ふと気付くと、夜が明けていた。 読み終えた本が周囲に何本もの塔を築いていて、立ち上がるためにはいくつかの塔を崩さなければならないほど だった。長時間集中していたことによる心地良い痺れが脳に広がり、複眼の奥に疲労による疼きが溜まっている。 文字の羅列をひたすら頭に詰め込む快感があらゆる欲望に勝っていたのだろう、今の今まで、空腹も眠気も忘れて いた。伊織は抱えていた両足を伸ばして筋も伸ばすと、固まっていた外骨格がぱきぱきと鳴った。 本の塔を崩しながら立ち上がり、部屋の掛け時計を見上げると、午前七時を回っていた。だが、今日は何月何日 の午前七時なのだろう。閉め切っていたカーテンを開けて付けっぱなしになっていた蛍光灯を消し、窓を開け放ち、 数日ぶりに新しい空気を入れた。雨上がりの柔らかな湿気を含んだ風が触角をくすぐっていき、初夏を感じさせる 朝日が黒い外骨格を暖めてくれた。窓枠に寄り掛かってぼんやりとしていると、ガレージに物音がした。 「んあ」 上体を出して外を窺うと、ガレージの前で寺坂善太郎が鉄屑も同然の愛車の前で打ちひしがれていた。いつもの 法衣姿ではなく黒いスーツを着ていたが、所々が汚れていた。肩に引っ掛けているジャケットの背中には破れ目が 出来ていて、干涸らびてはいるが鉄錆の匂いが触角を掠めた。 「なんかあったん?」 「おー、いおりん。留守番御苦労」 寺坂が力なく挙手すると、伊織は首を捻った。 「留守番? っつーことは何か、お前、出かけたのか?」 「ああ、野暮用でな。一乗寺とつばめちゃん達も来たんだが、気付かなかったのか?」 「いや、全然」 「てぇことは何だよ、俺の蔵書を延々と読んでいたのか? トイレ休憩もせずに? メシも喰わずに?」 寺坂に驚かれ、伊織は爪先で顎を軽く引っ掻いた。 「まー、そうかもしんね」 「で、何を読んだんだよ。漫画かラノベかゲームの攻略本か」 寺坂はスクラップと化したイタリアの跳ね馬を撫でてやりながら、伊織を仰ぎ見た。 「それもちったぁ読んだけど、ほとんどは仏教のやつ。てか、そっちの方が内容が濃くて面白いし」 伊織は本の塔の上から、今し方読み終えたばかりの一際分厚い仏教書を取り、窓の外に掲げてみせた。 「これとか」 「で、なんか悟ったか?」 「んー……。まだ、解んね」 伊織が触角の片方を曲げると、寺坂はにっと笑った。 「そうか! じゃ、待ってろ、メシでも作ってやらぁ!」 フー子ちゃんの供養はまた後だっ、と寺坂は意気込んでから、本堂に隣接した住居に駆け込んでいった。読書に 没頭している間に何があったのかは見当が付かないわけでもないが、それを問い質すのは後でもいいだろう。そう 思った伊織は、部屋中に散乱した本を跨いで脱出を計ったが、手当たり次第に読んでは積み重ねていったせいで 足場はかなり悪くなっていた。それとは対照的に、部屋の壁の三面を塞いでいる本棚は空っぽになっていて、棚の中 には薄い埃が残っているだけだった。血糖値は極めて下がっているが、不思議と空虚感はなかった。 それどころか、心の中が満ち足りている。長い間欲していたものは、もしかするとこれだったのかもしれない。人の 血肉でもなければ暴力でもない、知識と学問だ。伊織の体重を受けて軽く軋む階段を下り、一階に入ると、確かに 寺坂の言った通りの人間の残滓が感じられた。佐々木つばめの匂い、一乗寺昇の匂い、コジロウの匂い、それに 混じって見知らぬ女の匂いと少女の匂い、更にはロボットと思しき機械油の匂いが、廊下の隅に淀んだ空気に僅か に含まれている。雑然とした台所には、彼らが食事をした痕跡もあった。それなのに、伊織は一切気付かなかった。 常人の何十倍も優れた感覚と動物的な戦闘本能を持ち合わせているのに、知識欲に負け、見逃していた。 「本を読み漁るの、楽しかったか?」 スーツからジャージに着替えてきた寺坂は、包帯で触手を戒めている右手に使い捨てのゴム手袋を被せた。 「まぁな」 伊織が返すと、寺坂は冷蔵庫を開けて良く冷えたスポーツドリンクを投げ渡してきた。 「ひとまず、そいつで血糖値を上げておけ。でないと、メシが出来るまで持たんからな。俺の料理は時間が掛かる」 「おー」 伊織はフジワラ製薬が製造元のD型アミノ酸を多量に含んだスポーツドリンクを開け、顎を開いて流し込むと、 久々に摂取した水分が煮詰まりかけていた体液を薄めてくれた。血糖値がじりじりと上がる感覚に神経が波打ち、 読書の快感で忘れかけていた即物的な衝動が燻ってきたが、それを発散したいとは思わなかった。読書の余韻が 台無しになってしまうからだ。寺坂が不器用に料理の支度をする気配を感じつつ、伊織は雨の筋が残っている窓 から中庭を見やった。朝日を受けた草花が、青々とした葉を広げている。 ふと、思い出す。伊織がまだ、普通の人間の振りをして人間の世界に馴染もうとしていた頃の記憶だ。あの頃の 伊織は自分が化け物であることを認めきれず、日々人間の血肉を主食にして生き長らえながらも、普通でいること に固執していた。だから、同年代の少年達と同じように制服を着て、生体安定剤を湯水のように摂取することで人間 への渇望を誤魔化しながら、学校に通っていた。皆と同じものを食べられないのは病気だからだ、と周囲に言い訳 をして給食の時間をやり過ごした。皆と上っ面だけでも仲良くなれば人間に対して食欲が湧かなくなるのでは、そう すれば人間を食べずに済むようになるのではないだろうか、と淡い期待を抱いていたが、成長するに連れて伊織の 肉体は欲望を抑えきれなくなった。だから、高校二年生になったある日、伊織はクラスメイトを喰おうとした。 だから、伊織は学校に通えなくなった。通いたいと思っていたのに、通い続けようと頑張ったのに、肉体が精神を 阻んできた。化け物であることを認識せざるを得なくなり、人生を曲げるしかなかった。 「なー、クソ坊主」 伊織は左前足を伸ばし、朝露と雨に濡れたアジサイの葉を爪先で弾いた。輝く雫が跳ね、転がる。 「俺、学校、行きたいかもしんね」 もう一度、普通の生活を味わえるならば。かすかな期待を込めた小さな呟きは、水気の多い食材を煙が出るほど 熱したフライパンに落とした際に発生した騒音と、寺坂の上擦った悲鳴で掻き消された。はずだったのだが。 「んじゃ、どうにかしてやるよっ、おおう!?」 フライパンから上がった炎に仰け反りながらも、寺坂は快諾してきた。 「や、別に」 本気じゃねーし、と伊織は言おうとしたが、発声されずに胸郭の中に留まった。そう言ってくれるのは、たとえ義理 であっても嬉しいものだ。屍肉喰いとしてではなく、一個の人格を持った人間として扱ってくれている証拠だからだ。 それだけで充分だ、現実にならなくてもいい、と軽い諦観を覚えながら、伊織は台所に背を向けた。 けれど、また学校に通いたい、という願望が膨れ上がっていく。何を馬鹿なことを、期待した分だけ痛い目を見る のは自分じゃないか、人間らしさなんて求められていないから化け物らしく振る舞って生きてきたんじゃないか、との 声が頭の中を駆け巡り、体液の海に浮かぶ内臓がきつく引き絞られる。 ガレージの前で物悲しげに佇む、全壊したフェラーリ・458を一瞥する。あれは本来の役割を全うした末に、道具と して使い果たされた。それが羨ましい。だが、伊織はどうだろう。知性も人格もないただの大量殺人兵器であれば、 こんなことに悩まずに済んだものを。けれど、その悩み自体が疎ましくならないのは、人間らしさが残っていることを 感じられるからだろう。窓を開けて身を乗り出し、触角を上下させながら、伊織は顎を広げた。 久し振りに、笑った。 東京銘菓、ひよ子。 可愛らしい黄色いひよこが描かれた包装紙に包まれた平べったい箱を差し出すと、美野里は笑顔でひよ子の箱を 受け取ってくれた。後でお茶を淹れてくるわね、と言った美野里につばめは笑顔を返してから、本題に入ろうと居間に 横たわる鉄の棺を見やった。遺産の一つである無限防衛装置、タイスウだ。その傍らには間に合わせのサイボーグ ボディに電脳体を収めた設楽道子が正座しており、更にその隣にはコジロウが正座している。 ほんの二三日空けていただけなのに、合掌造りの佐々木家に戻ってくると、得も言われぬ懐かしさに感じ入った。 つばめは太い梁や煤けた天井を見上げて頬を緩めていたが、道子に向き直った。 「それで、あの契約だけど」 つばめは美野里に見繕ってもらった書類を取り出し、道子の前に差し出した。 「こんなところでどうかな? 他の家を掃除して住めるようにするのは手間が掛かるのと、諸々の都合でうちに住み 込みになるけど、道子さんの仕事はアマラとアソウギの管理ってことで。家の仕事はコジロウが大体やってくれるし、 ご飯は自分で作れるから」 「え? 家の仕事、やっちゃダメなんですか?」 道子に残念がられ、つばめは戸惑った。 「え、ええ?」 「だって、私は御嬢様のところではメイドだったんですよ? 御料理の腕前はイマイチかもしれませんし、本物のメイド じゃなくてなんちゃってメイドだったかもしれませんけど、そこはほら、最近のものですけど取った杵柄が!」 身を乗り出してきた道子に、つばめは若干気圧された。 「だけど、アマラの演算能力を使ってアソウギに溶けた人達を元に戻すのは大変だろうし、道子さんも今までの生活が アレだったから、自由な時間が増えた方がいいんじゃないかなぁって」 「それは私の努力でどうにでも出来ますし、自由時間が多すぎてもそれはそれで持て余しちゃいますよ!」 「でも、その」 「つばめちゃんのプライベートゾーンには踏み入りませんから! 引き出しも押し入れも絶対に開けません!」 「だ、だけどなぁ」 及び腰になったつばめはコジロウを窺うが、コジロウは無反応だ。それはそうだろう、彼は自分の仕事が増えよう が減ろうがなんとも思わないのだから。美野里は食い下がる道子の様子を見、言った。 「もしかして、道子さんってメイド服がお好きなの?」 「えっ」 途端に道子は硬直し、少々の間の後に座り直した。赤面こそしていなかったが、俯いた顔には強い羞恥が現れて いたので、美野里の言葉は的を射ていたのだとつばめは悟った。確かに、メイドの仕事をしていればメイド服を着る 口実になるが、メイド服を着るためだけに家事をするのでは何か違う気がする。世の中にはあの制服が着たいから この学校に進学する、この職業になる、という人種もいるだろうが、それでは手段と目的がすり替わってしまう。 「だ、だぁってぇ、可愛いんですよぉやっぱり!」 羞恥のあまりに開き直った道子は、ぐっと両の拳を固める。生身であれば、涙目であろう声色だ。 「人生を軌道修正するために一度は足を洗いましたけどね、私の根っこは未だにガチガチのオタクなんですよぉ! だから、御嬢様の元ではメイドになっていましたし、あの妄想男の部下でハルノネットの工作員だった時はゴスロリ なんて着て戦っていたんですよ! スーパードルフィーみたいな外見のサイボーグボディで拳銃を振り回して戦う、 だなんて中二病の代表みたいなものじゃないですか! でも、でも、私はそれが嫌じゃなかったんですよ! あの男の 存在は今でも嫌で嫌でどうしようもないし、黒歴史の中の黒歴史である桑原れんげは地球をぶん投げてしまいたい ほど恥ずかしいですけど、気付いたんです! 人間、一度覚えた旨味を忘れることなんて出来ないって!」 「……だから、メイド服を着たいがために家事をしたいの?」 道子の熱い語り口につばめが苦笑すると、道子は力一杯頷いた。 「はい、そうなんですよ。だって、メイド服だけだとただの痛すぎるコスプレじゃないですか。でも、家事をしていると、 それは仕事着であってコスプレではないじゃないですか」 「同じことだと思うけどなぁ」 道子の感覚が今一つ解らないつばめの冷めた反応に、道子は我に返った。 「で、ですよねー。一般の方々には……」 「世の中、色んな世界があるわねぇ」 そう言いながら、美野里が湯飲みの載った盆を持って台所から戻ってきた。が、居間に入ったところで躓きかけた ので、すかさずコジロウが立ち上がって盆を受け止めた。美野里は非常に情けなさそうではあったが、コジロウから 盆を返してもらい、三人分の湯飲みを囲炉裏の回りに並べた。つばめは美野里が淹れた緑茶を一口啜ってみたが、 案の定、異様に濃かった。茶葉の配分が未だに解らないのだろう。 「で、結局、ハルノネットはどうなったんだっけ?」 ひよ子の包装紙を開けながらつばめが訊ねると、美野里が答えた。 「桑原れんげの一件は、表向きはネットゲーム用の映像を間違ってニュース映像として配信してしまいましたー、って ことにしちゃったみたい。結構無理があるし、桑原れんげのファンアートとかはそこかしこに残っているから、そう いったデータを地道に削除して証拠隠滅を計っていくつもりみたいよ。株主総会の騒動は死人も出なかったし、被害 は講堂と寺坂さんのフェラーリぐらいだから、一通り捜査した後は政府の圧力で有耶無耶にするんですって。唯一の 犠牲者である美作彰さんは、サイボーグボディの整備不良による事故死扱いにする、って一乗寺さんが懇切丁寧に 教えてくれたわ。守秘義務の範疇ではあるんだろうけどね」 「なんだかなぁ」 つばめはひよ子を取り分けながら、複雑な気持ちになった。つまり、道子の苦悩もつばめの苦労もなかったこと にされてしまうのだ。だが、それでいいのだ。なかったことにならなければ、いつまでも道子は桑原れんげと美作彰 に縛られるのだから。道子は緑茶を一口飲んでから、ひよ子の包み紙を開けた。 「もうしばらくすれば、サイボーグボディの大規模リコールが起きるでしょうが、ハルノネット自体はそう簡単には倒産 しませんよ。ハルノネットが作り上げた通信網の管理を担う子会社を買収して、どさくさに紛れてサイボーグ関連の 技術者を大量に引き抜いて別の会社に転職させ、その会社でハルノネットと同格の事業を行えばいいんですから。 いくらでも誤魔化しが効きますからね。世の中、そんなものです」 道子はひよ子の頭から食べようとしたが、ひよ子と見つめ合い、躊躇した。 「可愛い……。でも、御菓子だし……」 「そういう時は、こう、思いっ切り」 と、つばめが自分のひよ子を真っ二つに割ると、ああっ、と道子は動揺した。 「そんな御無体なぁっ!」 「目が合う前に始末しちゃうんだよ、可愛いからこそ」 ひよ子を頬張りながらつばめが力説すると、美野里はひよ子を後ろから囓った。 「或いは、目が合わない方向から攻めるのよ」 「次からはそうしてみます。まずはこの子を食べてあげないと、御菓子としての本分が……」 ああ、でも可愛いっ、とひよ子と見つめ合う道子の姿に、コジロウは訝しげな視線を注いでいた。つばめは半分に なったひよ子も頬張り、時折渋い緑茶を飲んで口を潤してから、コジロウにもひよ子を一つ渡してやった。もちろん、 彼は食べられないと言ったが、箱に戻そうとはしなかった。つばめの気持ちを汲んでくれたらしい。 「よし、ここは妥協点を探ろうか。道子さんはメイド服を着たい、でも私の方はコジロウもいるし、自分のことは自分で なんとか出来る。でも、道子さんを持て余すのは色々と勿体ない気がするし。ううむ」 つばめは腕を組み、思い悩んだ。が、唐突に思い付いた。 「あ、そうだ! お姉ちゃんの事務所、まだ片付いてなかったよね? だったら、昼間はそっちに行ってもらえばいい んじゃないかな? で、その間はメイド服を着ればいいじゃない。もちろん、公序良俗は弁えてもらうけど」 「え、でも、悪いわぁ。だって、散らかしたのは私なんだし」 美野里は申し訳なさそうに眉を下げるが、道子は深々と頭を下げた。 「それならいいですね、外に出る時は着替えればいいですし! では美野里さん、よろしくお願いします!」 「まあ……つばめちゃんがそう言うのなら。こちらこそ、よろしくお願いします」 美野里は承諾し、頭を下げ返した。道子の仕事の内容については今後も細々と調整していく必要があるだろうが、 ひとまずはこれで落ち着いたと思っていいだろう。これまでの経緯が経緯なので、道子に対しては真っ当な好意を 抱くことは難しいがビジネスライクに付き合うのなら問題はない。紆余曲折を経て実体を持たない電脳体になった とはいえ、敵であったことには代わりはないのだから。私情を挟んで判断を下す辺り、自分はまだまだ甘っちょろい のだとつばめは自覚する。だが、私情があるからこそ、割り切れるポイントが見定められるのだとも思う。 二つめのひよ子に手を伸ばそうとしたつばめに、コジロウが銀色の手のひらにちょこんと載っているひよ子を差し 出してきた。持て余した末につばめに渡すべきだと判断したのだろう。つばめはコジロウとひよ子のアンバランスさ に笑みを零しつつも、コジロウの手のひらからひよ子を受け取り、それを食べた。 白餡の饅頭は甘かった。 12 8/18 |