機動駐在コジロウ




覆水、ヴェノムに返らず



 出産前に写真を撮りたい、とひばりが言った。
 お腹の子が大きくなったら見せてやりたいから、とのことだった。切迫流産の危険は免れたが、体調はまだ不安定 だったので、ひばりが住まう部屋で撮影することになった。ひばりが一人で写るものだと思っていたので、武蔵野は 邪魔をしてはならないと退散しようとしたが、ひばりに引き留められた。どうせなら一緒に写ってよ、との軽い申し出 に武蔵野は戸惑った。どうせなら着替えてこいよ、と撮影係からもせっつかれて部屋から追い出された武蔵野は、 散々悩んだ末に面接の際に一度だけ着たスーツに着替えていった。すると、ひばりはやたらと喜んだ。
 ほんの数分ではあったが異様に緊張した時間だった。出来上がった写真を眺めながら、ひばりは夫と再会したら 武蔵野のことを紹介すると言った。それはひばりに気を許してもらった証拠ではあったが、武蔵野には複雑極まる 言葉だった。ひばりは武蔵野の好意に気付いているとすれば、この上なく残酷な行為だが、気付いていないとしたら 純粋な好意によるものだからだ。結局、武蔵野は答えられないままだった。劣情を言動に表に出してはいないが、 夫である佐々木長孝には引け目を感じていたからだ。
 それから半月後、ひばりは陣痛に苦しみ抜いた末に自然分娩で無事に出産した。三千五百グラム前後の女児で、 ぎゃあぎゃあと力一杯泣き叫んでいた。ひばりは大きめに産まれた我が子と対面し、この上なく柔らかな笑顔を 見せた。それは、いつもの笑顔とは根本から違うものだった。きっと、あれが彼女の素の表情だったのだろうと今に して思う。難産ではなかったが出血が多めだったので、ひばりは安静状態が続いた。ベッドの上で我が子の世話を しながら、ひばりは少しずつ人間らしい顔付きになっていく娘の名を付けた。

「この子の名前は、つばめ」

 パンダのぬいぐるみの手を振ってあやしてやりながら、ひばりはしみじみと語った。

「ツバメってさ、可愛いけど逞しい鳥じゃない? 渡り鳥だから何千キロもの距離を飛んでいけるし、毎年新しく巣を 作って沢山子供を作って、また海を渡っていくの。それぐらい、強い子になってほしいから」

「佐々木長孝はそれを知っているのか?」

 ベッドの傍の椅子に腰掛けている武蔵野が問うと、ひばりは初秋を迎えた空を仰いだ。

「うん。タカ君とね、ずっと前に話したの。女の子だったらつばめって名前にしようね、って。男の子だったら付けようと 思っていた名前は、この子に付けてあげたの。でも、内緒。なんだか恥ずかしいから」

 そう言って、ひばりはパンダのぬいぐるみを小突いた。彼女のいつになく穏やかな面差しを目にし、武蔵野は得も 言われぬ感覚が胸中に広がった。それから程なくして、ひばりに対する劣情の正体を悟った。真っ当な恋愛感情と しての側面も大きいが、それ以上に多大なのは母親への渇望だった。だから、母になろうとしていたひばりに無性に 心を揺さぶられてしまったのだ。それを自覚すると、自分が心底嫌になった。哀れな境遇の女に、海よりも深い 愛情を求めているのだから。
 武蔵野の家庭環境は芳しくなかった。父親は無責任で、母親は淫蕩で、そんな家庭から逃げ出すために自衛官に なったと言っても過言ではない。だが、劣悪な環境によって培われた自衛本能が尖りすぎてしまい、集団生活に 馴染めなかった。だから、同期の自衛官に些細なことをからかわれただけで攻撃に転じてしまい、退職せざるを 得なくなった。しかし、それが何だというのだろう。それは武蔵野の都合に過ぎず、ひばりの人生を歪めてしまうほどの ものではない。自覚に自責に自嘲を混ぜ合わせた感情を腹の底に押し込め、武蔵野はやり過ごした。
 それが、彼女の幸せに繋がるのだから。




 更に一ヶ月後。
 すっかり体力が回復したひばりはベッドから起きられるようになって、つばめも日に日に成長していった。武蔵野を 始めとした新免工業の関係者が身の回りの世話をしているため、暇とやる気を持て余したひばりは、乳児用の手袋 と靴下と布オムツを山ほど作った。元々手先が器用らしく、次から次へと飽きずに縫い、編み、つばめの小さな手足に 填めてやっては喜んでいた。これなら引っ越しをさせても大丈夫だろう、と武蔵野や皆は思っていた。
 新免工業の保養所では警備上の問題はないが、新免工業が所有する遺産であるナユタの作動実験を行うために 現場まで移動する距離が長すぎて母子の負担になる、とのことで、ひばりとつばめは都内のマンションに移送される ことが決定した。その頃になると、新免工業における武蔵野の立場も徐々に上がってきていて、ナユタが何なのかも 把握していた。遺産の全貌については理解が及んでいなかったが、それらを動かす能力が幼いつばめの肉体に 備わっていること、そのつばめを狙っている者が数多くいること、ナユタを操れれば母子の安全は確保出来ることは 解っていた。ひばりとつばめを守れるのなら、どんなことでもやると覚悟を据えていた。どうせ、ひばりへの恋愛感情 は燻ったままで終わるのだから、それを無駄にせずに使い切ってしまおうと思っていたからだ。
 産まれて間もない佐々木つばめが宿している能力は、度重なる実験で実証されていた。いかなる物質ですらも 拒絶して消滅させるエネルギーを放つナユタは、佐々木つばめの生体組織だけは受け入れていたからだ。だが、 母親であるひばりの生体組織では何の意味もないらしく、つばめの短い髪や小さな爪は消えなかったが、ひばり が切り揃えた髪をナユタに近付けると一瞬で消し飛んでいた。それが遺産なのだと、身に染みて思い知った。
 防弾ガラスを装備した車で移動しながら、ひばりは久々に目にする都会を見て懐かしそうにしていた。佐々木長孝 の安否が伝えられると、寝入っている娘を撫でて語り掛けた。お父さんにも会えたらいいねぇ、と。長時間のドライブ を終えて都内某所のマンションに辿り着き、エントランスホールに面したロータリーで車を止めた時、異変が起きた。 先に車を出ていた戦闘員が発砲したが、何者かの襲撃は止められなかった。

「中にいろ!」

 武蔵野はすかさず車のドアを閉め、母子を車内に留めてから拳銃を抜いた。熱の残るボンネットを盾にしながら、 最初に発砲した戦闘員を無造作に持ち上げている人物に狙いを定めた。だが、それは人間ではなかった。人間に 似たシルエットではあったが、生物学的には人間からは懸け離れた異形の生物だった。艶のある黒い外骨格に一対の 透き通った羽を持ち、ヘルメット状に頭部を覆う複眼と節の付いた触角を備え、体の各所に付いているオーブ状の ものが淡く発光していた。恐らく、ホタルを原型にした怪人だろう。

「……う」

 フジワラ製薬の差し金か。武蔵野は、敵対組織の一つであるフジワラ製薬が生み出している怪人の存在を知って はいたが、実際に交戦するのはこれが初めてだった。人間として捉えれば体格はそれほど大きくないのだが、虫と して捉えると巨大すぎる。その禍々しさに、武蔵野は一瞬臆しかけた。ホタル怪人は触角を左右に振り、手にしていた 戦闘員を軽々と放り投げた。彼はエントランスホールのガラスを砕いてホールに転がり、動かなくなった。
 勝てるとは思えないが、負けるとは思いたくない。武蔵野が発砲すると、他の戦闘員達も一斉に発砲した。だが、 通常の弾丸は一切通用せず、分厚い外骨格に弾かれるだけだった。ホタル怪人は鬱陶しげに複眼を逸らしてから、 車内で身を縮めている母子に目を留めた。

「やめろ、それだけは!」

 ひばりとつばめを守らなければ意味がない。武蔵野はボンネットを飛び越えてホタル怪人を阻もうとするが、敵は 鋭い爪を一振りし、武蔵野の顔を切り裂いた。ぶぢゅりっ、との嫌な音と共に生温い液体が溢れ出し、右の眼球が ダメになったのだと悟った。照準の定まらない目で懸命に引き金を引いたが、ホタル怪人は歩みを止めなかった。 防弾ガラス製のリアウィンドウに拳を埋めると、分厚く頑丈なガラスは一撃で粉々に砕け散り、透明な破片がシート に降り注ぐ。施錠してあったドアも片腕だけで難なく引き剥がし、投げ捨てる。
 その間にも他の戦闘員達が銃撃を繰り返す。ハンドガンでは通用しないのなら、と自動小銃を乱射する者もいた が、やはり一発も貫通しなかった。武蔵野の頭上にも潰れた鉛玉が飛び交い、薬莢だけが空しく増えていく。ひばり は我が子に覆い被さって守ろうとするが、ホタル怪人は彼女の襟首を掴んで車外に引き摺り出すと、異変を感じて ぎゃあぎゃあと泣き喚く赤子をベビーシートごと取り出し、脇に抱えた。

「ひどいこと、しないで」

 羽を震わせて飛び去ろうとするホタル怪人の足に縋り、ひばりは懇願した。

「その子はね、つばめっていうの。連れていくなら、仲良くしてあげて? 乱暴しないで、ちゃんと可愛がってね?」

 怪人の暴力と悪意に抗えないのならば、その矛先を少しでもずらしたいと思ったのだろう。ホタル怪人はひばりを 足蹴にしようとしたのか、彼女がしがみついている足を上げたが、途中で気が変わったのか下ろしてくれた。ひばり が痛々しい作り笑いを見せると、ホタル怪人はつばめを上両足で抱え直してから飛び去っていった。
 それから、二度と母子は再会出来なかった。傷の処置を終えた武蔵野がひばりの仮住まいに向かうと、ひばりは 使う当てのなくなったベビー用品に囲まれて呆然としていた。武蔵野は慰めの言葉すら失い、ひばりの傍に座って やることしか出来なかった。ひばりは我が子を奪われた寂しさを少しでも紛らわすためなのか、パンダのぬいぐるみ を抱き締めてしきりに話し掛けていた。

「私じゃダメなんだ。私は何の役にも立たないんだ。だから、つばめを守ってやれなかったんだ……」

 パンダのぬいぐるみに涙を吸わせながら、ひばりは嘆き続けた。佐々木長孝であれば、その丸まった背中に手を 添えてさすってやれただろう。抱き締めてやれただろう。慰めの言葉を掛けられただろう。だが、武蔵野にはそれが 出来ない。出来るわけがない。だから、嘆き悲しむ彼女を見守るだけで精一杯だった。
 その後、佐々木つばめの行方が判明した。佐々木長光が懇意にしている弁護士、備前柳一の家庭に養子として 引き取られていた。佐々木長光が孫を取り戻すために手を回し、比較的安全な場所に落ち着けたのだろう。それを 知った武蔵野は当然ひばりに報告しようとしたが、新免工業の上層部に止められた。新免工業が攻勢を取れば、 佐々木長光も黙ってはいない、そうなれば無用な被害が出てしまう、いざというときの切り札として佐々木ひばりを 確保しておいた方がいい、と。武蔵野はやりきれなくなったが、従った。ひばりを守るために受け入れた。
 それしか出来なかった。




 それから、更に半年が過ぎた。
 我が子を目の前で奪われたせいだろう、ひばりの精神状態が危うくなっていた。パンダのぬいぐるみを今まで以上 に可愛がり、どこへ行くにも連れて歩くほどになっていた。つばめのことも何度となく語って聞かせていて、つばめの 兄弟のように扱っていた。ひばりが笑うのなら、と武蔵野はそれを黙認していたが、パンダのぬいぐるみに触ろうと すると彼女はひどく怒るようになった。この子はつばめのものなんだから、と喚いて遠ざけた。
 パンダのぬいぐるみを構っていない時は何もせずにぼんやりしているか、夫の名を呼びながら泣き伏せている か、そのどちらかだった。食事もろくに摂らないので痩せていく一方で、やたらと重量のあるパンダのぬいぐるみを 抱くのも難しくなるほど腕力が落ちていた。目を離すと、その隙に命を絶ってしまいそうな気がして、武蔵野はひばり の傍から片時も離れられなくなった。パンダのぬいぐるみも、彼女の傍から離れなかった。
 佐々木つばめの数少ない生体組織を使用した実験を行うために、ナユタが太平洋上に輸送されてきた。横たえた 刃物の上を裸足で歩くような痛々しい日々の中、武蔵野はひばりをこれ以上追い詰めないためにもその実験を行う べきではないと進言したが、上層部からは突っぱねられた。ナユタの作動実験が成功して莫大なエネルギーを供給 することが出来れば、新免工業にもそれ相応の利益がもたらされる、武蔵野もひばりもその恩恵を受けられる、と 説き伏せられてしまった。つばめのヘソの緒を差し出すことも決定されていて、逆らえず終いだった。
 新免工業が所有するタンカーに搭載されたナユタが東京湾に入り、着岸まで数百メートルという距離になった時、 前触れもなくナユタが暴走した。ナユタの保存容器からタンカーの船体から何から何までが消し飛び、海水までもが 消失して空虚な空間が造り上げられた。その中心に浮かぶ青い結晶体は、不気味に輝いていた。
 緊急避難命令が下り、武蔵野はひばりを連れ出そうとしたが、つばめのヘソの緒が入っている箱を握り締めていた ひばりは武蔵野の手を振り払って外に出た。青白い光が広がる海を凝視し、語気を強めた。

「行かなきゃ」

「どこに行くつもりだ!」

「決まっているでしょ、あの子のところ!」

 ひばりは武蔵野に怒鳴り付け、駆け出した。新免工業の社員や研究員達を掻き分けて港に飛び出したひばりは、 そのまま海に飛び込もうとしたので、武蔵野は力任せに引き留めた。

「いいから、落ち着け。あれは」

「私は役に立ちたい! 私はあの子のお母さんなのに、何も出来なかった! タカ君のお嫁さんにもなれなかった!  このまま終わるのだけは絶対に嫌、私はつばめのお母さんになりたいの!」

 初めて触れた彼女の肩は、痩せて骨張っているのにやけに熱かった。薄手のカーディガンの下で上下する肩から 慎重に手を離した武蔵野は、周囲を取り囲んできた社員達を制してから、ひばりを問い質した。 

「なんで、ナユタがつばめだと思ったんだ?」

「解るの。タカ君とつばめのおかげだと思うけど、ほんの少しだけ、遺産のことが解るの。つばめは何かが辛いから 泣いていて、それと連動してナユタも泣いているの。だけど、つばめがどうして泣いているのかは解らない。だから、 私はナユタを泣き止ませることしか出来ないの。そうすれば、壊れるのはタンカーだけで済むの。放っておいたら、 どんどんナユタは周りの物を壊しちゃう。そうなったら、どれだけ人が死ぬのか……。だけど、ヘソの緒を落とすだけ じゃナユタはつばめを認識してくれない。それぐらいに、あの子は動揺している。もしかすると、つばめを認識する前 に消し飛ばすかもしれない。だから、異物を混入してナユタをちょっと驚かせてあげなきゃならないの」

「だが、ひばりも死ぬぞ。間違いなく」

「それでもいい。私が役に立てるのなら」

 そう言い切ったひばりの目は、揺るぎない決意に輝いていた。自分はただの道具に過ぎないと自虐していた彼女 が自分の役割を見出し、盤石な自信を得た瞬間だった。けれど、その自信を貫くべきではない。武蔵野はもう一度 彼女を諌めようとしたが、ひばりはその前に駆け出していった。破滅に向かうと知っているはずなのに、嬉しそうに 走っていった。武蔵野が追い付くと、ひばりはヘリコプターの前で手を振っていた。笑顔だった。

「あんたは本当にそれでいいのか!」

 なぜ、そこまで自分を投げ打ってしまうのだ。堪えきれなくなった武蔵野がひばりに詰め寄ると、ひばりは武蔵野を 見上げてきた。消えない傷跡と義眼を埋めた右目を見咎められた気がして、武蔵野は苦々しく顔を背けた。

「確かに俺は、あんたの役に立てなかった。あんたの娘も守れなかった。あんたを旦那のところから攫ったくせに、 ろくに役目も果たしもしなかった俺達を見限るのは当然だ。だからって、あんた自身がそこまですることはないんだ。 俺を恨みたいなら恨め、殴るなら殴れ。あんたと佐々木長孝から何をされても、文句を言える立場じゃねぇ」

「私は誰も恨まないよ」

 ひばりはナユタが作り出した小規模な嵐の暴風を受けながら、抉れた海を望んだ。

「色々考えて、色々思って、色々悩んで気付いたの。私が私の人生を恨んだり、他人を嫌ったり、恨んだりすれば、 その結果で産まれてきたつばめのことも恨むことになるって。でも、それだけはしたくないの。だって、つばめは私と タカ君が愛し合っちゃった結果だもん。タカ君のことを否定するのは嫌だもん。だから、私はあの子の役に立って、 ちゃんとしたお母さんになるんだ。そのために、ちょっとだけお手伝いしてくれないかな?」

「だが、他の方法もあるんじゃないのか」

 武蔵野が呻くと、ひばりは首を横に振った。

「あったとしたら、とっくにそうしているよ。この子のこと、お願いね。タカ君に預けてほしいんだ」

 ひばりが武蔵野に渡してきたのは、あのパンダのぬいぐるみだった。渡されるがままに受け取ると、彼女はパンダの ぬいぐるみの鼻先を小突いて頬を寄せた。その仕草はベビーベッドに眠るつばめを慈しんでいた時と全く同じで、 それが一層武蔵野を苦しめてきた。これは自殺幇助だ、殺人だ。守ると決めた相手が死に向かおうとしているのに 手をこまねいていいのか。愛して止まない女性を、塵一つ残らない死に方をさせていいのか。帰るべき場所も家族も いる人間を、みすみす死なせてしまっていいのか。だが、武蔵野はその思いを一つも言葉に出せずに、パンダの ぬいぐるみをベルトで腹に括り付けた状態で、ヘリコプターの操縦席のハッチを開けた。
 そして、武蔵野はひばりに命じられるままにヘリコプターを飛ばした。ひばりは笑顔を崩すことはなく、死の恐怖に 怯えることもなく、つばめのヘソの緒が入った箱を優しく慈しんでいた。ローター音に掻き消されながらも、ひばりは お喋りをしていた。武蔵野がつばめに会うことがあったら優しくしてあげてくれ、守ってあげてくれ、と。語気も語彙も 底抜けに明るかったのが、辛さを煽り立てた。それでも、武蔵野はヘリコプターの高度を保っていた。

「あのね、武蔵野さん!」

 ヘリコプターのハッチを開け、暴風に髪を掻き乱されながら、ひばりは思い切り笑った。

「優しくしてくれて、守ってくれて、最後まで付き合ってくれて本当にありがとう! つばめとタカ君の次に」

 大好き、と叫びながら、ひばりはナユタの真上に身を投じた。それから十数秒後、ひばりは粒子の一粒も残さずに この世から消失し、彼女の命と引き替えにナユタは沈静化した。ナユタの影響を受けて中途半端に浮き上がって いたタンカーが着水し、凄まじい水柱が立ち上がり、ヘリコプターは大きく煽られた。武蔵野は余力を振り絞って港に 引き返して着地し、外に出たが、ひばりの痕跡はなかった。荒れ狂う海と、忌々しくも禍々しい遺産と、巨大な鉄屑と 化したタンカーしかなかった。大波で濡れたコンクリートに膝を付き、武蔵野は慟哭した。
 誰よりも、何よりも、自己犠牲を選んだ彼女を恨んだ。




 セミの声が、アブラゼミからヒグラシに移り変わっていた。
 西日による濃い陰影に沈んだ武蔵野の表情は窺い知れなかったが、語り口は重たいままだった。麦茶のポットは 中身が温くなっていて、結露も乾いていた。神名の静かな駆動音が響き、手袋に包まれた手が麦茶の入ったコップ を掴んだ。氷も全て溶けていて、薄まった麦茶が僅かに底に溜まっていた。

「それから、いかがなさいましたか」

 神名に促され、武蔵野はつばめを一瞥した。

「恨んで恨んで恨み抜いて、うんざりするほど恨んだ。つばめのことすらも恨んじまった。だが、恨むことに疲れた。 だから、俺はまた戦うことにしたんだ。遺産を狙う連中の内情を掴むために新免工業に留まって、お嬢の部下にも なって、外側からお前を守ることに決めたんだ。だが、そいつも半端に終わっちまって、今に至る」

「あの日、なぜ太平洋上でナユタの実験を行おうとしていたのか、その経緯について御説明いたしましょう」

 神名は膝の上で手を組み、つばめを見つめた。

「新免工業が、というより、僕が長年目の敵にしていたのは弐天逸流なのです。彼らは宗教の名の下に命を弄んで いますので、それがどうにも許し難いのです。死者を蘇らせて生前の記憶と共にシュユという偶像に対する信仰心を 植え付け、その人のあるべき人生を根本から歪めてしまうのです。生と死は密接しておりますが、決して交わることの ない世界の話です。弐天逸流から何らかの理由で放逐された人々を見つけ出し、回収し、適切な教育を施して 弊社の社員として扱っておりますが、それでも彼らを救うことにはなりません。元在るべき常世に戻してやるべきなの ですが、僕は殺人は好みませんのでね。彼らの命が尽きるまで社員として生かしてやるのが、彼らの人生に触れた 者の責任だと思っているのです。ですが、弐天逸流が所有する遺産を、シュユとその下位個体であるゴウガシャを 破壊しなければ負の連鎖は途切れることはなく、哀れな死者達は増え続けるのです。ですから、あのような荒事を 起こしてシュユを破壊しようとしたのですが……失敗に終わってしまいましてね」

 神名の目線がコジロウに向くと、つばめの背後で正座しているコジロウは神名を睨み返した。

「ナユタを使用しようとも、管理者権限所有者の意思がなければ遺産の破壊は不可能だ」

「でしょうねぇ。身を持って理解しましたとも」

 神名は正座を崩し、夜風を含み始めた外気を受けて揺れる風鈴と、花の萎れたアサガオを視界に収めた。

「一つ、よろしいでしょうか。先程、コジロウ君がお取りになっていた、アサガオの種を少しばかり分けて頂けません でしょうか? 本当に、少しだけでよろしいのですが」

「それぐらいなら、ねえ?」

 つばめがコジロウに乞うと、コジロウは頷いた。

「本官はつばめの命令に従う」

「ありがとうございます。命とは、そうやって連ねていくのが正しい姿なのです。一度、誰かの手で歪められてしまった 理を正すには、正す方にもそれなりに力が必要なのです。ですが、僕達では力が及びませんでした。つばめさん、 弊社の優秀な社員をお預けいたしますので、存分に戦い抜いて下さい。あなたの人生のためにも」

 武蔵野君の書類一式です、と神名は平べったい封筒を差し出してきたので、つばめはそれを受け取った。

「どうも」

「では、これで失礼いたします。長居をしてしまいましたね」

 神名は立ち上がると、一礼してソフト帽を被った。つばめは道子と共に神名を玄関先まで見送ると、社長の帰りを 辛抱強く待っていた社員達と礼を交わし合った。約束通り、アサガオの種を紙に包んで渡してやると、神名はとても 喜んでくれた。何の変哲もない種なのだが。黒塗りのリムジンに乗って神名が去ると、静けさが戻ってきた。
 仏間との続き部屋に戻ると、武蔵野はやりづらそうな顔でつばめを出迎えてくれた。若い頃の心情まで徹底的に 吐露してしまったからだろう、後悔が垣間見えていた。つばめは彼の過去を責めもせず、問い詰めもせず、神名が 去った余韻が残る部屋に留まることにした。これで宿題は更に遅れるだろうが、そんなものは後でどうにでもなる。 今、大事なのは、武蔵野を通じて母親の生き様と向き合うことだ。

「パンダのぬいぐるみは、あの後、どうなったの?」

 それが自分の手元にあるパンダのぬいぐるみと同じであれば、どんなに嬉しいか。つばめが一抹の期待を込めて 問い掛けると、武蔵野は気まずげに眉根を顰めた。

「それがなぁ、どこに行ったのか解らないんだ。ひばりが亡くなった後、その遺品を一つ残らずまとめて佐々木長孝 の元に送り届けるはずだったんだが、その作業に追われている間にパンダの野郎は消えちまったんだ。もちろん、 俺も他の連中も探したんだが、どうしても見つけられなかった。すまん」

「その子の中には、遺産が入っていたのかな」

「その可能性も高いから、余計に力を入れて探したんだがなぁ。だが、意外と傍にいるかもしれんぞ。遺産は管理者 権限所有者の安全を最優先にした行動を行うから、パンダの野郎もそうしているかもしれん。根拠はないが」

「で、パンダちゃんの名前も解らず終い?」

「そうだよ。解っていたら、報告してやったさ。お前の兄弟になったかもしれない人間の名前なんだから」

 武蔵野は全身の力を抜くように嘆息してから、サングラス越しにつばめを捉えた。そこに迷いはなかった。

「つばめ。お前は俺を恨むか?」

「ううん、全然。だって、武蔵野さんはお母さんにも私にもひどいことをしなかったから。恨む理由がないよ」

 つばめが表情を緩めると、武蔵野は一笑した。

「俺は意気地がないだけだ。あんまり買い被ると、痛い目を見るぞ」

 今度、ひばりの遺髪を埋めた墓に連れて行ってやる、と武蔵野は言い残してから、腰を上げた。薄暗く陰った廊下 を歩いていく広い背を眺めながら、つばめは自分の携帯電話を操作し、神名の携帯電話からコピーした画像を展開 した。大きなお腹を抱えて笑顔を浮かべている母親と、その背後でやりづらそうにしている男と、十五年前に母親の 胎内で育ちつつあった自分を慈しむ。母親に触れようと指先を伸ばすが、擦り抜けただけだった。
 それでも、つばめは満ち足りていた。ついこの前までは名前しか知らなかった母親のことを沢山知ることが出来た し、母親を始めとした多くの人々に望まれながら産まれてきたことを知ったことで、これまでは不確かだった自分と いう人間にしっかりとした地盤が出来上がった。母親も、自分も、ただの道具ではなかったのだ。
 ふと気付くと、背後にコジロウがいた。つばめは彼を手招いて、母親のホログラフィーを見せてやった。コジロウは 畳に片膝を付いて、つばめの肩越しに在りし日の佐々木ひばりを見つめた。複雑に入り組んだ感情が解けていき、 最後に残った一筋の愛情が心中を緩やかに暖めてくれる、穏やかな一時だった。
 夏は、終わりつつある。





 


12 10/20