広間に戻ったが、皆、言葉少なだった。 曲がりなりにも寝起きだからだろう、伊織は終始ぼんやりしていた。時折眉根を顰めていたので、頭痛がしていた のかもしれないが、薬が欲しいとは言わなかった。それだけ、りんねの肉体を大事にしているのだ。艶やかな朱塗り の盆に置かれたコップの中で、高守は触手を丸めて縮まっていた。筆談のために長時間酷使していた携帯電話は バッテリーが切れかけていたので、つばめは使用人に頼んで高守の使用機種に対応した充電ケーブルを借りて、 手近なコンセントに繋いで充電してやった。つばめは頭を目一杯動かして、どうすればこの流れを利用出来るか、と いうことを考えていた。考えすぎてカロリーの消費が激しくなったのか、やけに早く空腹を感じた。 祖父である佐々木長光がフカセツテンを動かし、吉岡グループが所有するコンガラを奪いにやってくる。シュユを 操っているであろう祖父がコントロールしている正体不明の宇宙船の出現地点は不明だが、遺産同士の互換性 を利用してコンガラを見つけ出すつもりだろう。となれば、コンガラさえ手元にあればどこにでも引き付けられる、という ことになる。そして、引き付けたフカセツテンの内部にいるシュユを覚醒させるため、伊織が御鈴様としてのデビュー ライブをすると文香に吹っ掛け、快諾された。シュユさえ覚醒させてしまえば、フカセツテンのコントロールはシュユに 戻るからであり、そうなればフカセツテンが内包している異次元に囚われた皆を救い出せるかもしれない。 「待てよ……?」 だが、無理矢理叩き起こされたシュユが機嫌を損ね、フカセツテンが暴走でもしたら。先程の伊織のように逆上して 暴れ出さないとも限らないし、シュユに触れなければつばめの管理者権限も使用出来ない。無謀だ。この計画は まともなようでいて、穴だらけだ。第一、フカセツテンのコントロールはシュユ本人が行うわけではない。エンジンは コジロウの動力であるムリョウなのであり、システムの類はラクシャが操ると見て間違いない。そのどちらかを確実 に押さえる手段がなければ、まず無理だ。それに、御鈴様の歌によって集まった信仰心がシュユを目覚めさせると いう確証はない。シュユは信仰心という名のエネルギーを与えると覚醒するが、覚醒に必要なエネルギーの絶対量 までは不明なのだ。高守もそれについては説明してくれなかったし、恐らく伊織も知らないのだろう。知っているので あれば、観客の人数を指定してくるはずだ。 「ねえ、ちょっといい?」 疑問が次々と出てきたつばめは高守を小突くと、高守は気怠げに触手を動かした。 『なんだい?』 「シュユを起こすために必要な信仰心って、具体的に何人分なの? シュユを起こしてフカセツテンをどうにかすると しても、フカセツテンを動かすのはシュユじゃなくて、ムリョウってかコジロウを眠らせなきゃいけないでしょ? その時に シュユの寝起きが悪かったらどうするの、私が生身で突っ込んでいって止めなきゃならないの?」 『尤もな質問だね。これまで、弐天逸流はシュユを小康状態に保つために継続して十万人分の信仰心を得ていた んだけど、それでもエンジンを暖気させる程度でしかなかったんだ。近頃は、御鈴様が濡れ手に粟でファンの数を 増やしてくれたけど、一人当たりの信仰心が薄いからシュユを半覚醒状態に持っていくだけで精一杯だったんだ。 だから、シュユを覚醒させるためには最低でも二十万人分の濃い信仰心が必要だね。で、次の質問に対する答え だけど、フカセツテンのコントロールを奪うための手段は手元にあるじゃないか。アマラだよ』 「政府に押収されたよ、道子さんごと。だから、アマラには頼れないんだって」 『まさか、アマラの本体が針だと思っているの? 違うよ、アマラの本体は異次元宇宙を丸々使い切って演算装置に したシステムとそれにアクセス出来る電脳体のことだよ。彼女はプログラムでも生命体でもないからね、物理的な器 なんて邪魔なだけだよ。まあ、今はラクシャがフカセツテンを通じて異次元宇宙とこちらの宇宙の間にジャミングを 仕掛けているみたいだから、道子さんも戻ってこられないみたいだけどね。戻ってこられるようだったら、どこにでも 現れるだろうし、この僕の携帯にちょっかいを出さないわけがないし』 「え、そうなの?」 『そうだよ。遺産に限らず、道具の使い方はそれを扱う人間の才覚が如実に表れるからね。まあ、道子さんは最早 人間ではないし、つばめさんの部下だから、道子さんの優秀さはつばめさんの判断に由来するってこと。つばめさん は道子さんを一人の女性として対等に接していたし、自由も与えていたし、何より彼女の意志を尊重していたんだ。 だから、彼女はアマラとしての能力を遺憾なく発揮出来る環境にある。でなかったら、つばめちゃんホットラインなんて ものは作れなかっただろうし、コジロウ君ネットワークなんてものも……』 「それ、どこで知ったの」 ホットラインは秘密の中の秘密なのに。つばめが訝ると、高守は肩を竦めるように二本の触手を上向ける。 『僕も遺産の一部だからね、互換性があるから解るんだよ。もっとも、存在を知っているだけであって、ホットラインの 中を行き交う情報は解らないけどね。一秒ごとに新たなパターンで暗号化しているから』 「それを使えば、なんとかなるかも! コジロウに命令してムリョウを停止させれば、フカセツテンだって!」 あのホットラインを使えば、コジロウと連絡が取れる。つばめが歓喜すると、高守は諌めてきた。 『そう上手くいくわけがないよ。そりゃ、ちょっと前までは異次元の中でも携帯が通じたけど、それはシュユがシュユ 本人だったからであって、佐々木長光がシュユを操っている今は、通じるわけがないよ。とっくの昔に無線封鎖した だろうし、通じたとしてもあちら側からの一方通行だろうさ。つばめちゃんホットラインだって、道子さんがこちら側に いてくれないと通じるようにはならないだろうしね。ホットラインよりもダイレクトにコジロウ君に働きかけるためには、 固有振動数を応用した信号波を使うべきだね。それは御鈴様の歌でなんとかなるけど、働きかける際に含める情報 が足りないことにはどうにもならないよ。一発でコジロウ君を再起動出来る、魔法の言葉なんてないだろう?』 「それは確かに」 良い考えだと思ったのだが、また行く手が塞がってしまった。つばめが悶々としていると、広間に足音が近付いて きた。それが止まると同時にふすまの外に控えていた使用人が開き、文香が入ってきた。意気揚々としている彼女 の背後には、恐縮しきりの美月がいた。が、つばめに気付くと、美月の面差しが見るからに柔らかくなった。 「つっぴー!」 「ミッキー! どうしてここに」 つばめが腰を浮かせると、文香は両手を広げて胸を張った。 「どうせだからド派手に行くわよ、御鈴様のデビューライブ! どっちも前座じゃないわ、ロボットとアイドル、どっちも 主役のエキサイティングでエクストリームなライブよ!」 『ハコは?』 「三十万人は入れる野外ステージを設営させているわよ、突貫工事だけど安全確実にね! 秀吉の一夜城なんて 目じゃないわ、一晩でどでかいのを作ってあげる! でね、その観客なんだけど、サクラになっちゃうのが残念ね! 系列会社という会社を休業させて特別手当を出す代わりにライブを見に来い、って命令を出したから! おかげで 天文学的な損失が出るけど、そんなもんはすぐに取り戻せるわよ!」 テンションが上がりきっている文香が高らかに語った内容に、伊織が声を裏返した。 「んだとぉ!?」 「何よ、三十万人じゃ不満? 夫に言付けしてハルノネットの中でも特に強力なサーバーをフル稼働させてネットでも 生中継してあげるから、百万人は見るかもしれないわねー? それだけの人数に見られちゃうのよ、その前で歌う のよ、どう、ゾクゾクするでしょ? 私なんか想像しただけで身震いしちゃったぐらいよ! うちの娘可愛い、って!」 「そっちかよ」 俺じゃなくて、と伊織が若干不満がると、文香はしたり顔になる。 「当たり前でしょ? あなたの素性がどうあれ、うちの娘に良からぬことをした男に間違いないんだから、心配なんて してあげるもんですか。りんねの繊細な体を大事にしてくれているのは嬉しいし、感謝しているけど、それとこれとは 別なんだから。事が全部終わったら、ちゃーんと話を聞かせてもらいますからね。うちの娘に何をしたのか」 「何もしてねぇっての。つか、なんかする余裕もねぇし」 文香のようなタイプは苦手なのか、伊織がやりづらそうに目を逸らす。 「りんちゃん、だよね?」 りんねの姿をした伊織の存在に気付いた美月が渾名で呼び掛けると、伊織が不審そうに振り向いた。 「んだよ。つか、誰だ、てめぇ」 「うあっ、あっ、私だよ、前の学校で同じクラスだった小倉美月だよ」 美月はちょっとへこたれそうになりながらも名乗ると、伊織は少し考えたが、突っぱねた。 「やっぱり知らねぇ」 「あー、その、話せば長くなるし、訳が解らないとは思うけど……」 つばめは肩を落とした美月に近付き、りんねの肉体に起きた異変と伊織の素性について出来る限り簡潔に説明 したが、ある程度遺産争いに接している美月でも混乱したらしく、何度も遮られ、聞き返された。その都度、根気よく 説明し直し、渋る伊織にも説明させたが、ますます混乱したようだった。その結果、ちょっと考えさせて、と、美月は ふらつきながら広間を出ていった。無理もない、つばめでさえも未だに理解しきっていないのだから。 「一度に与えた情報量が多すぎたのよ、きっと」 廊下の奥へと消える美月の後ろ姿を見、文香は苦笑する。つばめは乾いた笑いを漏らす。 「それもそうですけど、なんでいきなりミッキーを連れてきたんです? 確か、ミッキーは次の興行先に行くって 言って、小倉重機の人達と一緒に出掛けたはずなんですけど。その興行先とのスケジュールとか、大丈夫ですか?」 「その辺は大丈夫よー。小倉重機にロボットファイトの興行を持ち掛けたのはうちの子会社だったし、その子会社も 今回のライブに関わらせるから。で、収入は出るかどうかは解らないけど、その分の賃金はしっかり支払うし」 「でも、三十万人の社員を休業させるのはさすがに大丈夫じゃないと思いますけど。てか、どうやって三十万人も ライブ会場に輸送するんですか。それだけでも大変なんじゃないですか?」 「休業させるのは、吉岡グループではあるけど佐々木長光のシンパだった子会社が半分以上よ。あの男が大株主 になっている会社は、あの男の思うがままだったの。あの肉人形を飾り立てて、それらしく振る舞わせているから、 私と夫が表立って吉岡グループに手を出せないのをいいことに、まーやりたい放題だったのよ。肉人形が止まって くれたから、これから一気にグループ内を綺麗にしちゃおうって思っていたんだけど、どうせなら解体する前に有効 活用してあげようかなーって。で、輸送方法なんだけど、私鉄を経営しているからそこを全線使おうかなーって」 自慢げな文香に、つばめは少々気圧された。普通ではない世界に浸って生きているから、文香もやはり価値観が 普通とは言い難いようだった。古びたドライブインでラーメンを作っていた姿から、どんどん懸け離れていく。 「しかし、ライブで俺達は何をするんだ? 前座で試合をするにしても、シナリオを組まないことには」 広間に面した庭先から、聞き覚えのある電子合成音声が聞こえた。 「ワシャあ楽しみでならんけぇのう! やっぱりあれじゃろ、ワシらも歌って踊るんじゃろ?」 つばめが縁側に面した障子戸を開くと、そこにはレイガンドーと岩龍が立っていた。レイガンドーは片手を上げて 親しげに挨拶してくれ、岩龍は嬉々としてつばめに詰め寄ってきた。 「おお、つばめ! 元気にしちょったか、ワシャあ小夜子にいじくられたおかげで好調じゃい!」 「でも、小夜子さんってまだ一ヶ谷市にいるんじゃ」 小夜子の名であの時の苦い記憶も蘇り、つばめが言い淀むと、岩龍は首を傾げてつばめを覗き込む。 「小夜子とワシャあ別行動じゃけぇ。小夜子はワシのオーナーになったが、オーナーとマスターはまた別物じゃけぇ のう。ワシのマスターは、あくまでも親父さんなんじゃ。ほんで、ワシとレイと武公とでトリプルスレットをせぇって社長 と小夜子に命令されたんじゃい。盛り上がるのは間違いなしじゃからの! そんでの、東京に入ったらイベント会社の 人から連絡が来てのう、吉岡グループが開催するド派手なライブに出ろっちゅうことになったんじゃけぇ」 「というわけで、またエンヴィーの衣装を着て出てくれないか? 今回は岩龍が相方になるから」 レイガンドーに懇願され、つばめは目を丸めた。 「え?」 「んじゃ、俺も適当なの歌わねぇーとなぁ。リハやるにしたって、プログラムを組まねぇとならねぇし」 伊織が面倒そうに言うと、高守が進言した。 『一曲目はらぐなろっくんろーる! とかどう? テンポが良いから盛り上げやすいんじゃない?』 「あれは歌詞がダメだ、クソだ。だったら、五十六億七千万年の恋、の方が良くね? イントロがどぎついし」 『僕としては、あいらぶアンダーテイカーも捨てがたいんだけどな。ゾンビ化した女の子が墓穴掘り人に片思いする ラブソングだから、ゲロ甘な内容だし、キャッチーな歌詞が多いから初見向けだよ』 「だったらいっそ、あるあるハルマゲドン、はどうだ? 世界が終わると思い込んで暴走した馬鹿女の歌」 『いやいや、あれはダメだよ。中継ぎ向きの曲だよ。だったら、とろりんエントロピーの方が』 「うげぇー、俺、あれ嫌い。百歩譲って、ぽかぽかアポカリプス、だな。あれはまだマシだ」 『えー? 僕はその曲は嫌いだよ。ただの電波ソングで君の魅力が半減しているし、曲調が単調で……』 伊織と高守が交わす言葉を見聞きしているだけで、つばめはライブステージに立つ勇気がほとんど削げ落ちた。 ロボットファイトの時でさえも大変だったのに、三十万人もの人間の視線を浴びるのはごめんだ。増して、そんな 頭の悪そうなタイトルの歌なんて、きっと歌詞も凄まじいのだろう。しかし、それ以外にコジロウを目覚めさせることの 出来る手段は思い当たらない。利用出来るものは全て利用すると啖呵を切ったし、手段を選り好みしている余裕は ないだろう。幸か不幸か、エンヴィーの衣装は手元にある。それを着て、ステージに立つ他はなさそうだ。 こうなったら、腹を括るしかない。 御鈴様のデビューライブに関する会議が終わったのは、夜も更けた頃合いだった。 美月に続いて吉岡邸に呼び出された小倉重機の社員達のRECに対する熱気と、吉岡文香の娘可愛さによる 並々ならぬ愛情と、ロボットファイター達の物理的な排気熱に当てられ、つばめは疲れ切っていた。つばめと美月 が口を挟むことはほとんど出来ず、大人達の意見によってライブのプログラムが決まっていき、進行表が完成して 関係者の人数分の印刷が始まっているところだった。全てが突貫工事のライブなので、これから大人達は徹夜で 駆けずり回って開場に漕ぎ着けるのだろう。つばめと美月は休んでおけ、と言われたが、眠気が全く起きなかった。 長時間の移動による肉体的は疲労はあれど、状況の激動でまたも神経が立ってしまったからだ。 寝間着として貸してもらった薄手のジャージを着たつばめは、割り当てられた部屋から出て最寄りのトイレで用を 足した後、屋敷の中をぶらぶらしていた。屋敷の至るところでは明かりが点っていて、高級車が何台も並ぶ駐車場 はロボット達が横たえられて臨時の整備場と化していた。正面玄関の門は開きっぱなしで、様々な業者の車両が 出たり入ったりを繰り返している。あれよあれよという間に、なんだか物凄いことになってしまった。 居心地の悪さを覚えたつばめが人目を避けながら歩いていると、あの離れが目に入った。他の部屋とは違って、 窓から明かりが漏れていない。羽部も自室に戻って眠っているのだろうか。それとも、騒がしさに辟易して他の部屋 に移動したのだろうか。そこで、つばめは唐突に思い出した。今回の作戦の要であるコンガラが離れに起きっぱなし だという事実を。慌てて渡り廊下を駆け抜けて離れに飛び込むと、縦長の瞳を備えた双眸が見返してきた。 「なんだよ、やかましいな」 羽部だった。雨戸も障子戸も閉めていない縁側に寝そべっており、都心の夜景を浴びた下半身は爬虫類特有の 冷ややかな光沢を帯びていた。それが一層不気味さを引き立て、つばめは思わず唾を飲み下した。 「こ……コンガラは?」 「あるよ。ほら」 そう言うや否や、羽部は尻尾の先で四角い箱を放り投げてきた。つばめは慌ててコンガラを受け止めると、羽部 はつばめに背を向けて気怠げに頬杖を突いた。 「用事が済んだのなら、さっさと帰ってくれる? 君みたいなやかましい小動物は、この精密機械すらも臆するほど 緻密な僕の思考を妨げるだけだからね」 「何がどうなっているか解っているの? なんか、色々とまた大事になってきちゃったんだけど」 我関せず、と言わんばかりの態度が引っ掛かり、つばめが暗闇の中で見返すと、羽部は尻尾の先を曲げた。 「大体のことは把握しているよ。あの社長夫人が報告しに来たし、庭先が騒がしかったからね。あいつらの駆動音 なんて、耳障り極まりないよ。嫌でも大事になるって解る。だけど、レイガンドーの足音が少し鈍かったな。足音が 片方遅れ気味だったし、膝でも潰したかな」 「あれ、なんで解るの?」 先日の試合で、レイガンドーは対戦相手にニードロップを放ったが自爆したのだ。部品は交換したのだが、右足の フレームの交換はまだ済んでいない。RECが配信している試合動画を見ただけではそこまでは解らないはずだ。 つばめが不思議がると、羽部は舌打ちし、つばめを顧みた。 「なんでもいいから、さっさと消えてくれる? 思い付きそうで思い付かないんだよ」 「今度はまた何を考えていたの?」 「一乗寺昇が過去に殺害した人間の共通点だよ。どいつもこいつも繋がりがないけど、無差別じゃない。無差別に 殺すんだったら、目に付いた相手を手当たり次第に殺すはずだけど、いくらか節操があるんだよ。クラスメイトとの 交友関係は良好だったことを示す証拠も証言も多くてね。あいつは宇宙人だけど嫌われ者じゃなかったみたいで、 結構可愛がられていたみたいなんだよ。それなのに、殺しているんだ。意味が解らないな」 「そんなことを考えて、何になるの?」 「この僕こそ君に聞きたいね。あの連中は、呉越同舟で仰々しい罠を仕掛けてまで取り戻すべきものなのかい?」 「当たり前でしょ。コジロウも、皆も大事だもん。あんたには、そういうのってないの?」 「あるわけないだろ。この僕が最も尊んでいるのは、他でもないこの素晴らしさの結晶と言うべき僕なんだから」 さあ消えてくれ、と再度急かされ、つばめは離れを後にした。ぞっとするほど冷たいコンガラを大事に抱き、母屋に 戻って割り当てられた部屋に戻ると、美月が目を覚ましていた。どうせなら、ということで同じ部屋に泊まることにした のだが、美月も気が立っているのか寝付けていないらしい。つばめが自分の布団に潜ろうとすると、美月が唐突に 布団を跳ね上げて起き上がり、おもむろにつばめに縋り付いてきた。 「あーんもうー、どうすりゃいいのー! ライブって何、三十万人の前でどんな試合すりゃいいのー! てか、お客が 全員サクラでもお客はお客だし、三十万の一割でも三万人だし、その十分の一でも三千人だから、それだけの人数 を固定ファンに出来るような試合にしなきゃ勿体ないけど、何すりゃいいんだよぉー! お父さんは私に任せるって 言ってくれたけど、それってぶっちゃけお父さんも思い付いてないよね!?」 「あー、うん」 盛大に前後に揺さぶられながらつばめが弱く答えると、美月はぐっと唇を曲げた。 「頭の中ぐちゃぐちゃだし、あの子が本当にりんちゃんなのかすらも解らないけど、ここまでお膳立てされて大失敗 なんてのだけは嫌なんだよ! だから、絶対に面白くしないとって思うんだけど、考えれば考えるほど解らなくなって きちゃって! 試合運びだってまだまだ勉強中なのに、レイの動かし方だって! もう、どうすりゃいいの!」 ひとしきり喚いてから、美月は我に返り、つばめを離した。 「あ、ごめん……。本当に大変なのはつっぴーの方だよね、美野里さんが悪者になっちゃったし、コジロウ君だって、 あの人達だって……それなのに、私、自分ばっかりで」 「大変なのは誰も変わらないって、私達だけじゃないもん。むしろ、一晩で会場を設営させられる業者の方が」 つばめは苦笑してから、美月と隣り合って座った。美月は膝を抱え、はあ、とため息を吐く。 「そりゃ、そうだけどさぁ。でも、こんなの中学生のキャパじゃ無理だって。大人でもきついじゃん」 「それでも、頑張るしかないよ。最善を尽くして、やれることをやれる限りやらないと、何も出来ないまま何もかもが 終わっちゃう。コジロウにも、二度と会えない」 つばめは膝の上で拳を固め、手のひらに爪を食い込ませた。痛かったが、一乗寺、寺坂、武蔵野はその何十倍 もの痛みと屈辱を味わったのだ。コジロウも、愚かな主人のせいでただのエンジンに成り下がってしまった。彼らに 過ちを償うためには、いかなる手段を使ってでも、フカセツテンを制御下に置かなければならない。だから、敵をも 利用して罠を張らなければ、祖父も美野里もやり込められない。 お金が大好きで打算的で相手の顔色を読んで行動するような腹黒い子供。確かにその通りだ。だが、それが 何だというのだ。そうでなければ、乗り越えられない局面も多かった。正に、それが今だ。頭が冷えてきて感情の波が 収まってくると、生臭く、浅ましい部分が頭をもたげてくる。だが、それでこそ自分だとも思った。 汚れなければ、世の中は生き抜けないからだ。 12 12/4 |