってからは、道子の生活の一部始終 を観察出来なくなったことで余計に執着心が増したことも。あの日、寺坂と道子が親しげに街を歩く様を見て執着心が 煮え滾り、道子を取り戻さなければ桑原れんげが宇宙から消失すると思い込んだことも。
 別の映像を絡め取り、再生してみると、寺坂が法衣が汚れるのも構わずに瀕死の道子を抱き起こそうとしている 様子が映し出された。あの横断歩道に設置されていた監視カメラだ。だが、寺坂が道子を抱き上げると道子の首が 外れて転げ落ち、一際激しく出血が起きた。寺坂はアスファルトに叩き付けられそうになった道子の首を受け止め、 遺体を守ろうとすると、美作が遠隔操作していたサイボーグ体であるトラックの運転手が下りてきて、道子の頭部を 無造作に運転席に運び入れた。生命維持装置に道子の首を接続すると、トラックは何事もなかったかのように走り 去っていった。後に残されたのは、原形を止めていない道子の遺体を抱き締めている、寺坂だけだった。

「ああ……」

 得も言われぬ感情が道子を満たすと、周囲の空間が波打った。電波も波打ち、揺らぎ、波紋が広がる。途端に 周囲がざわつき、通信障害、読み込みエラー、通話が切れた、との報告が矢のように降ってきた。それを受け、道子 はようやく自分の現状を認識した。道子は肉体的に死した。だが、精神体とも言うべき意識はあの針の力によって 切り離され、電脳の世界に閉じ込められたのだと。
 そして、あの魔法少女アニメを原作としたオンラインゲームのメインサーバーであり、ハルノネットのネットワークを 支えているスーパーコンピューターであり、道子の脳に突き刺された針の正体は、アマラという名の遺産なのだと。 佐々木長光なる老人が所有する遺物の中の一つであり、異次元宇宙に接続して量子レベルで演算を行う恐るべき 情報処理能力を持つ無限情報処理装置なのだと。その役割は炭素生物に演算能力を与え、異次元宇宙に意識を 接続出来るような感覚と概念を授け、知的生物の自我を一括管理するための装置なのだと。

「桑原れんげ」

 情報の波に揺られながら、道子は架空の自分の名を呟いた。すると、アマラは得意げに教えてくる。桑原れんげの 姿と性格と設定が気に入ったから、その姿を借りて現実に現れてやる、と。だが、そのためにはアバターが必要 だったので、美作彰の脳に接触した際にサイボーグ技師としての才能を引き上げると同時に現実を認識するため の能力に少々手を加え、桑原れんげと設楽道子を同一視させて執着させたのだと。けれど、現実での力加減がよく 解らなかったから、うっかり道子を轢き殺してしまったのだと。だから、脳だけを回収させてサイボーグ化するように 仕向けたのだと。一から十まで明るく喋るアマラは、幼子そのものだった。
 けれど、それはいずれ成長する。道子の人格を喰い、記憶を喰い、経験を喰い、電脳の世界に囚われた道子を 取り巻く電波を拾い、情報を弄び、メモリーを囓りながら、肥え太っていく。アマラが確固たる自我を持つまでに成長 してしまえば、その時はアマラは己の機能を認識し、立場を理解し、道具としての役割を果たそうとするだろう。
 そうなれば、人間の根幹が失われてしまう。世界はそう簡単には滅びはしないが、砂の粒を一つ一つ裏返すよう に価値観をねじ曲げていけば、人類にとって良くないことになるだろう。種としては生存していくだろうが、自分と他人 の境界がなくなってしまう。アマラは、全ての知的生物の意識を繋げてしまうのだから。
 それを誰かに知らせられるのは、防ぐことが出来るのは、道子だけなのだ。自分が選ばれたのだ、などとは微塵 も思わない。厄介な出来事に巻き込まれた自分の不幸を呪うつもりも毛頭ない。これが運命なのだと妥協することも 一切ない。だが、アマラを阻むべきだと解っていた。そして、人間として生き返って、今度こそ街で遊びたい、と。
 あまりにも稚拙な憧憬ではあったが、自我を造り始めたばかりのアマラには理解も処理も出来なかったらしく、 電子的な拘束が緩んだ。すかさず道子はあらゆる情報網を辿り、巡り、あの場所を見つけ出した。
 浄法寺だった。ご本尊の前には似付かわしくない大型テレビとゲーム機の散乱する本堂で、酒瓶に囲まれている 寺坂は血の染み付いた法衣を睨み付けていた。時折、畜生、と腹立たしげに毒突いては酒を呷っている。道子は 少々躊躇ったが、意を決して大型テレビの無線LANに侵入した。テレビの電源を入れてから、立体映像として認識 出来るように外見の情報を調節してから、ホログラフィーを投影させた。

『あの……』

 恐る恐る寺坂に話し掛けると、寺坂は口元に運びかけていた缶ビールを落とし、盛大に畳に零した。

「お」

 それから、長い長い間があった。道子がはにかむと、我に返った寺坂が詰め寄ってきた。

「みっちゃん! そうだよな、みっちゃんだよな!? なんでそんな格好してんだよ!?」

『ええと、詳しく説明すると長くなるから、要点だけ掻い摘んで説明すると……』

 道子は思考に流し込まれたばかりの用語を使いこなせているかが心配だったが、ヴォーズトゥフの正体と遺産で あるアマラの能力と目的、アマラに生まれたばかりの自我について説明した。寺坂は次第に酔いが冷めていったのか、 真顔になって道子の話に聞き入っていた。説明が一段落すると、寺坂は舌打ちした。

「俺の想像よりも遙かに悪かったな。あのクソ爺ィめ、こうなると解ってアマラを売り払やがったな?」

『ごめんなさい、寺坂さん。私がもっと気を付けていれば』

 道子が項垂れると、寺坂は右腕を振った。包帯が緩んでいて、触手が何本か零れ落ちた。

「いいってことよ。俺も一瞬気が抜けちまったんだ。あと、みっちゃんの首から下はちゃんと荼毘に付しておくから、 安心してくれよ。遺骨になったら骨壺に入れて、この寺に置いておいてやる。ずっとここにいていいんだ」

『その名前は、桑原れんげにしておいてくれますか?』

「そりゃまたどうして。みっちゃんはみっちゃんだろ」

『桑原れんげにしておけば、アマラは見逃してくれると思うんです。設楽道子のままだったら、アマラが鬱陶しがって 浄法寺ごと寺坂さんを葬り去ろうとするかもしれないから。だから』

「解ったよ。だが、俺の中には桑原れんげはいない。みっちゃんは最初から最後までみっちゃんなんだ」

『……ありがとうございます』

 その気遣いに道子がちょっと泣きそうになると、寺坂はへらっとした。

「気にするな、俺とみっちゃんの仲じゃねぇか。で、これからどうする」

『私はこっち側から出られそうにないから、アマラが悪いことに使われないように、封じ込めておこうと思うんです。 私自身がアマラと桑原れんげに関する記憶をなくせば、アマラも身動きが取れなくなる。アマラは桑原れんげっていう 概念を得て初めて自我が完成するから、それさえなくなればなんとかなるはず。ネットに散らばっている桑原れんげ 関連のデータも一切合切消していきます。そうすれば、きっと上手くいくから』

「頑張れよ、みっちゃん」

『うん。寺坂さんも』

 道子は笑い返すだけで精一杯だった。次の瞬間、道子はアマラによって電脳世界に引き摺り戻された。しかし、 必死に抵抗し、ネットワークを利用して引き上げた演算能力でアマラを抑圧し、その隙に行動に出た。まずは自分の 脳に手を加えて過去の記憶を全て消し、桑原れんげに関するデータを保存しているパソコンや携帯電話などを全て ハッキングして削除に削除を繰り返し、アマラが桑原れんげに成り切るために必要な土壌を壊し尽くした。
 やるべき事を終えた後、道子は再び目覚めた。ハルノネットのサイボーグであり、会社に仇を成す者達を処分 する工作員として。直属の上司となった美作彰に関する記憶も失っていたため、憎悪も嫌悪も覚えず、一定の距離 を保ちながら裏工作に明け暮れていた。アマラの存在は認識していたがその用途も意図も忘れていたため、使う ことはなかった。三年後のある日、吉岡グループの社長令嬢、吉岡りんねがハルノネット本社を訪れた。
 そして、道子はりんねの部下として引き抜かれた。




 三年ぶりに訪れた浄法寺は、変わっていなかった。
 庭が荒れ放題であることと、車庫に納車されているスポーツカーが増えていることで時間が経過したことを認識 した程度だった。レイガンドーの機体を借りている道子は歩調を緩め、寺の正門を潜った。肩に乗っている美月は、 山道を走り回るロボットの肩の上にいたせいか若干酔っていて、顔色が悪かったので地面に下ろした。美月は多少 足元がふらついていたが、しばらく座り込んで休んでいると調子が戻ってきたらしく、顔色も良くなってきた。

「ごめんなさい、美月さん。こんなことに付き合わせちゃって」

 道子が謝ると、美月は首を横に振る。

「いいの。こっちこそ、レイのこと、大事にしてくれてありがとう。バランサーのクセが解っていた走りだったし」

「さすがはマスターですね。それに気付くなんて」

「へへへ」

 道子が褒めると、美月は照れ笑いした。

「あれ? ミッキーにレイ、なんでここにいるの?」

 不意に、聞き覚えのある少女の声がした。道子と美月が寺の境内に振り返ると、そこには警官ロボットのコジロウ を伴ったつばめがいた。美月が気まずげに口籠もったので、道子は一歩前に踏み出して胸に手を当てた。

「驚かせてごめんなさい、つばめちゃん。私はレイガンドーじゃなくて、訳あって彼のボディを借りているんです。寺坂 さんに伝えてもらえませんか。設楽道子が戻ってきたって。そう言ってもらえれば、解ってくれるはずです」

 夜露が残っていた草の葉が垂れ、雫が地面を叩いた。つばめはしばしの間言葉を失っていたが、コジロウに道子を 見張っておいてくれと命じてから本堂に駆け戻っていった。美月とコジロウの視線を浴びながら、道子は境内の 空気を吸い込んでみたが、生憎、ロボットの吸排気フィルターでは朝露の匂いが解らなかった。
 また彼に会えると思うと、嬉しくなった。





 


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