機動駐在コジロウ




窮鼠、ネットワークを噛む



 ハルノネット本社の地下室は、異世界だった。
 それを見た途端、つばめはやる気が失せかけた。金を掛けるところを根本的に間違えている。地下一階は至って 真っ当な作りだったのだが、スーパーコンピューターを収めている地下二階以降はダンジョンに変わっていた。内壁 には赤茶けたレンガを貼り付けてあり、床は石畳で、LEDが炎の代わりに点灯するロウソクが立てられている燭台 が等間隔に壁に作り付けられていて、剣と魔法の世界そのものだった。おかげで全体的に薄暗く、足場も良くない ので転びかけたのは一度や二度ではなかった。
 先頭を行くのは道子、その次につばめ、寺坂、コジロウの順番で狭いレンガ造りの地下道を歩いていると、実際に ゲームの中に入り込んだかのような錯覚に陥りかける。その感覚自体が桑原れんげが仕掛けた罠である可能性が 高いので、つばめはとことん冷めていることに決めた。日頃からゲームで遊び呆けている寺坂は楽しいらしく、地下道 の完成度の高さに歓声すら上げていたので、つばめはその都度冷淡に言い捨てた。

「モンスターなんて出てこないからね? てか、そもそも寺坂さんがそっち側だからね?」

「馬っ鹿、俺はリアル僧侶だから回復魔法全般が扱えるんだよ。この中で一番役に立つジョブなんだよ」

 寺坂は子供っぽい文句でつばめに言い返してから、道子の背に声を掛けた。

「で」

「で、って、ああ、そうですね。ダンジョンの入り口から六十三歩進んできましたから、この辺りに……」

 先頭を歩いていた道子が立ち止まったので、つばめも足を止めた。

「何かあるの?」

「ええ。ちょっと面倒なものが」

 道子は右側の壁のレンガに触れ、ボタンを押す要領で叩いた。数秒後、電子音が響いた。

「これで第一のトラップは解除されました。次はアイテムが必要なんですが、それを取りに行くためには三十七歩先の 地点にある隠し扉を開けて鍵を手に入れて、その鍵を使って地下牢獄にある宝箱を開けて……」

「まどろっこしーい。いつもそうやって地下室に入っていたの?」

「ええ、まあ。セキュリティの都合もありましたし」

「よくもまあ、誰からも文句が出なかったもんだなぁ。そもそも、こんな作りに設計させたのはどこの誰? 社長?」

 つばめが不満を漏らすと、寺坂は触手で壁を軽く叩いた。乾いた音がした。

「美作彰だけじゃなく、社長やら重役も桑原れんげに思考を乗っ取られていたんだろうさ。そうでないと、色々と説明 が付かないことが多すぎる。だが、今はそいつを調べ上げている時間はないし、俺達の仕事じゃない」

「そりゃそうだよね。でも、このダンジョンに付き合う義理はないよ。ねえ、コジロウ」

 つばめはコジロウを手招くと、コジロウはつばめの背後にやってきた。

「所用か、つばめ」

「地下室の構造は把握出来る?」

「設楽女史から譲渡されたハルノネット本社の見取り図を記憶している」

「じゃ、ビルが壊れないように壁をぶっ壊してよ。狭いし、暗いし、段取り悪いし、嫌になっちゃうから」

「了解した」

 すぐさまコジロウが拳を固めて振りかぶると、道子が慌てた。

「壁の中には配線があるんですよ、それが切れてしまうとコンピュータールームの電圧が落ちてしまいます!」

「だってさ。配線を切らないように壊せばいいんじゃない? 出来るよね、コジロウ」

 つばめが命令を訂正すると、コジロウはゴーグルアイから光を放って壁を走査し、構え直した。

「可能だ」

 そう言い終えた直後、警官ロボットは銀色の拳でレンガの壁を破壊した。気分台無し、と寺坂がぼやいていたが、 つばめは無視した。敵に辿り着くまでにいちいち手順を踏まなければならないなんて、時間の無駄だ。ゲームの中 ではそれが楽しみの一つなのだろうが、生憎、これは現実だ。そして、戦う相手は妄想を糧に生まれた電脳世界の 疑似人格なのだから、手っ取り早く済ませるに限る。これまでの経緯が面倒臭かったのだから、尚更だ。
 コジロウは壁に開けた大穴を通り抜けて隣の通路に入ると、周囲を見回して走査した後、頷いた。つばめは壁の 破片を跨いで隣の通路に入り、寺坂と道子を急かした。二人は釈然としていない様子ではあったが、効率がいいに 越したことはないと解っているので文句は言わなかった。
 壁を壊し、機械仕掛けのモンスターを文字通り一蹴して破壊し、ややこしいトラップを破壊し、破壊し、破壊し尽くし ていった結果、三人と一体は地下ダンジョン内を直線移動していた。途中で足を止めて振り返ってみると、コジロウ が壁を破壊し始めた地点までが真っ直ぐに見通せた。つばめが命令した通りに配線には掠り傷すらも付けていない らしく、壁の内部から垂れ下がったケーブルからはヒューズは飛んでいなかった。さすがコジロウ、とつばめは彼の 背を見上げて感嘆し、ついでに惚れ直した。元々惚れているのだから、乗算したようなものではあるが。
 ものの十数分で、つばめ達は地下四階に到着した。どの階も階段がバラバラな場所に設置されているので、律儀 に地下ダンジョンを通っていったとなれば小一時間では済まなかっただろうが、ゲームではないのでいくらでも融通 が利く。地下三階は配線と配管が複雑に入り組んでいたので、コジロウが壁を破壊するペースが少しばかり落ちた ものの、大した問題ではなかった。やたらと古めかしい装飾が施された地下四階に通じる階段を下り、地下四階に 通じるドアの前にやってきたつばめは、牙を剥いた怪物が大口を開けているドアを仰ぎ見た。

「ねえ道子さん、これってカードキーとかで開けるの?」

 つばめが道子に問うと、道子はドアの右脇に設置されているカードリーダーとテンキーを示した。

「ええ、そうです。でも、きっと桑原れんげがパスワードを変えているだろうから……」

「じゃ、コジロウ、これもお願いね」

「了解した。破壊する」

 コジロウは石造りに見えるように塗装されたドアの前に立つと、腰を捻り、右腕を振りかぶった。回転を加えて勢いを 乗せた拳がドアを抉ると、外れ、内側に倒れた。地下四階の内部からは、ぞっとするほど冷え込んだ空気が流れ 出してきた。機械の唸りも聞こえてきて、青白い光がそこかしこに灯っている。道子は真っ先に中に入り、ドアの 左右の壁を探ってスイッチを押した。途端に蛍光灯が発光し、大型の筐体が部屋全体を埋め尽くしている様が露わに なった。これがハルノネットが所有するスーパーコンピューターであるとみて、まず間違いなさそうだ。

「ここ、なんでこんなに寒いの?」

 冷房の強さに耐えかねたつばめが二の腕をさすると、道子が説明してくれた。

「コンピューターは稼働中に大量の熱を発しますから、冷まさないと熱暴走を起こしてしまうんです。だから、こうして 冷却しておかなければならないんですよ。でないと、フリーズしてしまったりしますから」

 詳しい説明はまた後日に、と言いつつ、道子は背中に担いできた大型の外付けハードディスクドライブを下ろして 頸椎からケーブルを外し、筐体に接続させた。

「私とこの外付けHDDの情報処理能力では量子アルゴリズムを全て変換することは出来ませんが、インサーション ソートを構成しているプログラムを書き換えて、作用を反転させることは出来ましたから、改変プログラムをこれから スーパーコンピューターにインストールしていきます。アマラの所在を割り出すための作業も平行して行えればいい んでしょうけど、そこまでやるとこのボディが熱暴走してしまいますから……」

「桑原れんげは俺達の工作活動を妨害してくる様子がねぇなぁ。意外だな」

 天井を仰ぎ見た寺坂が不思議がると、つばめは独りでに動き出した防火扉を指し示した。

「いや、そうでもないみたい」

 破壊されたドアの代わりに防火扉が閉まり、施錠された。そればかりか、更にはシェルターと見紛うばかりの隔壁が 下りて完全に封鎖された。隙間さえなくなり、あの仰々しいダンジョンも遠のいた。寺坂は少しばかり呆気に取られて いたが、動揺もせずに笑い出した。肝の据わった男である。だが、つばめは危機感に駆られた。

「今、この中にガスとか水を流し込まれたらアウトじゃない?」

「その前に作業を完了すればいいだけのことだ。万一の場合は、本官が対処する」

 コジロウの力強い言葉に、つばめは不安が紛れて口角を上向けた。

「うん、だよね」

「んじゃ、アマラを探すとするかねぇ。どうせこの辺にあるだろ」

 寺坂が見通しの悪い室内を見渡すと、コジロウも周囲を走査した。

「前方十七メートルの地点にサイボーグを発見、及び確認。アマラの反応も確認」

「何体いる?」

「一体だ」

「それぐらいだったら、俺一人でどうにでもならぁな。さくっと手に入れてくる」

 みっちゃんを頼むぜ、と言い残し、寺坂は筐体の間を駆け抜けていった。道子は作業に集中しているのか、寺坂を 見送ることすらせずに押し黙っている。つばめは少々心配になったが、寺坂も常人ではない。触手を使えば大抵の ことは凌げるだろうし、相手が美月のような真っ当な歓声の持ち主であれば、戦う前に触手に臆して逃げ出してくれる はずだからだ。黒いスーツ姿の背中がドミノのように並んでいる筐体の影に隠れてから程なくして、その背中が突如と して吹き飛ばされた。天井に激突した寺坂は蛍光灯を数本割ってから筐体の上に落ち、咳き込んだ。

「だ、大丈夫!?」

 つばめが駆け寄ろうとすると、寺坂は左手でつばめを制してきた。

「大丈夫だ、どうってことねぇ」

 冷房の風に混じり、つんとした血臭が流れてきた。黒いスーツの布地が破れてワイシャツには血が滲み、右腕の 根本に巻き付けていた包帯も千切れたのか、細切れの布が袖口から滑り落ちてきていた。筐体と天井の間にある 狭い空間に中腰で立った寺坂は、サングラスを外して胸ポケットに差し込んだ。吊り上がった目元は研ぎ澄まされた 刃の如く、鋭い光を帯びている。口角を弓形に持ち上げた寺坂は、一点を見据えた。

「俺にやらせてくれ」

 その語気には、有無を言わせぬ迫力が宿っていた。つばめはコジロウに振り返るも、命令出来ず、その場からも 動けなかった。一乗寺と連んでいる時の幼馴染みの少年のような態度からも、美野里の気を惹こうと躍起になった 時の表情からも、スポーツカーを乗り回して悦に浸っている様子からも懸け離れていたからだ。声も表情も荒らげずに 余裕を保っている様が、一層寺坂の怒りの強さを感じさせる。つばめは浅く息を飲んだ。

「よくぞここまで辿り着いた、などという陳腐な賞賛を贈ることすら疎ましい」

 筐体の影から、一人の男が立ち上がる。夜の闇を切り取ったかのような暗黒のマントに濁った銀色の甲冑、邪竜 を模した兜を身に付け、腰には西洋剣を携えていた。長身の男の外見は恐ろしく整っていて、目鼻立ちも肌の色も 日本人離れしている。だが、それは不思議でもなんでもない。なぜなら、男自身が等身大のフィギュアのようなもの であるからだ。この男こそが道子の人生を歪めて命を蹂躙したヴォーズトゥフであり、美作彰その人だった。
 つばめは道子を隠すために後退し、コジロウも道子を守る姿勢を取った。寺坂は現代日本には似付かわしくない 格好をした男を睨み付けていたが、触手を解放してうねらせた。

「ああ、そうかい。俺もお前みたいなキモオタな童貞野郎には褒めてほしくねぇな」

「穢れた魔物め! 貴様さえいなければ、神聖天使は堕天せずにいたものを! リオート・ヴァルナー!」

 美作は剣を抜き、振り上げてきた。が、寺坂はその場から動きもせずに触手を放ち、美作の手首を戒める。

「ダメだダメだ、なっちゃいねぇ。大振りしすぎなんだよ」

「この私に触れるなぁあああああっ!」

 美作は寺坂を蹴り付けて脱そうとするが、寺坂は無遠慮に振り上げられた足を掴んで捻り、床に叩き付けた。

「俺だって大した腕じゃねぇんだぞ? 一乗寺の奴が教えてくれた適当な格闘術しか知らねぇんだよ」

「一度ならず、二度までも……。だが、私はまだ負けたわけではない!」

 美作は長い銀髪を振り乱しながら起き上がるが、寺坂はへらっとした。

「お前ってさ、本当に童貞だよなぁ」

「ええい黙れ! そのような言葉、神をも屈服させた私を惑わせることなど! アルマース・ラヴィーナ!」

 と、言いつつも、美作の整った顔には明らかに動揺が現れていた。でたらめに両手剣を振り回して寺坂に攻撃を 仕掛けようとするが、寺坂は軽い足取りでそれらを全て避けていった。作り物の両手剣は壁や筐体に傷を付けては 耳障りな金属音を立て、美作の必殺技と思しきセリフを掻き消した。

「いつまでごっこ遊びしてんだよ」

 頭上に振り下ろされた両手剣を絡め取った寺坂は、それをぞんざいに投げ捨てた。

「私は世界の真実を知っている、ただそれだけのこと。下劣な魔物には到底解るまい、高位次元に住まう者の苦悩 は宇宙の深淵よりも深いのだ。この世界は紛い物だ、神聖天使が存在する高位次元にこそ現実は存在し、全人類を 救済せんがために私と彼女はこの世界に堕とされたのだ。故に、私はその責務を全うすべく、人間に姿を窶して正体を 隠し、暗躍してきた。彼女もまた同様だった。だが、彼女は慈愛に満ちているが故に人間への憧憬を抱いてしまった。 挙げ句の果てに翼を捨て、猥雑な人間社会に穢されてしまった。だから、私は彼女を!」

 美作は奇妙な笑顔を顔に貼り付け、馬鹿げたことを捲し立てる。つばめは冷房とは異なる寒気を覚えてコジロウ に縋り付くと、コジロウはつばめの肩を支えてくれた。

「お前、それ、本気で言っているのか?」

 寺坂は触手を曲げて美作を引き寄せ、額を突き合わせると、美作は短く悲鳴を漏らした。素の声だった。

「ひ」

「中二病も大概にしやがれ!」

 寺坂は触手をしならせて美作を壁に叩き付け、ぐ、と力を込める。仰々しい格好をした男の体に絡み付けた触手が 歪み、見た目は派手だが実用性が皆無の鎧が折れ曲がり、落下した。

「そりゃ俺だって、好きな女と面と向かって話すのは気合いがいるさ。風俗の姉ちゃん達は割り切っているから俺も 割り切っていられるんだが、心底惚れた女は別だからな。けどな、その女もれっきとした人間であって、当人の人生 があるってことを忘れちゃいけねぇんだよ。それが解らねぇから、童貞だっつってんだよ」

 美作の首に巻き付けた触手を捻ると、ごぎ、と鈍い音がしてシャフトが折れた。

「思い通りにならねぇのがいいんじゃねぇか、人生ってのは。増して、それが女であれば!」

 抉れた壁から引き抜いた美作に遠心力を加えた運動エネルギーを与え、奥の壁に再び叩き付ける。

「最高にそそるってもんよ」

 壁の破片が舞い上がり、僅かに辺りが白む。寺坂は挑発するように触手を波打たせるが、頸椎のシャフトを損傷 した美作は身動き一つしなかった。寺坂は悠長な足取りで美作に近付くと、うう、ああ、と力なく呻いた男を見下ろして いたが、殺す価値もねぇ、と呟いて止めは刺さなかった。

「男を脱がすのは趣味じゃねぇんだけどな」

 寺坂は美作の衣装の間に触手を滑り込ませると、一息で鎧と服を引き剥がしてしまった。見たくもないものを見る のは嫌だったので、つばめはコジロウの背中に顔を埋めた。衣装を引き裂き、金属に見えるような風合いの塗装が 眩しい合板の甲冑を割り、現実では付加価値のない装備品を一つ一つ壊していく寺坂に、美作は唸る。

「やめろ……やめてくれぇ……」

「お前はみっちゃんに付き纏うのを止めたか? 止めなかったよな?」

 合成樹脂製の宝石を触手で握り潰し、撒き散らす。

「やっと、やっと、私は理想の自分に有り付いたんだ」

 今にも泣きそうな声を出した美作に、寺坂は辛辣に言い放つ。

「だからって、赤の他人にクッソ下らねぇ妄想を押し付けていいのか? 良くねぇよなぁ?」

「アマラの力は得られたが、選ばれたのは私ではなかった……。だから、アマラが選んだ彼女を手に入れようと」

「選ぶ選ばない、ってなんでそんなに偉そうなんだよ、お前もアマラも。優越感がねぇと息も出来ないのか?」

「だが、彼女は落ちた、本物の神聖天使になれる資格を得ていたのに! 外見の醜悪さなどサイボーグ技術でどう にでもなる、量子宇宙とこの宇宙を反転させられれば彼女は女神たり得たのだ! だが、あの女は屑と会話した、 この私を差し置いて貴様のような屑の元に逃げ込んだ、屑のくせに天使を惑わした、屑のくせに屑のくせに屑のくせに 屑のくせに屑のくせに!」

 顔を歪ませて口汚く罵倒してきた美作を、寺坂は心底蔑んだ目で見下ろした。

「それが本音か。だからって、みっちゃんを轢き殺して脳みそだけ盗んでいいわけねぇだろ、屑が」

「天使は穢れたんだ! 貴様のせいで! だから天使を転生させて浄化するにはあれしか方法がないと、アマラ が私に命じたのだ! アマラは絶対だ、アマラこそ女神だ、そのアマラに選ばれていたからこそ彼女は天使だ!」

 噛み付かんばかりに喚き散らしてくる美作に、寺坂は顔を背ける。

「みっちゃんは良い子だが天使でもなんでもねぇよ。それはお前の脳内にいるダッチワイフだ、理想の女なんてもんは 男の頭の中にしかいねぇし、胸がでかいわりに腰が五十センチ台なんつーふざけたスリーサイズの女はリアルには いねぇし、ある程度は体重がねぇと骨と皮だしよ。で、お前、知っているか? みっちゃんのスリーサイズ」

「私は神聖天使を守護する使命を帯びたがために天界へと導かれた魔王だ、天使について知らぬことはない!」

「でも、私はあなたのことなんて知りませんでしたよ?」

 不意に、道子が作業を中断して会話に割り込んだ。美作は目を剥き、道子を凝視する。

「……まさか、君は」

「かつてあなたが殺した女であり、過去の自分に再び殺されかけた女です。さぞ楽しかったことでしょうね、私の人生 を蹂躙して独り善がりな妄想を押し付けて執着するのは」

 道子は頸椎にケーブルを繋げたまま、美作を見据える。美作は臆し、怯える。

「だ、だけど、君は、れんげはずっと私のことを」

「世間知らずで愚かで打たれ弱かった昔の私が執心していたのは、あなた自身ではなくて、あなたがネットゲームの 中に作り出していたキャラクターの方ですよ。もっとも、あなたが私に執着するようになってからは、ヴォーズトゥフに 対する気持ちもすぐに冷めましたけどね。それなのに、あなたは一体何を勘違いしていたんでしょうね? 私自身は どこにでもいる平凡な人間なのに、何が天使ですか、馬鹿じゃないですか? 美作さん?」

 道子の語気は平坦で、それが一層濃い怒りを感じさせた。美作は整った顔を歪める。

「馬鹿と言ったのか、君をずっと見てきたこの私を馬鹿と言ったのか? そこの屑に毒されたからなのか!? 君も 楽しんでいたじゃないか、アマラの能力を行使して電脳世界を支配していたではないか、それなのになぜ地に堕ちて 愚鈍な人間に成り下がろうとするんだ! なぜあのゲームを止めたんだ! あの中にさえいれば、君と私は永遠に 神にも等しい存在でいられたんだぞ! なぜ桑原れんげを否定するんだ! あれこそ真実の君じゃないか!」

「美作さん。あなた、今年でいくつになりましたか? 確か……三十七歳でしたよね? あのゲームを始めた時点で、 あなたは既に三十四歳だったんですよね? それまでのあなたは何をして生きていたんですか? 恋人の一人 でもいましたか? 友達はいますか? 同窓会には出られますか? 実家に帰れますか? ああ帰れませんよね、 姿形を変えすぎましたし、お姉さんは小規模ながらも一流の重機会社の社長と結婚しましたしね。でも、姪御さんは あなたのことなんて知りませんでしたよ? 存在していたということ自体を知りませんでしたよ? それは一体どうして なんでしょうね? ハルノネットに就職する前は何をしていたんですか? 教えて下さいよ、美作さん」

 道子は美作に据えた目線を揺らがさず、一息に言い切った。美作の動揺は激しくなり、耳が痛くなるほどの絶叫を 上げていた。心なしか、道子の横顔に愉悦が滲んでいた。だが、それを非難出来るはずもない。道子が受けてきた 苦痛に比べれば、言葉で心を抉られることなど針の一差しにも満たない痛みだ。

「それが真実なんです、美作さん。だから、私はあなたが嫌いなんです。どうして、現実を見ないんです?」

 道子が言い捨てると、美作の絶叫は激しさを増した。寺坂は可笑しげに肩を揺する。

「そりゃそうだよなぁ、だってお前って気持ち悪いんだもんなぁ。俺の触手の方がまーだマシだ」

 そして俺もお前が嫌いだ、と寺坂が付け加えたが、美作にそれを聞き取れるほどの余裕はなくなっていた。作り物 の顔からは血の気は引かないはずだが、人工外皮の下の表情を生み出す部品が悲壮感に歪み、唇は泣き出すの を堪えるかのように震え出した。つばめはコジロウの影から美作を窺うが、同情心は全く湧かなかった。そもそも、 同情に値するような男ではないからだ。

「れんげぇ、れんげっ、私を肯定してくれぇ! 君だけは私を否定しないでいてくれるよな、私にはもう君しかいないんだ、 お願いだからここに来てくれ、私を認めてくれ、褒めてくれ、愛してくれぇえええええっ!」

 癇癪を起こした子供のように喚き散らす美作に背を向けて、寺坂はボロ切れも同然のジャケットを脱ぐと、左手で 内ポケットからタバコを取り出して銜えた。寺坂がライターを見つけ出した頃、道子が立ち上がった。

「作業、完了しました」

「で、首尾は?」

 口角の端から紫煙を漏らしながら寺坂が訊ねると、道子は答えた。

「上々です。ですが、一つ問題があります」

「ん、言ってみろ」

 火を灯して煙を深く吸った後、寺坂が問い返すと、道子はぎゃあぎゃあと騒ぐ男を一瞥した。

「ハッキングを行ううちに判明したのですが、アマラはあの男の脳内に……」

 だが、道子の言葉はそれ以上続かなかった。美作は痙攣するように頭を仰け反らせたかと思うと、制御を失った 胴体からヒューズが爆ぜて頭部の外装が開いた。と、同時にブレインケースの人工体液も流出していき、無防備な 脳が外界に曝け出された。更にブレインケースと頭部を繋げているジョイントとケーブルが独りでに外れ、ケースも 全開になり、ぬるりと脳が零れ落ちた。床に叩き付けられた脳はプリンのように崩れ、銀色の針が垣間見えた。

「うげっ」

 つばめはえづきかけたが、根性で飲み下した。アマラに触れて管理者権限を用いて制御下に置かなければ、桑原 れんげが野放しになってしまうからだ。心底気持ち悪かったが、嫌がっていてはここまで来た意味がない。腹に力を 入れてから深呼吸した後、つばめは大股に歩いて美作彰の残骸に近付いた。寺坂も直接触るのは気が進まない らしく、美作が着ていた衣装の破片を使って脳を掻き分けてアマラを脇に避けてくれた。そうやってくれただけでも 充分ありがたかったので、つばめは一層決心を固めた。
 人工体液のなんともいえない生臭さに辟易しながらも、唇を結んで奥歯を噛み締め、つばめはそっと手を伸ばして いった。崩れた脳にまみれた短い針に指を伸ばし、間隔を狭めていく。人差し指の腹を銀色の針に付けようとした、 正にその時。つばめの目の前にアイドル紛いの格好をした少女が音もなく舞い降りた。桑原れんげだった。
 だが、神聖天使の顔には笑顔は貼り付いていなかった。ブレインケースを解放して己の脳を床に落とした美作の 姿を捉えると、サファイアのような瞳からは青い色味が消え失せて茶色に変わった。引き摺りそうなほど長い金髪の ツインテールもカツラが剥がれるように消え、凡庸な黒髪のショートカットに変わり、顔付きも地味になり、服装もごて ごてした派手な衣装から、どこにでもあるセーラー服に変わった。それを見、私の中学時代の、と道子が呟いた。

「どうして……?」

 桑原れんげは神聖天使ではなくなった自分自身を見下ろし、泣きそうな顔をした。

「私は、皆を幸せにしてあげられるんだよ? それなのに、どうして」

 ひぃ、と声を引きつらせ、れんげは仰け反る。道子が仕掛けたプログラムが作動したことで、桑原れんげの概念を 知覚している人間達の感情が好意から嫌悪へと反転し、フィードバックし始めたのだ。つばめもまた、桑原れんげを 直視しているだけで嫌な記憶が次から次へと蘇った。思い出したくない、目にしたくない、辛い、嫌だ、気持ち悪い、 寒気がする、おぞましい、などと、鉄格子が精神に絡み付いたかのように負の感情が噴出する。道子も寺坂もまた 例外ではないらしく、桑原れんげから目を背けている。れんげは頭を抱え、首を横に振り、呻いた。
 電脳の少女の動揺に応じたかのように、明かりが瞬いた。





 


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