機動駐在コジロウ




鬼のメンタルにも涙



 伊織は小学校に進学した。
 父親が調達してくる生体安定剤を毎日服用していると、人間に対する欲望をある程度抑えられていたが、それも 次第に効果が薄れてきた。最初は一日一錠で済んでいたのに、一日に二錠を飲まなければ抑えが効かなくなって きていた。体が大きくなるに連れて、その大きさに応じた食欲が出てきたからでもある。二錠が三錠、三錠が四錠に なるのは時間の問題だった。父親は、何も心配するな、と言って伊織が求めるままに生体安定剤をくれた。
 生体安定剤の正体がただの薬剤ではないことは、伊織は本能的に悟っていた。その材料が伊織の体に馴染むと いうことは、人間の血肉が材料であるのが明白だった。生体安定剤を包んでいる赤いカプセルの原料は人間由来 のコラーゲンでなければ、伊織は口に含んだ瞬間に嘔吐感を覚えてしまうだろう。そのカプセルが溶けて胃から腸 へと薬剤が吸収され、拒絶反応が起こらないのも、人間の生体組織を加工したものだからだ。だが、それがどこの 誰の体を切り刻んで作った薬なのか、伊織には見当も付かなかった。出来る限り考えないようにしていた、と言った 方が正しいかもしれないが。それでも、飲まなければ自分が自分でなくなってしまうので、伊織は毎日生体安定剤を 飲み、クラスメイトと共に給食を食べられないので、昼食の分まで人肉を喰らってから登校していた。
 一年生、二年生、三年生と、大きなトラブルを起こさずに過ごせていた。生物学的に根本的に異なる子供達とは、 仲良くなりたいとは思いつつも遠巻きにしていたし、されていた。伊織は特殊な持病を持っていて、大企業の御曹司 だということもあり、教師からも一定の距離を置かれていた。べたべたに甘やかされたり、ウェットな友達関係を作る のは苦手なので、それでいいと思っていたが子供心には寂しかった。だから、唯一伊織を子供扱いしてくれる父親 に懐いていた。それ以外の心の拠り所がなかったからだ。
 四年生に進学して、生体安定剤を飲む回数も量も増えてきた頃、父親が伊織をフジワラ製薬本社に呼び出した。 それはとても珍しいことだった。それまでは、会社には決して近付くな、と教えられていた。伊織の存在が世間には 隠されていることと、アソウギのことを知らない社員達を騒がせないためでもあったからだ。
 つつがなく授業を受けて下校した伊織は、社長秘書が運転する車に乗ってフジワラ製薬本社に向かった。図書室 で借りてきた本を広げて読んでいたが、目の焦点が合いづらいので苦労した。今にして思えば、生体組織が人間の 構造とは異なっていたからだろう。半分も読み進まないうちに、本社に到着した。

「待ち兼ねたぞ、我が息子よ」

 フジワラ製薬本社の社長室に入ると、おかしな格好をした父親に出迎えられた。

「何それ」

 ランドセルを背負って本を抱えた伊織は、したり顔の父親に心底冷めた目を向けた。なぜなら、藤原は特撮番組に 登場する悪役のような服装をしていたからだ。ツノの生えた兜にそれと一体化している覆面、装飾が多く見るから に重たげな甲冑、引き摺るほど長いマント。伊織の背後に控えている社長秘書もまた、冷めた顔をしていた。

「心して聞け、我が息子よ! 長年の夢であった世界征服を目指そうと思うのだ!」

 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、マントを広げた父親に、伊織は顔を背けた。

「俺、付き合わねーから」

「まあ待て、伊織! とりあえず一通り話を聞いてくれ、でないと私は何のために重役会議を小一時間で切り上げ、この 格好に着替え、リハーサルを繰り返しながら三十分以上もスタンバっていたのかが解らんではないか」

「解りたくもねぇし」

「お前を生みだしたモノは何なのか、知っているな?」

「……アソウギだろ」

 伊織が面倒臭がりながらも答えると、藤原はにんまりして腕を組んだ。

「そう、そのアソウギだ! あの粘液の固まりの正体は今一つ把握出来ていない、が、しかし、あれが世界中の悪役 フェチの夢のまた夢である生きた人間を改造出来る代物であるのは知っての通りだ! もっとも、そいつを自在に 操る方法までは解明出来ていないがね。あれは、お前の祖父であって私の父親から受け継いだものではあるが、 説明書まではもらわなかったからな。というよりも、説明書のあるような道具ではないからな。祖父にアソウギを譲渡 した相手が不親切なのもあるが、功を焦った祖父が聞き出してこなかったから、というのもある。が、私はアソウギ の本来の持ち主に近付こうとは思わんね。顧問弁護士や産業スパイの伝手を使って探ってみたが、きな臭いったら ありゃしない。触らぬ神に祟りなし、だ」

 藤原は社長秘書のおかげで整理整頓の行き届いているデスクから離れると、伊織の傍にやってきた。

「だが、私はアソウギを単なる万能薬製造器にしておくつもりはない。だって勿体ないじゃないか、そう思うだろ、そう 思ってくれ、そう思っていなくても同意してくれ! でないと、つまらないじゃないか!」

 仰々しいグローブを填めた拳を固め、藤原は胸を張る。だが、伊織は冷め切っていた。

「どうでもいいし。つか、早く帰りたいんだけど」

「まあ聞いてくれよ、お願いだから。で、だな、私はいいところまで怪人増産計画を進めたのだ。臨床試験の被験者を 掻き集めて、そこら辺の自殺スポットから自殺志願者を掻き集めて、他にもまあ色々と手を回し、改造出来そうな 人間の頭数を揃えた。そして、彼らの体液をアソウギに置き換えてみたのだが、なかなか上手くいかなかった。それ はなぜだと思う、伊織?」

 藤原に迫られ、伊織は一歩後退る。

「ただの人間だからだろ」

「そう、その通りだ! 伊織は真子の子宮を借りて産まれ落ちた生命体ではあるが、私の生殖細胞はただの一欠片 も混じっていないのだ! だから、真っ当に考えれば、伊織はアソウギの能力を用いて作られた真子のクローンに なるはずなのだが、染色体はXYで生殖器も付いている男なのだ。そこが不思議でな、私はそれはもう色々と考えて みたのだ。仕事を半分ぐらいほっぽり出したので、そこにいる秘書の三木君に死ぬほど怒鳴られたがな!」

 藤原はなぜか胸を張って威張ったので、社長秘書の三木志摩子が威圧的に咳払いをした。

「そして私は、考え抜いた末にある結論を導き出したのだ! アソウギとは、状況に適応した生物を生み出すため のプラントであり、分析装置であり、コンピューターなのではないか、とな。真子が不妊症であることは伊織も知って の通りだ。だから、アソウギは真子の遺伝子の欠落した部分を補った結果、女性ではない伊織を産み出したのでは ないか、とな。だが、それだけでは伊織が人肉しか受け付けないことにも説明が付かん。そりゃ人類は行き詰まって いるし、進化の過程にいるのかいないのかも定かではないし、退化しているかもしれないが知能の方はじわじわっと 進歩しているかもしれないが、人間を主食にするほどの食糧危機に見舞われてはいない。場所にも寄るが」

 藤原は伊織が抱えている本を見、覆面の下で目を細めた。

「良い趣味をしているな」

 少々気恥ずかしくなって、伊織は本を抱え直した。世界の怪事件、というタイトルの子供向けの本で、都市伝説や 怪物の話が載っているものだ。伊織はその中の一つである切り裂きジャックの話に惹かれ、借りたのだ。

「人間を喰う。いわゆるカニバリズムだが、それ自体は歴史を長い目で見ると珍しいことでもなんでもない。現代に 至るまでの間に何度も飢饉が訪れ、その度に人間は人間を喰ったのだ。飢えるからだ。喰わなければ死ぬからだ。 必要に駆られたのであれば、まだ筋が通る。人間を殺して切り刻んでは商品として店頭に並べた肉屋も何人もいる が、時代背景が異なるし、それぞれの事情もあるから一括りには出来んのだ。人間を殺して喰うことで性的欲求を 満たす人間も少なくない。伊織が借りてきたその本に出てくる切り裂きジャックは、娼婦に対して並々ならぬ憎悪と 共に一種の愛情を持っていたのかもしれんな。だから、殺し、切り裂き、臓物を持ち帰るのだ」

 その本は昔に読んだことがあるのだ、と付け加えてから、藤原は腕を組む。

「暗く深い洞窟に住み、旅人を襲ってはその金品を奪い去った末に解体して主食とし、近親相姦で繁栄したソニー・ ビーン一族、四百人以上もの子供を食したとされる大量殺人鬼のアルバート・フィッシュ、男色と共に人食を好んだ ジェフリー・ダーマー、などなど、他にも上げれば切りがない。彼らは皆、人間としては常軌を逸しているが、伊織は そうではない。伊織は姿形こそ人間に似ているが、中身はそうではないからだ。だから、伊織は正常なのだ」

「何が言いたいん?」

 段々と焦れてきた伊織が急かすと、藤原はにいっと口角を上げた。

「失敗作の怪人を喰ってはくれまいか、我が息子よ。それが、人間でないものの正常な行動だ」

 その表情は、最高のアイディアを思い付いた、と言わんばかりの明るい笑顔だった。秘書の三木志摩子は表情を 変えまいと歯を食い縛っていたが、見るからに顔色が悪かった。彼女は正常なのだ、真っ当な意味で。

「伊織は人間の血肉を喰らうが、喰らった人肉がラミセ化してD型アミノ酸へと変化しなければ、消化することすらも 出来ない理由は未だに不明ではある。今後も解明すべき課題ではある。我が息子がいかなる生き物なのか知って おかなければ、父親としての立場がないからな。が、それはそれとしてだ、伊織の能力は大いに役に立つ。最高の 証拠隠滅が出来るからだ。ふははははははははははっ!」

 誇らしげに、藤原は高笑いを放つ。堪えきれなくなったのか、三木志摩子は失礼しますと言い終える前に社長室 から逃げ出していった。志摩子のハイヒールの足音を聞きながら、伊織はすぐには帰れなさそうだと判断し、借りて きた本をランドセルの中に入れた。藤原は散々高笑いしてから、やってくれるな、と伊織の肩を叩いた。
 断る理由がなかった。




 それから、伊織は怪人になった。
 人間の子供と同様の身体能力では、出来損ないの怪人達には太刀打ち出来なかったからだ。アソウギが体液の 七割を占めているので、多少のことでは死なないのだが、死なないだけでダメージはきちんと受ける。アソウギへの 拒絶反応によって心身が狂っている怪人達に叩きのめされたら、ただでは済まない。だから、伊織は怪人増産計画 を行っている研究所にて、怪人体に変化するための生体融合を行った。
 その時に与えられたのは、昆虫図鑑だった。研究員がやってきて、伊織にそれを広げてみせたのだ。伊織の生体 組織との相性が良いのは昆虫だが、どれにするかは伊織自身が決めてくれ、と。伊織は読書は好きだが動物には あまり興味がなかったので、なんとなく眺めるだけだった。ぱらぱらと適当にページを捲っていくと、軍隊アリが目に 留まった。群れて戦う生き物、大きな虫だけでなく動物でさえも殺し、喰らう生き物、女王の絶対統制の元で命を使う 生き物。黒く棘の多い外骨格が勇ましかったのと、単純明快な繁栄目的のために戦う彼らが羨ましく思えた。伊織は 自分の正体が解らないが、彼らは明確な目的のために生まれ、女王の手足として行使され、ジャングルの奥地で 戦い抜いている。生きる目的がある生き物に憧憬を抱いた伊織が、軍隊アリのページを見つめていると、研究員は それでいいのかと尋ねてきた。伊織は迷わずに頷いた。
 そして、軍隊アリを溶解したアソウギが伊織の体内に注入された。それから数時間後に効果は現れ、伊織の肉体 は膨張し、軍隊アリに変化した。分厚い外骨格に長い爪、首の後ろに伸びる太い棘、艶やかな複眼、鋭敏に匂いを 捉える触角、女王に仕える兵士に相応しい筋力。通常の怪人を遙かに上回る結果が出たらしく、研究所が大騒ぎ になったことを覚えている。中でも父親は大喜びで、喜びすぎて暴れてすらいた。
 彼らの騒ぎを横目に、伊織は悟っていた。自分が何をするべきで何のためにこの姿を得たのかを。実験室のドア を難なく破壊した伊織は、巨体と化した体を少々持て余しつつ何度か天井に頭をぶつけながら進んだ。伊織が一歩 進むたびに研究員達は道を空け、歓声すら上げてくる。それが鬱陶しかった。
 何本もの蛍光灯を頭で割り、渡り廊下の天井を壊しながら、別棟の隔離室に向かった。シェルターのような分厚い コンクリートの壁に囲まれた薄暗い地下室に入ると、折れ曲がった鉄格子が飛んできた。拘束具と思しき太い鉄輪と チェーンが振り回され、壁に叩き付けられて火花が散った。伊織が複眼の焦点を合わせると、人間でも動物でもない 生き物が唸っていた。中途半端に迫り出した外骨格の下からは肌色の手足が伸び、ツノか牙か定かではないものが 背中や肩から生えている。そのくせ、顔だけは人間で、十代後半と思しき若い男だった。

「これ?」

 伊織が爪を挙げて怪物を示すと、伊織に追い付いてきた藤原はマントを広げた。

「そうだ! さあ、我が息子よ! 彼を苦痛から解放してやるがいい!」

「興味ねぇよ」

 伊織は父親に背を向け、頑丈な扉を足先だけで閉めた。どばぁんっ、とその震動で壁が揺れて埃が舞い落ちた。 触角を振って埃を払ってから、伊織は怪物と化した青年に近付いていく。

「来るな、来るな、来るな……」

 怪物の青年は濁った声を発し、醜悪な形相を歪める。

「うっせぇ」

 これから殺す相手の言葉も、過去も、声も、知りたくない。伊織が凄むと、怪物の青年は爪の生えた巨大な手で 顔を覆う。呼吸するたびに喉が上下し、嗚咽すら漏れている。

「だ、騙されたんだ、騙されたんだ、あの液体を使えば病気が治るって、騙されんだぁああああっ!」

「はあ?」

 伊織は足を止め、触角を曲げた。怪物の青年は己の顔が傷付くことすら厭わず、爪を立てる。

「長い間、ずっと、外にも出られなかった。歩けなかった。皆と同じ生活なんて以ての外だった。だから、新しい薬が 出来たって言われて、本当に嬉しかったんだ。これで僕も他の皆と同じになれる、普通の人間になれるって思った から! でも、そうじゃなかったんだ! あいつらは僕を騙したんだ! 僕を化け物にしたんだぁあああっ!」

 怪物の青年は怯え、嘆き、外骨格とツノが入り混じって生えた背中をひくつかせる。

「喰ったのか?」

 怪物の青年が喋るたびに感じる、あの匂いを触角で絡め取る。伊織の言葉に、彼はひっと叫ぶ。

「嫌だぁあああああああ!」

「喰ったんだな? 喰ったんだなぁっ、人間を!?」

 怪物の青年の絶叫を浴びながら、伊織はとてつもない歓喜に打ち震えた。生まれて初めて同類に出会えた。本の 中に登場する殺人鬼でもなければ、絵本の中に出てくる人喰い鬼でもなく、現実に、目の前に、人喰いがいる。

「僕は嫌だったんだぁっ、だけど体が勝手に、勝手に、勝手に」

 ねえさんを、と言った青年の口角からは尖った牙が剥き出しになり、不気味に上向いていた。笑っている。

「んなもん、マジでどうでもいいし」

 途端に、伊織の高揚感は冷めた。やっと同類を見つけられたと思った。だが、それは大きな間違いだったらしい。 伊織は快楽のために人間を喰ったことはない。罪悪感を伴いながらも食欲には抗えないから、人間の血肉を食さず にはいられない。だが、この青年は人間を喰うことに快楽を覚えている。余程、その姉に対する執着が強烈だった のだろう。だから、捕食した快感に浸り切っている。処分すべきなのは明白だ。

「死ね、クソが」

「し、仕方なかったんだ、仕方なかったんだ、だって、だって姉さんが僕を、姉さんがいなければ僕は!」

 姉さん姉さん姉さん。そう連呼しながら、怪物の青年は伊織から逃れようとする。

「ウゼェ」

 軽やかに、伊織は巨体を踊らせる。嫌だぁっ、と怪物の青年は死に物狂いでコンクリートの壁を掻き毟るが、爪痕 が残るだけだった。人間の肌と獣と虫が入り混じった醜悪な背を向けている青年の首に、伊織は鎌のように鋭利な 爪を振り翳した。ぶつりと皮膚と筋と血管が千切れる感触、生温い体温、馴染み深い鉄錆の匂い。太い頸椎を断ち 切ると、首は重力に従って転げ落ち、天井近くまで飛沫を迸らせる。

「……ウゼェ」

 青年の首を掴んだ伊織は、あぎとを広げて喰らい付いた。汚れ切った髪の下には薄い皮膚と頭蓋骨があり、それ を噛み砕くと脳漿が溢れて胸元を汚す。がりぼりと頭蓋骨を噛み砕いて嚥下した後に脳を啜り、眼球を舐め、神経を 千切り、喰う、喰う、喰う。肉片を一片も残さずに、伊織は怪物の青年を胃に収めた。
 すると、これまで感じてきたものとは根本的に異なる充足感が全身に広がった。水を得た魚、光合成をした植物、 とでも言うような瑞々しさが隅々にまで行き渡っていった。それは一際激しい飢えを呼び覚まして、伊織を苦しめた。 青年の血肉で膨れ上がった胃袋は外骨格に包まれていて、押さえようとも頑強な鎧が邪魔をする。あぎとを開いて 舌を伸ばすも、だらだらと垂れるのは血液混じりの唾液だけだった。なぜだ、なぜだ、なぜだ。
 伊織は人間ではなかった。だから、人間を喰っても苦しまなかった。血肉の味は知っていても、人間を喰らうことに 対して罪悪感を覚える意味がなかったからだ。だが、怪物の青年は厳密に言えば同族だ。伊織と同じアソウギの力 を得たが、適合出来ずに人間を喰ってしまった。父親を始めとした人間はそれを暴走と見なしたが、伊織は怪物の 青年を同胞として見なした。けれど、彼は人喰いに快楽を覚えていたから、それを罰するために殺し、喰った。
 それなのに、なぜ苦痛を覚える。





 


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