機動駐在コジロウ




オーガニックの心、子知らず



 少女の悲鳴に驚いた伊織は、水晶玉を掴み損ねた。
 伊織が振り返ると、りんねは唇を歪めて何かを伝えようとしている。やはり声はほとんど出せないらしく、唇は動く が舌は引きつっていて、彼女の意志は言葉として紡がれずに空しく空気が漏れるだけだった。伊織は水晶玉を床に 転がしたまま、りんねに近付いた。伊織の黒い影が掛かると、りんねの面差しが心なしか綻んだ。
 二人分の体重を受けて、一人掛けのソファーが軋んだ。弱い風で翻ったレースカーテンが薄い影を作り、りんねの 乱れた黒髪の毛先が脆弱に揺れる。少女らしからぬふくよかな胸元が上下し、何度も呼吸を繰り返す。彼女は懸命に 言葉を発しようとするが、ぇあ、うぉ、というような母音同士が辛うじて連なったものしか出せないようだった。

「お嬢、何があったんだ?」

 伊織の問いに、りんねは眼球を左右に動かす。首を横に振る代わりだろう。

「何もなかった、って言いてぇのか?」

 りんねは瞼を閉じる。肯定だ。

「じゃ、お嬢は元からこうだったってのかよ?」

 瞼は閉じたままだ。

「けど、お嬢は理屈っぽいことをべらべら喋りまくっていたじゃねぇか。自分で動いて、俺達にずばずば命令して」

 瞼が開き、眼球が動く。否定だ。

「それじゃ何か、誰かがお嬢の体を間借りしていたとでも言いてぇのかよ?」

 瞼が閉じる。肯定だ。

「意味解んねぇ……」

 伊織はよろけ、後退る。自分自身も非常識な存在だと解っているが、身動き一つ出来ないりんねが伝えてきたこと はまるで理解出来なかった。りんねの返答が正しければ、ついこの前まで伊織が接してきたりんねは本当のりんね ではなく、別人がりんねとして振る舞っていた、ということになる。だとすれば、伊織が焦がれていた相手はどこの誰 だというのだ。そもそも、本当のりんねとは何なのだ。混乱した伊織は、もう一歩後退した。

「もしかして、これがお嬢を操っていたのか?」

 伊織が水晶玉を指し示すと、りんねは瞼を閉じる。眉間が歪んでいて、明らかに苦しげだった。それでも、りんねは 自分自身の意志を伝えようとしてくる。伊織は水晶玉のペンダントとりんねを見比べ、触角を上下させた。ならば、 この水晶玉も遺産の一つなのだろうか。だが、伊織の知る限りでは遺産は七つだ。八つ目があるという情報は 聞いたことすらなく、そんなものがあるとすればフジワラ製薬を始めとした企業や組織が感付くはずだ。現代の技術 ではまず生み出せないオーバーテクノロジーを用いた製品を生産したり、企業の規模には見合わない業績を急激 にアップさせることがあれば、遺産に通じている者達はおのずと察しが付く。吉岡グループは、コンガラを使用して 自社工場の生産能力を超える生産を行って市場を独占しているが、コンガラ以外の遺産を有し、事業に用いている ようには見えなかった。遺産同士であれば、遺産から生まれた伊織は本能的に感じるものがある。だが、りんねが 常に身に付けていた水晶玉からは何も感じ取れなかった。ただのアクセサリーだとしか認識していなかった。
 触れてみれば真偽が解る。だが、りんねは頑なに触れるなという態度を示す。伊織は若干逡巡したが、かつての 主の判断に従うことにした。伊織が水晶玉から離れると、りんねの表情は明らかに緩んだ。

「なんで俺がここに来たのか、解るか」

 伊織が胸郭を震わせて穏やかな言葉を連ねると、りんねは不安げに眼球を彷徨わせた。

「お嬢を殺しに来たわけじゃねぇ。喰う気もねぇ。アソウギが佐々木の小娘の支配下に置かれたことで、俺もあいつの 持ち物になったらしいが、従うつもりは更々ねぇ。俺は」

 不意に、別荘全体が震動した。咄嗟に伊織はりんねを抱えて飛び退くと、伊織が今し方まで立っていた場所の床 が真下から破壊された。床板と太い梁を粉々に砕きながら現れたのは、ずんぐりとした巨体の機械だった。それは 両足の噴射口から青い炎を走らせて三階の床に軟着陸すると、半球状の頭部の単眼を動かして伊織に定めた。

「んだよ、てめぇは」

 伊織が身構えると、巨体の機械は肩を揺すって笑った。

「ふははははははははは! そうだろう解らんだろう、だがそれがいい、それこそ私が望んでいたリアクションだ!」

 こんな言い回しをするような輩は、一人しか思い付かない。伊織は片方の触角を曲げる。

「……親父?」

「ってああっ、そんなにあっさりと看破しないでくれないか! 奇襲を仕掛けてきた相手の正体が友人や肉親や恩師 でしたーっとなって、躊躇ったり迷ったりする展開になるためにはもっとこう前振りが必要ではないか! だが、看破 されてしまったのであれば仕方ない! さあ伊織、私に聞きたいことがあるだろう!」

 巨体のサイボーグと化した藤原忠は太い指を上げ、伊織を指し示す。が、伊織は複眼を背けた。

「別に。興味ねーし」

「腹を撃ち抜かれたのになんで生きているんだろう、とか、なんでサイボーグになったんだろう、とか、ほらぁ!」

「別に。てか、俺、親父が撃たれたことは知らねぇし」

「ああっ、そういえばそうだったぁっ! 私が撃たれた時、お前はドロッドロになっていたもんなぁ! 一生の不覚!  時系列調整のミス! うおおおおっ!」

 余程悔しいのか、藤原は円筒形の腕を振り回して壁を叩いた。腕力が有り余っているのか、簡単に壁が抉れた。

「用事がねぇんなら、俺、帰るけど」

 伊織はりんねを抱えて藤原の脇を通り過ぎようとするが、藤原は伊織の足に縋り付いてきた。

「そんなことを言わずに、もうちょっと私の相手をしてくれたまえ! 伊織との再会の時にはああ言おう、こうしよう、と 何度も脳内リハーサルを重ねていたのに、本番がこれでは寂しいじゃないか! というか、どさくさに紛れて御嬢様 をどこに連れて行くつもりだ! それ以前にどこに帰るつもりだ!」

「教えるかよ、そんなもん」

 寺坂ならば、りんねも受け入れてくれる。そう判断した伊織は、父親の機械の腕を蹴り飛ばしてから、別荘の外に 出ようと窓枠に足を掛けた。が、藤原は右腕を上げて銃口を伸ばし、伊織が飛び出そうとした窓を狙撃した。太い 熱線を浴びた途端に窓ガラスは粉々に砕け散り、木製の窓枠には円形の大穴が開いた。伊織が複眼の端で父親 の姿を捉えると、藤原は床板を軋ませながら直立し、バックパックにコードが繋がっている両腕を上げた。そこには、 光学兵器と思しきレンズの付いた銃身が生えていた。

「クソ親父のくせに俺とやるってのか? 面白ぇ」

 伊織はりんねを背負うと、短めの中両足で彼女の手足を掴んで支えてやりながら、戦闘態勢を取った。

「悪いことは言わん、伊織。その御嬢様は捨てておけ」

「親父に命令される筋合いはねーし! つか、俺はお嬢に買われたんだよ!」

「その御嬢様が本物でないことは、お前も薄々感づいているだろう?」

 藤原の単眼が蠢き、りんねの首筋を見据えた。伊織はぎくりとしたが、平静を保った。

「俺は佐々木のメスガキの道具に成り下がるより、お嬢の部下でいる方が性に合うんだよ! ウッゼェな!」

「吉岡グループが有するコンガラが無限複製能力を持っていることは、伊織も知っているな?」

 藤原は大股に歩いてくると、伊織ではなく、その背中に担がれている少女の額に銃口を据えた。

「んなもん、どうだっていいだろ!」

 伊織はすかさず藤原の銃口を払って後退するが、藤原の照準は変わらなかった。

「伊織。お前が高校に通っていた頃に執心していた少女のことを覚えているか?」

 メグのことか。だが、いつのまにそんなことを調べた。伊織は凄まじい羞恥心と共に苛立ちを覚えて、顎を開いて 呻いた。藤原は両腕の光学兵器にエネルギーを充填させながら、人型軍隊アリの息子に語り掛ける。

「お前は彼女の名前を知ろうとしなかったようだが、私は調べたさ。あの少女がお前に喰われたら、その親御さんに 賠償金を払わなければならないからな」

「ウゼェ」

 りんねの体温を背中に感じながら、伊織は精一杯の意地で毒突く。外骨格に包まれている柔らかな内臓をヤスリ で削られるかのような痛みと、毒を飲み下したかのような苦々しさが体液を汚す。出来ることなら、メグに対する淡く 儚い感情には触れてほしくなかった。それが親であるならば、尚更だ。

「いいから黙って聞け、伊織!」

 藤原は一度視線を逸らし、木片の散らばる絨毯に埋もれている水晶玉を見咎めた。

「お前のクラスメイトの名前は、吉岡めぐりだ」

 メグミではなかったのか、と伊織は意外に思ったが、その名字を知って更に驚いた。

「吉岡っつーことは、メグは」

「そうだ。今、お前が背負っている、吉岡りんねのベータ版とも言うべき少女なんだ」

「で、でもよ、俺は十九で、お嬢は十四で」

「年齢が合わないよな? 私も最初はそう思ったさ。だが調べたんだよ、徹底的に。用務員に金を渡して汚物を回収 させ、彼女の遺伝子情報も洗い出したんだ。するとどうだろう、吉岡家の娘達に一致するのさ」

「お嬢は一人娘だろ?」

「戸籍の上ではな。だが、吉岡家の娘達が生まれた時期も、場所も、外見も、性格も、何もかも異なるのに遺伝子 情報だけが同じなのさ。コンガラが複製しているんだよ、より優れた吉岡家の娘を完成させるために。そこの御嬢様 の知能がやたらと高いのも、子供らしくない言動なのも、過去の御嬢様達が積み重ねてきた経験や記憶が後続の 個体に継承されているからなのさ。年齢なんて外見をいじればどうにでもなるし、人生経験の有無は他人の情報を 使うことでいくらでも補えるし、あの吉岡グループであれば戸籍上の情報をいじるのも造作もないことさ。だが、私は 決して騙されはしない。なぜなら、私はこれまで吉岡グループから買い付けてきた生体安定剤を全て保管し、分析 し、解析していたからだ。生体安定剤の中身が御嬢様の血肉であることは、伊織も知っているだろう?」

「……ああ」

 そうだ。それを体で知っていながら、喰い続けていた。罪悪感に駆られた伊織が唸ると、藤原は言う。

「問題は、その御嬢様方の使い道だよ。ただのクローン体であれば外見を変える必要もないし、違う経験を与えて 自我を成長させる必要もないし、そもそも御嬢様方を別人として振る舞わせる意味がない。吉岡りんねの影武者 であるならば、全く同じ外見の複製体で充分だ。だが、そうじゃないんだ」

 誰かが御嬢様の人生を繰り返させているんだ、と藤原は語気を強めた。そこに何の意味がある。誰が得をする。 当のりんねがこんなにも苦しそうなのに、人間らしく振る舞えていないのに、操り人形として生きることしか許されて いないのに。伊織は腹の底で衝動が燻り、ぎちり、と顎を噛み締めた。

「放っておけば、伊織もコンガラで複製されるかもしれん。そして、御嬢様の人生の一部に組み込まれるかもしれん のだ。それを思うと、私は胸が痛む。ただでさえ、伊織の人生は不条理で不本意で不合理だから、これ以上の不幸 を与えてしまうのは心苦しい。が、しかぁしっ!」

 しんみりとしていた口調を一変させ、藤原は両腕を突き上げた。

「それがどうだというのだっ! 伊織がどれだけ可哀想な身の上であって、御嬢様がどれだけ惨い仕打ちを受けて いるとしてもだ、それと私の最大にして最強の楽しみを天秤に掛ければ、私の楽しみの方が遙かに比重が重い!  というわけであるかして伊織よ、哀れな身の上のお前とそこの少女を共に殺してやろう! 悪役らしく!」

「このクソ親父が」

 長々と語っておいて、結論はやはりそれか。伊織が威嚇すると、藤原は高笑いする。

「ふははははははははははっ! いいか伊織、これもまた御約束の世界だ! 悪役ってぇのは大事な戦いの前に いっちいち長い自分語りをするものであって、ついでに重大な情報をボッロボロと零すものであって、一抹の同情を 誘ったくせに非人道的な言動を取るものであってだな! 更についでに言えば、伊織、お前は御嬢様自身に魅力を 感じて心を動かされているわけじゃないんだぞ! お前はその姿形の通りの軍隊アリであり、アソウギの端末の一つ に過ぎないのだ! だが、特別な感情を抱いていることには変わりない! それを叩き潰すのが楽しみで楽しみで 仕方ないから、私はテンションが上がりまくってどうしようもないのだ! 青天井なのだ!」

「いいから、黙れよ」

 伊織はりんねを背負い直すと、巨体のサイボーグと向き合い、爪を上げた。

「ふふん、そう来なくちゃ面白くないぞ! お前の目の前でその御嬢様の頭を叩き割る、という絵コンテもシナリオも 脳内に繰り広げていたのだが、お前が吉岡めぐりと同様に御嬢様に特別な感情を抱いていると仮定したシナリオも 組み立てておいてよかったなぁ! おかげで私はフジワラ製薬の技術者の優秀さを自慢することが出来たばかりか、 吉岡グループに関する重要機密情報を垂れ流しにすることが出来た! ああっスッキリした!」

 今までになく饒舌な藤原は、腰を落として四股を踏むように太い足を広げる。

「やり合う前に、一つだけ、俺から聞いてもいいか?」

 伊織が問うと、藤原は快諾した。

「おおっいいぞ! 取っ組み合いながらべらべらと長話をする余裕なんて、現実にはあるわけがないもんな! 漫画 の大ゴマかアニメや特撮の長尺では頻繁に見られるシーンではあるが、あれって不自然の極みだもんな! そんなに 頭が回るんだったら、さっさと手を動かして次の攻撃に移れって思うもんな! 特にラノベになると、必殺技を一つ出す だけで解説の地の文でページが半分ほど真っ黒に!」

「いいから、俺の質問にだけ答えりゃいいんだよ!」

「少しは喋らせてくれないか、やっと出番が来たんだから。で、なんだ?」

 話を中断させられたのが面白くないのか、藤原は不満げに問い返してきた。

「クソ親父がアソウギで俺を作った目的は何なんだ?」

 藤原忠を殺してしまえば、聞き出す機会はなくなるからだ。伊織の問いに、藤原は肩を竦める。

「我が子が欲しかったんだ。それだけなんだ」

「嘘吐け」

「それを嘘だと思うのなら、思っておくがいいさ。この辺で愚にも付かないけど一部の人種は楽しんでくれるであろう 会話を断ち切っておかないと、展開もダレてくるからな。そういえば、伊織とは外で遊んでやったことがなかったな。 お前が人間でないからというのもあるが、私の仕事が忙しかったせいで、父親と息子のキャッキャウフフの象徴とも いえるキャッチボールすらしたことがなかった。まあ、私は運動は得意ではないから、楽しくはないだろうが」

 と、いうわけでだっ、と藤原は叫んだ直後、両足のスラスターを全開にして猛烈な粉塵を巻き上げた。

「お父さんと一緒に外で遊ぼうじゃないかあっ!」

 巨体のサイボーグによる超重量級の体当たりを喰らい、伊織は窓を突き破りながら外界に吹き飛ばされた。頑丈な 積層装甲は加速によって重量を増し、伊織は受け止めることすら出来なかった。次の瞬間には、真昼の高い空を 仰ぎ見ていた。山からの吹き下ろしで触角が靡き、濃厚な夏の匂いを絡め取る。
 我に返った伊織は上下を反転させ、背負っていたりんねを抱え直すと、地面に叩き付けられる前に手近な杉の木の 枝に飛び移った。枝に爪を食い込ませると、二人分の重量を受けて枝葉がしなる。その枝が加重に負ける前に 再度蹴り、別の木に飛び移った後、ロータリーに舞い降りた。下両足を曲げて落下のダメージを軽減させたが、 それでも逃がしきれないダメージが外骨格と瞬膜を歪ませてくる。

「何があったんじゃい!? 姉御、どげんしたんじゃ!」

 キャタピラを鳴らしながら駆け寄ってきた岩龍に、伊織は喚いた。

「この木偶の坊が、なんであのクソ親父を別荘に入れやがった! その図体は飾りかよ、役立たずが!」

「わあっ、そげん怒らんでくれんかぁ! ワシャあ、兄貴の親父さんが突っ込んできた方向とは反対側にいたんじゃ けぇ、気付いた時には壁をぶち抜かれとったんじゃあー! ひぃーん!」

 岩龍は両腕で頭を抱え、半泣きになった。伊織は岩龍の相変わらずの幼さに腹が立ちそうになったが、今は岩龍 に怒っている場合ではないと思い直し、背負っていたりんねを差し出した。

「おい木偶の坊、お嬢を預かっておけ。俺がクソ親父をぶっ殺すまでの間、てめぇがお嬢を守れ」

「ワシがかいのう?」

「他に誰がいる。さっさとしろ!」

「お、おう」

 岩龍は精一杯腰を曲げて片手を差し出してきたので、伊織は分厚く巨大な金属の手に少女を横たえた。りんねは 弱々しく瞼を開き、声にすらならない吐息を零しながら、伊織の上右足を離すまいと指を掛けてきた。その手に力は 一切なく、死に瀕しているかのようだった。伊織はりんねの手を握り返してやりたくなったが、それは父親と遊んだ後 にしてやるべきだ。岩龍がガラス細工を扱うような仕草でりんねを手に収め、ロータリーの隅まで後退ったのを確認 してから、伊織は三階の壁に空いている大穴を見上げた。

「どちらかが倒れ、どちらかが残る! って、一度言ってみたかったのだ!」

 藤原は断熱材の切れ端が零れ出ている大穴に足を掛けると、タンクのような円筒形の胸を張った。

「今こそ、中途半端な位置付けでふらふらしている我が息子に悪役の素晴らしさを体に叩き込んでくれよう! なぜ 人は悪役を欲するのか、そりゃカタルシスが好きだからだ! なぜ怪人の方がヒーローよりもデザインが格好良い のか、そりゃ悪役が格好良くないとヒーローが引き立たないからだ! なぜヒールのプロレスラーがベビーフェイス になったら評判がイマイチになるのか、そりゃ悪い方がキャラ立ちもするし見栄えが良いからだ! 正義だ愛だのと 謳うくせに人間はことごとく道を踏み外すのか、そりゃ人間の本質が悪だからだ! 欲望を理性で抑え込むことは、 文明社会にとっては必要であり美しいかもしれんが、不自然なのだ! よって、悪こそがこの世の真理!」

 とおっ、と穴から身を躍らせた藤原は落下し、ロータリーのアスファルトに着地した。その瞬間に両足のスラスター で逆噴射を行ったが、出力が足りなかったのか、両足がめり込んでアスファルトにヒビが走った。熱風混じりの粉塵 が落ち着くと、藤原は銀色の巨体を見せつけるように両腕を広げた。伊織は腰を落とし、ぎち、と顎を鳴らす。
 藤原忠という人間は伊織の父親であり、人間から生まれた化け物である伊織を息子として認めてくれたばかりか、 捕食すべき人肉も毎日用意してくれた。伊織が人間に混じって生きようとしていた頃も、高価な生体安定剤を大量 に買っては伊織に渡してくれた。食人鬼であり殺人鬼でもある伊織の人格を尊重してくれたのも、藤原忠ただ一人 だった。だが、その男は快楽主義者だ。伊織を育ててくれたのも、伊織という化け物を養育するのが楽しいと思った からなのだろう。そして今も、伊織と共にりんねを嬲り殺しにすることで快楽を得ようとしている。
 外道だ、と伊織は内心で吐き捨てて憎悪を燻らせた。伊織は、人間を殺すことに快楽を覚えたことはない。人間を 捕食する際に食欲が満たされる充足感こそ感じるが、殺戮にも、蹂躙にも、快楽は覚えない。増して、悪行など以ての 外だ。それなのに、この男は自分を満たすためだけに他人を踏み躙っている。
 正義と呼ぶには禍々しい衝動が、伊織の体液を煮立たせた。





 


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