機動駐在コジロウ




坊主が憎けりゃケースも憎い



 重たく濁った眠りの果てに、激痛で意識が戻った。
 ただ一つだけ確かなのは、全身隈無く痛みが駆け巡っているということだけだった。寺坂は二日酔いの何十倍もの 気分の悪さと懸命に戦いながら、強引に瞼をこじ開けた。ぼやけた視界に入ってくるのは、薄暗い天井と四方の 壁に飛び散った不規則な柄だった。それは放射状に液体を散らしたかのようなもので、空気が全体的に生臭い。 饐えた匂いもする。ぎこちなく眼球を動かしていると、部屋の中に人影が立っているのが見えた。
 それは、彼女だった。服装こそ違っていたが、見間違いようがなかった。あの日、クラブで寺坂に話し掛けてきた 若い女性だ。色気の欠片もないジャージの上下を着ている彼女は、肩で息をしながら口元を拭った。手の甲と袖に 液体が染み、彼女の胸元から腹部に掛けて食べこぼしをしたような汚れが付いている。行儀が悪い。

「ダメ、ダメ、全然ダメ……」

 彼女は何度か咳き込んで赤黒いものを吐き出してから、その場に座り込んだ。寺坂は声を掛けようとしたが、口が 動かなかった。というより、言葉を出すために必要な横隔膜が破られている。彼女の背後にある汚れた窓ガラス に映る自分の姿を捉え、寺坂は冷えた頬を歪ませた。無事なのは頭と左腕と上半身と左足だけで、鳩尾から下の 腹部と右腕の触手と右足は取り除かれていた。素人の仕事丸出しで、皮の切り方がぎざぎざで筋肉がぶつ切りで、 右足の大腿骨を強引に曲げたが外れなかったらしく、筋が伸びきって垂れ下がっている。

「ごめんなさ、ごめ、んな、さい……」

 彼女は再度咳き込むと背中を丸め、ひ、と悲鳴混じりに息を飲んだ。すると、丸まった背中の布地が盛り上がり、 異物がそれを突き破った。薄い皮膚が破られる際に生じた痛みで涙を落としながら、彼女は両腕を強く握り締めて がくがくと震える。葉脈に似た黒い線が駆け巡る、儚げに透き通った一対の羽が、彼女の忙しない呼吸に合わせて 開閉する。妖精のようなシルエットではあるが、返り血がこびり付いたジャージ姿の妖精などいないだろう。
 虫の翅だ。寺坂はそう思ったが、言葉には出せなかった。出血がひどすぎたのか、左腕も指先すら動かすことが 出来ず、慎重に息を吸って肺を膨らませるだけで精一杯だった。

「ああ、ああ、ああああっ!」

 嗚咽を漏らしながら彼女が顔を引っ掻くと、皮膚の下から黒く厚い外骨格が迫り上がってくる。感情の高ぶりで 力を押さえられないのだろうか。数分の時間を経た後、彼女は変貌していた。それまで着ていたジャージは細切れ になり、無惨な布切れと化して床に散らばっていた。六本足の巨大な昆虫怪人に変わり果てた彼女は嗚咽と共に肩を ひくつかせながら、ひたすら泣いていた。涙の出ない複眼に爪を立て、誰かに謝り続けていた。
 このまま死んでしまうのだろうか、と寺坂は密かに覚悟を決めていたが、痛みのあまりに走馬燈は過ぎっても死に 瀕する気配は訪れなかった。それどころか、彼女が細々と与えてくるスポーツドリンクや栄養剤を口にしているだけで 肉体が徐々に再生していった。我ながら信じがたかったが、目視している間に触手が生え替わり、骨が元に戻り、皮膚 が張り詰めて筋肉が膨らみ、水分を口にするたびにそれと同量の血液が作られ、流れていった。
 それもこれも、触手の影響なのだろうか。




 それから、寺坂の容態は快方に向かった。
 一週間足らずで寺坂は元の体に戻ったのである。その間、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた彼女は泣き通し だったので、名前を聞く機会すらなかった。もっとも、横隔膜と喉が再生するまでは声が出せなかったので、寺坂も 質問のしようがなかったのだが。彼女が持ってきてくれた水とタオルで体を拭いてから、誰かの使い古しと思しき油染み が付いた作業着を着ると、寺坂は人間らしくなった。だが、この時を境に体毛が一切生えなくなった。

「んでよ、あんた、俺に何したわけ?」

 寺坂は伸び放題の触手を使い、窓を開けた。血肉の腐臭と諸々の匂いが籠もっていたからだ。窓の外は針葉樹 が生い茂った深い森で、人気は一切なかった。人里離れた山奥なのだろう。携帯電話が使えれば、現在位置ぐらいは 簡単に割り出せるのだが、生憎、携帯電話は手元に見当たらなかった。彼女が隠しているのかもしれない。

「私……普通じゃないんです」

「いや、そりゃ見りゃ解るけど」

 寺坂は窓枠に寄り掛かり、綺麗に禿げ上がった頭部を左手で撫でた。寺院で剃髪されていた時もあったが、頭が すかすかしてどうにも慣れない。これでますます坊主らしくなっちまったなぁ、と内心で寺坂は嘆きつつ、昆虫怪人の 姿を保っている彼女を見下ろした。外骨格に覆われた下両足を折り曲げて正座しているが、人間とは足の形状が 違うので収まりが悪そうだった。膝崩せよ、と言い、寺坂は触手を伸ばして部屋の隅の段ボール箱を開けた。

「でさ、あんた、俺に何したの?」

「あの日の夜、あなたにこれを」

 そう言いながら、彼女がバッグから取り出してみせたのは、ペン型の注射器だった。糖尿病患者がインシュリンを 注射する時に用いるものだ。その中には、ほんの少しだけ薬剤が残っていた。

「中身は麻酔です。ほんの少しだけのつもりだったんですけど、力加減を間違えて大量に注射してしまって……」

「あーそう。んで、死にそうなぐらい熟睡した俺をぐちゃぐちゃに切り裂いたのはなんでだ?」

 すっかり治っちまったけど、と寺坂が腹部をさすると、彼女は俯いて触角を伏せた。

「あなたは普通じゃありません。だから、その血肉を欲しがっている人達がいるんです。それを阻止するために、私は マスターに命じられてあなたを捕獲したんです。ですが、あなたが生きていると、きっとまた同じことになると危惧 したマスターは、あなたを解体するように命じたんです」

「は? なんだよ、その三段論法みてぇーなの。つか、俺が普通じゃないのは一目瞭然だけどさ、俺の肉なんか欲しがって どうなるってんだよ? マジ意味不明なんだけど。説明してくんね?」

 寺坂が少し凄むと、彼女はびくついた。根は気弱なのだろう。

「それは、その……。長い話になっちゃいますけど」

「別にいいよ。どうせ退屈だし」

 寺坂は段ボール箱の中からスポーツドリンクを取り出し、蓋を捻った。その時は気にしていなかったが、今にして 思えばこれはフジワラ製薬の製品だった。栄養剤も同様で、部屋の隅に積み重なっている段ボール箱にはフジワラ 製薬のロゴが印刷されていた。段ボール箱の数は十箱を超えていたので、彼女が事前に準備しておいたのだろう。 寺坂を捉え、ここまで運び入れ、陰惨な食人を行うために。もっとも、どちらも人間とは言い難いのだが。

「マスターは、危険な思想を抱いている弐天逸流を警戒しているんです。あなたも弐天逸流を探っていたから解って いるでしょうが、弐天逸流は人智を外れた存在を教祖として崇めているんです。表立って布教はしていませんが、 水面下で弐天逸流の教えは広がりつつあります。経済界にも、政財界にも。ですから、遠くない未来、弐天逸流の 教祖が一声掛ければ、この国が転覆してしまうかもしれません。それどころか、世界全体が掌握されてしまうかもしれ ません。そうなったら取り返しが付かなくなってしまいます。ですから、マスターは敢えて非情な手段に出ることにした んです。肉体的に限界を迎えた弐天逸流の教祖が次なる肉体として、更に万能の霊薬として目を付けている、あなた の肉体を処分してしまうことにしたんです」

 彼女は若干目を逸らし、苦悩を押し殺した声色で語った。寺坂は眉間に皺を寄せる。

「んだよ、そのマスターって奴は自分の手は汚さねぇのか?」

「マスターはあまり人前にお出ましになりませんし、私のような力も持っていないので」

「つか、なんであんたのマスターはそんなに弐天逸流に明るいんだ? 俺も知らねぇし、そんなん。つかさ、マスター 本人が教祖なんじゃねーの? で、あんたを働かせて弐天逸流にちょっかいを出す俺を遠ざけてー、っつう寸法。 そういうオチなんじゃね?」

 寺坂が頬を歪めると、彼女は触覚を片方上げた。

「違います。それだけは違うと断言出来ます。理由は言えませんけど」

「俺の触手を一本だけ切って殺したことにして、ズタボロにする前に解放してくれりゃよかったのによー」

 寺坂がむくれると、彼女は触角を左右に揺らした。

「出来ませんでした。そうしようと思ったんですけど、何度かマスターが様子を見にいらっしゃったので」

「あー、そう。お前らも弐天逸流もクソだな、ウゼェったらありゃしねぇ」

「埋め合わせはいくらでもします! ですから、マスターにだけは手を出さないで下さい!」

 彼女は腰を浮かせかけたので、寺坂はへらへらした。

「どこの誰とも知らねぇおっさんに手ぇ出すかよ。手ぇ出すんならあんただ、俺の女になってくれねぇ?」

「えっ、あ、あの?」

 彼女が戸惑うと、寺坂は捲し立てる。肉体が再生したら、欲望まで再生したからである。

「あんたの怪人体はそうでもねぇけど、人間体はすっげー好みなの。ちょっと童顔なのに体はむっちりしててさ、胸も 尻もちゃんとある。で、顔ね。化粧を盛りまくった女も悪くねぇけど、ああいう感じの遊び慣れていないですよーって 言わんばかりの女子大生丸出しのメイク。あれがいい、ナチュラルメイクを目指しつつもOLみてぇにきっちりと色を 載せてあるのがいい。汗やら何やらでぐちゃぐちゃにさせたくなる。香水がないのもポイント高いし」

「私のこと、怖くないんですか? だって虫だし、あなたのことを滅茶苦茶に」

「ん、別に? 右腕がこうなる時にもっと怖い目に遭ったから、別になんとも。生きたまま解体されたのだって、麻酔の おかげで痛くもなんともなかったしよ。だから、今度は俺があんたを滅茶苦茶にする番だ。性的な意味で」

「信じられない! 最低です!」

 声を裏返しながら彼女が後退ると、寺坂は大笑いした。

「最低っつったら、どっちが最低だよ! 人のこと言えるかよ!」

「それは……その……」

 負い目があるのか、彼女は言葉に詰まった。

「大体、神様なんて当てになるものじゃねぇよ。いないんだし来ねぇんだし。いくら実在しているっつっても、俺なんか を当てにしてどうなるんだよ。俺だって俺が馬鹿でダメでクソなことぐらい、自覚していらぁな。筋違いだろ、それ」

 寺坂はスポーツドリンクを飲み干すと、空になったペットボトルを投げた。軽い音を立てて壁に当たり、転がる。

「まずはあんたがどこの誰だか知ってやる。それぐらいの権利はあるだろ、被害者なんだからよ」

 寺坂は触手を天井伝いに伸ばし、彼女のバッグを掠め取った。あっ、と彼女は慌てたが、寺坂は素早く触手を 引っ込めてバッグを手中に収めた。小振りな円筒形のバッグで、ファスナーは既に開いている。逆さにして中身を全て 出し、彼女に取り戻される前に携帯電話と各方面で使える身分証であるIDカードを拾った。携帯電話はロックされて いたが、IDカードの裏側には個人名と共にプリクラが貼ってあった。人間体の彼女と幼い少女だ。

「これ、あんたの妹?」

 寺坂がプリクラを指すと、彼女は慌てふためいた。

「返して! その子に触らないで!」

「ただのプリクラじゃねぇの、そんなにぎゃあぎゃあ騒ぐほどのことでもねぇだろ」

 寺坂はIDカードをひらひらと振りながら、彼女との距離を取る。彼女はいきり立ち、顎を開く。

「返せ!」

「返さなかったら、今度こそ俺を殺してくれるのか?」

 寺坂はドアに背を当てると彼女を見据え、IDカードを突き付けた。彼女は腹部を大きく上下させる。

「……殺せない。殺そうとしても、殺せない。私は殺せない」

「そりゃまたどうしてだ。俺が本当に神様の器で、ガチで不死身だからか? どこの誰なら、俺を殺せるんだよ」

 軽薄な笑みを消し、寺坂は不意に真顔になる。あれだけのことをされたのに、死ぬどころか僅かばかりの栄養だけで 生き返った自分が恐ろしくなっていたからだ。人間から懸け離れていく自分に危機感を抱いたことは、過去に 何度かあったが、寒気を覚えたのは今回が初めてだ。このまま衰えることもなく、触手に肉体を食い尽くされて異形 の生物と化しながら長らえていく自分を思い描いただけで、怖気立った。欲望のままに振る舞っていれば忘れられた ものの、彼女との日々は退屈すぎて我に返る瞬間が何度もあった。だが、誰かが殺してくれるのなら。

「誰も、私達を殺すことも出来なければ、人間に戻すことも出来ないんです。マスターでさえも」

 彼女はうずくまり、頭を抱える。寺坂はその怯えきった様を見、場違いな感情を抱いた。あれ、なんか可愛い、と。 寺坂には女を痛め付けて興奮するような性癖は備わっていないのだが、姿形と言動の落差に心が動いた。きっと、 寺坂の肉体を切り裂く時もごめんなさいと連呼しながら切り裂き、ごめんなさいと連呼しながら血肉を捕食し、時折 嘔吐しながらも寺坂を生きたまま解体していったのだろう。
 寺坂の中にあるイメージの怪人とは、懸け離れすぎていた。子供の頃に見た特撮番組に出てくる悪役の怪人は 堂々と悪事を行っていたし、映画に出てくる殺人鬼も殺人を楽しむような性分の持ち主ばかりなので、そのどちらの 要素も持ち合わせていない彼女は違和感の固まりだった。人間体の外見の可愛らしさも相まって、寺坂の心中の 変な部分を刺激してきた。そして思った。家族愛と本能の狭間に揺れ動く怪人をいじり倒してしまいたいと。

「なー、みのりん」

 寺坂が不躾に呼ぶと、彼女は顔を上げた。

「あんまり馴れ馴れしく呼ばないで下さい。親しくはないんですから。それと、IDカードを返して下さい。それがないと ろくなことが出来ないんですから、今の世の中は」

「返さねぇよ。どうせこれから親しくなるし、あんたがやらかした分、俺もあんたにやらかすし」

 寺坂はIDカードをちらつかせながら、彼女に迫る。顔を近付けると、彼女は腰を引く。男に不慣れなのだ。

「やらかすって、何を」

「付き合えよ、俺と」

「嫌です! 絶対に嫌です! あなたみたいにどこもかしこもだらしなくて生臭くて酒臭くてタバコ臭い人なんて絶対 に嫌です! 初対面の相手にいきなり、あ、あんなことをしてくる人なんてお断りです!」

 触角がなびくほど盛大に首を横に振った彼女に、寺坂は子供染みた加虐心が煽られた。

「減るものじゃねぇだろ。どうせこれから、飽きるほど」

「しませんっ!」

 そう言うや否や、彼女は勢い余って寺坂を突き飛ばそうとした。しかし、その手というか上右足には草刈り鎌のような 長く鋭い爪が生えていたので、寺坂の首筋を掠めただけで皮膚が切り裂かれた。当然、動脈が真っ二つに切断 されて天井まで血液が噴き上がり、彼女がけたたましい悲鳴を上げた。自分でやっておいて怖がるのかよ、と寺坂は 内心で彼女のリアクションに突っ込みつつ、多少の貧血を感じてよろけた。
 これで、当分は楽しめそうだ。寺坂は日本刀で切り付けられたかのような鋭利な傷口を触手で塞ぎ、皮膚と血管が 再生するまでの応急処置を行いつつ、新たな血にまみれた彼女のIDカードを眺めた。東京都区内の住所と市民番号と 氏名、個人情報が山ほど入力されているICチップ、そして裏面には彼女と妹のプリクラ。
 備前美野里。それが、彼女の名前だった。




 美野里がマスターと連絡を取った翌日、プレハブ小屋の前に寺坂の愛車が運ばれてきた。
 アストンマーチン・DB7、ヴァンテージ・ヴォランテ。美野里に出会ったクラブに程近いコインパーキングに駐車した ままになっていたのだが、マスターはその車をわざわざ運んできてくれたようだった。運転席を覗くと、イグニッション キーが刺さっていた。恐らく、美野里の手からマスターに渡ったのだろう。ダークグリーンの車体は傷一つなく、色気 のある光沢を保っていた。寺坂は口笛を一つ吹いてから、運転席のドアを開けた。

「乗れよ、みのりん」

「どうして乗らなきゃいけないんですか」

 人間体に戻った美野里は、あの日と同じ服装に着替えていた。それしか持ってこなかったのかもしれない。彼女は 不機嫌そうにそっぽを向いているが、その横顔すら可愛いと思ってしまう。寺坂は運転席に座ると、シートベルトを 締めてから助手席のシートを叩いた。張りの強い革が跳ね返る。

「ここにいたって、退屈なだけだし。憂さ晴らしにぱあっと遊ぼうぜ、今度こそ」

「嫌です。私の役目は終わりましたし、マスターが迎えに来てくれる約束ですから」

「そのマスターが来なかったら? この小屋には車もバイクもねぇし、電話もみのりんの手持ちの携帯だけ。俺のは みのりんが真っ二つにしちまったからなー。おかげで、散々集めたキャバ嬢のアドレスが全部パーだよ。No.1の子 のやつもあったんだぜ? 仕事用の捨てアドじゃなくて本アドもいくつかあったってのにさー、あー勿体ねぇー。いくら 注ぎ込んだと思う? 札束でビンタ出来るぐらいよ? 何本ドンペリ開けたと思う? なー?」

「知りませんよ、そんなの!」

 美野里が声を荒げると、寺坂は左腕で助手席のヘッドレストを叩いた。

「だからさー、乗ってくれよー。俺とデートしてくれよ、それがダメならメシでも喰いに行こうぜー」

「嫌です」

「いいっていいって、俺はどうせ暇だからいくらでも我が侭を聞いてやるよ。なんだったらさ、都心までぶっ飛ばして 馬鹿高いレストランにでも連れて行ってやろうか? 金ならあるんだ、金だけは」

「そういう意味じゃありません」

 美野里は寺坂に背を向け、肩を落とす。首筋で長い髪が二つに割れ、肩から垂れた。

「御存知の通り、私は人間じゃありませんから。だから、普通の食べ物は体が受け付けないんです。食べようとしても 吸収されないので、そっくりそのまま出てしまうんです。だから、奢ってもらうだけ、お金の無駄なんです」

「だったらさ、俺の触手でも喰えば? 次から次へと生えてくるし、なんか本数も増えてきているから、正直鬱陶しい んだよな。味も食感も成分も違うだろうけど、腹の足しにはなるんじゃねぇの?」

 寺坂は冗談のつもりだったが、美野里はいやに真剣な顔をした。

「お気持ちだけ、受け取っておきます」

「なあ、みのりん。もっと気楽に生きようぜ。俺もみのりんも、どうせ堅気の人生なんて歩めないんだし。こんな体に なっちまった時点で、それは決定事項なんだ。だから、好き勝手にやっちまった方がいい。みのりんがマスターとやら にどんな義理があるのかは知らねぇけど、頭の先から爪の先まで支配される必要なんてないぜ? どうせ、ここには マスターはいないんだ。こんなクソ田舎に見張りに来るほど、暇な奴でもなさそうだしな」

 触手の尖端を曲げた寺坂は、美野里の太股を軽く撫でた。途端に美野里は赤面する。

「なんっ、なっ、何を!」

「俺が珍しく真面目に話をしているってのにリアクションが薄いからさ、セクハラをだな」

「そんなデタラメな理由で変なことをしないで下さい!」

「なあ、遊ぼうぜ。ちょっとでいいから、ドライブだけでもいいから、メシは俺の血でも肉でもなんでもやるから」

「私にそこまでの価値はありません」

「当人の主観による価値観は底辺でもな、第三者の主観による価値観は青天井なんだよ。だから乗れよ、いいから 乗れって、俺の車に乗ってくれよ! 乗ってくれないと、みのりんの可愛い妹をナンパして悪いことを教え込んじまう ぞー? ケバい格好をさせて連れ回しちまうぞー? それでもいいのかー?」

「あなたって本当に最低ですね! 底辺オブ底辺ですね!」

 すぐさま美野里は振り向くと、大股に歩いて助手席に乗り込んできた。ドアが壊れかねないほど力一杯閉めてシート ベルトをすると、これで気が済みましたかっ、と喚いてきた。寺坂はうんうんと頷いてから車を発進させた。初夏の 風に長い髪を靡かせてはいたが、仏頂面の美野里は寺坂と一度も目を合わせようとしなかった。徹底的に嫌われ ちまったなぁ、と思う一方、寺坂は美野里が素の感情を覗かせてくれたことで少し安心していた。
 彼女は途方もなく無理をしている。愛して止まない妹に殺されるかもしれないという恐れを抱きながら、マスターに 命じられるがままに寺坂を襲い、切り刻み、泣き叫びながら仕事をやり遂げていた。幾重もの矛盾と葛藤を胸中に 宿しながらも、マスターに従うことで疑問を振り払おうとしているように見える。
 嫌なら嫌だと言ってしまえばいいのに。辛いなら辛いと打ち明けてくれればいいのに。出会ったばかりで信用して くれるはずもないと解っているが、一言、助けてくれと言ってくれれば、寺坂は美野里のために戦ってやるものを。 やりきれなさを持て余しながら、寺坂は美野里を連れてドライブに明け暮れた。
 それから二週間程度、寺坂は美野里と時間を共にした。行く当てもなく目的もなく、時間を浪費した。長光から寺坂 の口座に振り込まれた金だけは腐るほどあったので、行き当たりばったりでコテージやホテルを泊まり歩いた。 だが、美野里と部屋を共にしたことはなかった。美野里から徹底的に拒絶されたからではあるが、不用意に手を 出したくなかった。傍にいればいるほど、無数の棘を薄膜で覆ったような生き方をしている美野里の危うさに惹かれて いった。いっそ壊してしまいたい衝動と庇護欲が鬩ぎ合うほど、寺坂の奇妙な恋心は熱していった。
 出会ってから一ヶ月ほど過ぎた頃、大学の休学届が切れてしまうから、と言って、美野里は寺坂の元から強引に 去っていった。結局、最後まで彼女は心を開いてくれなかった。海や山に出掛けた時に明るい表情を見せてくれた ものの、ほんの一瞬だった。一度だけ手料理を振る舞ってくれたが、食べられたものではなかった。もっと、もっと、 美野里と時間を共有していたい。寺坂はその気持ちを隠さずにストレートに伝えたが、美野里は寺坂の好意を絶対に 受け取ろうとはしなかった。プレゼントを贈っても寂しげに目を伏せるだけだった。金をどれだけ積んでも、彼女の心は 手に入らないのだと思い知らされた。それがまた、寺坂の見苦しい恋心を燻らせた。
 そして、その恋は今も続いている。





 


12 11/7