夏の昼下がりほど、気怠いものはない。 散らかり放題の職員室で、一乗寺は書類とゴミが雑然と積み上がっているデスクに向かっていた。ホログラフィー のカレンダーを見てみるも、今日はまだ八月の上旬だ。夏休みが終わるまでには二週間程度もあるので、つばめ が分校に登校してくるのは当分先になる。それまでは、退屈でどうしようもない。教師の仕事は、慣れてくると面白い ものだからだ。つばめは物事の飲み込みが良く、頭の回転が早い生徒だから、というのもあるが、手応えがあると 遣り甲斐が出てくる。教えたら教えた分だけ、理解してくれるし、理解してくれたらその次も教えてやりたくなる。 「……あ」 一乗寺はふと違和感を覚え、身を起こした。 「いおりんが死んだ!?」 埃っぽく粘ついた空気に広がった叫びが消え失せても、違和感は消えず、一乗寺の血流の鈍り切っていた肉体に 活性を与えてきた。神経がざらつき、内臓が熱してくる。一度深呼吸して気分を落ち着けようとするが、無理だった。 一度、感じ取ってしまったものは排除出来ないからだ。抗うのを諦め、一乗寺は瞼を閉じた。 意識の端、無意識と意識の狭間、肉体と精神を繋ぐ脆弱な糸。それらが掠め取った情報が映像となり、一乗寺の 意識を侵食してくる。アソウギと父親の束縛から脱して己の人生を選ぼうとしていた藤原伊織と、僅かばかりの自我 だけを救いにして長らえていた吉岡りんねの末路が、二人の断末魔が、一乗寺を責め立ててくる。どちらも互いを深く 思い遣っていて、痛くないか、辛くないか、と案じてばかりいる。それを振り払おうとしても出来ず、伊織とりんねの声が 一乗寺の心中に響き渡ってくる。どちらも遺産の産物だから、一乗寺と互換性があるのだ。 「あーくそー、リア充共めぇ」 そうやってふざけた語彙で毒突かないと、やっていられなかった。いつも、こうだからだ。 「そうやって死んでもイチャイチャしてろー、ぶっ殺したくなっちゃうぐらいになぁ」 デスクの上に転がしてある拳銃を取り、弾丸を装填済みのマガジンを差し込んだ。テレパシーというには限定的 で、特殊能力と言うには弱すぎて、使い道すら見当たらない。伊織とりんねのような遺産の産物の思考が、アマラ の量子コンピューターが存在している異次元宇宙を経由して一乗寺の精神に流れ込んでくるのは毎度のことなので、 多少は受け流せるが、フジワラ製薬がアソウギを用いた怪人増産計画を行っていた時はひどいものだった。 アソウギに適応している人間の思考はまだ良い方だった。自業自得の苦痛を嘆いているものばかりではあるが、 筋が通っていたし、ある程度は言葉として形を成していたからだ。だが、アソウギに馴染めない人間の思考は乱雑 極まりなく、悪意と敵意が容赦なく一乗寺の精神を傷付けてきた。だから、一乗寺は率先して怪人達を殺したのだ。 そうでもしなければ、こちらの精神が殺されてしまいそうだったからだ。 「やんなっちゃうなぁ、もう、退屈でぇ」 チェンバーを引いて初弾を装填させた拳銃を挙げ、窓の外に狙いを付ける。気配はすれども、まだ来ない。 「よっちゃんもよっちゃんで、みっちゃんとデートに行っちゃうしぃ。誘ってくれよ、寂しいんだからぁ」 買い出しに出掛けた寺坂と道子に異変が起きていることも、一乗寺は悟っている。アマラと連動している電脳体で ある道子が働きかけてくるからだ。彼女はアソウギほど無遠慮ではないので、必要最低限の情報だけを掻い摘んで 転送してくる。新免工業の戦闘員達によって包囲され、寺坂が負傷し、道子もサイボーグボディを破壊された。二人 は無傷ではないが、死にはしないだろう。どちらも常人ではないし、寺坂に至っては、理屈の上では細切れにしても 死なないのだから。助けに行きたいのは山々だが、今、分校から動けば無用な被害が出る。 「あーあ、うんざりしちゃう」 誰が襲ってくるのか、誰が何を目論んでいるのか。それも、ある程度は一乗寺の精神に伝わってきている。新免 工業が所有し、使用している遺産、ナユタが拾い上げて発信しているからだ。しかも、それらはナユタが放つ無限の エネルギーによって増幅されているので、槍のように突き刺さってくる。敵意と悪意、多少の功名心と金銭欲。彼らは それぞれに願望と欲望を抱き、銃を握り締め、船島集落へと進みつつある。 「ねえ」 一乗寺は汗でべたつく髪を掻き上げ、窓越しに、青々とした葉を茂らせている桜の木を見つめた。春先に地雷で 爆破された菜の花畑はそれなりに回復し、焼け焦げた地面に雑草が生えつつあった。その奥に佇んでいる年季の 入った一本の桜の木は、山からの吹き下ろしを受けて煌めく枝葉を波打たせた。 「あんたさぁ。俺達のこと、好きなの嫌いなの、どっちなの?」 好きであれば、こんな仕打ちを受けさせない。さっさと手を回し、事を済ませている。嫌いであれば、今以上の苦痛 が待ち受けているだろう。それを考えただけで泣きたくなるが、泣いたところで何も始まらないので、笑うしかない。 苦痛を快楽に変換出来るような精神構造に変えることが出来たのは、自衛本能の結果だろう。最近では、それが 演技ではなくなってきたのが空恐ろしいが、それならそれで楽ではある。 拳銃を握り慣れた手で顔を覆い、口角を吊り上げる。笑え、楽しめ、面白がれ。そうしていれば、自分の精神の傷は 浅くて済む。体だけでなく、心も人間でなくなればいい。だが、姿形が人間のままだから、情けない未練が一乗寺の 精神を縛り付けている。人間ではなくなりたいと願っているのに、人間で在り続けてしまう矛盾が、精神を縛る糸の 棘を増やしてくる。自分は一体何者なのか。どこへ向かうべきなのか。その疑問が解ける日は、まだ来ない。 「よう、一乗寺」 職員室の裏口から、見慣れた顔が入ってきた。内閣情報調査室の調査官、周防国彦だった。 「やっほー、すーちゃん」 一乗寺が笑顔を作ると、周防は顔をしかめた。 「なんだこの部屋、せめて扇風機ぐらいは回せ! 外より暑いぞ!」 「あー、そうだっけぇ?」 一乗寺はへらっと笑うが、内心では不安が過ぎっていた。体感が鈍ってきたと言うことは、いずれ、人間に似せた 化けの皮が剥がれる時が近付いているという証拠だ。その皮が剥がれたら、どんな怪物が現れるのだろうか。汗も 大して流れていないし、空腹も感じていない。感じているのは、伊織とりんねの哀切な意識の断片と、寺坂と道子が 連行されていく様子だけだった。方角さえ解れば、二人を運ぶトレーラーの行き先の調べが付くのだが。 「ああ全く、嫌になっちまうよ。このクソ暑いのに張り込みだなんて、殺す気かよ」 周防は手近な椅子を引き寄せると、腰掛け、ジャケットを脱いで滝のような汗を拭った。塩気の強い水気を吸った Tシャツが貼り付いて、鍛え上げられた胸筋を強調している。肩に掛けているホルスターには拳銃が下がっているが、 硝煙の匂いが感じられないので発射してはいないらしい。ということは、そういうことなのだろう。 「ねえすーちゃん、俺と組んだばかりの頃、覚えている?」 一乗寺が笑顔を保ちながら言うと、周防は生温い水の入ったボトルを尻ポケットから抜き、口に含んだ。 「そりゃあな。忘れられるわけがない。何せ、お前はネンショー上がりなんだからな。有り得ないどころの話じゃねぇ、 国家の保全を担う機関に犯罪者をねじ込むだなんて、本気で政府はどうかしていたよ。でもって、その張本人である お前もどうかしていると来たもんだ。忘れろと言われても、忘れられるもんじゃない」 周防は足を組み、泥の付いたブーツの底を見せる。濡れた枯れ葉が、靴底の形に合わせて曲がっていた。 「イチ、お前はガキの頃に何人殺したんだ」 「何人、だったかなぁ。覚えてないや」 えへ、と一乗寺が舌を出すと、周防は顔を背けた。 「ああそうかい、だったら俺が教えてやるよ。小学五年の時に同級生を一人、転落事故を装って殺害。六年の時に 下級生を二人、交通事故を装って殺害。中学一年の時に同級生を三人、上級生を四人、合計七人を通り魔と交通 事故を装って殺害。だが、それまでは証拠不充分として立件出来ず。中学二年の時に女子高校生を一人、通り魔 を装って殺害。その時に足が着いたんだ。で、中学三年の時、修学旅行先で同級生が満載のバスが海沿いの道を 走行中、改造したエアガンで運転手の動脈を吹っ飛ばして走行不能に陥らせるが、担任教師の咄嗟の判断で窮地 を免れる。そして、停車したところでお前はSATに拘束され、移送され、余罪を洗いざらい吐いた」 「あー、そうそう、そんな感じだったかも」 一乗寺が頷くと、他人事みたいに言いやがって、と周防は毒突いてから、一乗寺を見据えてきた。 「なんで殺した?」 「殺さなきゃいけなかったから」 「相手は化け物でもなんでもない人間だったんだぞ。そりゃ、中には素行の悪い奴もいたかもしれないが、殺すほど の罪は犯していないじゃないか。それなのに、なんで殺すんだ」 「殺さないと、殺されるんだよ」 「だからってな……。手当たり次第に処分する前に一呼吸置いて考えないのか。だから、お前は」 宇宙人なんだ、と周防が苦々しげに付け加えたが、一乗寺は笑顔を保っていた。好きで殺しているわけではない。 実際、殺さなければ殺されるからだ。一乗寺が殺した相手は、皆、人間の形をしている別物だからだ。彼らの思考 が精神に触れてくると、居ても立ってもいられなくなる。だから、殺す。殺さなければ、食い潰される。 「ねえ、すーちゃん」 日に焼けて引き締まった男の横顔を見、一乗寺は目を細める。彼は嫌いではない、だから残念だ。 「人間ってさぁ、すごーく曖昧な生き物なんだよね。自我が強いけど自意識は甘くて、ちょっとしたことで周りの意見に 流されちゃって、同じ価値観を共有していないと不安になってまとまりがなくなるくせに、頭一つ出た才能がある人間 がいないと何も変えられないくせに、実際にそういうのが出てきたら寄って集って叩き潰しちゃう。で、政治でも世相 でもなんでも、いい方向に向かおうとすると、耳障りのいい言葉を駆使して悪い方向に向かわせようとする奴が一杯 出てきちゃう。で、先導された大衆はざざーっと悪い方向に向かうくせに、いざ悪いところに収まっちゃったら、政治が 悪いだのなんだのと責任転嫁する。自業自得なのにね」 「何が言いたい?」 「でも、その曖昧な生き物を統制して、同じ意識を共有させたらどうなるだろう? 一つ一つの個体が不完全でも、駒 を置き換えていくみたいに一つ一つを同じ外見の別物にすり替えていって、全体的な質を上げたらどうなるだろう? その数が倍々で増えていって、大衆と呼べるほどの規模になったら、特定の思想と意識によって統率された人間が 一度に同じ行動を取ったら、市場や世相に大いに繁栄されるようになるだろう。それが一国家だけじゃなくて、他の 国にも広がっていったら、人類全体の質が底上げ出来るだろうね」 「人類全体とは、また大風呂敷を広げやがったな。で、それがお前の大量殺人とどう繋がるんだ?」 半笑いになった周防とは対照的に、一乗寺は表情を消した。 「種としての質、っていうのはさ、あくまでも第三者の視点による主観だよね。超上から目線っていうか、観測者目線 っていうか。量子宇宙論的なアレね。佐々木の爺さんが持っていた遺産にはそれが可能になる力があるし、実際、 アマラは童貞妄想オタク野郎のせいで変なことをやらかしかけた。それは未遂で防げたわけだけど、ハルノネットの ネトゲをプレイしていたり、株主総会に出席していたせいで、桑原れんげの影響をモロに受けちゃった人間の少数 は廃人状態だ。現実と妄想の折り合いが付けられなくなって、自分の身の回りのことすらもままならない。そいつら はきっと、元々自我が希薄だったんだ。だから、自分に代わって物事を考えて、決めてくれて、動いてくれるばかり か、ベタ褒めしてくれる桑原れんげが忘れられなくなったんだ。まともな遺伝子情報を持っている人間にも、そんな のが一杯いるのに、わざわざ人間もどきを作ってばらまいて、人類をどうこうしようだなんて考える方がおかしいよ。 だから、俺はそういう連中を殺すの。気に食わないから」 「人間に似せた別物だって? だが、お前が殺してきた人間には戸籍もあったし、解剖結果だって正常だぞ?」 「人間とそうじゃないものの線引きも、人間の在り方と同じぐらいに曖昧でしょ? 解剖結果が真っ当だからってだけ で、人間だーって断定する方が乱暴だと思うよ」 「それじゃ何か。お前が殺してきたのは、吉岡グループの持つコンガラが複製した人間共だとでも言いたいのか」 「違うよぉ。コンガラは命を持たないものを複製するのが特色だし、屠殺する手間と苦労と罪悪感を与えないために 生者をコピーしても死者しか出来上がらないんだ。慈悲深いんだよ、あいつは」 「慈悲深い? たかが道具だぞ?」 さも可笑しげな周防に、一乗寺は窓枠に寄り掛かる。狙いを付けてくれ、と言わんばかりに。 「道具だよ。コンガラも、俺も、すーちゃんもね。俺は、出来損ないを間引きするためだけに作られたんだよ。いや、 ちょっと違うかな、その役割が割り振られたってだけだ。人間の出来損ない、道具の出来損ない、命の出来損ない。 そういうのは全体的な質を悪くさせるし、何よりも俺自身が気に入らない。だから、殺すんだ」 「それこそ、超上から目線、ってやつだろ」 一乗寺の語彙を使って言い返してきた周防に、一乗寺は眉根を顰める。 「すーちゃんは、どうして道具を下に見るのさ?」 「そりゃ、道具だからだ。道具を敬って何になる。大事にするに越したことはないが、それに人格があるような言動を するのはどうかと思うね。使いこそすれ、使われちゃならない。それが、道具と人間の在り方だろ」 「だから、すーちゃんは新免工業のダブルスパイなんかやっているわけだ」 「そうだな。あいつらの思想と俺の思想が一番馴染むんだ。だから、あいつらに情報を流し、流されていたんだ」 いつから気付いていたんだ、と周防の問いに、一乗寺は幾ばくかの寂しさを覚えながらも答えた。 「ずっと前からだよ。すーちゃんの持ってくる情報は結構偏っていたしね。吉岡グループやら何やらの情報は適度で 正確なのに、新免工業に関する情報はちょいと軸がずれていたんだ。それなのに、誰も咎めようとしなかったのは、 俺達の上司かその上の官僚か、まあとにかく上の人間がすーちゃんと同じ思想だからでしょ?」 「遺産は膨大な税収と生産能力を持っているから国家の経済の一端を担っているが、その正体が不明であり、それ を行使する権力を持つのが十四歳の小娘だからな。耄碌した爺さんよりも、そっちの方が余程危険だから。ついで に言えば、佐々木つばめが遺産の全権を掌握するようになってからは、甘い汁を吸えなくなった連中も多いんだよ。 あの爺さんが無尽蔵な金を手に入れられていたのは、それ相応の繋がりがあったからだ。だが、佐々木つばめは あの弁護士の女に守られているから、遺産を相続すると同時にその辺の繋がりを綺麗さっぱり断ち切られたんだ。 だから、余計に遺産を排除した方がいいという意見が強くなってきたんだ」 「俺はそうは思わないけどねぇ。使うべき用途があるから、遺産は存在するんだよ。それなのに、その用途が解りも しないうちに粗大ゴミに出そうって言うの? 馬っ鹿じゃない?」 「あんなもの、使い道が解るもんか。解ったとしても、どうせ地球がどうの人類がどうの、ってアニメじみた与太話に なるだけだろうが。イチの話もそんな具合だったじゃないか。俺はそんなのに付き合うのは真っ平御免なんだよ」 「事を大きくしないためにも、事態を把握すべきだと思うんだけどなぁ。すーちゃんらしくもない」 「らしくないのはお前の方だよ、イチ。人殺しのくせに、真面目腐った話をするんじゃない」 目を上げた周防は、顎を上げると同時にワンテンポでナイフを翻す。一乗寺は素早く身を下げて足を払い、周防を 椅子ごと蹴り倒す。キャスターの付いた椅子は壁まで転がり、激突してゴミを撒き散らした。が、周防は転倒せずに 転身して態勢を立て直し、ナイフを閃かせる。一乗寺は教科書と参考書の山を崩し、その裏に投げておいた拳銃を 握って周防に突き付ける。が、周防の手中から解き放たれたナイフが一乗寺の眉間に迫ってきた。 上半身を反らして辛うじて避けるも、前髪が裂かれて細切れの髪が散る。上体を起こした時には周防は一歩先まで に近付き、二本目のナイフを出そうとベルトに手を掛けていた。元々、彼は銃撃戦よりも接近戦が得意だからだ。 空間が狭ければ、その腕前は一層際立つ。牽制を兼ねた小刻みの斬撃が、舞い上がった埃の帯を断ち切る。重心 を据えつつも致命傷を受けないように動線をずらす周防に一発、二発と放ったが、付き合いが長いからか動作が 先読みされていて掠りもしなかった。そして、壁際に追い詰められた一乗寺の喉に切っ先が向く。 「俺に味方してくれよ、イチ」 暑気を拒絶する冷たさのナイフが首筋に押し当てられ、刃が顎に添えられる。 「そうすれば、お前の首を跳ね飛ばさずに済む。出来ることなら、殺したくないんだよ」 「少年院に収監されると同時に戸籍を抹消されて全く別の名前と経歴を与えられた、政府公認のオーバーキラーが いなくなると、色々と面倒だもんねー。それとも何、すーちゃんは俺のこと、好きなの?」 一乗寺は素早く右手を挙げて銃身を滑り込ませ、顎を削られる前に阻んだ。金属と金属が拮抗する。 「さあ、どうだかな」 「どこまで知っているの、俺のこと」 一乗寺はベルトの裏側を探って細いナイフを抜くと、それを周防の眼球に突き付ける。周防は目の前で輝く切っ先 に瞳孔を開かせつつも、声色は平坦に保っていた。 「色々とな。だが、お前みたいな奴は二人といない。だから」 「あーやだやだ、俺のプライベートに踏み込んでくるなんて! すーちゃんなんて、嫌いっ!」 身を乗り出した拍子に手首を返し、一乗寺は周防の顔を削いだ。左頬から額に掛けて一直線の傷が走り、皮と肉 が飛散して天井に貼り付く。瞼までもが切り裂かれたのか、周防は左目を片手で押さえて後退る。それでも拳銃を 挙げてきたが、右目だけでは焦点が合わないので狙いは定まっていなかった。一乗寺は無表情を保ち、周防の足に 一発撃ち込んだ。二つの薬莢が撥ねて埃の溜まった床に転がり、硝煙の筋が昇る。 「俺さぁ、普通の人間を殺すのは嫌なんだよね。天然物と養殖物じゃ罪悪感が違うし、俺の役割じゃないし。だけど、 すーちゃんがそんな奴だとは思わなかった。だから、もう、すーちゃんなんか嫌い。いらない」 周防国彦は一乗寺昇という男の上っ面を理解してくれていると思っていた。仕事の上だけではあるが、付き合って いると楽しかった。ふざけるとじゃれ合ってくれた。だが、彼もやはりただの人間に過ぎなかった。真っ当な人間だから、 一乗寺の人格を認めてくれないのだ。個体ではなく物体としてしか認識してくれない。それがたまらなく寂しくて、 一乗寺は柄にもなく泣きそうになり、引き金を絞る指の力が緩んだ。 その間にも、精神は遺産に蝕まれる。新免工業に弄ばれているナユタが悲鳴を上げている。アマラが情報を滝の ように流し込んでくる。アソウギが苦しいと呻いている。コンガラが何事かを喚いている。ゴウガシャが自分の在処を 伝えようと必死になっている。ムリョウが力を欲している。タイスウが収める者達を求めている。ラクシャが哀切な声を 上げている。うるさい、うるさい、うるさい。どいつもこいつも黙ってくれ。 赤い光の小さな点が、一乗寺の背中に届いた。直後、数百メートル遠方から発射された弾丸が的確に一乗寺を 狙い、ガラスをクモの巣状に砕いた後に心臓に命中した。うわー腕の良いスナイパーだなぁ、と内心で感心しつつ、 一乗寺は膝を折った。周防の血溜まりに自分の血が混じり合う様を凝視していると、額に火傷するほど熱した銃口 が据えられた。脂汗を滲ませながら目を上げると、半死半生の周防が震える手で拳銃を握り締めていた。 勝負、あり。 12 9/28 |