機動駐在コジロウ




泣きっ面にピンチ



 逃げて、逃げて、逃げ切った。
 ふと気付くと、つばめは体中が泥だらけになっていた。アスファルトで舗装された道路を走ればいいのに、恐怖の あまりに道なき道を進んでしまったせいだった。髪の至るところに枯れ葉が引っ掛かっていて、ツインテールの片方 は解けかけている。スニーカーは泥水をたっぷりと吸い込み、靴下が濡れて気色悪い。スカートの下に履いていた レギンスも木の枝や雑草に引っ掛けてしまったのだろう、所々が破れていた。
 振り返るのが怖くて、立ち止まるのが怖くて、つばめは涙を拭いながら歩き続けた。少しでも立ち止まると、背後から あのホタル怪人が襲い掛かってくるかもしれない。疲れ切っていても足を動かさずにはいられなかった。一乗寺 が、寺坂が、武蔵野が、そしてコジロウが次々に敗れた様が瞼の裏から離れない。薄暗い濃霧の中で、皆の体が 黒い爪に切り裂かれて血が飛び散る光景が忘れられない。姉が、美野里が、つばめを完全に拒絶していた。あの 冷たい目、蔑んだ態度、つばめの自尊心を抉る言葉の数々、ホタル怪人と化してからの凶行。
 全部、悪い夢だったらいいのに。そう願うも、つばめはこれは現実なのだと思い知っていた。自分が判断を誤った からこんな事態になってしまったのだと、一乗寺の意見を聞き入れようとしなかったから美野里に付け込まれたの だと、自覚していた。美野里から電話が来たという事実が嬉しくて、その嬉しさに酔ってしまって、つばめは冷静さを 失っていた。だから、美野里の言葉を疑いもしなかった。だから、皆、傷付けられてしまった。

「あ……」

 雑草が途切れ、視界が開けた。つばめが目を上げると、そこには見覚えのある光景が広がっていた。船島集落に 程近い山道にある、寂れたドライブインの駐車場だった。当てずっぽうに逃げたと思っていたが、実は船島集落を 囲んでいる斜面を昇り続けていただけだったらしい。店の人がいるかな、と一抹の期待を抱いて近付いてみるが、 無情にも定休日のプレートが下がっていた。
 日焼けした柄物のカーテンが掛けられている磨りガラスの窓には、ひどい顔の自分が写っていた。どこもかしこも 汚れていて、涙の痕が幾筋も付いていて、可笑しくなるぐらい汚れていた。けれど、笑い出す余裕すらなく、その場に 座り込んでしまった。せめてトイレに行って顔を洗ってこなきゃ、とは思うが、体が動かなかった。
 誰かに助けを求めたら、その誰かもまた傷付いてしまうのではないだろうか。美野里の境遇を顧みることすらなく、 備前家の愛情にぬくぬくと浸っていたから、美野里に手酷く裏切られたのだ。自分の立場を解り切っていなかった からとはいえ、美野里に遠慮したことはなかった。
 つばめと美野里が逆の立場だったら、きっと美野里と同じ感情を抱いていただろう。両親に大事に育てられてきた 一人っ子だったが、いきなり家族に入り込んできた赤ん坊に御株を奪われたばかりか、両親の愛情も関心も次々と 奪っていく。それなのに両親はこの子は身の上が可哀想だから優しくしてあげなさい、お姉ちゃんでしょ、と我慢を 強いてくる。相手は脆弱な赤子だから逆らえず、笑顔を作って頷くしかない。その時は両親の言う通りだと思っても、 腹の底に濁った敵意が溜まってくる。赤子は日に日に成長し、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、とまとわりついて くる。事ある事にお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんと甘えてきて、真似したがって、持ち物を欲しがって、泣いて喚いて 我が侭を言って、それなのに両親は我慢しなさいと。

「お姉ちゃん……ごめんなさい……」

 つばめは俯いて、コンクリートにぼたぼたと涙を落とした。あれだけ泣いたのに、まだ涙が出てくるなんて。それが なんだか不思議だったが、止める気にもなれなかった。止めたら、もっと辛くなってしまうから。

「ごめんなさい」

 コジロウにも、皆にも、どうやって謝ればいいのだろう。罪を償えばいいのだろう。母親にすら償えていないのに。 つばめが掠れた嗚咽を漏らしていると、不意にポケットから電子音がした。携帯電話の着信メロディーだ。あんなに 荒れた道を通ってきたのに、落とさなかったようだ。恐る恐る取り出すと、美月からの電話だった。

「もしもし?」

 つばめは少し声を整えてから応じると、電話口から明るい声が返ってきた。

『つっぴー、美野里さんには会えた? いきなり飛び出していっちゃうんだもん、驚いちゃった。コジロウ君も外装の 換装が終わったかと思ったらすぐに飛び出していっちゃって。マスターもロボットも似た者同士だねー』

「うん。そうだね」

 つばめは笑おうとしたが、声が上手く出なかった。泣き喚きすぎたから、喉がひどく痛い。

『それでね、つっぴー。急な話なんだけど、次の興行が決まったんだ! でね、あの倉庫からは撤収して移動中で、 もう高速道路に入ったところなの。つっぴーの荷物は、岩龍のマスターの小夜子さんに預けておいたから』

「えっ」

 それでは、美月にも会えないのか。つばめが絶句すると、美月は平謝りしてきた。

『ごめんね、本当に急で! でも、また一ヶ谷に戻ってくるから! 電話もメールもするし! じゃあね!』

 そう言って、美月は電話を切ってしまった。つばめは呆然としてへたり込み、携帯電話の透き通った液晶画面に 浮かぶ、通話OFF、の文字を見つめた。掛け直して窮地を伝え、美月に助けてもらおうと考えたが、すぐにそんな ことをすれば美月の迷惑になると思い直した。これまで、美月も散々な目に遭ってきた。だから、父親や兄弟同然の レイガンドーとの刺激的だが暖かな生活に戻ることが出来たのだから、水を差してはいけない。小倉重機が始めた RECも軌道に乗り始めているのだから、つばめが余計なトラブルを持ち込んでは台無しだ。
 だから、今だけは辛いことを我慢しよう。辛いことなんて、今まで散々経験してきたではないか。遺産相続争いに 巻き込まれてからは尚更ではないか。それでも、踏ん張ってきた。生き延びてきた。挫けなかった。大丈夫だ、まだ 立ち上がれる。つばめの手元には、祖父の遺産が残っている。機能停止させてしまったが、道子もいる。御鈴様と 羽部鏡一は当てになるかどうかは解らないが、彼らは事情を知っている。金をちらつかせれば、羽部も少しだけは つばめに協力してくれるかもしれない。そうと決まれば、美野里の法律事務所まで行かなければ。いつまでも泣いて ばかりでは埒が開かない、と決心したつばめが立ち上がると、ワゴン車がドライブインに入ってきた。
 白と黒に塗装されてパトライトを付けた、警察車両だった。もしかして、コジロウがシャットダウンされたから、それに 気付いて出動してきたのだろうか。つばめが突っ立っているとワゴン車のスライドドアが開き、見覚えのある女性 が下りてきた。柳田小夜子だった。

「おーす」

 銜えタバコでやる気のない挨拶をした小夜子は、油染みの付いた作業着姿で、髪に寝癖が残っていた。

「あ、あの」

 つばめが事の次第を説明しようとすると、小夜子は片手にぶら下げていた紙袋を放り投げてきた。

「あんたの私物だ」

「あの、えっと」

「んでもって、これが書類。よく読んどけよ」

 小夜子が突き出してきた紙の書類を見、つばめは息が止まった。不動産の登記事項証明書だったが、その名義が 佐々木長光になっていた。他にも様々な権利書が提示されたが、全ての名義が佐々木長光に換えられていた。 美野里は遺言書に従ってつばめの名義に換えたと言っていたし、つばめもそれを確認して署名捺印したはずだ。 それなのに、なぜ、祖父の名前に戻っているのだ。死んだ人間なのに。

「あたしにごちゃごちゃ聞くんじゃねーぞ。詳しい事情は知らねぇし。でも、あんたの爺さんの死亡届が未提出だった つーことは確かだよ。だから、戸籍の上では、あの爺さんは生きている」

「でも、お葬式の時に死亡診断書が」

「診断書を作ったからって、それを役所に持っていかなかったら死亡届が成立しねぇだろ? 恐らく、そういう小細工 をしたんじゃねぇの。あたしの推論に過ぎないけどさ。で、他の書類も備前美野里は名義を書き換えただけであって 届け出はしなかったんだろ。法律家だもんな、そういう知恵は回るさ」

「あの、私、そんなの全然」

 つばめが小夜子に縋り付きそうになると、小夜子はつばめを遠ざけた。

「てなわけだから、あたしらも手を引く。あんたの爺さんが生きている以上、あんたが遺産を相続するのは不可能に なっちまったし、遺産を相続していないんだったらあんたはただの未成年に過ぎない。だから、政府が税収欲しさに あんたを守る必要もなくなった、っつーわけだ。まあ、本当ならこういう仕事はイチとかスーがやるもんなんだけど、 あいつら、どっちもいなくなっちまったからなぁ。おかげで、技術屋のあたしがやる羽目になっちまった。んで、設楽 道子っつーか、アマラは政府が押収した。物騒すぎるからな」

 じゃーな、と素っ気なく手を振って、小夜子はワゴン車に戻っていった。ワゴン車が去っていき、水素エンジン特有 の匂いのない排気ガスが混じった風が通り抜けると、手渡された書類が数枚舞い上がった。だが、つばめは書類を 掻き集める気力も失い、立ち尽くした。吐き気と共に迫り上がってくる嗚咽を懸命に堪えながら、紙袋を開けてその 中に書類を突っ込もうとすると、エンヴィーの衣装が見えた。
 コジロウと共にリングに上がって試合をしたのは昨日のことなのに、昨日と今日では別世界のようだった。ずっと 昨日の延長であれば、つばめは今も笑っていられただろう。次の試合に向かう美月を笑顔で見送って、コジロウ達 と一緒に帰宅して、道子に手伝ってもらいながら家事をして、武蔵野が運転する車で夕食の買い出しに出掛けて、 暇を持て余した寺坂に居座られて、教師としての仕事を完全に放棄した一乗寺が寺坂と遊び呆けて、騒々しいが それ故に退屈しない日常が戻ってくる。だが、皆がいない。つばめのせいで傷付いたのに、皆を助けようとすらせず に自分だけ逃げ出してしまった。絶対に、許してくれないだろう。コジロウでさえも、こんな主は嫌うだろう。
 自分でさえも、自分を許せない。




 小刻みに揺れる床とエンジン音で、ここは車内なのだと気付いた。
 だが、気付いたところで何がどうにかなるわけでもない。羽部鏡一は寝起きで動きの悪い頭を働かせるために、 深呼吸してから、目を動かした。羽部は横長の座席に横たえられていて、両手首は紐で縛られていた。口にも布が きつく巻かれていて、声を出せないようにされている。ヘビと化している下半身だけは縛りようがなかったのか、座席 の下の床にだらりと渦巻いていた。その床にはカーペットが敷き詰めてあり、内装は豪奢だった。
 この車はストレッチ・リムジンだ。それも、湯水の如く金を注ぎ込んだ代物だ。シートは本革張りで運転席と客席を 区切る間仕切りにはテレビが設置され、Uの字型に配置されているシートの中央にはテーブルがあり、テーブルの 下にはカクテルキャビネットと冷蔵庫までもがある。絵に描いたような成金の車だ。

『羽部君、起きた?』

 と、テキストリーダーの電子合成音声で話し掛けられたので、羽部は訝りながらも音源を捉えた。テーブルの上に 置かれた水差しの中に、あの種子が沈んでいた。水耕栽培のクロッカスのように水の中に根を張り、水差しの上から 垂らしている触手でテーブルに横たえた携帯電話を操作していた。高守である。
 口を塞がれていて返事のしようがないので、羽部は尻尾の先を振って応じた。高守は羽部が覚醒しているのだと 察してくれたらしく、頷くように触手の一本を上下させた。

『御鈴様もいるよ』

『どこに』

 羽部は尻尾を伸ばして尖端を曲げ、携帯電話のホログラフィーモニターに文字を打ち込み、言い返した。高守は テキストリーダーのソフトを閉じてメモ帳のソフトを開くと、今度は文字だけを打ち込んだ。言わば、チャットである。

『御鈴様は別の車で運ばれているよ。この車は吉岡グループのものだからね、VIP扱いだよ』

『えー? 今度は吉岡グループに拾われたのかい?』

 羽部も高守に倣って文字だけを入力し、改行した。高守は、羽部が打ち込んだ次の行に打ち込む。

『そうなんだ。政府の捜査員が備前美野里の弁護士事務所に立ち入る前に来て、羽部君と御嬢様と僕を回収した んだよ。あっという間だったし、君達は気絶していたから、どうにも出来なかったんだ』

『次から次へと盥回しとは……うんざりするね』

『それは羽部君が組織に対する忠誠心がないからじゃないか。僕は今の今まで、弐天逸流一筋だったんだから、 同類扱いされるのは心外だな』

『で、これからどうなると思う? この零れんばかりの才能故に世界が放っておかない僕としては、吉岡グループの 連中は、クソお坊っちゃんが多分にブレンドされた御嬢様を切り刻んで生体安定剤を作らせて、コンガラを作動させて 何かしらをやらかすつもりだと読んでいるけど』

『それは君でなくても読めると思うけど。僕だって、そのぐらいの見当は付くよ』

『なんだよ、高守信和。君ってネット弁慶ってやつか? シュユのせいで失語症も同然だったことを差し引いてもだ、 この右に並ぶ者がいたら宇宙が反転するほどの知性を持つ僕に口答えするだなんて』

『御嬢様の部下だった頃は、羽部君ってそういう言動だから取っ付きにくくて物凄く嫌な奴だと思っていたんだけど、 弐天逸流に取り込んで利用して面と向かって付き合うと、そうでもないなぁってことに気付いただけだよ』

『何それ、正気なの。有り得ないんだけど』

『だって、羽部君って仕事熱心だし、ちょっと褒めてあげると調子に乗って期待以上の成果を出してくれるし、馬鹿 みたいに自画自賛するだけのことはある知能はあるし。話していると、結構面白いし』

『うsi』

『あ、タイプミスした。そんなに驚くほどのことでもないと思うけど』

『嘘だよ嘘嘘、嘘に決まっているだろうがそんなもの。大体、この僕が他人の賞賛なんて欲しいわけが』

『そうやって強がって生きるのって、楽じゃないよね』

 高守が打ち込んだ言葉に、羽部は尻尾を動かす勢いが止まった。それは事実だ。だが、だからといって、それが 他人に弱みを見せていい理由にはならない。誰かが自分を守ってくれるわけがないし、自分に対して興味を持って くれるわけでもないし、無条件の好意を注いでくれるわけでもないし、実力を認めてくれるわけでもないのだから。

『良い機会だ。少し立ち止まって、よく考えてみようよ。僕も、羽部君も、伊織君も、御嬢様も、これからどうするべき なのか。どういった行動を取れば最善なのか。僕達が遺産争いをすれば、誰が得をするのか』

『勝手にすればいい。この全宇宙の賞賛をいう賞賛を一心に浴びる僕は知らないからね』

『またそんなことを言って。本当に根性曲がりなんだから、羽部君は』

『うるさい黙れよ。水差しをひっくり返すぞ』

『でも、どうせ暇じゃないか。何か、話そうよ』

『この僕とお前に共通の話題なんて……ありまくりだねぇ』

『でしょ?』

 笑みを零すように、高守は触手をざわめかせた。その仕草に好意が含まれているような気がしたが、そんなものは 思い上がりだ、と自嘲する。羽部はスモークスクリーンが張られた窓越しに見える景色を捉えながら、高守との どうでもいい会話に明け暮れた。どちらも口が利けないので文字でのやり取りに終始したが、口頭で言い合うよりも いくらか気楽だった。怪人になり、自信が付いたとしても、やはり羽部という男の性根は変わらないのだ。
 リムジンは走り続けた。





 


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