機動駐在コジロウ




オーガニックの心、子知らず



 ざ、ざ、ざ、と枝葉が揺れる。
 気配を殺し、息を殺し、風に紛れながら黒い影が跳ねていく。木々の間を渡る瞬間に漆黒の外骨格が眩しい陽光を 浴びるが、それは束の間に過ぎない。数枚の葉が散って地面に舞い降りた頃には、黒い影は空に吸い込まれて いった。淀みない体重移動によって枝を軋ませることなく、伊織は矢のように進み続けた。
 無心に、一心に、触角を立てる。濃密な夏の匂いで噎せ返りそうになりながら、ただひたすらに彼女を求めて前に 進んでいく。それが伊織の行動理念の軸であり、アソウギが生み出した道具としての本能とも言えた。だが、伊織が 守りたいと願って止まないのは佐々木つばめでもなければ佐々木家でもなく、吉岡りんねだった。
 それを恋と呼ぶのはあまりにも浅はかだ。類い希なる美貌を持つ少女に対する一抹の支配欲と、同じような道具 でありながらも人間に近しい振る舞いを許されていることへの嫉妬と、淡い思いに囚われてメグを喰い損なった過去 の自分を乗り越えたいという、複雑な感情が幾重にも絡まり合ったものだった。
 別荘の屋根が見えたので、伊織は太い枝に下両足の爪を食い込ませて制止した。丸木組みの大きなログハウスの 屋根越しに、ロータリーで暇を持て余している岩龍の姿が見える。話し相手がいないのか、一人で何かのごっこ 遊びに興じている。派手なセリフ回しと手振りから察するにヒーローの真似事らしいのだが、生憎、伊織は子供騙し のヒーローには興味がないので見当も付かなかった。

「お嬢……」

 無意識に呟きながら、伊織は目を凝らす。りんねの部屋は三階の南側だ。南側の木に飛び移るのは容易いが、 そのためには岩龍の頭上を飛び越えなければならない。人型重機と言えども、吉岡グループの有り余る資金を惜し みなく使って改造を施してあるのだから、伊織を捉えられるほど高性能なセンサーも搭載しているはずだ。外からでは 気配を感じるのは難しいが、高守信和も別荘にいるだろう。あの男こそ、油断出来ない。武蔵野はどうなのか、と 車庫を窺ってみるが、彼の愛車であるジープの影は見えなかった。外出しているのか。
 暑気が籠もった一陣の風が通り抜け、伊織の触角を揺らしていった。その中にかすかに混じっていた少女の匂い の粒子を感じた途端、伊織はざわりと神経が毛羽立った。りんねの部屋の窓が、開いているに違いない。別荘には 近付くだけに止めておくつもりだったのだが、居ても立ってもいられなくなった。
 次の瞬間には、伊織は肢体を踊らせていた。岩龍のセンサーや別荘の警備システムに引っ掛かるであろう位置 を掠め、本能と感情に従い、屋根へと飛び降りた。爪を立てながら上下を反転させ、三階の南側の窓を覗き込む。 風を孕んだレースカーテンが舞い上がると、触角に接する匂いの粒子が増大する。花よりも甘く、蠱惑的な少女の 匂い。レースカーテンが落ち着くと、開け放った窓の奥に彼女の姿が見えた。
 久々に目にした吉岡りんねは、夏を楽しんではいなかった。それ以前に、一人の時間を楽しんでいる様子もなく、 長袖で裾の長い紺色のワンピースにストールを掛け、一人掛けのソファーに身を沈めていた。これなら、一人遊び に興じている岩龍の方が余程生き生きしている。バッテリーを抜かれたアンドロイド、脳のないサイボーグ、といった 単語が伊織の脳裏を過ぎっていく。銀縁のメガネの下でりんねの眼球が動き、伊織に焦点を合わせた。

「い」

 伊織さん、と呼ぼうとしたのだろうか。だが、言葉は紡がれず、乾いた唇が半開きになっただけだった。

「邪魔するぜ」

 伊織は体をしならせると、レースカーテンが広がった瞬間を見計らってりんねの部屋に滑り込んだ。分厚い絨毯が 敷かれた床は伊織の体重を難なく受け止め、足音も殺してくれた。りんねは伊織を捉えるも、立ち上がることすらも 出来ないようだった。具合でも悪いのだろうか、と伊織が懸念しながら近付くと、りんねは震える瞼を細めた。

「お」

 お会い出来て嬉しいです、とでも言いたいのだろうか。伊織はりんねの前に片膝を付き、見上げる。

「どうした、お嬢。いつもみてぇにべらべら喋らねぇなんて、らしくねぇな」

「わ」

 私は大丈夫です、御心配なさらずに。そう言いたげに、りんねの瞳が動く。

「お嬢?」

 これはりんねなのか。これでは、りんねの姿形をした抜け殻のようだ。動揺した伊織が身動ぐと、りんねは口角を 上向けようとするが、頬の薄い皮膚が僅かばかり動いただけだった。汗ばんですらいない襟元が緩み、細い鎖骨が 垣間見える。そこには、あるべきものがなかった。銀の鎖の水晶玉のペンダントが下がっていなかった。
 あれは何かの特殊な装置で、りんねを支えているものだったのだろうか。ならばすぐに見つけ出さないと、りんねが 元に戻らない。伊織は部屋の中を窺うと、絨毯の毛並みに埋まっている水晶玉を見つけた。それを掴もうと伊織が 爪を伸ばすと、りんねが小さく呻いた。必死に眼球を動かし、触るな、とでも言いたげに見つめてくる。だが、これが なければ、りんねが。伊織は義務感に駆られ、黒く鋭い爪先で水晶玉を挟んだ。
 少女は、悲鳴にすらならない掠れた吐息を漏らした。




 曲がりくねった山道に、大型トレーラーが滑り込んできた。
 予定通りだ。武蔵野はリストバンドをずらして腕時計の文字盤を隠してから、食品会社の車両に偽装している大型 トレーラーと向き直った。愛車のジープの傍では、久々にフル装備を身に付けた鬼無克二が細長い手足を曲げては 武装の動作を確認している。少しでもはみ出せば崖から落ちかねないほど手狭な道に見合った幅の、申し訳程度 の幅しかない待避所に停車した大型トレーラーは、鋭い蒸気混じりの排気を噴出した。
 すぐさまコンテナが開き、コンテナを左右に揺らしながら輸送物が歩み出してきた。一歩進むごとにタイヤが大きく 歪み、サスペンションがぎしぎしと嘆く。それは外界に現れると縮めていた手足を伸ばして分厚い胸部装甲を張り、 直前まで充電を行っていたのか、外装を閉じて差し込み口を隠した。案の定、恐ろしく燃費が悪いようだ。

「よう」

 武蔵野が素っ気なく片手を上げると、巨体のサイボーグ、藤原忠は拳を固めた。

「見ての通り、私は力を手に入れたぞ! フジワラ製薬の裏金を三億も注ぎ込んだ甲斐があったというものだ!」

「うっわ、キモ」

 鬼無は肩を竦め、昆虫を思わせる腕で自分を抱き締めた。その感想は間違いではない、と武蔵野も思ったが 口には出さなかった。それが大人というものだ。新免工業に特注したサイボーグボディによって強大なパワーアップを 果たした藤原忠は三メートル近い巨体と化したが、その手足は過剰な武装によって二百キロ近い重量を誇るボディ を支えるためにおのずと太くなり、丸太が生えているようなものだった。それは大昔の漫画に出てくるロボットとよく 似ていて、人間工学を極めた現代のサイボーグとは懸け離れたロートルなシルエットだった。その上、光学兵器の バッテリーなどを背負っているために上半身が肥大化してバランスが悪い。機能を高めて突き詰めたボディを持つ 鬼無からすれば、産業革命時代の遺物を見ているような感覚になるのだろう。

「なんとでも言うがいい。まあ実際、これは見せかけだがな。こうでもせんと、我が息子は食い付いて来ない」

 あれで気が優しいんだ、と呟いた藤原に、鬼無は嘲笑する。

「えぇー? 大量殺人鬼のカニバリストのどこに優しさがあるってんですかー? キッモ」

「今まで、伊織が無駄に人間を殺した試しがあったか?」

 右腕の外装を開いてレーザーガンの銃身を伸ばして動作を確かめてから、藤原は鬼無を一瞥した。武骨で古風な マスクフェイスには、レトロな単眼型のスコープアイが備わっていた。いわゆるモノアイだ。

「あれは喰うために殺すのだ。それ以外は、私が命じて処分させただけだ。自分の意志で人間を望んで殺すことは ないのだ。それが我が子だ。先日、この近辺で伊織が若者達を捕食したようだが、あれは自衛行為を伴った捕食 行動なのだと判明している。あの若者達の携帯電話に残っていたSNSへの投稿ログやメールから察するに、彼ら は御嬢様の別荘にみだりに近付こうとしていたようだからな。伊織の感情表現は非常に極端だ。あれを人間として 育ててやらなかったのは、伊織自身の業と苦悩を深めないために情緒を発達させないためでもあったのだが、それ が果たして良かったのか悪かったのか……。いや、それはこれから解ることだな」

 いつになく真面目な口振りで、藤原は巨体を揺らしながら別荘を目指して歩いていく。

「私は大いに間違いを犯してきた。が、それを反省する気もなければ後悔する気も毛頭ない! 私は思うがままの 人生を謳歌出来たことを誇り、今までも、そしてこれからも、胸を張って生きていくからだ! しかし、吉岡グループ が所有する遺産であるコンガラは万物を無限に複製出来るものだ、それを用いて伊織が複製されでもしたら、私の 悪辣極まる人生が中途半端な結果を迎えてしまうではないか! 悪鬼として産まれ落ちた我が子を屠ることこそが 悪の真骨頂であり、越えざるべき一線を越えることとなるのだ! 故にだ、伊織を絶望の奥底に叩き落とし、殺して しまうのだ! ふははははははははは!」

「だが、あんた一人で大丈夫か? ろくな戦闘経験もないんだから、伊織と差しで戦えるとは思えんが」

「それについては心配無用だ! なぜなら私は、秘密兵器を携えているからだ! ああっ、なんと心地良い言葉の響き だろうか! 秘密なのに兵器、兵器だけど秘密、秘密にしているけど御披露目しなければ無意味な秘密!」

 誇らしげに高笑いする藤原は、いつもの調子に戻っていた。武蔵野は少々胸が悪くなった。

「んじゃー、俺は別行動ですからー。あのイカれた坊主と電脳女を適当にやっちゃってきますー」

 鬼無は草陰に隠していた大型バイクを引っ張り出すと、跨り、イグニッションキーを回した。

「俺も別の作戦があるんでな、ここで失礼するよ。本隊と合流しねぇと、コジロウと佐々木の小娘は捕らえられん」

 武蔵野が愛車を示すと、藤原は一旦立ち止まって指を折った。

「ふむ。だが、それではあの素っ頓狂な教師と脳みそがゆるふわ系の弁護士を確保する人員がいないように思える のだが。別働隊を編成してあるのかね?」

「余計な心配をするな。俺達はやるべきことをやるだけだ」

 武蔵野は藤原に背を向けると、歩調を早めた。事前に確保した情報に寄れば、佐々木つばめとコジロウは宿題の 一つである写生をするために連れ立って出掛けているようだった。先日、アソウギから再生された元怪人の人々を フジワラ製薬が造った療養所に移送する際には、コジロウは戦闘員として駆り出されて一時的につばめと距離を 置くことになったのだが、コジロウはつばめを気に掛けるがあまりに量産型の警官ロボットを遠隔操作してつばめ の護衛を行っていた。そんな芸当が出来るほど高度なネットワークを作ったのは、間違いなく設楽道子だろう。電脳体 となってアマラの能力を制御出来るようになってからは、これまで以上に力を発揮している。
 そのネットワークを阻害出来なければ、武蔵野の作戦は失敗する。他の人員が確保出来なくとも、佐々木つばめ だけは確実に身柄を取り押さえなくては。コジロウに対する対処方法も考え抜いた。これまでの戦闘で培ったデータを 元にして立てた作戦と、自分の実力を信じるしかない。
 今度こそ、確実に。




 清々しい夏空だった。
 船島集落を囲んでいる山々の上には、柔らかな雲が散らばる青空がどこまでも広がっている。どこの風景を切り 取ったとしても、いい絵になるだろう。スケッチブックと画材を入れたトートバッグを肩に掛け直し、つばめは木陰に 入って足を止めた。鳥肌が立つほどの涼しさが火照った肌を冷まし、全身に滲む汗を乾かしてくれた。
 写生の宿題を片付けるべく、つばめはコジロウを伴って船島集落近辺を散策していた。出掛けた時は朝早かった ので涼しかったのだが、日が昇るに連れて気温は上昇していき、陽炎が揺らぐほどの暑さになっていた。風通しが いいので、都市部のようなねっとりとした重たい暑さではないが、それでも暑いものは暑い。凍らせた麦茶を入れて きた水筒は大分溶けていて、道中で少しずつ飲んだので中身も随分と減っていた。

「どの辺がいいかなぁ」

 つばめはタオルで汗を拭ってから、景色を見渡した。長時間歩き回るので動きやすい服装にしたが、コジロウが 一緒となると、さすがにジャージ姿では気が咎める。なので、明るいピンクのTシャツにデニムスカートを合わせて、 その下に七分丈のレギンスを付けてスニーカーを履いた。

「ね、コジロウ。写生するなら、どのアングルがいいかな?」

 少し遅れて木陰に入ってきた警官ロボットに尋ねると、コジロウはマスクフェイスを上げて景色を見渡した。

「本官には」

「判断を付けかねる、でしょ? ふふ」

 つばめは彼のお決まりの言葉を先に言ってから、木陰の奥に進んで石段に腰掛けた。朱色が剥げた古びた鳥居 に守られている石段は細く長く続いているので、この先には神社があるのだろう。

「ね、こっちに行ってみようよ」

 興味が湧いてきたつばめが立ち上がり、促すと、コジロウは従った。

「了解した」

 二人で並んで鳥居をくぐり、つばめが無意識に手を伸ばすとコジロウも手を伸ばしてきてくれた。彼の太く硬い指を 二本だけ握り締めると、不意に照れ臭くなった。意識してしまうのはいつものことではあるが、郷土資料館に行った 際に勢い余ってキスをしたことまでも思い出してしまうからだ。だから、手を離して距離を置こうとは思うが、コジロウ の手を離したくないとも思ってしまうから、結局はいつもの構図に落ち着いていた。
 苔生した石段の左右には雑草が生い茂り、コオロギか何かの虫が鳴いている。つばめのスニーカーを履いた足が 石段を一つ登ると、コジロウの角張った足が石段を一気に三段も登っていく。なので、コジロウはつばめとの間隔を 開けすぎないために歩調をかなり遅くしてくれていた。おかげで、石段を登り切ったのはほぼ同時だった。
 もう一つの鳥居を潜ると境内に至り、視界が開けた。苔と雑草による緑の絨毯に囲まれているのは、今にも倒れて しまいそうな朽ちかけた御社だった。風化しかけた御社の門柱には、文字が刻んであった。叢雲神社。

「って……ああ、あれかぁ」

 少しの間を置いて、つばめはこの神社が何なのかを思い出した。郷土資料館で聞かされた戦国時代の妖怪譚を 自分なりに突き詰めて調べた際に、叢雲神社の名前が出てきたのだ。憎悪と執念に狂う女郎蜘蛛を、藩主である 荒井久勝が退治する時に雨を降らせてくれたのが、長らくこの土地を守ってくれていた水神の叢雲であった、という 伝承があったのだ。それ以外にも叢雲の伝承は残っていたが、いずれも農民達を土砂崩れや嵐から守ってくれた 神々しく慈悲深い龍神、という内容だった。
 けれど、それは昔話に過ぎないのだろう。今では誰からも見向きもされなくなったのか、叢雲神社の境内は雑草が 伸び放題で落ち葉も散乱している。賽銭箱の中身は空っぽで、鈴も錆び付いている。土埃を被った縄を掴んで軽く 振ってみるも、中もひどく錆びてしまっているのか、ごろごろと鈍い音がした。

「この神社が荒れちゃったのって、やっぱり集落に人がいないからだよね」

「そうだ。かつては船島集落の住民が持ち回りで手入れを行っていたのだが、前マスターが船島集落の土地を全て 買い上げて住民を退去させたため、手入れを行う人間がいなくなったからだ」

「お爺ちゃんは、コジロウにそういう仕事は命令しなかったの?」

「本官が命じられたのは、前マスターの身辺の警護と介護だ」

「そっか」

 つばめは御社の階段に腰を下ろし、境内を見渡した。セミの声が全方向から降り注いでいるが、背の高い杉の木 に囲まれているので日差しはほとんど届かなかった。コジロウはつばめの隣に腰掛けようとしたが、古びた板では 彼の体重は支えきれなかったらしく、ぎぎぃ、と嫌な音がした。途端にコジロウは腰を浮かせ、直立した。

「あの学芸員の人は言っていることが極端だったけど、間違いじゃないんだよなぁ……」

 つばめは木漏れ日を仰ぎ見、憂う。

「正しいことをしているつもりはないけど、悪いことをしているつもりもないんだよ、私は」

「だが、学芸員はつばめに明確な悪意を持っていた。よって、本官の行動は」

「うん。コジロウが守ってくれたのは正しいし、嬉しいよ。でも、私が何もしないままでいると、もっともっと悪いことが 起きるような気がするんだ。だけど、何をしたらいいのかが解らないの」

 つばめはコジロウを手招きすると、その腹部装甲に額を当てた。外気よりも熱い、機械熱が籠もっていた。

「私も遺産を使って変なものを作って、襲ってくる連中にやり返せばいいの? それとも、遺産を全部集めてタイスウ の中に収めておけばいいの? それとも、全部放り出して逃げればいいの? だけど、それはどれも嫌だよ」

 不安に任せて、つばめはコジロウの腹部に腕を回す。抱き締められないほど、彼の腰回りは立派だった。

「一番嫌なのは、コジロウが壊れることだよ。でも、コジロウが戦ってくれないと、もっともっとひどい目に遭っちゃう。 私だけじゃなくて、お姉ちゃんやミッキーもひどい目に遭っちゃう。だけど、私が何をしたら、遺産争いが止められる のかが解らない。一生懸命考えようとするんだけど、全然思い付かないんだ。……ごめんね」

「つばめが謝罪する理由はない」

 コジロウはつばめを押しやって離してから、身を屈めて目線を合わせてきた。

「あるよ、一杯。ありすぎて、自分で自分が嫌になる」

 つばめはコジロウの赤いゴーグルから目を逸らし、スカートの裾を握り締める。

「私はお金が欲しかったの。一人で生きていけるように、誰の力も借りずに済むくらいの、山ほどお金が欲しいって 思ったから遺産を相続しようって決めたんだ。吉岡りんねとその部下に襲われるようになっても、お金が欲しいって 気持ちは変わらなくて。コジロウが命懸けで私のことを守ってくれるから、余計にそんな気持ちが大きくなってきて。 でも、お金があったって、良いことなんて何もないんだよ。探偵とか興信所とかに頼んで探してもらおう、ってずっと 考えていたんだけどさ、こんな状況じゃお父さんもお母さんも出てきてくれないよね、きっと」

「つばめは両親に会いたいのか」

「当たり前だよ。お姉ちゃんのお父さんとお母さんはいい人だし、とっても可愛がってくれたけど、お姉ちゃんと私とで 扱いが違うことがたまにあってさ。そういう時に、本当のお父さんとお母さんに会いたいなって思ったんだ。だけど、 どこにいるのかも解らないから、パンダのコジロウにね、どこにいるんだろうね、会いたいね、って話したの。それで 少しは気が収まるし、パンダのコジロウは私を慰めてくれたから。まあ、私の想像に過ぎないんだけどさ」

 冗談めかして笑おうとするが、つばめは次第に声が詰まってきた。両親の名前は祖父の死亡届に記載されていた ので知ったが、それだけに過ぎず、顔も知らなければ声も知らない。祖父の部屋や仏間を探したが、両親の写真は 一つもなかった。結婚式の写真すらも見つからなかった。なぜ、生まれて間もないつばめを備前家に預けていった のだろう。余程深い事情があったのか、それともつばめが生まれて困ることでもあったのか、或いはつばめの出生 自体を望んでいなかったのか。考えれば考えるほど、嫌なことばかりを思い描いてしまい、喉の奥が痛んだ。

「つばめ。本官はつばめの傍にいる」

 コジロウの大きな手が肩に添えられると、つばめはその手を取って頬に寄せた。

「お父さんとお母さんが見つからなかったら、コジロウが私の家族になってくれる?」

「無論だ」

「そう言ってくれるだけで嬉しいよ。コジロウには、家族が何なのかは解らないだろうけど」

 私もよく解らないんだけどね、とつばめは茶化して笑おうとしたが、唇が震えてきて口角が上手く上がらなかった。 すると、コジロウは片膝を付け、つばめの額に自身の額を当ててきた。そして、背中に手を回してきてくれた。その 仕草に、つばめは今にも破裂しそうだった不安が緩み、溶けていった。

「本官は最善を尽くす。よって、つばめも最善を尽くせばいい」

「うん。頑張る」

 つばめは滲みかけた涙を拭ってから、笑顔を見せた。コジロウはつばめを離すと、了承したというように頷いた。 が、コジロウはあらぬ方向に顔を背けてしまった。まるで、恥じらっているかのようだった。そんなわけがない、彼が 抱き締めてくれたのはつばめの真似をしたからだ、そもそもコジロウには感情なんてない、と、つばめはコジロウの 横顔を見上げながら甘ったるい考えを否定した。どうせこの恋は片思いで終わるのだから、過度な期待を抱かない 方が傷付かずに済む。小さな棘が胸を刺したが、振り払った。

「一休みしたことだし、写生しに行こう!」

 つばめは照れ臭さと甘ったるい余韻を振り払うため、トートバッグを振り回しながら境内の外に駆け出していった。 コジロウはつばめの少し後ろに付いてきた。二人が石段を下りるペースは登る時と全く変わらず、石段から下りて 鳥居を潜ったタイミングは同時だった。薄暗い木陰から白むほど明るい日差しの下に、つばめが躍り出た。
 その時、一発の銃声が響いた。





 


12 9/22