機動駐在コジロウ




柔よくゴングを制す



 なぜ、戦うのだろう。
 レイガンドーの最終チェックを終えた美月は、機械油に汚れた軍手を外して作業着のポケットにねじ込んだ。肌と いう肌から流れ出してくる汗を首に巻いたタオルで乱暴に拭い、荒く息を吐く。本番が始まる前には着替えておこうと 思ったのだが、整備を始めると次から次へと気になってしまい、結局その時間すらもなくなった。けれど、それでいい のだと思う。ロボットを扱っている人間が、妙に小綺麗な格好をしていたら奇妙だからだ。
 作業着の上半身を脱いで袖を腰で縛り、汗を吸わせるために着込んでいたTシャツを曝した。そうすると、まるで 工場で日々ロボット達を扱っていた父親のような格好になる。ロボット賭博で身を持ち崩す前の父親の背中は広く、 厚く、遠かった。ロボットと人型重機に関することには恐ろしく長けていたものの、家庭には馴染めない人間だった と今にして思う。休日には家族で連れ立って出かけることもなく、美月のことは疎んではいないようだったがあまり重き を置いていないようだった。美月にレイガンドーを宛がったのは、父親なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。だが、 そのレイガンドーを使ってロボット賭博に興じた末、美月を賭け金にしてまでも戦いを求めた。なぜだ。
 なぜ。なぜ。なぜ。その疑問を振り払えぬまま、美月はリングサイドに立っていた。ロボット同士の格闘戦における セコンドとはオーナーと同義語であるからだ。急拵えのリングの周囲にはちらほらと観客が集まっていたが、その中 に転校先の中学校の生徒の姿も見えた。男子生徒が多く、美月を窺っては笑い合っている。

「美月、落ち着けよ。クールに行こうぜ」

 レイガンドーは腰を曲げ、美月の肩越しに顔を寄せてくる。美月は頷き返し、周囲を窺う。

「うん。でも……」

「あいつがいないのが気になるのか? まあ、俺の戦いを見に来るような性分じゃなさそうだしな」

「違うって、そんなんじゃないよ」

 美月が慌てると、レイガンドーは軽く笑う。

「俺はいつだって美月の味方だ。誰に惚れようが、止めもしないし咎めもしない」

「急に色気付いちゃって、もう」

 美月はレイガンドーの軽口に辟易しつつも、そうなのかな、と自問した。どういう経緯かは定かではないが、美月と 同じ家で暮らす羽部に対して少なからず好意は覚えている。爬虫類のような目付きには生理的な嫌悪感をいくらか 感じるものの、腹の底から嫌いだと思ったことはない。頭もかなり良いようで、日々部屋に籠もっては何かの作業に 没頭している。服装は最低最悪のセンスだと解ってはいるが、見慣れてくると面白い。だが、これまで美月は特定の 異性に好意を抱いたことはない。だから、羽部に対する好意が家族としてなのか、年上の友人としてなのか、はては 異性としてのものなのかは定かではなかった。だから、レイガンドーには明確な答えを返せなかった。
 
「レディースッ、アーンド、ジェントルメェーンッ!」

 お決まりの掛け声を上げながら長机に設置されていた実況用のマイクを握ったのは、僧侶の寺坂善太郎だった。 いつもの締まりのない法衣姿なので、実況席には馴染んでいない。美月が唖然としていると、寺坂はマイクのコード を振り回しながら、どっかん、と雪駄を長机に乗せた。

「ドマイナーかつアングラな娯楽であるロボットファイトを、牧歌的極まりない田舎の夏祭りに開催する自治体ってのが まずアレだがよ、そんなアングラファイトを見に来てくれたお前ら! 相当キてるぜ、ロックだぜぃ!」

 寺坂はいつにも増して調子付いていて、観客達は呆気に取られている。というより、滑っている。

「正式な団体もなければリーグもない、ロボット同士のオイルでオイルを洗う戦いは地下で繰り広げられていたのさ。 そう、お前らが生温い布団の中で惰眠を貪っている最中、血と暴力に飢えた人間共が人間同士では成し得ない破壊と 衝撃と快楽を求めてロボット同士を戦わせていたのさぁっ! どうだぁっ、更にロックだろう!」

 むしろメタルだ、と美月は言いたくなったが堪えた。

「だからって、金は賭けるなよ? 賭けたくなる気持ちはよーく解るぜ、俺はそういうのは嫌いだが心情としては理解 出来ないもんでもねぇからな。どうしても賭けるってんなら、その辺の店の喰い物にしておけ。そうしておけば、誰も 損をすることもねぇし、しょっ引かれることもねぇからな。よぉし、俺と約束しろ。いいな、解ったな、ガキ共!」

 寺坂は一層強く声を張り上げると、スピーカーからハウリングが生じた。

「ロボットファイトがアングラでロックな娯楽である限り、俺達と奴らの出会いは一期一会だ! 携帯で動画を撮影 している奴、その程度のヘボな画質でガチの迫力が伝わるとか思い上がるんじゃねぇぞぉ! この瞬間、この一撃、 この技を、その目と脳みそに焼き付けやがれこの野郎! さあてお待ちかね、本日の主役、大本命、戦うためだけに この世に生まれたロボット共の登場だぁああああああーっ!」

 寺坂が煽りに煽ったからか、いくらか盛り上がってきた。

「青コーナーッ! 地方のインディーズリーグに参入して間もないが連戦連勝、初参戦でチャンピオンベルトを手中に 収めやがった常勝のスーパールーキー! その実力はコアでガチなマニアを唸らせ、凄烈な技はリングを震わせ、 見る者全てを痺れさせる、新進気鋭の超新星! その名も、武公ぉおおおおおーっ!」

 大袈裟に思えるほど派手な手振りで、寺坂が右側のコーナーを指し示すと、その方向から一体のロボットがリング へと近付いてきた。黒に赤、武公の文字。美月は唇を噛み締める。

「赤コーナーッ! 知る人ぞ知るアングラの極致、天王寺工場で慣らした腕は折り紙付きどころか百年保証! その アングラもアングラなリングで防衛戦を繰り広げ、常にチャンピオンの座に立ち続けた猛者の中の猛者! 仇敵との タイトルマッチで大敗を喫するも、彼を愛して止まない少女に手によって再び立ち上がった、ロボットファイト界の伝説に して王者こそ! レイ! ガン! ドォオオオオオオーッ!」

 そこまで煽らなくても。美月は気圧されそうになったが、観客達の注目を受けて我に返り、一礼した。レイガンドーは 慣れた様子で手を振ってから、リングを囲んでいるチェーンに手を掛けた。寺坂の煽りがハッタリか否かは観客 達には判別が付けられないらしく、大多数が半笑いを浮かべている。嘘ではないのだが煽りすぎなのだ、と美月は 訂正したくなってきた。レイガンドーと組んで戦うのはこれが初めてなのに、ハードルを上げられすぎた。対する武公 のオーナーでありセコンドでもある人間は、長年ロボットに接してきたであろう年季と風格が感じられる、作業着姿の 中年の男だった。擦り切れて機械油の染みが付いたキャップで目元が翳っているが、その顔には見覚えがあるような 気がする。美月が目を凝らしていると、男は美月を見下ろしてきた。

「戦うからには、覚悟をしておけ。お前の大事な相棒が鉄屑になったとしても、俺を恨むなよ。恨むなら、自分と相棒 の軟弱さを恨むといい」

「……レイは負けません。私の、レイは」

 美月は男を見返し、じっとりと汗の滲んだ手のひらでズボンを握り締めた。そうは言ってみたが、勝てる気はまるで しなかった。自分が強気でなければレイガンドーまでも怯んでしまうかもしれないからだ。レイガンドーと武公は共に リングの中に入り、互いに向かい合ってステップを軽く踏んでいる。レイガンドーはボクシングを主体とした打撃系の 技が得意だが、武公の得意技はよく解っていない。ロボット同士の格闘戦は、基本的には総合格闘技を主体とした ルールで執り行われるものであり、今回のロボットファイトも例外ではない。だから、足技も関節技も適応されるし、 場合によっては金的目潰しもアリだ。レイガンドーはあまり足技は得意ではないが、武公はどうだろう。
 美月は猛烈な不安に駆られたが、リングの中のレイガンドーと目が合った。ゴーグル型のスコープアイを一度点滅 させ、ウィンクしてみせた。美月はぐっと不安を押さえ込むと、強引に頬を持ち上げてみせた。レイガンドーは美月に 頷いてみせてから、拳を固め、武公と睨み合った。武公は美月を見返してきた。

「ラウンド1、ファイッ!」

 御丁寧に用意されていた立派なゴングを、寺坂が盛大に打ち鳴らす。同時にレイガンドーと武公は距離を詰めて いき、互いに拳を繰り出して距離を測る。レイガンドーのジャブが届く寸前に武公は後退し、武公のジャブが胸部 装甲を掠める寸前でレイガンドーもバックステップを踏む。両者の脚部のシリンダーが上下し、関節が唸り、モーター が喚き、外装が鬩ぎ合う。
 レイガンドーは左右に体を揺らしながら、武公の隙を窺っている。武公は関節技でも仕掛けるつもりなのか、腰を 落とし、レイガンドーを掴むタイミングを計っている。次第に緊張感が漲って、美月は握り締めていたズボンを外して 拳を固めた。考えろ、冷静に考えろ。何の技を仕掛ければ、組み付こうとする相手を圧倒出来る。

「DDT」

 男が命じると、即座に武公が反応する。

「りょーかいっ、とぉ!」

 武公が矢のように駆け出す。美月が回避しろとレイガンドーに命じようとした瞬間、武公はアスファルトを蹴って 跳躍し、その勢いを使ってレイガンドーの首に腕を巻き付けてきた。そのまま、レイガンドーは後頭部から地面に 叩き付けられ、外装を鳴らしながら躍動する。

「痛烈なDDTが炸裂ゥーッ!」

 寺坂の実況が迸ると、観客達が沸き上がった。武公はレイガンドーの背後に回り込んできたので、美月はリング を囲んでいるチェーンを掴んで叫んだ。手が焼けるほど熱していた。

「レイ、立って、早く立って!」

「ってぁ!」

 レイガンドーは両足を曲げてから伸ばし、その勢いを使って起き上がる。直立すると、武公と向き合う。

「たかがDDTでカウントなんて取らせはしないぜ、新入り!」

「経験だけがイコールだと思うだなんて、ロートルらしいね!」

 武公はレイガンドーとの間合いを取りながら、男を窺った。男は低い声で命じる。

「延髄斬り」

「りょーかっい!」

 途端に武公は少し後退した後、駆け出してきた。レイガンドーは腰を落とし、両腕を広げる。

「させるかっ!」

 助走を付けた武公が飛び上がろうとする寸前、駆け出してきたレイガンドーがその腰を力強く押さえ込む。両者が 激突した瞬間、互いの外装の摩擦が火花を散らした。自動車事故を彷彿とさせる衝突音が真夏の熱気を震わせ、 リングを囲む太いチェーンが揺らぐ。

「美月ぃっ、次はどうする!」

 武公の腰を捉えたレイガンドーに指示を乞われたが、美月は口籠もった。この次はどうすればいい、腰を掴んだ 態勢から出せる技は何なのだ、プロレス技なんてほとんど覚えていない。どうする、とレイガンドーから再度指示を 乞われたが、美月は混乱から抜け出せない。すると、武公はレイガンドーの両肩を掴み、膝を入れてきた。
 痛烈な膝蹴りが、何度となくレイガンドーの胸部に激突する。レイガンドーは美月の指示を待ち続け、その攻撃を 逃れることすらなく頑なに耐えている。このままでは、レイガンドーの頭部が外れるのは時間の問題だ。次第に武公 の名を呼ぶ観客が増え始め、レイガンドーに対する文句が入り混じる。美月は更に混乱し、落ち着こうと息をするも 脳に酸素が回らない。レイガンドーのマスクフェイスが削れ、火花の量が増え、割れた部品から漏れた機械油の雫 がアスファルトに落ちる。どうする、どうする、どうする、どうする、どうする。

「そこで必殺、アッパーカットォ!」

 観客達の罵声を圧倒する、一際大きな声が上がった。それは、コジロウに肩車された状態で観戦していたつばめ だった。美月が我に返って目を上げると、つばめは親指を立ててみせる。美月は額の汗を拭い、一瞬のうちに頭を 巡らせる。そして、今一度、武公のプロポーションを観察した。武公は足技をメインにしたプロレス技が主体の人型 ロボットだと短時間で判明した、それ故に両足が長く、下半身のバネが柔軟で両足関節の駆動域が恐ろしく広い。 だが、その体形は人型ロボットとしてはアンバランスであると同時に、足とは反比例して腕の長さが短めだ。ならば、 勝機はある。それに気付いた美月は、腹の底から叫んだ。

「右ブローで押せ、続いて左フックでロープ際まで追い詰めろぉっ!」

「その言葉を待っていたぜ!」

 膝蹴りを受け続けた傷だらけのマスクフェイスを上げ、レイガンドーは武公の腰を抱えていた右腕を引いた。武公は すかさず腰を引いたが、レイガンドーのリーチはそれよりも長かった。鍛え上げられた腹筋を思わせる外装に拳が 深く沈み、武公のボディがしなる。立て続けに重たいボディブローを叩き込まれた武公は、姿勢を制御するために 徐々に後退していく。が、チェーンに接する前に武公は上体を前に倒し、レイガンドーを打ち返そうとする。

「浅いっ!」

 武公がパンチを放った瞬間、レイガンドーは腰を落として武公の間合いに滑り込む。そして、流れるような動作で 左フックを喰らわせた。両者の腕が交差した瞬間、誰もが目にした。人型重機の作業用アームを流用したがために 伸縮性を持つレイガンドーの腕が、キック力を得るために両腕の長さを犠牲にした武公の腕と絡み合った末、武公の 傷一つなかったマスクフェイスを荒く抉る、強烈なクロスカウンターを。
 武公が仰け反った。レイガンドーはその隙を見逃さずに武公を押さえ込み、体重を載せたボディブローを連打して 武公の滑らかな黒と赤の外装を歪ませていく。得意な局面に持ち込んでしまえば、こっちのものだ。徐々に場の空気 も塗り替えられていき、レイガンドーを呼ぶ声が増える。最初はつばめが、次は寺坂が、その次は見知らぬ誰かが、 レイガンドーの名を呼ぶ、叫ぶ、勝利を乞う。それが、美月が腹の底に押し殺していた異物を目覚めさせる。喉の 渇きすらも遠のき、歓声も遠のき、目に映るのは猛攻を繰り広げるレイガンドーの勇姿だけになった。

「……そうだ」

 美月は自分にしか聞こえない声量で呟き、目を見開く。あの夜、父親が美月を賭け金とするために天王山工場の 地下闘技場に連れて行った夜、美月の人生の転換期と言っても過言ではない猥雑にして醜悪な夜。美月は初めて レイガンドーが戦う様を目の当たりにした。十数回も行われたタイトルマッチの末にバージョンアップを果たした岩龍が、 兄でもある人型重機を圧倒する様を。そして、寸でのところで岩龍の攻撃を阻み、堪え、逆転劇を繰り広げては観客を 湧かせていたレイガンドーの姿を。その時は気付いていなかった、それからも気付きたくなかった、今までも気付くことを 恐れていた。だが、もう迷いはしない。

「レイっ! そのままパワーボムだぁっ!」

「ハッハァー!」

 美月が拳を振り上げると、レイガンドーは両の拳を固めて武公の後頭部に振り下ろした。その一撃で前のめりに なった武公の頭部を、レイガンドーは太股の間に挟んで武公の胴体を腕で抱え込むと、頭上に持ち上げる。武公は 頭部の打撃が強すぎてバランサーの制御が戻らないのか、抵抗はするがレイガンドーの腕とは見当違いの場所に 拳を振り回すだけだった。レイガンドーは武公を担ぎ上げた状態で観客達をぐるりと見回してから、上下逆さにした 武公をアスファルトに投げ付けた。がしゃあああっ、と金属とアスファルトが激突した瞬間、歓声が爆発する。

「ワン!」

 レイガンドーが武公の両肩を地面に押し付ける形で丸め込むと、寺坂がカウントを取る。

「ツー!」

 寺坂の指が二本立つと、観客達もそれに釣られてコールする。と、その時、武公が両足を振り上げてレイガンドーの ホールドから逃れようとするが、レイガンドーは武公の胴体に跨って彼の片足を抱え込み、エビ固めに持ち込む。 重みさえある間の後、寺坂の指が三本立ち、遂に。

「スゥリィイイイイイイーッ!」

 狂ったようにゴングが打ち鳴らされる。途端に歓声が熱を帯びる。

「勝者あっ、レイ! ガン! ドォオオオオーッ!」

 寺坂が大きな身振りでレイガンドーを示すと、レイガンドーは武公を解放して立ち上がった。レイガンドーが緩やかに 手を振ってみせると、観客達が彼の名を呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ。そうだ、この感覚、この状況、この快楽。忘れられるもの ではない。忘れようとしても、目を逸らそうとしても、疎もうとしても、不可能だ。
 レイガンドーはリングの中に呼ぶ。美月はチェーンの下を潜り抜けると、彼の元に駆け寄る。レイガンドーは先程 の激闘とは打って変わった優しい動作で美月に手を差し伸べてきたので、美月は彼の手を経由して肩に腰掛けた。 求められるがままに手を振り返しながら、勝利の勲章を全身に刻んだレイガンドーを慈しみながら、美月は胸の内に 広がる充足感に酔いしれていた。そうだ、あの夜、美月はレイガンドーに心を奪われた。
 これまで美月が接してきた、穏やかで優しい兄であるレイガンドーとは懸け離れた、破壊の権化と化した彼の姿に 圧倒された。そして、兄と妹という長年の関係を完膚無きまでに突き崩されてしまった。それを自覚した今、美月に 躊躇いもなければ後悔もなかった。これからは真っ向から彼と向き合い、己の本性を認めよう。
 レイガンドーと共に、戦いの快楽に身を投じよう。




 夏祭りのメインイベントである、花火大会が佳境を迎えた頃。
 一乗寺昇は、人並みに逆らって移動していた。出店の並ぶ市役所前の大通りを行き交う人々は、花火が上がる たびに足を止めては同じ方向に振り返る。炸裂音と同時に閃光が花開き、藍色の夜空がカラフルな光に彩られる。 浴衣を着た若い娘達は同年代の男と手を組み、明るい言葉を交わしている。今夜だけは夜更かしと外出が許された 小学生達は一塊になり、騒いでいる。原価と売値に大幅な差があり、かき氷や焼きそばを売り捌く出店では堅気 とは言い難い者達が暴利を貪っている。ソースの焼ける匂いと綿飴の甘ったるい熱が漂う一角を通り過ぎ、弱った 金魚を泳がせている金魚掬いの出店を過ぎ、夏祭りの運営本部を目指した。
 大通りから一本外れた路地に入ると、途端に喧噪は遠のく。市役所とは別にある公民館に入り、その中の大広間 ではそれぞれの自治体から引き抜かれた住民達が運営委員会として詰めていた。畳敷きの広い和間に上がろうと 一乗寺が靴を脱ごうとすると、通り掛かった者に怪訝な顔をされた。それはそうだろう、一乗寺は一ヶ谷市内のどの 自治体にも青年部にも属していないのだから。

「さよさよ、いるぅ?」

 一乗寺が馴れ馴れしく声を掛けながら上がると、運営委員会の中の一人である女性が顔を上げた。

「だからなんだってんだよ、宇宙人」

 それは、政府直属のロボット技師である柳田小夜子だった。相変わらず色気のない格好で、使い古したジャージ の上下を着込んで長い髪を無造作に引っ詰め、銜えタバコでノートパソコンと向かい合っていた。一乗寺が彼女の 背後からノートパソコンを覗き込むと、その中ではレイガンドーと武公の死闘が繰り広げられていた。

「思った通り、レイガンドーにはあいつが食い付いてきやがった。首尾は上々だ。しかし、何度見ても完成度の高い パワーボムだなぁおい。レイガンドーの体重移動が完璧だ。あの小娘、やりやがる」

「んで、武公のマスターの尻尾は掴めた? 懐まで招き入れたからには、掴んでくれないと困るんだよねぇ」

 一乗寺は小夜子の隣に腰を下ろすと、差し入れと思しきおにぎりを取り、囓った。塩気が強めだった。

「だがな、懐まで招き入れた上で泳がせる必要があるのかよ? さっさと確保しちまえよ、面倒臭い」

 小夜子は一乗寺を咎めもせず、吸い終えたタバコを吸い殻が山盛りの灰皿にねじ込んだ。

「それはそれとしてだ、清掃ボランティアの爺様がゴミ捨て場で変なものを拾ったんだそうだ。検分してこいよ」

「えぇー、そんなのやだぁ」

「それがお前の仕事だろうが、イチ。勝手口に置いてあるから、適当に調べてこいよ」

 小夜子に睨まれ、一乗寺は食べかけのおにぎりを手にしたまま、渋々腰を上げた。

「はいはーい。さよさよってば厳しいんだから」

 おにぎりを咀嚼しつつ、一乗寺は大広間のふすまを開けて廊下に出た。柳田小夜子は内閣情報調査室の関係者 ではあれど捜査員ではないが、本人のたっての希望で一ヶ谷市内に配属された。一ヶ谷市の商店街にある電気屋 の親戚、という名目で自治体の青年部に潜り込んだのである。だが、小夜子の真の目的が小倉美月の手によって 再起動したレイガンドーであることは火を見るより明らかだ。レイガンドーと武公のロボットファイトをセッティングした のも、もちろん小夜子だ。趣味が実益を兼ねているのだ。
 塩昆布入りのおにぎりを食べ終えた一乗寺は、指先に付いた御飯粒を舐め取ってから、一階の奥にある台所の 勝手口のドアを開けた。そこは臨時のゴミ置き場として扱われているので、ビールの空き缶や仕出し弁当の空箱が 詰まったビニール袋が山盛りになっていたが、その間に奇妙なものが詰まったビニール袋が転がっていた。じっとり とした粘り気のある液体を多量に含んだ、数人分の少女の衣服だった。浴衣にキャミソール、レギンスにミュールに ハンドバッグ。靴の数から察するに、少なく見積もっても三四人は犠牲になったのだろう。

「悪食だなぁ」

 一乗寺はそのゴミ袋を引き摺り出すと、きつく縛られている口を開いた。途端に饐えた匂いが辺りに漂い、一乗寺 は噎せ返った。先程食べたばかりのものが戻ってきそうになったが、ぐっと堪えて、ゴミ袋に手を突っ込んで生温い 粘液にまみれた浴衣を掻き混ぜる。ぐちゅぐちゅと泡立つたびに酸の臭気が増え、気分の悪さが増す。浴衣の奥に 手応えを感じたので、それを掴んで引っこ抜いてみた。ストラップが大量に付いた携帯電話だった。
 ダメ元で電源を入れてみると、ハート型で少し厚い金属板からホログラフィーが浮かび上がった。頑丈な防水加工と コーティングのおかげで、酸性の液体に腐食されなかったらしい。男性アイドルの画像が待ち受けになっていて、 メーラーには短文のメールがいくつも残っている。その内容を確認した後、ユーザーの個人情報が記載されている 項目を選択し、開いた。電話番号、メールアドレス、そして持ち主の名前。香山千束。
 彼女は喰われたのだろう。粘つく糸を引く浴衣を広げると、内側には溶けた皮膚の切れ端や筋繊維がちらほらと こびり付いていた。服の数から察するに、五人は喰われたことになる。頭から丸飲みしたはいいが、衣服は消化も 出来なければ吸収も出来ないので、どこかから拝借したゴミ袋の中に吐き出したのだろう。そんな芸当が出来る輩は 限られている。逃亡先を突き止められていなかったが、死んだとは誰も思っていなかった。これではっきりした。
 羽部鏡一は、生きている。





 


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