家庭訪問に来たはずの教師は、機密情報を漏洩し続けていた。 座卓の向かい側で胡座を掻いている一乗寺を見つつ、伊織はそれでいいのかと思ったが声に出すことはせずに 甘んじて受け止めていた。一乗寺の諜報員らしからぬ行動の意図が何であれ、遺産相続争いの情勢を知っておく に越したことはない。吉岡りんねの配下から抜けてからは情報を得る手段がなかったので正直言ってありがたい。 もっとも、その情報を得た伊織が行動に出るか否かは別問題なのだが。 「でさぁ、もう大変だったの。コジロウの独断で警官ロボットが百二十八体も動いちゃって、至るところからクレームが じゃんじゃか来てさぁー。まあ、ノーマルな警官ロボット達は一時間もしないで戻ってきたらしいけど、それでも問題 であることには変わりないしぃー?」 一乗寺は三杯目の麦茶を飲み干してから、渋面を作って胡座を掻いている寺坂を揺さぶる。 「ねえ聞いてるぅ、よっちゃーん! おかげで事後処理の書類がわっさわさで、すーちゃんとさよさよに押し付けても 切りがないくらいでさぁー! でもって、更に面倒臭いことに、コジロウが小一時間で全滅させた変な組織の構成員 は全員死んでいたんだよぅ。あー、でもゾンビとかじゃないよ? コジロウは非殺傷設定が普通の警官ロボットよりも 強めだし、負傷させられるのは手足ぐらいなもんだしね。あれよ、この前、俺とよっちゃんが暴れ回った信者だらけの 集落の時と同じなの。あいつらはね、戸籍の上では全員死んでいるんだ。まあ、よっちゃんが殺したゾンビ人形の 娘はまた別ジャンルだろうけどね。しかも更に更に面倒臭いことに、連中、死んだ時期がバラッバラ!」 菓子鉢に手を伸ばした一乗寺は、煎餅を囓った。 「それってねー、たぶん、そいつらかその関係者が弐天逸流に入信した時期と照会しないと訳解んないと思うんだ。 でも、そっち方面に入れた工作員はことごとくやられちゃったみたいだから、情報が全っ然届かないんだー」 「そろそろ黙れよ、そして本題に入れ」 寺坂は一乗寺が垂れ流す情報を聞くべきではないと思っているのか、顔をしかめていた。根が善良な男だ。 「でね、なんかね、あのヘビ男が生きているっぽいの。まー、あの程度は死んだとは思っていなかったけど、あいつを 野放しにしておくのは俺でもさすがにアレかなーって思うんだ。でも、泳がせないとダメなんだよねぇ。その分人間は いくらか喰われちゃうかもしれないけど、仕方ないんじゃない?」 ねえいおりん、と話を振られ、伊織は顔を背けた。 「なんでそう思うんだよ、てめぇは」 「そりゃあまあ、いおりん達怪人が人間を喰っちゃうと、その分俺が殺すための取り分が減っちゃうのが勿体ないし つまんないけどさ、いおりんもヘビ男も必死じゃない。生きるために」 「あいつが死のうが生きようが、俺には関係ねーし。てか、どうでもいい」 「そりゃまー、いおりんを見ていれば解るけどね。いおりんもヘビ男も互いを捜そうとしないし、どっちもベッタベタした 仲間意識を持つようなタイプじゃないし? だけど、互いに殺し合おうとも思わないんだよねぇ。変なの」 俺だったら殺し合うけど、と笑う一乗寺に、伊織はぎちりと顎を噛み締める。 「殺し合ってどうなる。何にもならねぇだろうが、そんなもん」 「てぇことは何、いおりんには生存本能に直結した闘争本能ってないの? 同じアソウギを使って生み出された怪人 の失敗作を片付けていたのに、怪人に対してはムラムラっと来ないの? へーんなの」 おい、と寺坂が一乗寺をたしなめるが、一乗寺は身を乗り出してくる。 「だったらさ、俺のことは殺したいって思う? ねえ? 思うの、思わないの、どっちなの?」 「血の一滴も啜りたくねぇよ」 「そっかぁ、そうだよねー。んふふふぅ」 一乗寺は、特技を褒められた少年のようににんまりとした。いい加減にしやがれっ、と寺坂は一乗寺の後頭部を 引っぱたいたが、一乗寺の笑顔は消えなかった。一乗寺の素性は知らないが、この男は人間ではないな、と伊織は 本能的に感じ取っていた。倫理観が致命的に欠如していることもそうだが、匂いが違う。 「別に殺したっていいんだぞ、こいつのことなんか。血が飛び散っても、畳を張り替えりゃ済むことだ」 心底鬱陶しかったのか、寺坂はサングラス越しに一乗寺を睨め付けた。 「喰いたくねぇ奴を殺すほど、俺は馬鹿じゃねーよ。つか、俺に何を聞きてぇんだよ」 そのために来たんだろ、と伊織が付け加えると、一乗寺は不意に笑顔を消した。 「話せることを全部話してよ。その情報をどう生かすかは、俺達の匙加減一つなんだけどね」 「話すことなんて、ねぇよ」 伊織は天井を仰ぎ、あぎとを軋ませた。そもそも伊織は自分のことをべらべらと喋るような性分ではないし、喋った ところで何になると言うのだろう。けれど、こんな生活がいつまでも続かないのは解り切っている。寺坂の住まう寺 に居候していれば曖昧な立場を保てるが、政府が野放しにしておくとは到底思えない。フジワラ製薬は一連の争い から手を引いたが、それは伊織を放逐したという意味ではない。羽部共々、いずれ始末されるだろう。遺産が全て 佐々木つばめの手に渡り、支配されたら、体液の七割をアソウギに置き換えている伊織はどうなるのだろう。大量 殺人を何度も行ってきたのだから、ただの人間に生まれ変わらせてくれるはずがない。 伊織は伊織だ。藤原忠と藤原真子の血を引かず、その名前だけを受け継いだ、人間でもなければ虫でもない全く 別の生き物だ。だから、伊織が死せば、伊織という生き物が生きてきた記憶もまた失われる。それでいい、と以前 は思っていたが、好奇心に任せて本を読み漁ったり、分校に通っていると、自分が途切れてしまうのが惜しいと思う ようになっていた。その気持ちに任せて、伊織は語り始めた。 己の過去を。 十九年前、伊織は産まれた。 誕生の仕方からしてろくでもなかった。藤原忠と真子はお見合い結婚したが、それから何年もの間、二人は子供に 恵まれなかった。結婚して十年が過ぎても兆しすら現れなかったので、両親は病院で精密検査を受けると、どちら にも不妊の原因があった。それから両親は高額の治療費を消耗しながら不妊治療を繰り返し、真子は何度か妊娠 したもののすぐに流産してしまった。諦めるか、養子を取るか、そのどちらかを選べと両親は先代社長である祖父に 迫られた末に最悪の決断を下した。フジワラ製薬を発展させてきた異形の粘液、アソウギに頼ることだった。 アソウギと母親を交わらせる方法は乱暴だった。粘度が高いアソウギに身を浸しても胎内に入ることはまずないと 解っていたので、フジワラ製薬の医療班はアソウギを太いチューブに吸い上げ、それを真子の胎内に流し込んだ。 その苦しみは凄まじく、真子はひどく暴れた。その甲斐あって、真子は伊織を孕んだ。 それから、真子は下半身から伸びたチューブをアソウギ本体に繋げたまま十ヶ月を過ごした。真子の子宮で胎児 が育ちづらいことはこれまでの不妊治療で判明していたので、アソウギ本体から栄養分を得て胎児を育てる方法を 取った。その間、真子は当然ながら寝たきりで、人間ではない異物を妊娠した苦痛に耐えかねて自傷行為に走ろう とするのでベッドに拘束されたこともあったほどだ。 その間、父親である藤原忠が何をしていたのかと言えば、真子が妊娠したことを知って意気揚々と怪人増産計画に 拍車を掛けていた。研究員を増やし、被験者を増やし、予算を増やし、趣味に突っ走っていた。仕事帰りに真子の 病室を訪れるものの、寂しさと苦しさに参っている真子を尻目に自分のことばかりを話していた。日に日に真子の 態度が冷たくなっていったが、藤原はそれに気付こうとはしなかった。鈍感なのだ。 多量の出血と拒絶反応によって生死の境を彷徨いながら、真子は伊織を出産した。伊織と名付けたのは祖父で あったが、本当は違う名前を付けたかった、と幼い伊織を抱きながら真子が零したことがある。その名前がどんな 名前であるかは未だに知らないし、これからも知ることはないだろう。 産まれる前の記憶があるのは、伊織がアソウギと同調しているからだ。アソウギが見ていた記憶がそのまま伊織 の脳に染み込んだため、両親の馴れ初めや鬼の所業と言っても過言ではない妊娠の経緯を知っている。アソウギは 伊織を外部と接触するための端末として生み出し、長らえさせている節があるようだった。 母親の腕を喰い千切った時のことも、よく覚えている。あの日、伊織は飢えていた。ミルクや母乳の代わりに人間 の血を飲んで成長してきた伊織は、普通の赤子よりも若干成長が早かった。だから、一日に摂取する血液の量も 多く、輸血用の血液が何パックも空になった。血液凝固防止剤を混ぜた血液が入った哺乳瓶を何本も空にしては、 腹が減ったと泣いていた。その度に、真子は血生臭さで吐き気を催しながらも血液を哺乳瓶に移し替えては伊織に 銜えさせてくれた。その日は特に空腹が激しく、飲んでも飲んでも満たされなかった。 飢えと死への恐怖から泣き喚く伊織を、心身共に疲れ切った真子は抱き上げてくれた。母親の腕の中に収まった 伊織は安心感に包まれるよりも先に、天啓の如く閃いた。飲んでも満たされないのであれば、喰えばいい。丁度肉は 目の前にある、この女の肉だ。あの鉄錆の味がする肉だ。喰え、喰え、喰え、喰え、喰え。 腹の中で何者かが暴れ出したかと思うと、伊織は身を躍らせていた。真子のブラウスに包まれた痩せた肩に生えた ばかりの歯で喰らい付き、乳児らしからぬ顎の力で皮膚を噛み切り、筋を千切り、骨を砕き、真子の右腕を外して 床に落とした。傷口から迸る生温い血の奔流を浴びながら、伊織は母親の右腕ごと床に落ち、幼い体に加わった 痛みを気にする暇もなく、食欲に促されるままに喰った。一心不乱に喰っている最中、母親は這いずって逃げようと する。ひいひい、と悲鳴にすらならない引きつった声を漏らしながら、血を流しながら、玄関に逃げていく。 父親が帰ってきても、母親が救急搬送されても、伊織はまだ肉を喰っていた。いつのまにか生えていた牙を突き 立て、小さな胃袋に収まりきらない量のものを収めていった。途中で何度か吐き戻してしまっても、食べた。食べず にはいられなかった。食べていなければ、腹の中の化け物がまた暴れ出しそうな気がしていたからだ。 だから、喰った。 啜った血の量と貪った肉の量に比例して、伊織は成長していった。 外見だけは普通の子供と変わらなかったが、頭の中身は別だった。常にアソウギと同調しているせいで、父親が 時折連れてきては怪しげな生き物と合成させている人間の意識や記憶が流れ込んでくるのだ。だから、伊織が実際 に見聞きしていないものの知識や経験が、幼い体に染み付いていった。何をしてはいけないのか、どんなことをしたら 怒られるのか、どこに行ったら危ない目に遭うのか、ということが教えられるまでもなく理解出来た。 数百人の大人の記憶と意識と知識を備え持った伊織は、実に可愛げのない子供だった。表情も乏しければ愛想 もなく、大人に頼ることも甘えることもしなかったからだ。べたべたに甘やかしてくれるのは伊織を過大評価している 父親だけであり、それ以外の人間は伊織を恐れていた。人喰いなのだから、当たり前だ。 年齢を重ねた伊織は、フジワラ製薬の系列会社が経営している幼稚園に入れられた。母親や周囲の人間からは もちろん大反対を受けたが、父親が強引に押し切った。伊織はどうでもよかった。周りに子供がいようがいまいが、 なんとも思わないからだ。自分の世界が出来上がっていたから、今更教えられることもないと思っていた。 父親の部下が運転する車に乗せられ、玄関に可愛らしい装飾が施された幼稚園に送り届けられた伊織は、持病が あるからという名目で父親の部下に付き添われた。その時に飲まされた薬が、あの生体安定剤だった。 自制心もなければ知性の欠片もない幼い子供がぎゃあぎゃあと走り回る部屋の中に入れられた伊織は、自分が すべきことを見つけられずにぼんやりとしていた。部屋の隅で絵本を広げ、黙々と読むしかなかった。他の子供に 遊ぼうとせがまれるが、面倒臭いので振り払った。生体安定剤が効いていたおかげなのか、子供に対しては食欲が 湧かなかったからでもあった。そのうちに、幼稚園の先生が絵本を読み聞かせる時間になった。 昔々のお話。とっても怖い人喰い鬼が険しい山から下りてきて、小さな子供を見つけては、頭からむしゃむしゃと 食べてしまいました。村の人達は人喰い鬼に食べられてはいけないと子供を隠したので、村からは子供が一人も いなくなってしまいました。若い女性の先生が感情を込めて読むたびに、子供達がぎゃあぎゃあと騒いだ。 鬼はとってもお腹を空かせて村から村を回りますが、どの村の子供にも子供はいませんでした。そんな時、山道 で足を挫いた女の人と出会いました。女の人は人里離れた山奥に一人で住んでいたので、人喰い鬼の話を聞いたこと がありませんでした。だから、人喰い鬼と出会っても怖がりませんでした。鬼は女の人を捕まえて、食べてしまおう と自分の住み処に連れて行きますが、女の人はとても喜びました。なぜなら、女の人は今まで誰からも優しくされた ことがなかったからです。心の綺麗な優しい人なのに、生まれつき顔に痣があるせいで、鬼の子だと村中の人から 嫌われてしまったからです。子供達は息を飲み、女の人の行く末を案じた。 人喰い鬼は女の人と一緒に暮らし始めました。女の人はとても料理が上手で、毎日毎日、とっても美味しい御飯を 作っては鬼に振る舞ってくれました。人間よりもおいしいものがあると知った鬼は、心を入れ替え、女の人と一緒に 静かに暮らしていこうと決めました。そして二人はとても可愛い子供達に恵まれ、ずっと幸せに暮らしました。 おしまい、と先生が本を閉じると、子供達がほうっと安堵した。けれど、伊織は納得出来なかった。なぜ、その鬼は 女の人をその場で喰わなかったのだろうか。成人女性は体が大きくなっているし、力もあるから、幼い子供と違って 食べづらいからか。それとも、女の人の顔にある痣を見て、彼女も鬼呼ばわりされていることを悟って哀れんだから なのだろうか。自分であれば、その場で喰う。女の人を喰う。喰って腹を満たし、次の村を荒らしに行く。 幼稚園から帰った伊織は、夕食の席で父親にその話をした。母親は別の部屋で全く別のものを食べるので、同席 したことはない。あったとしても、記憶にない。伊織は誰かが病気か事故で切断した腕を囓りながら、言った。 「目の前にあるものを、なんで食べないのかが解らない」 子供らしからぬ口調で喋った伊織に、藤原忠は出来合いの弁当を食べながら返した。 「それはだな、投資だ」 「先を見通して行動すること?」 「まあ、そうだな。会社経営の中では重要だが、それ故に難しいことでもある」 藤原は塩気の強いソースが掛かったハンバーグを割り箸で切り、白飯の上に載せてから食べた。 「この御時世だ、何が受けるか解らんのだ。これは当たるだろうと思って広告も大々的に打って生産量を増やした 商品が売れ筋に乗らないこともあれば、勢いに任せて作ってみただけの商品が当たって在庫切れになることもたま にあるのだ。売れすぎても困るが、売れなさすぎても困る。利益を出すのは大変なのだ」 「だから、女の人を助けたのは投資?」 「そうだ。なぜならば、女性は子供を産むからだ」 藤原は付け合わせのマカロニサラダを食べてから、お茶を飲んだ。 「私を始めとした人間は繁殖行為によって産まれる。精子が卵子に受精し、子宮に着床し、細胞分裂を行って成長を 繰り返し、十ヶ月程で母親の体外に出る。伊織は……生物学的にも倫理的にも人間とは言い難いし、どちらかと いうとエイリアンシリーズのエイリアンみたいなものだが、雄だ。発達はしていないが生殖器もあるし、染色体もXとY がある。よって、伊織は単体繁殖は不可能だ。そもそも子宮が存在しないからな。だから、我々人間は異性と婚姻 し、生殖行為を行い、繁殖しては子孫を繁栄させていく。それが自然の摂理であり、世の常だ」 「だから、女の人を捕まえて、飼った?」 「ふはははははは、伊織はそう認識するのか。さすがは」 鬼の子だ、と藤原は口角を吊り上げた。鬼。自分は鬼なのか。 「その絵本が気に入ったのであれば取り寄せてやろうではないか」 「……ん」 そんなに欲しくはないんだけど、と伊織は言いかけたが口には出さなかった。新しい本を読むのは好きだからだ。 他人の知識や記憶だけでは補えないものが詰まっているし、世界の幅が広がるような気がして面白いからだ。 「だから、その人喰い鬼は女の人に次々に子供を産ませては喰っていることだろう。絵本の時代背景にもよるが、 昔は医療が未発達だったこともあって乳幼児の死亡率は格段に高かったのだ。どうせ山奥の二人暮らしだ、産婆を 呼ぶこともないだろうし、医者に診せるなんて考えも起きないだろう。だから、女の人が子供を産み落として心身共 に疲れ切っている間に喰ってしまうのだ。死産だった、とでも言えばどうとでも誤魔化せるだろうしな。一度知った味 を忘れられるものではない。増して、それが鬼であれば」 ハンバーグを切り分けながら、藤原は神妙な顔になる。 「人は皆、鬼だ。肉の味を知っているからだ」 「それって悪いこと?」 「少なくとも、私はそう思うのだ。肉の味はイコールで殺しの味だ。脂身を増やすために品種改良を重ねた動物は、 種として在るべき姿から懸け離れた異形なのだ。しかし、人間はそれを好んで喰う。特権階級である証しのように、 何かといえば肉を喰う。私も嫌いではないし、それがあるから成立しているビジネスも娯楽もある。だが、その肉を 口にするたびに業が鬱積するのだ。けれど、大抵の人間はその業を知ろうとはせん。自覚してすらいない」 「それもやっぱり、悪いこと?」 「そうではない、とも言い切れんなぁ。そうだ、とも言い切れんが」 藤原は曖昧な返事をして、冷めつつある弁当に箸を突っ込んだ。伊織は父親が食べているものが気になったが、 人肉以外は何を食べても激しい嘔吐と下痢に襲われるので、すぐに目を逸らした。どうせ食べられないのだから、 興味を持っても無駄だからだ。胃袋を満たすために、牙を剥いてどこかの誰かの腕に食らい付いた。 筋を千切り、皮を裂き、骨を砕き、凝固した血を飲み下す。口に入れた途端に劣化したL型アミノ酸がD型アミノ酸 に変換されていくのが解り、それを嚥下すると胃液が消化していく感覚が起きる。死の味だ。人喰い鬼はこの味を 知っているからこそ、女の人を助けた。自分の子供を産ませ、死産したと偽って喰うために、だ。合理的だ、と思う 反面、自分も人喰い鬼の子であれば良かったと思った。 幼稚園にはお弁当を食べる時間がある。子供達は、それぞれの母親が作ってくれた料理が入った可愛らしい箱 を出して広げ、騒ぎながら食べる。ゲームやアニメのキャラクターを模ったものや、質素ながら手の込んだものや、 いい加減ではあるが持たせてくれるだけマシ、というレベルのものまで。だが、伊織は食べられない。 何も、食べられない。 12 9/15 |