機動駐在コジロウ




覆水、ヴェノムに返らず



 良く言えば人懐っこい、悪く言えば他人との距離感がない。それが彼女だった。
 佐々木ひばりが底抜けに明るく振る舞うのは、己の精神を守るための手段であると知るまでは、武蔵野は 彼女をある意味では神格化していた。彼女の住まう部屋に通うのも日課になっていて、ひばりに声を掛けられれば それだけで一日が晴れやかな気分で過ごせていた。毎日笑っていて、悪阻に苦しみはするが泣きはせず、身の上 を嘆くことはなく、離れて暮らしている夫の愛情を心から信じている。そんなひたむきさが美しかったからだ。
 ひばりの下腹部が大きくなり、胎児が人間らしい形を成してきた頃、ひばりを移送することになった。新免工業の 日本支社でひばりの身柄を確保していることが弐天逸流に嗅ぎ付けられたため、ひばりを奪取されないようにとの 措置だった。日本支社での生活に馴染んでいたひばりは唐突な引っ越しに少々困惑したものの、いつもの笑顔で、 それはそれで楽しいかもね、と快諾してくれた。だから、弐天逸流の追跡から逃れることさえ出来れば、何も問題は ないだろうと踏んでいた。だが、その判断は甘すぎた。
 新免工業の日本支社から移送先への道中、ひばりはトイレに行くと言ったきり、戻ってこなかった。もちろん見張り は付けていたが、僅かな隙に身重の体でどこかに消えてしまった。その日に限って女性戦闘員が別任務に回されて いたので、その代わりに武蔵野がひばりの傍に付けられていた。目を離したのはほんの一瞬で、携帯電話もトイレ に放置したまま、いなくなってしまった。当然、武蔵野を始めとした戦闘部隊は大いに慌て、すぐに探し回った。妊娠 後期に入ったひばりはお腹が目立っているし、長距離も歩けないだろうから、そう遠くへは行っていないと判断して 近隣の商業施設や民家を探してみたが、どこにもそれらしい姿はなかった。そのうちに弐天逸流の追っ手が迫り、 ひばりの捜索を中断して戦闘を行った。戦果は上々だったが、このままでは帰れるはずもなく、武蔵野達は必死に なってひばりの姿を捜し続けた。
 夜も過ぎた頃、武蔵野はふと思い立ち、ひばりが姿を消した公衆トイレの周辺を行き交うバスのルートを検索して みた。ひばりは携帯電話の中に新免工業から与えられた電子マネーを多額に持っているが、現金は攫われた当時 の微々たる金額しか持っていない。その事実があったから、皆、徒歩で移動したものだと信じ込んで捜索していた のだが、微々たる金額の小銭で移動出来る距離であればバスに乗れる。確か、三百円足らずだったと記憶していた ので、武蔵野は公衆トイレの最寄りのバス停を三つ割り出すと、それらの路線で三百円以内に到達出来る場所の 地図を眺め回した。すると、その中の一つの路線が、ひばりの夫である佐々木長孝の勤務先に向かう路線だった。 となれば、考えられる行き先はそこしかない。武蔵野は仲間に連絡をしてから、一足先に行動した。
 ひばりが乗ったであろう路線バスに乗っていくつかの停留所を過ぎ、佐々木長孝の勤務先である工場の最寄り に到着すると、武蔵野はバスを降りて周囲を見回した。日が暮れた住宅街は窓に明かりが点り、それぞれの家庭 で家族が団欒している様子が伝わってくる。目当ての工場は倉庫と見紛うほどの小ささで、退勤時間を過ぎているのか 駐車場には車はなく、工場内にも明かりは点っていなかった。一箇所を除いて。
 工場の二階にある事務室と思しき部屋にはカーテンが掛かっていたが、その隙間から細く明かりが漏れていた。 武蔵野は拳銃をいつでも抜けるように手を掛けながら、施錠されていないドアから中に入った。機械油と金属粉の 匂いがつんと立ち込めていたが、不思議と居心地は悪くなかった。硝煙と血の臭いが混じっていたら、落ち着くどころか 気が立ってくるのだろうが。そんなことを頭の片隅で考えながら、武蔵野は錆の浮いた階段を昇っていった。
 二階の事務室のドアは開いていた。蛍光灯の青白い明かりが暗い廊下と階段にまで伸び、中にいる人間の影も 細長く伸びていた。武蔵野は足音を殺してドアの傍の壁に貼り付くと、拳銃のグリップを握った。

「タカ君、タカ君……」

 ひばりの声だった。日頃の明るさとは正反対の、哀切な囁きだった。

「すまない。迎えに行くべきかと思ったが、俺の傍よりもあちら側の方が安全だと踏んでいた。だから、接触すらも 行わずにいた。それが、負担になっていたとは考えもしなかった」

 宥めるような声色で、男がひばりに応えた。それが佐々木長孝だろう。

「あのね、タカ君。私ね、一度も泣かなかったんだよ? 偉いでしょ?」

「ああ、偉い。凄く偉い」

「だってね、私が怖がっちゃうとこの子まで怖がっちゃうでしょ? そうしたら、きっと……可哀想なことになる」

「ああ、そうだ。それでいいんだ」

「でもね、でもね、やっぱりタカ君がいないと寂しいの。新免工業の人達は私をとても大事にしてくれるけど、やっぱり タカ君と一緒に暮らしていたいの。毎日御飯を作ったり、御掃除したり、御洗濯したり、お買い物したり、色んなことを していたいの。だけど、それじゃこの子を守れないんだよね」

「ああ、そうなんだ。そうなんだ」

 贖罪と悔恨を噛み締めるように、佐々木長孝は漏らした。二人が抱き合ったのか、衣擦れの音がする。

「どうしても、この子じゃなきゃダメなの?」

「ダメだ。母さんが、そういう設定にしたからだ」

「怖い目に遭ったり、辛い目に遭ったりするのかな」

「あの男が心変わりすれば手を引いてくれるんだろうが、あの男に限ってそれはない。絶対に」

「うん……。私が代わってあげたいな。そうすれば、まだ平気なのに」

「そうだな。俺もそう思う」

 長孝が泣き出したひばりを抱き締めたのだろう、二人の影が重なり合う。その様を窺いながら、武蔵野は腹の底 に嫌な疼きを感じていた。ひばりが泣き顔を見せるのは夫であるのは当たり前で、互いの弱さを補うのもまた夫婦 の役割なのだろうと解っている。だが、どうしようもなく面白くなかった。今まで目にしてきたひばりの笑顔は偽りで しかなく、武蔵野を始めとした戦闘部隊の面々への明るい態度も作り物だったのだと思うと、濁った苛立ちが湧いた。 それが見苦しい嫉妬であると自覚するのは、もうしばらく後のことだったが。

「あ、パンダちゃん! タカ君、どうしてこの子が仕事場にいるの?」

 泣き止んだが少々声が上擦っているひばりが問うと、長孝がその何かを動かしたのか、影が揺れた。

「母さんが寄越してくれたものを入れてある。結構重いから、気を付けて持ってくれ」

「あ、本当だ。この子も、アレなの?」

「そうだ。ひばりの傍に置いておいてくれ」

「うん、解った。大事にするね」

 ひばりが寄り掛かったのだろう、二人の影が交わる。

「どうしても辛いのなら、逃げ出してきてもいいんだ。常人が相手であれば、俺の力でも処理出来る。あの男のことも、 なんとかしてみせる。小倉も手を貸してくれると言ってくれた」

「いいよ、タカ君はやることをちゃんとやらなきゃ。そうしないと、お母さんに悪いよ」

「大丈夫か、本当に。あまり強がらないでくれ」

「大丈夫だよ。大丈夫だよ。大丈夫だよ……」

 そう言いつつも、ひばりの語気は次第に弱くなっていった。今、事務室に乗り込んで二人を引き離すのは容易い。 むしろ、そうしてやりたかった。武蔵野を始めとした現場の人間に開示されている情報は限られているが、新免工業 が佐々木家の当主である佐々木長光から売却された超高密度エネルギー結晶体を活用するために佐々木ひばり の胎内にいる子供の助力が必要なのだ、と教えられていた。その子供の力を借りられれば、新免工業は結晶体を 活用して莫大な利益を上げられる、とも。だから、武蔵野の個人的な感情で、ひばりに動揺を与えるのは良くない ことだと理解していた。気持ちを殺すのは慣れているし、やり過ごせる。そう、思っていたのだが。

「ねえ、タカ君。私を売ってから、いいことがあった?」

 誰が。何を。どこに。ひばりの言葉に武蔵野はひどく動揺し、腰を上げかけた。

「この会社に入る仕事量が目に見えて増えた。取引先も増えた。収入もそれなりに。そのぐらいだ」

「そう。良かった」

 ひばりの微笑みすら混じった答えに、武蔵野は息を詰めた。この女は、自分が商品扱いされて喜ぶのか。

「ひばりの実家の現状は」

「たまにネットで調べてみると、株価も落ち着いているから持ち直したみたい。この分だと、もうしばらくは保つよ」

「そうか」

「私の名義の督促状とか、届いた?」

「いや、届いていない」

「そっか、だったら良かった。良い買い物だったでしょ」

 ひばりの茶化した言い方に、武蔵野は苛立ちが突き抜けて目眩すら起こしそうになった。二人の会話を額面通り に信じるならば、ひばりは自分を金に換えている。ひばりの親が経営している会社が借金苦になったために、遺産 を売却して莫大な財産を得た佐々木長光に出資してもらうために、ひばりを佐々木長孝の元へと嫁がせた、という ことになる。そして、新免工業もまた、佐々木長孝への口封じを兼ねた賄賂として工場の利益を上げるために手を 回し、佐々木長孝もそれを甘んじて受け止めている、ということになる。
 そんな結婚生活に、愛情があるものか。打算と妥協と欲望しかない。誰がどう見ても人身売買だ、ひばりの人格を 全否定している。それなのに、なぜ、ひばりは怒ろうともしない。目の前にいる男を恨もうともしない。ひばりを思うが あまりに、ひばりに対して憤怒すら覚えた武蔵野は、本来の任務を忘れかけるほど心中が乱れた。
 それから数時間後、空が白みかけてきた頃合いに、ひばりは夫の元を離れた。名残惜しそうだったが、事務机に 突っ伏して眠っている長孝を一瞥してから事務室から出てきた。存分に泣いたのか、頬には涙の筋が付いていた。 我に返った武蔵野は立ち上がり、ひばりを出迎えた。ひばりは武蔵野の存在に気付いていたのか、驚きもせずに 武蔵野を見上げてきた。一抱えもあるパンダのぬいぐるみを持ち直し、赤く腫れた目元を擦り、はにかんだ。

「顔、洗ってきてからの方が良かったな」

「何も良くない」

 武蔵野はひばりの腕を掴みかけたが、寸でのところで留まった。触れたら、後戻りが出来なくなる。

「あんたはそれでいいのか。他人に使い捨てられるだけの人生でいいのか。端金のために自分を捨てるのか」

「うん。それでいいの」

 ひばりの疲れ切った笑顔に、武蔵野は慟哭が迫り上がってきた。それもまた、寸でのところで飲み下す。

「私を必要としてくれるなら、それでいいんだ。タカ君と結婚出来たことも嬉しいし、この子が出来たことも嬉しいし、 武蔵野さんや皆が私を守ってくれるのも嬉しいし、私に価値を見出してくれるのが凄く嬉しいの」

「だからって、何もかもを享受するもんじゃない。むやみやたらに笑うもんじゃない。たまには怒れよ」

「どうして?」

「そりゃ、お前が人間だからだ」

 武蔵野は足元の覚束無いひばりを支えてやりながら、狭い階段を下りた。佐々木長孝が追ってくるかと思ったが、 事務室は静まり返っていた。作業機械だらけの一階に下りると、ひばりはシャッターの隙間から差し込んでくる白い 朝日を帯びながら振り返った。赤らんだ目と乱れた髪と青ざめた頬が、異様な凄みを作り出していた。

「私は人間じゃないよ。ただの」

 道具だ。

「早く行こう。でないと、武蔵野さんや皆のクビが飛んじゃうよ」

 ひばりはすぐにいつもの明るい表情を取り戻すと、武蔵野を急かしてきた。実際、その通りだったので、武蔵野は 仲間達に連絡して車を回してくれと頼んだ。朝靄の立ち込める住宅街に出たひばりは、早朝の肌寒さで身を縮めて いたので、武蔵野は自分の上着を脱いで彼女の背に被せてやった。少しだけ白い息を吐きながら、ひばりはサイズが 大きすぎる上着に袖を通して背中を丸めた。そして、ひばりと長孝の逢瀬も終わり、彼女は再び新免工業に身柄を 拘束される日々に戻った。武蔵野もまた、ひばりを守る盾であり矛として戦う日々に戻った。
 あの夜の出来事は、忘れようと努めた。




 臨月を迎えると、ひばりの容態が芳しくなくなった。
 関東近郊にある新免工業の保養所に移送されたが、それを境に妊娠中毒症に陥りがちになってしまい、自室から出る こともなくなった。お喋りなのは相変わらずだったが、時折見せる表情は暗澹としていて、しきりに夫の名前を呼んで うなされていた時もあった。切迫早産になりかけたこともあって、彼女の心身に相当なストレスが溜まっていたのは 明白だった。それでも、ひばりを佐々木長孝の元へ戻すわけにはいかなかった。そんなことをすれば、新免工業が これまで費やしてきた労力と費用が全て無駄になるからだ。
 人里離れた山奥にある保養所は木々に囲まれていて、標高がそれなりに高いので夏場を迎えても気候は涼しい ままだった。おかげで、ひばりの体調も随分落ち着いてきた。一番眺めの良い部屋の窓際に横たえてあるベッドで、 ひばりは安静にしていた。その頃になると、武蔵野はひばりの専属ボディーガードのような役職に付けられていた。 あの日、逃亡したひばりを無事に確保した功績が認められたというのもあるが、ひばりが無抵抗で帰ってきてくれた のは武蔵野に対して気を許しているからだ、と受け止められたからである。
 また一回り大きくなった下腹部をさすりつつ、ひばりは窓の外を見つめていた。代わり映えのしない景色が四角い 枠に収まっていて、夏の日差しを浴びた枝葉がざわめいていた。武蔵野はベッドの傍の椅子に腰掛けていた。件の パンダのぬいぐるみは、ベッドの枕元で大人しく座っていた。
 あの日、ひばりはそれを受け取るために佐々木長孝の元に向かったのは間違いない。佐々木長孝の言葉通り、 全長五十センチ程度のパンダのぬいぐるみには何かが仕込んであるらしく、やたらと重かった。X線や超音波などで 調べてみたが、ぬいぐるみの腹部に正体不明の金属塊が入っていることぐらいしか確認出来なかった。布地と 綿を切り開こうとしても、金属塊の表面には奇妙な薄膜が貼り付けてあり、いかなる刃物も通用しなかった。よって、 その正体は未だに解らず終いだったが、ひばりはパンダのぬいぐるみを可愛がっていて、ふわふわとした毛並みを 撫でながら話し掛ける姿を頻繁に見かけた。

「あのね」

 体力を消耗して疲れ果てているひばりは、武蔵野の方を見ずに呟いた。独り言だったのかもしれない。

「私ってさ、いらないものだったの。どこにでも転がっている話だよ。うちのお父さんは、親の代でそれなりに業績を 上げた会社を継いだけど経営者の器じゃなくて、弱くて、ダメで、会社を回すのなんて以ての外で、そのくせ無駄に 見栄っ張りで、金をばらまいて女を作ったの。何人も。私はその中の一人から産まれたんだ。だけど、母親は私を 産んですぐに死んじゃって、それっきり。お父さんは私を引き取ってくれたけど、愛人の子供がごろごろしている家に 居場所なんて最初からなくて。余程ろくでもない目に遭ったんだろうね、子供の頃の記憶が一つも残っていないの。 高校に入学してすぐに家を出たけど、今度はお父さんが死んじゃってさ。で、長男が会社を継いだんだけど、これも またダメな男で。だけど、ダメな男なりに頑張ったみたいで少しは会社が持ち直したんだ。でも、やっぱり限界でさ、 潰れる寸前だったの。そんな時に、お父さんが大昔に少しだけ関わりを持っていた佐々木長光さんがうちの会社に 来て、長男の結婚相手を融通してくれたら融資する、って言ったの。で、私がタカ君のお嫁さんになった」

 ひばりは枕に顔を埋め、目を伏せた。

「タカ君はね、凄くいい人なんだ。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、人間っぽくないところがあるけど、それも含めて 大好きなの。私が何をしても褒めてくれるし、御料理をおいしいって食べてくれるし、一緒にいてくれるし、私を大事に してくれるの。タカ君と暮らしていた時が、私の人生で一番幸せなんだ。でも、タカ君が傍にいない時は私はまた 前の私に戻るの。何も考えちゃいけないの。何もしちゃいけないの。嫌だな、辛いな、困るな、怖いな、って感じるのも いけないの。だって私は道具なんだ。お母さんがお父さんの心を繋ぎ止めるために作っただけの子供だし、実家の 会社にお金を流すためだけのパイプだし、タカ君のお父さんが遺産を使うために必要な赤ちゃんを産むだけの体で あってお腹なの。だから、ね」

 あんまり優しくしないでよ、と零して、ひばりは声を殺して泣いた。武蔵野は腰を浮かせ、ひばりの華奢な肩に手を 添えようとしたが、今回もまた堪えた。優しくするなと言われたばかりなのに。会いたい、タカ君に会いたい、とひばり は泣きじゃくった。ひばりと長孝を結び付けている感情の強さを目の当たりにするたび、武蔵野は浅はかな横恋慕を 感じる自分が情けなくなった。振り切ろう、切り捨てようとしても、当のひばりが目の前にいるのだから、ひばりと顔を 合わせるたびに気持ちが蘇ってしまう。最後までひばりの盾に徹したのは、武蔵野の意地だ。この微妙な均衡が 崩れれば、武蔵野は全てを投げ打って彼女を奪うと解っていたからだ。
 それなのに、劣情ばかりが募っていた。





 


12 10/18