箱を開けると、ビニール袋に包まれた新品の精密機械が収まっていた。 つばめが分厚いカタログと散々睨めっこし、性能と機能を吟味しつつも本体のカラーリングとデザインも見比べ、 あれにしようこれにしようと頭痛がするほど悩んだ末に決断して手に入れた、携帯電話だった。ハルノネットや吉岡 グループを始めとした大企業が主力商品として販売しているのは、接触感知型のホログラフィーが展開出来る機種 で、厚さ数ミリ程度の金属板のような外見の携帯電話である。だが、つばめの琴線に触れたのは、そういった最新 世代の機種ではなく、一昔前に流行した機種だった。 それは、透明なガラス板をフレームを填め込んだ形状のスマートフォンの進化形で、ホログラフィーは投影出来る がそれに直接触れて操作出来る範囲が狭く、ラップトップ型のホログラフィーを投影して操作する、というようなことは 出来ない。透明なガラス板を囲んでいる金属枠にしか記憶容量もないので、保存出来るファイルの数も少ない。 といっても、情報圧縮技術がかなり進んでいるので、メモリーの単位はテラバイトなのだが。 「うわー、すっげー」 つばめはビニール袋から携帯電話を取り出すと、それを透かしてみた。よくよく目を凝らすと、光ファイバーを加工 して更に透明度を上げたものがガラス板の中に仕込まれているのが解るが、一見しただけでは長方形のガラス板 に過ぎない。それを囲んでいる金属枠も薄っぺらく、どこにどういった部品が入っているのかは見当も付かない。 「その機種は使い勝手はいいですけど充電池の持ちが悪いですから、充電にはくれぐれも気を付けて下さいね。 で、これが説明書なんですけど、紙媒体の方が良いと思ってこっちにしました」 古式ゆかしいメイド服に身を包んでいる道子は、つばめの前に分厚い説明書を差し出してきた。辞書よりも厚み があり、手にしてみるとずしりとした重みが手首に堪える。つばめはそれを広げ、目次を眺めてみる。 「これってさ、全部覚えなくてもいいんだよね?」 「そりゃあもう。携帯なんて、電話とメールが出来て写真が撮れてSNSにさくさく通信出来ればいいような機械です から、使わない機能の方が多いですよ。だから、つばめちゃんが必要だと思う項目だけ覚えておけば充分ですよ。 解らなかったら、私の方にダイレクトに通信して下さいね。せっかくのつばめちゃんホットラインなんですから」 そう言いつつ、道子は左手の親指と小指を立てて顔の横に上げた。携帯電話のジェスチャーである。 「……その名前、どうにかならないの?」 つばめは軽く羞恥に駆られながら、新品の携帯電話の電源を入れた。軽快な電子音と共に、光が灯る。 「何事も解りやすい方がいいんですって。それに、私がアマラを利用して遺産同士の互換性を活用した独自のネット ワークを形成しなければ、他の企業や何やらにつばめちゃんの情報が筒抜けになっちゃうんですから。どうせなら 異次元宇宙に存在している量子コンピューターも使ってみたかったんですけど、そこまでやっちゃうとアマラの情報 処理能力を無駄遣いしちゃいますし、最優先すべきは彼らですからね」 道子は振り向き、薄暗い和間に寝かされている人々を見やった。年齢も性別も様々で、薄手のビニールを敷いた 布団の上に寝かされている。彼らは、皆、青白く血の気の引いた肌色にうっすらとした滑り気を帯びていて、死体と 見間違えそうだ。彼らの奥に横たえられているのは、金属製の棺、タイスウだった。その中に収められている遺産、 アソウギを体液として取り込み、怪人となってしまった彼らは、諸々の事情で再びアソウギに溶けた。そんな人々を アマラの情報処理能力を用いてアソウギの機能を働かせ、本来あるべき姿に戻したのである。 「遺伝子の情報量は膨大ですし、アソウギによって改変された染色体や塩基配列を調べて元に修正して、テロメア 細胞も年齢に応じた長さに揃えなきゃならないですし、大変ですよ。おかげでヒトゲノムの解析が大いに進みました けど、量子アルゴリズムに変換出来るような言語でしか算出出来なかったので、公表は出来ませんね。それを公開 したら人間という種の解明も進みますし、遺伝病も粗方対処出来そうなんですけど……」 ちょっと気まずげな道子に、つばめは携帯電話をいじりながら同調した。 「だよねぇ。そもそも遺産の存在が公表されていないわけだから、世間に説明のしようがないし」 「それでですね、アソウギを一滴残らず排出して元の姿に戻った方々をフジワラ製薬が保養所を改装して造り上げた 療養所に、政府の所有する車両やヘリコプターで搬送して頂いてそれ相応の処置を施してもらわないといけない んですけど、ちょっと問題が発生しまして」 道子は頬に手を添え、ため息を吐く。 「フジワラ製薬が手を引いたら、今度はその影に隠れていた変な組織やら何やらの影が出てきちゃったんですよ。 フジワラ製薬が怪人を作っている、ってことは表立って知られてはいませんでしたけど、裏を返せば裏の世界では 常識みたいなもんだったんです。でも、伊織さんが強すぎたし、アソウギの扱い方は誰にも解らなかったから、誰も 直接的な手出しはしてこなかったんです。ですけど、伊織さんは対外的には生死不明になってアソウギの所有権が フジワラ製薬から離れた途端、まー、皆さんは躍起になっちゃいまして。怪人に対して変な情熱を抱いているのって、 伊織さんのお父さんに限った話じゃないんですねぇ。相手にする方は面倒極まりないですけど」 「そ、組織?」 つばめが目を丸くすると、道子はへらっとした。 「吉岡グループに比べれば、吹けば飛ぶような組織ですって。資金力もなければ人材も足りない、そのくせ野望だけ は人一倍、って感じのばっかりですよ。でも、元々は大陸のテロ組織やらマフィアだったりするので、戦闘の実力は そこそこなのがまた厄介なんですよ。一つを制圧したら十は出てきますね。台所の悪魔と同じです」 ゴキブリ扱いされるほどの組織なのか。つばめの呆れ顔に、道子はにっこりした。 「ですが、さすがに政府の方もちょっと手が足りなくなってきたのだそうで、コジロウ君をお借りしたい、とのことです。 大丈夫ですって、前回は私が大暴れしたから人的被害が出ちゃいましたけど、今回は味方ですから。コジロウ君と 元怪人さん達の安全確保のためだったら、戦闘機だってハッキングして落としちゃいますよ?」 「携帯を買ってもいい、って政府の人から許可が出たのは、それがあったからかぁ。これとコジロウが交換、ってこと になるのかなぁ……」 つばめは携帯電話を握り締め、コジロウを窺った。夏の日差しが強くなるに連れて勢いを増した雑草が生い茂る 庭で、大柄な警官ロボットはしゃがみ込んでぶちぶちと雑草を毟っていた。その傍らには、根本から抜かれた雑草 が小山を築いている。そこかしこから降り注ぐアブラゼミの鳴き声が、蒸し暑さを増長させている。だが、佐々木家は 造りが古い家なので風通しが良く、冷房を付けていなくても過ごしやすかった。 「で、そのゴタゴタっていつ?」 つばめが問うと、道子は即答した。 「今日の午後からです。一乗寺さんを通じて政府側にも話を付けて、フジワラ製薬とも折り合いを付けた結果、今日の 午後が最も好都合なんだそうです。まあ、コジロウ君と元怪人さん達を餌にして変な組織を一網打尽、って下心が アリアリなのが丸解りなので、敵がそう簡単に引っ掛かってくれるかなーって思っちゃいますけど」 「コジロウが帰ってこられるのはいつ頃になるの?」 「元怪人さん達が八名、移送先の療養所は分散させたので三箇所、変な組織はざっと数えて六つ、ということなので、 コジロウ君の自由が効くのは数日後になりますね。だって、コジロウ君が一体いれば、警官ロボット百体以上の 戦力になっちゃうんですから。でも、その間はつばめちゃんの警備がすっかすかになっちゃいますよ。てなわけで、 話は最初に戻りまーす。つばめちゃんネットワークを利用して、コジロウ君とその同型の警官ロボットを同期させる ネットワークを作っちゃいました」 「それもコジロウネットワークって言うの?」 「いえいえ。こっちは用途が違いますからね。正式名称は、国家保全及び国有資産を護衛する人型特殊警察車両の 上位個体による下位個体の管理及び遠隔操作専用回線、って言いまーす」 「で、コジロウが留守の間は、そのコジロウネットワークで他の警官ロボットが私を守りに来るのか」 正式名称を覚える労力を惜しんだつばめの発言に、道子は笑った。 「あはは、そっちにしちゃいますか。でも、その方が解りやすくていいですよね。そういうことですから、型番とスペック は違いますけど中身はコジロウ君の警官ロボットがちゃんと傍にいますから、つばめちゃんは安心して下さいね」 そう言われても、安心出来るものだろうか。つばめは氷が溶けてきた麦茶を傾けつつ、文句一つ言わずに草毟り を続けるコジロウの背中を見つめた。バッテリーや計器類を詰め込んであるバックパックは大きく、見るからに重量 がある。タイヤが内蔵された脛を曲げて膝を付き、雑草だと判別した草を抜いては投げ、抜いては投げ、を延々と 繰り返している。つばめの視線に気付き、コジロウが振り返った。マスクフェイスが翳る。 「つばめ、所用か」 「ううん、なんでもない」 コジロウの胸部装甲に貼り付いている片翼のステッカーが、一瞬視界に入った。つばめはそれから目を逸らすと、 麦茶のコップから滴った結露の輪が出来ている座卓に突っ伏した。そうあるべきだ、そういうものなんだ、とつばめも 理解している。コジロウは元来警官ロボットとして開発されたロボットで、遺産を守ることで莫大な税収も守れるので つばめとその祖父を守っていたのだ。だから、コジロウが政府からの要請を受けて出動するのは至極当然であって、 元怪人の人々を安全に移送して社会復帰出来るように手を回す手伝いをするのは必然だ。なので、コジロウが傍に いないのが寂しいだとか、家事が捗らないだとか、我が侭を言ってはいけないのだ。 コジロウネットワークの下位個体である一般の警官ロボットも、コジロウの意識が宿っているのであればコジロウ に他ならない。それに、つばめも少しは大人にならなければ。夏祭りでの激闘で吹っ切れたのか、レイガンドーと共に 独り立ちする道を選んだ美月のように。だから、妥協するしかない。 つばめは宿題をするからと言って居間から自室に戻ったが、障子戸を締めた途端に悔しさのあまりに目頭が熱く なった。妥協なんて出来るわけがない。背伸びをした言い訳を自分に言い聞かせてみても無駄だ。コジロウと一緒に 出掛けることを一番楽しみにしていたのは他でもないつばめであり、そのために準備をしてしまったのだから。 「どうすんだよぉ、これぇ」 つばめは押し入れを開け、上段のパイプに吊してある買ったばかりの服を睨み付けた。いかにも夏らしい、淡い 水色のワンピースだ。少女漫画から抜け出したような可愛らしいデザインで、胸元もギャザーで膨らませてあり、裾は たっぷりとしたフリルが付いている。それに合わせたデザインの鍔の広い麦わら帽子やサンダルまで買ってしまった ので、もう後戻りは出来ない。朴念仁であるコジロウには可愛いと言ってもらえないとしても、つばめの自尊心が 少しばかり満たされる。それなのに、それを見せるべき相手と一緒に出掛けられないなんて。勇気を振り絞って、 付き合ってくれ、とまで言ったのに。 「私の馬鹿野郎ーっ!」 居たたまれなくなってふすまを閉めたつばめは、羞恥のあまりにその場に座り込んだ。意識しすぎて空回りする ことほど、恥ずかしいものはない。先程滲みかけた涙が本格的に出てきたので、つばめが膝を抱えて唸っていると、 障子戸に大柄な影が過ぎった。ぎし、と縁側の床板が軋み、好いて止まない彼が庭から上がってきた。 「つばめ、異常事態か」 「なんでもない! ないったらない! あるわけあるかぁーっ!」 つばめは障子戸越しに背を向け、コジロウに八つ当たりした。コジロウはつばめをあまり刺激するべきではないと 判断したらしく、それ以上は話し掛けることはなかった。床板を下りて庭に戻っていったので、草毟りを続行するの だろう。コジロウの足音と駆動音が遠のいてから、つばめは猛烈に自己嫌悪した。 コジロウは悪くない。悪いのは彼が出動するような事態を発生させた変な組織であって、舞い上がりすぎて準備を 整えすぎた自分なのだから。それが解っているからこそ、腹立たしくて仕方ない。つばめはホラー映画の怨霊のよう に唸りながら頭を抱えた。毎度のことではあるが、なぜ、自分はこんな恋をしたのだろうと苦悩する。 けれど、気持ちを抑えきれないのだ。 翌日。 弁護士事務所に出勤する美野里と道子の乗る車に同乗させてもらって、つばめは一ヶ谷市内に出た。美野里は 涙目になるほど心配してきたが、助手席に乗る道子がそれを宥めてくれた。つばめは名残惜しげな美野里に手を 振って見送ってから、一ヶ谷駅前のロータリーを歩いた。先日の夏祭りでつばめの顔と名前が一致したからだろう、 以前にも増して注目されるようになった。だが、好意的な視線は一つもない。 それが当たり前だ。いつだってそうだ。無条件につばめを好いてくれる人間なんて、そういるものじゃない。諦観と それを上回る面倒臭さを抱えつつ、つばめはコジロウの下位個体である警官ロボットとの合流地点である駅前交番 に向かった。遠巻きに交番を覗き込むと、一体の警官ロボットが直立していた。コジロウと全く同じ型のロボットでは あるが、コジロウとはどこかが違った。彼の背後には、真新しいポスターが貼り付けられていた。捜しています、との 大きな赤文字の下に、制服姿の少女達の顔写真が五つ。つばめの記憶が正しければ、彼女達は美月と同じ中学校に 通っている生徒だ。だが、つばめはそんなことは今の今まで知らなかった。新聞の記事になっていなかったし、テレビ でも一切報道されていなかったからだ。 「あー、君が?」 つばめの様子に気付いたのか、中年の制服警官が出てきた。つばめは佇まいを直す。 「佐々木つばめです。よろしくお願いします」 「上から話は聞いているけど、正直言って迷惑なんだよね。そういう特例ってさぁ。こいつがいないと出来ないことが 山ほどあるんだよ、今の社会はね。それなのに、君一人の身柄を守るために警官ロボットを一体貸し出してくれ、だ なんてなぁ。代車を回してくれることにはなっているけど、こいつはうちの勤務で馴染んでいるからなぁ……」 制服警官は余程面白くないのか、不愉快げにつばめを見下ろしながら愚痴を零す。 「お生憎ですが、その警官ロボットを使わざるを得なくなったのは私の責任じゃなくて相手方の責任ですから。この 資本主義社会で国家が企業に陵駕されている事実を知らないわけではないでしょう。んで、私はその最たる被害を 受けているわけです。で、私は一市民であって未成年であって、法治国家なので原則的に武器の携帯が禁じられて いるわけです。でも、襲われちゃうんです。だから、自衛のためには警官ロボットを使わなきゃいけないんです」 失礼します、とつばめは制服警官に一礼してから、警官ロボットを見上げた。 「コジロウ……だよね?」 「機体のスペック、型番号、個体識別信号は異なるが、つばめがコジロウと呼称する個体に相違ない」 と、警官ロボット、もとい、コジロウが頷いてみせると、つばめは手を差し伸べた。 「じゃ、行こう」 「了解した」 いつものようにコジロウは手を伸ばすと、人差し指と中指だけをつばめに向けた。つばめはその硬くも冷たい指を 二本握り締めるが、指の曲がり方と動作がほんの少し違っていた。やはり、彼に良く似た別人なのだ。それが尚更、 自分の滑稽さを浮き彫りにしてくる。相手が本物のコジロウでないとなると、気合いを入れてお洒落をする意味 もないと思ったのだが、せっかく買い込んだ服を無駄にするのは勿体ないとも思ったので、淡い水色のワンピースに 鍔の広い麦わら帽子を被り、必要物資を詰め込んだトートバッグを肩から提げていた。 目的地を目指し、隣り合って歩道を進んでいった。夏休みの自由研究のために、一ヶ谷市の郷土資料館に行こうと 予定を立てていた。じりじりと照り付ける太陽とアスファルトから跳ね返る熱が、サンダルとスカートを履いた足に 直撃する。日除けのために鍔の広い帽子を被ってはいるが、家に帰り着く頃には、手足がすっかり焼けてしまうこと だろう。対するコジロウはと言えば、つばめに余計な熱を与えないための配慮なのか、外装を開いて廃熱板を展開 していた。時折背後に蒸気を噴出しているので、途中で冷却水を補給させなければ、つばめよりも先にコジロウが 脱水症状を起こしかねない。 「そんなに熱が籠もっちゃうの?」 つばめが少し笑うと、コジロウは蒸気と共に廃熱を行った後、答えた。 「この機体は本官の機体とは根本的に構造が異なり、動力源も異なる。バッテリー式ではあるがモーターの過熱が 出力に応じた温度であるため、定期的に廃熱を行わなければ動作不良を起こす危険性がある」 「それじゃ、コジロウの動力源のムリョウってそんなに熱効率がいいんだ」 「そうだ。各関節の駆動による廃熱をフィードバックし、動力に変換することも可能だ」 「他にも違うことってある?」 「各種センサーの範囲が狭い。傍受出来る無線の周波数も少なければ、暗号回線の数も少ない。各関節の駆動範囲 と外装の耐久性は本官の機体と相違はないが、フルパワーでの稼働時間は百分の一にも満たない」 「なんか不満そうだね」 「本官にはそのような主観は存在していない」 「そうかなぁ?」 つばめは首を傾げ、コジロウを覗き込む。だが、コジロウはつばめと目を合わせようとしなかった。 「存在していない」 「じゃ、センサーが鈍いから、私がこういう格好をしてもなんとも思わないんだ」 つばめはコジロウの手を離して一歩前に出ると、ワンピースの裾を掴んで広げてみせた。コジロウはつばめの服装 を眺めるように視線を動かし、平坦に答えた。 「本官には、つばめの語彙に相当する主観を持ち合わせていない」 「御世辞でもいいから、褒めてくれたっていいじゃない。これ、結構高かったんだからね?」 「値段の高い衣服を身に付けている人間は賞賛すべきなのか?」 コジロウに訝られ、つばめはますます苛立って歩調を早めた。 「もういい! どうせ何も解らないんだから!」 こんなはずじゃなかったのに、そんなことを言うつもりはなかったのに。すぐに後悔が訪れ、つばめは唇を噛んだ。 気温三十四度を超える猛暑日だからか、車通りはあれど人間はほとんど出歩いていない。駅前ロータリーはまだしも、 郷土資料館に至る道中は田んぼに挟まれた県道なので尚更だ。稲を青く波打たせながら吹き渡ってくる風は、 僅かな爽やかさを与えてくれるも、余韻も残さずに過ぎ去った。 徒歩十五分の距離を歩き、郷土資料館に到着した。タオルで滴り落ちるほどの汗を拭ってから正面玄関から室内 に入ると、背筋が逆立つほどの冷気が肌を舐めていった。外気との落差のせいだろう。つばめは一度身震いした後に 呼吸を整えてから、コジロウと連れ立って受付に行って入場料を払った。学生は三百円、ロボットは無料。 パンフレットを広げ、順路と展示物を確かめる。順路の最初にあるのは、一ヶ谷市内の地層から発掘された縄文 土器と石器だった。その次に平安時代の落人伝説。更にその次は戦国時代に一ヶ谷市近辺を収めていた大名の 歴史と年表。そして、江戸時代、明治維新、戦中戦後、と続いて現代に至る。 「うーん」 手近なベンチに腰掛けてパンフレットと睨み合い、つばめが唸ると、向かい合う形で立っているコジロウが背中を 曲げ、つばめの手元を見下ろしてきた。顔が近付きすぎたので、つばめは慌てて身を引いた。 「どうした、つばめ」 顔を上げたコジロウと至近距離で目が合ってしまい、つばめは気まずさで顔を背けた。 「自由研究の範囲、どうしようかなって思って。でも、コジロウにはそんなの関係ないもんね」 「本官では判断を付けかねる」 「そう言うと思ったよ」 つばめは無意味に早まった鼓動を気にしつつ、パンフレットを改めて見下ろした。一ヶ谷市について知れば自分 のルーツである佐々木家と、祖父である佐々木長光についても知ることが出来るのではないか、と思ったからだ。 だが、そのどこが要所なのかが解らない。祖父とは少なからず付き合いがあった大人達に聞いてから行動した方が よかったのかもしれない、と今更ながら思ったが後の祭りである。 「何かお困りですか?」 前触れもなく声を掛けられ、つばめは反射的に背筋を伸ばした。コジロウは上体を起こし、条件反射で身構えるも、 声の主が郷土資料館の学芸員だと知ると構えを緩めた。つばめが向き直ると、半袖のポロシャツにスラックスを 着た三十代の男性が立っていた。首からは学芸員であることを示すカードを下げていて、人当たりの良い顔立ちに 親しげな笑顔を浮かべていた。つばめはベンチから立ち上がり、一礼する。 「どうも、こんにちは」 「御丁寧にありがとうございます。僕はこの郷土資料館の学芸員、滝口と申します」 胸に下げたカードには、滝口宗助、と印されていた。 「確か、佐々木長光さんの御孫さんですよね?」 「はい、そうですけど」 誰に知られていても驚く必要はない。つばめが薄い反応をすると、滝口は順路を示した。 「よろしければ、御案内いたしますが。自由研究のお手伝いになればいいんですけどね」 「よろしくお願いします」 つばめが再度頭を下げると、滝口も頭を下げ返した。 「こちらこそ」 つばめが姿勢を戻すと、コジロウが視界に入った。滝口からは僅かに目線を逸らしているように思えたが、それは つばめの視線とコジロウのゴーグルの方向が合っていないから、そう見えただけかもしれない。滝口に促されるまま に順路を歩き始めると、コジロウもつばめの少し後ろを付いてきた。つばめと滝口の間に割り込もうとしなかったのは、 滝口が無害な人間だと判別したためだろう。さっきのことが気まずいと思っているのだろうか、いやまさかね、とつばめ はコジロウを気にしつつも、順路を辿っていった。 まずは縄文時代からだ。 12 9/4 |