機動駐在コジロウ




覆水、ヴェノムに返らず



 夏休みの計画は、完膚無きまでに頓挫した。
 それもこれも、新免工業のせいだ。そして、派手な事件の後に政府に長々と拘束されたせいだ。おかげで夏休みの 二週間が無駄になってしまい、その間に終わらせるはずだった宿題も、当然ながらほとんどが残っていた。事情 聴取やら何やらを行うと解っていたら、宿題を持ち込んでいたものを。けれど、そんなことは予測出来るはずもなく、 無駄にした二週間が戻ってくるはずもなく、宿題の山だけがつばめの目の前に立ちはだかっていた。
 そして気付けば、夏休みは三日しか残っていなかった。一乗寺がこれでもかと出してきた宿題を流れ作業のように 消化していくだけで精一杯で、外に遊びに出ることもままならず、コジロウと夏休みの思い出を作ることなど以ての 外だった。そんな暇があれば、宿題を終わらせてしまうべきだと解っていたからだ。
 読書感想文を書き上げて清書した原稿用紙を折り畳み、つばめは呻いた。だが、これで終わりではない。写生は 下書きしか終えていなかったので絵の具で描かなければならないし、自由研究も資料をまとめるのが面倒になって 後回しにしてしまったので未だに手付かずである。コジロウか他の誰かに手伝ってもらえばいいじゃない、と甘えた 気持ちが湧いてくるが、つばめはそれを意地でねじ伏せて宿題と戦い抜いた。だが、まだまだ終わらない。

「ううう……」

 半死半生のつばめは、少しだけ気分転換しようと自室から外に出た。室内は冷房が効いていたので快適だった のだが、一歩外に出た途端に猛烈な暑さが襲い掛かってきた。その温度差で軽く目眩を感じたが、とりあえず台所 に行って冷たいものでも飲むことにしよう。そうすれば、またやる気が戻ってくるかもしれないからだ。
 庭先では、コジロウがアサガオの種を摘み取っていた。縁側に張った細い紐にまとわりついているツタは枯れつつ あり、早朝に鮮やかな花を咲かせるつぼみの数も大分少なくなっている。物干し台では道子がシーツを干していて、 目に染みるほどの白がはためいている。彼女が女性型アンドロイドを使って日常を謳歌する姿もすっかり見慣れて しまい、やたらと裾の短いメイド服にも慣れてしまった。女性化した一乗寺は爆睡に爆睡を重ねた末に体力が回復 したので、今では分校に戻って気楽な独り暮らしを再開している。暇を見て道子が片付けに行ってくれているが、 元々荒れ放題なのであまり作業は進んでいないらしい。寺坂も自宅である浄法寺に戻り、新免工業の奇襲攻撃に よってまた汚れてしまったポンティアック・ソルスティスのシートを貼り替えるために、整備工場に運んだのだそうだ。 おかげで車が減ってしまったと嘆いていたが、それでもまだ四台はあるので大した問題ではないと思う。
 台所の冷蔵庫で冷えていた麦茶を一杯飲み干すと、つばめは人心地付いた。そして、気が抜ける瞬間に不意に 寂しさが押し寄せる。結局、美野里は未だに帰ってきていない。電話もメールもなく、どこにいるのかも解らない。 何もせずに待っていると決めたのは自分だが、やはり寂しいものは寂しい。
 すると、二階に繋がる階段から武蔵野が下りてきた。狭い階段なので少々苦労しながら一階に下りてきた武蔵野 は、いつものサングラスを掛け直した。その肩には、超遠距離デジタルスコープの付いたライフルが担がれていた。 佐々木家に来てからというもの、武蔵野は一日のほとんどを三階で過ごしながら周囲を見張ってくれている。

「何かあったの?」

 つばめが二杯目の麦茶を飲みながら問うと、額から滴る汗を拭いながら武蔵野は答えた。

「来客だ。敵じゃないが、会うかどうかはお前が決めろ」

「それって誰?」

「うちの社長だよ。俺のスコープの射程距離に入った直後にメールを入れやがった、御丁寧なことだ」

 武蔵野は自身の携帯電話を見せてから、銃身が細長いライフルを床に横たえた。

「あの人、無事だったの?」

 つばめは素直に驚いた。新免工業の社長である神名円明はフルサイボーグだが、大型客船での戦闘で武蔵野に 頭部を撃たれていた。いかにサイボーグと言えども、頭部を銃撃されては無傷では済むまい。

「あの距離で9パラでくたばるほど、うちの社長はヤワなボディは使っちゃいねぇよ。それに俺も殺すつもりで撃った わけじゃなかったからな。ちったぁ脳震盪を起こしたかもしれんが、その程度だ」

「だけど、政府が捕まえたんじゃなかったっけ? 武器の売買とかその他諸々の件で」

「保釈金さえ払えばどうにでもなるんだよ、そんなもん。それでなくても、うちの会社は仕事が仕事だったからお抱えの 弁護士も多い。そいつらが本気を出せば、うちの社長をシャバに出すことなんて簡単なんだ」

「えぇー……」

 それでいいのか。つばめは腑に落ちなかったが、それが資本主義なのだと割り切ることにした。それから数分後、 武蔵野の言葉通りに黒塗りのリムジンが船島集落に入ってきた。護衛の車は付けていなかったが、リムジンの車内 にはスーツ姿ではあるが武装しているであろう人間やサイボーグが控えていた。武蔵野が出迎えると、運転手の手で 後部座席のドアが開けられ、すらりとした長身のサイボーグが降りてきた。神名円明だった。

「突然の訪問、失礼いたします」

 ダブルの四つボタンで濃紺のスーツに革靴を履いてソフト帽を被っている神名は、仕草も絵に描いたように紳士的 で気品があったが、どこぞの大物マフィアと言っても差し支えがない格好だった。つばめは武蔵野の影に隠れながらも 神名を窺うと、アサガオの種を入れた袋を下げたコジロウもやってきた。

「どうぞ、お気遣いなく」

 神名は脱帽して深々と一礼すると、武蔵野は敢えて両手を広げてみせた。

「俺を殺しにでも来たんですか」

「いえいえ、そのようなことはありません。僕は武蔵野君のことは恨んでおりませんし、武蔵野君の判断を理解している のです。僕としては、今後も新免工業でその能力を存分に発揮して頂きたいと思っていたのですが、武蔵野君の 意思を尊重しなければ上司とは言えません。なので、武蔵野君を正式に解雇すべく、訪れたのです」

「だったら書類を送ってくれれば」

「ですが、武蔵野君を解雇してしまうと、僕とつばめさんの間にある希薄な繋がりが途切れてしまいます。その細い糸 が解けてしまう前に、もう一度つばめさんにお会いしておきたいと思いましてね」

 神名のゴーグルに捉えられ、つばめは身動いだ。大型客船での一件が忘れられないからだ。

「うっ」

 すかさずコジロウが身構え、武蔵野もハンドガンに手を掛けたので、神名は両手を広げて上向ける。

「御安心を。僕はつばめさんにはみだりに近付きませんし、君達を押し退けるようなこともしませんし、以前のような 変態じみた行動も行わないと誓いましょう。ナユタがつばめさんの手中にある以上、僕達がつばめさんを攻撃する 理由はありませんからね」

 これはせめてものお詫びの気持ちです、と神名が懐から出したのは、細長いネックレスケースだった。コジロウは つばめに命じられてそれを受け取り、開くと、中には透明な筒が付いたペンダントが入っていた。

「つばめさんが沈静化させたナユタのサイズに合わせて作らせたものです。裸のままで持ち歩くのは危険ですからね。 そのケースは強化ガラスで出来ていますので、多少のことでは壊れません。もっとも、ナユタが再び暴走すれば一瞬 で消し飛びますがね。きっとお似合いになりますよ」

「発信器とかは付いていませんよね」 

 つばめが怪しむと、神名は笑った。

「ありませんよ。あったとすれば、そこで洗濯物を干している有能なメイドさんがお気付きになりますよ」

 ねえ、と神名が道子に向くと、道子は空になった洗濯カゴを抱えて玄関先にやってきた。

「あらまあ社長さん、いらっしゃいませー。立ち話ってのもなんですので、今、お通ししますねー」

「てぇことは、本当に何もないの?」

 つばめがコジロウの手からペンダントを受け取ると、道子はにっこりした。

「ええ、なーんにも。攻める時はガンガン攻めるけど、手を引く時はスパッと引いちゃう。そういう潔さが素敵ですね、 新免工業の社長さんは」

 ではこちらへどうぞ、と道子が促したので、神名は佐々木家に上がっていった。つばめはネックレスケースの蓋を 閉じてから、コジロウを見やった。アサガオの種を入れた紙袋を握り締める手に、やたらと力が籠もっているように 見えたのは気のせいだろうか。つばめはネックレスケースを下げ、コジロウの腕に触れた。

「私達も上がろう。お客だけ家に上げても意味がないし」

「了解した」

 コジロウはアサガオの種を入れた紙袋を玄関脇に置いてから、三和土にある雑巾で足の裏を丁寧に拭いた後に 上がった。つばめも突っ掛けていたサンダルを脱いで上がると、神名は客間に通されていた。道子は台所で人数分 の麦茶と茶菓子を用意していたが、これなら調理する段階が一切ないので大丈夫だろう。それでも、武蔵野は若干 不安なのか、しきりに道子の様子を気にしていた。
 神名は客間に面している仏間に入ると、佐々木長光の位牌が鎮座している仏壇に向かって座り、線香を灯して鈴 を一度鳴らしてから手を合わせた。細長く煙が上り、独特の香りが漂う。神名は仏間から戻ってくると、道子が用意 してくれた麦茶を口にした。味覚の有無は解らないが温度は感じるのか、冷たいですね、と述べた。

「さて……どこからお話しいたしましょうか」

 神名は行儀良く座布団に正座して背筋を伸ばし、つばめを見つめてきた。

「武蔵野君は、ひばりさんのことをつばめさんにお話しされたのですか?」

「いや、特に」

 武蔵野が言葉を濁すと、神名は可笑しげに肩を揺すった。

「でしょうねぇ。想像に難くありませんとも」

「じゃあ、社長さんは私のお母さんのことを話すために来たんですか?」

 先程の麦茶で既に胃袋が膨れているつばめは、道子が出してくれた麦茶に少しだけ口を付けた。

「ええ。長孝さんがお出でにならないのであれば、僕がひばりさんのことをお教えする他はないと思いまして」

 神名は金属板のような形状の携帯電話を懐から出すと、それを座卓に置き、ホログラフィーを投影した。その中に 浮かび上がったのは、臨月と思しき大きなお腹を抱えた若い女性だった。クセ毛の強い髪を一括りに結んでいて、 少しだけ吊り上がった目元はつばめに良く似ている。彼女の背後でやりづらそうに視線を外しているのは、今よりも 格段に若い、スーツ姿の武蔵野だった。右目は健在でサングラスも掛けていなかったが、堅苦しいスーツを着るのが 苦手なのは今も昔も変わらないらしく、表情が硬かった。

「これがお母さん?」

 つばめが女性と神名を見比べると、神名は頷いた。

「ええ、そうですとも。可愛らしくて快活で、素敵な女性でした。ひばりさんと最も密接に接していたのは、他でもない 武蔵野君です。君が抱える複雑な感情も解りますが、どうかお話ししてあげて下さい。ひばりさんの娘さんに」

 神名に促され、武蔵野はつばめを一瞥した後にひばりの画像を見下ろした。少々の沈黙の後に、武蔵野は口を 開いた。つばめとは目を合わせづらいのか、在りし日のひばりを目にしていたいのかは定かではなかったが、彼の 険しい眼差しはホログラフィーから離れなかった。つばめもまた、母親の笑顔だけを見つめていた。
 そこには、過去が宿っていた。




 十五年前。
 入隊して間もなく問題を起こして自衛隊を退役した後、傭兵に転身して世界各地を転々としていた武蔵野巌雄が 腰を据えたのは、武器の売買を行って業績を上げた大企業、新免工業だった。当初は警備員として採用されたが、 傭兵としての実戦経験が買われて戦闘部隊に配属された。その頃は遺産争いのことなど知る由もなく、利権絡みの 小競り合いに駆り出されるだけだろう、と踏んでいた。厳しい訓練を乗り越え、思いのままに武器を操り、最前線で 戦うことがいつしか日常と化していた。そのまま擦り切れるまで自分を酷使するのだろう、とも諦観していた。
 その日、武蔵野が所属する戦闘部隊が差し向けられたのは、東京都内の市街地だった。なるべく常人に紛れて 行動せよ、と厳命されていたので、武蔵野を含めた戦闘員は普段着の下に武器を仕込んで行動した。確保せよと 上層部から命じられたのは一人の女性で、その名は佐々木ひばりといった。だが、佐々木ひばりはマフィアの情婦 でもなければ産業スパイでもなく、その背後関係はあっさりしたものだった。あまり恵まれた人生を送っているとは 言い難いが平穏に生きていて、機械技師の夫と新婚生活を過ごしている、ごく普通の女性だった。新免工業が彼女に 目を付ける意図が解らなかったのは武蔵野だけではないらしく、他の戦闘員達も不可解そうにしつつも任務を遂行 した。昼下がりに買い出しに出たところで拘束し、車に連れ込んだ。それだけで事は済んだ。

「あなた達、どこの人? 弐天逸流? 吉岡グループ? フジワラ製薬? それじゃ、新免工業かな?」

 ワゴン車の後部座席に座らされた佐々木ひばりは、あっけらかんと尋ねてきた。怯える様子もなければ戸惑った 素振りも見せず、日常の延長であるかのような態度だった。

「どこに連れて行くのかは解らないけど、遠くへ行くなら電話させてくれないかな? でないと、冷蔵庫の中身がダメ になっちゃう。タカ君にも、明日からはお弁当を作れないからねって言っておかないと困っちゃうだろうし。それとね、 途中で何度も吐いちゃうだろうから覚悟しておいてね。元々乗り物には弱い方なんだけど、悪阻のせいでいつもの 何倍もひどくなっちゃっているの」

 ひばりの態度に面食らったのは武蔵野だけではないらしく、皆、視線を交わし合った。

「でね、今、食べられないモノの方が多いんだ。ちょっとでも食べようとしても戻しちゃうし、体が受け付けないから。 揚げ物なんかは特にダメで、匂いがするだけでもうゲロゲロ。その辺、気を付けてくれたら嬉しいな」

 ひばりの明るい口調とは裏腹に、車内の空気はぎこちなかった。それはそうだろう。誘拐されたのに、その当人が 深刻になるどころか楽観しているのだから。だが、ひばりはとにかく丁重に扱えとの指示が下っていたので、武蔵野 達はひばりの我が侭を全て受け入れた。とてつもなくやりづらく、戦闘を行うよりも何倍も疲れてしまった。
 新免工業の本隊との合流地点に辿り着くまでの間、ひばりは先述した通りに何度となく吐いた。当人が食べられると 言ったものを与えても吐き、水を飲んでも吐き、車に酔って吐き。それなのに、ひばり本人は明るいままだったので異様 ですらあった。新免工業の日本支社に到着した頃には、ひばりを除いた面々は彼女の終わりのない嘔吐を目の当たりに したせいで憔悴していた。武蔵野でさえも、喉の奥に胃酸の味を覚えていた。
 新免工業の日本支社にて上層部に丁重に持て成されたひばりは、産婦人科医によって丁寧な診察を受けた後、 割り当てられた部屋に入れられた。その時もひばりは楽観していて、笑顔を保っていた。それどころか、用意された ベッドの柔らかさに浸っていた。ひばりの警備を任された武蔵野は、混乱する一方だった。
 当初、武蔵野を始めとした戦闘員達はひばりの部屋の外で警備していたのだが、ひばりは皆に中に入ってこいと 言い付けてきた。無論、屈強な男達は揃って困惑したが、ひばりの要求には出来る限り答えてやってくれとの命令 が下っていたので逆らうに逆らえず、従うことにした。
 ベッドの上で待ち構えていたひばりは、一休みして吐き気も落ち着いたらしく、上機嫌だった。顔色は決して良いとは 言い切れなかったが、表情だけはひたすらに明るかった。壁の前に一列に並んだ戦闘員達を見回し、ひばりは おもむろに両手を広げて胸を張った。

「今日からお友達になりましょう!」

 意味が解らなかった。武蔵野を含めた全員が戸惑っていると、ひばりは笑う。

「だって、その方がストレスがないし、私も寂しくないから! タカ君と一緒にいられないのは超寂しいし、張り合いが なくなっちゃってつまんないけど、お友達と一緒に過ごしているって考えればまだ楽だから! はい決定!」

 返事は、とひばりに急かされ、武蔵野達は曖昧に答えた。新免工業におけるひばりの立場が解っていれば、反論の しようもあったのだろうが、その当時の武蔵野達には一切知らされていなかったので、ひばりの我が侭にどこまで 付き合えばいいのかも解らなかった。しかし、下手に逆らうと戦闘員達の立場がどうなるかも解らないので、この場 は従っておけと小隊長から指示を受けた。武蔵野達がその通りにすると、ひばりは満足してくれた。

「じゃ、これからは色んなことをお喋りしましょー! 私ね、黙っていると死んじゃいそうだから!」

 その途端にまた妙な宣言をした。その言葉通り、ひばりはとにかくお喋りだった。誰かと顔を合わせればひたすら 口を動かす様は、その名の通りの小鳥のようだった。だが、肝心な情報は決して漏らすことはなく、自分とその子宮 の中で育ちつつある我が子の立場については一切口外しなかった。話題のほとんどは惚気で、ひばりがどれだけ 佐々木長孝が愛しているか、佐々木長孝に愛されているかを延々と語っていた。
 それから一ヶ月、二ヶ月と過ぎていくと、佐々木ひばりの下腹部は次第に大きくなっていった。ひばりがいる日常 に慣れてくると、友達として認定された戦闘部隊の面々もひばりの存在に慣れてきた。もちろん、仕事の上の付き合い に過ぎないので突っ込んだ話をすることはなかったが、無邪気で明るい態度と可愛らしい外見の女性なので、籠の 中の鳥として寵愛するにはもってこいだった。それ故、ひばりと接することで何かしらの救いを見出す者もおり、彼女 の立場は新免工業の中で日に日に膨れ上がっていくかのようだった。武蔵野もまた、ひばりと言葉を交わすことで 心の平穏を保つ人間の一人になっていた。それまでは他人と距離を置いて生きてきたが、一度でも一線を越えられて しまうと呆気ないもので、武蔵野と他人を隔てる壁は徐々に穿たれていった。
 佐々木ひばりとは、そういう人間だった。





 


12 10/17