一夜明けると、世の中は激変していた。 テレビを付ければ御鈴様の歌が全てのチャンネルで流れ、ワイドショーで大々的に御鈴様が扱われ、新聞には デビューライブの全面広告が躍り、路線バスも御鈴様のグラビアでラッピングされ、本日発売の雑誌という雑誌で 御鈴様の特集記事が組まれていた。都心の駅ビルにも巨大なポスターが張り出されて、視界に入るもの、耳に入る もの、その全てが御鈴様一色だった。一体、どれほどの金を積んだのだろうか。 吉岡邸からライブ会場である臨海副都心へ移動する車中、つばめは車窓から見える市街地の景色にうんざりして いた。御鈴様をこれでもかと持ち上げなければ、ぽっと出のアイドルの社会に対する説得力が出ないのは解るが、 これはやりすぎではないだろうか。確かに、アイドルという商売道具は徹底したマーケティングによって成り立って いるものではあるが、それがあまりにも過剰だと差して興味のない一般人は引いてしまう。増して、それがネット発の アイドルならば尚更だ。昨今では珍しくない道筋でのデビューだが、これまで一枚もCDをリリースせずに音楽データ のダウンロード販売だけでは、客層が限られてしまう。ネットの中だけの評判は当てにならない、と思っている人間 は大勢いるからだ。ネットに入り乱れる情報の奔流ほど、不安定で不確かなものはないからだ。だから、御鈴様の 動画の再生回数がどれほど多くとも、その再生回数と同等の人間がライブに来るわけではないし、動画のコメントや ネット上の批評なんて、情報操作でどうとでもなるからである。 その謎のアイドルの正体がこれであると知れたら、しばらくは話題に上るだろうが。つばめはリムジンの後部 座席で胡座を掻いている、りんねの姿をした伊織を見、半笑いになった。彼はMP3プレイヤーに繋いだヘッドホン を被って歌詞を復習しつつ、膝でリズムを取っているのだが、ワンピースの裾が捲れ上がっていて下着が丸見えに なっていた。見ている方が恥ずかしくなってきて、つばめは目を逸らした。 「あのさぁ」 「んあ?」 伊織はヘッドホンを片方ずらし、聞き返してきた。つばめは目を逸らしたまま、彼女の下半身を指した。地味だが 仕立ての良い紺色のワンピースの裾から、十四歳の少女が身に付けるには大人びていたデザインの白いレース のショーツが覗いていた。つばめが指し示した方向を辿った伊織は、ぎょっとして裾を押さえた。 「てめぇ、早く言え! 何、りんねに恥掻かせてやがる!」 「自分の不注意でしょうが。てか、パンチラしたのは伊織であって吉岡りんねじゃないでしょ」 「クソが。俺はりんねの体の繋ぎであって、りんねじゃねぇ。俺がりんねの代わりになっているんだ、りんねの面汚し になるようなことだけはしたくねぇんだよ。つか、呼び捨てにすんじゃねぇ、殺すぞ」 伊織は両足を伸ばして座り直してから、ヘッドホンも戻そうとした。つばめはそれを制する。 「その割には、言葉遣いも態度も仕草も御嬢様っぽくないじゃない」 「ウゼェな。俺は俺であって、りんねじゃねぇ。俺はりんねを守りはするが、俺は俺を否定しねぇ。それだけだ」 「解るようで解らないような。てか、伊織って吉岡りんねのどこがそんなに好きなの? やっぱり、顔?」 「ばっ、おっ、好きとかそんなんじゃねぇ! 俺のマスターがりんねだってだけだ、クソが!」 伊織はつばめに食って掛かるが、語気が明らかに上擦っていた。そのやり取りを見、長い体を床に伸ばしている 羽部が生欠伸をした。彼の足元には資料の詰まったファイルが山積みになっていて、その一つを読み耽っていた。 離れを埋め尽くすほどの量では、羽部といえども一昼夜では読み切れなかったのだろう。 「どうでもいいけどさ、静かにしてくれる? 君達、どっちも鬱陶しいったらありゃしない。佐々木長光が管理者権限 所有者であるように装うために使用していた生体組織はある程度目処が付いてきたけど、考えることは山ほどある わけだし。この秀ですぎて次元すらも超越した知性を備えた僕が考えなきゃ、誰が考えるって言うのさ。君達はそう やって前線に出て大立ち回りをすれば事態が解決するとでも思い込んでいるんだろうけど、そんなわけがないじゃ ないか。どんな事態にしても、筋道通して百ページ超の説明を付けられるほど事細かに解析しておかないと、後で 似たような局面に陥った時に手の打ちようがないじゃないか」 「で、どういう目処が付いたの?」 羽部の回りくどくねちっこい嫌味を受け流し、つばめが尋ねると、羽部は嫌そうに眉根を顰めた。 「結論だけ提示してもどうしようもないじゃないか。算数の宿題の計算式を解くのが面倒だからって電卓持ち出して 答えだけを書き込む小学生じゃあるまいし、もう少しまともな質問をしてくれない? 答える気が失せる」 「その気はあったのかよ」 うわ珍しい、と伊織が噴き出すと、羽部は不愉快そうに尻尾の先で床を叩いた。 「天啓とも言うべきこの僕の考えだ、この僕の脳内だけで腐らせておくのは全宇宙の損失じゃないか。それを誇示 したいと思うのは、ごく当たり前の欲求であってだね」 『解った解った。じゃ、羽部君の話を聞かせてよ。どうせ移動時間も長いし』 リムジンの中央にあるミニテーブルのドリンクホルダーのコップに収まっている種子が、細長く赤黒い触手を伸ばして 携帯電話を操作し、文字を羅列させた。高守信和の意志が宿った種子は衰えもせず、生き生きとしている。 「なんだよ、その言い草は。この僕の理論はカーラジオとは訳が違うんだぞ」 と言いつつも、羽部は資料を掻き集め、テーブルの上に広げていった。 「遺産を操るためには管理者権限所有者の生体接触、或いはゲノム配列を読み取ることが可能な生体組織と接触する ことが不可欠なのは、頭の足りない君達でも経験で理解しているはずだ。だから現状に置いては、管理者権限 を持つ佐々木つばめが遺産本体に触れて直接命令を下せば、遺産は佐々木つばめの管理下に置かれ、遺産が 暴走しようが沈黙しようが、君の匙加減一つとなる。だが、ここで一つ疑問が出る。君の生体組織が手に入る以前 は、御嬢様の生体組織を加工して作った生体安定剤を用いて遺産を操っていたけど、その前は何を使っていた のかということだ。順当に考えれば佐々木長光の生体組織、ということになるんだけど、その記録がない」 羽部は一冊のファイルを手に取り、その中のページを広げて三人に見せた。一枚の古いカルテだった。 「これは、佐々木長光が都内の病院に入院して手術した際のカルテ。というか、一乗寺昇の義理の実家と言うべき 病院のカルテだね。よくある話だよ、腸に出来たポリープを内視鏡で切除したんだ。でも、それだけ。その入院した 日の前後に病院に出入りした人間の情報を洗い出してみたんだけど、誰も佐々木長光の生体組織を手に入れよう とはしていないんだ。医療廃棄物として一旦捨てた後に産廃業者を装って他の組織が手に入れる、という筋書きも 考えてみたんだけど、佐々木長光の術後に遺産を使用した組織はどこにもないんだ。むしろ、佐々木長光が入院 する前後二週間は遺産の使用が滞っている。それはなぜか。単純な話さ、佐々木長光が船島集落から出ていた からだよ。だから、生体安定剤を作るための材料を手に入れて加工することが出来なかった」 「けど、俺が喰っていた薬の材料はりんねだったぞ。間違いようがねぇよ、あの味は」 伊織が小さな少女の手を見つめると、まあね、と羽部はりんねの肉体を眺め回す。 「この僕とクソお坊っちゃんが知る限り、生体安定剤の中身は御嬢様の血肉だった。或いは、御嬢様の失敗作の血肉 だった。繋留流産で産まれることすらなかった本物の御嬢様をコンガラで複製するとしても、産まれるのは産声 すらも上げなかった未熟児なんだから、まともに複製出来るわけがない。今、つばめが御嬢様の遺骨とコンガラを 使って複製しても、矮小な未熟児にしかならないはずなんだ。そして、御嬢様の複製が生産されるようになるのは、 十四年前だ。だけど、佐々木長光はその遙か前から生体安定剤を各組織に法外な値段で売り渡している。改めて 考えてみよう、御嬢様とつばめが産まれる以前はどこの誰が管理者権限を有していたのか。佐々木長光はそれを 含有する何かを売っていただけであって、管理者権限を備えていたわけじゃない。そもそも、管理者権限がイコール で遺産の所有者が備えているものだということになったのはいつからだ? 佐々木長光の葬儀後だ。フジワラ製薬 の怪人課にも、そういう書類が出回ってきたし、この僕も目を通したからね」 羽部はつばめに目線を移し、薄い唇の間から尖端が割れた舌を覗かせる。 「高守から文面を聞き出したけど、佐々木長光の遺言書は、財産の一切をつばめに相続させる、って内容だった。 もちろんその中に遺産も含まれているけど、遺産の動かし方については誰から説明されたの?」 「誰って、誰にも……」 つばめはコジロウと出会った日のことを思い出すが、コジロウの収まったタイスウに触れ、その中で機能停止して いたコジロウを再起動させたのはつばめの意思だ。誰かに強要されたわけでもないし、説明されたわけでもない。 だが、切っ掛けがなかったわけではない。美野里がつばめにこう言ったのだ。 「箱を開けてみれば解るって、お姉ちゃんが」 つばめが両手を広げながら呟くと、羽部は納得した。 「開けるためには触る必要がある、ってことだ。なるほど、筋が通っているよ。御嬢様の部下に成り下がった時は、 つばめの襲撃の本腰を入れようとしない理由が見えなくて苛々していたけど、御嬢様を操っている佐々木長光の下 から逃れて距離を置いてからはよく見える。佐々木長光はつばめを本気で仕留めようとしていたんじゃない、つばめの 管理者権限で遺産を再起動させたかったんだよ」 「だけど、お姉ちゃんは本物のマスターは私じゃないって」 「そんなの、詭弁に決まっているじゃないか。ちょっとは考えてみたらどうなんだよ、備前美野里の価値観による本物 ってのは佐々木長光こそが自分の主人であるという忠誠心に基づいたものであって、理論の上での本物じゃない。 そこのクソお坊っちゃんが御嬢様に義理を貫いているのと同じく、誰を主人だと思っているのか、という個人の主観 を踏まえれば、読めないこともないよ。姉も同然だった虫女に裏切られて動揺しきったつばめを混乱の極致に叩き 落とすためであり、備前美野里が己を肯定するためであり、佐々木長光の自尊心を満たすための、嘘だ」 「でも、現にコジロウはラクシャで機能停止させられたんだよ? なのに、嘘なの?」 つばめが問い質すと、羽部は顔をしかめて身を引いた。 「それは、ラクシャが君のゲノム配列を模した情報をムリョウに与えて強制的にシャットダウンさせたんでしょ。ほら、 たまにあるじゃない、指紋を模写したシールを指に貼って指紋認証を突破する、っての。たぶん、それと同じことさ。 でも、ゲノム配列の情報だけじゃ管理者権限とは言えないから、シャットダウンさせるだけが精一杯だったんだよ。 佐々木長光は、君達が思うよりもずっと手詰まりなんだよ。起動させた遺産を掻き集める目的が何であれ、彼らに 次はない。船島集落の自宅にあるつばめの私物から生体組織を掻き集めたとしても、それはいつまでも持つもの ではないし、ラクシャには大量の情報は蓄積しているけど、遺産を操るためのプログラムは含まれていないからね。 この僕が十五枚もあるムジンの中身を全て吸い出して、御嬢様の頭にねじ込んだから」 「じゅうごまいぃ?」 不意に、寝惚けた声が割り込んできた。そういえば、あれから一睡も出来なかった美月は、リムジンの助手席に 座ると同時に寝入ってしまったのだ。あまりの眠気で、小倉重機のトラックまで辿り着けなかったからである。つばめは 運転席と後部座席を隔てるカーテンを開き、美月に声を掛ける。 「ミッキー、眠れた?」 「うー、まぁー、なんとか。で、何が十五枚なの?」 寝起きの美月は目を擦りながら、つばめに振り返った。つばめは会話を説明するかどうか迷ったが、羽部の存在 を美月に知られて不用意に驚かせるのはよくないと判断し、十五枚の部分だけ説明した。 「ムジンっていう遺産がね、十五枚なんだよ」 「ムジン……? 違うよ、あれは十六枚。そのうちの一枚は三つに割れちゃったから、コジロウ君、レイ、岩龍で分けて 使っているだよ。お父さんがそう言っていたの」 ああまだ眠いなぁ、とぼやき、美月は再び助手席で丸くなった。程なくして美月が寝息を立て始めたので、つばめ はカーテンを閉めてから振り返ると、羽部が目を見開いていた。縦長の瞳孔が幅広になり、ファイルを落とした。 もしかして、だとすると、などと呟きながら別のファイルを手早く捲って目を配らせた後、羽部は髪を乱した。 「この僕としたことが、なんでそんなに原始的なことに気付かなかったんだよ! 要点ばかりを探りすぎて初歩で躓く なんて、上昇志向が行きすぎてノイローゼになった受験生じゃないんだから! ああもう、この僕が、この僕が!」 「ちょっと黙ってよ、ミッキーが寝付いたんだから」 つばめが羽部を諌めると、羽部は一度深呼吸してから、尻尾でつばめの胴体を抱えて引き摺り寄せた。 「黙っていられる場合か! 十六進法だったんだよ! そうだろ、高守!?」 『そうだよ。だから、シュユの触手の数は一千二十四本なんだ。寺坂君の触手は最初は六十四本だったんだけど、 年を追うごとに増えて今は百二十八本だよ。まあ、その時々によって増減しているみたいだけど』 「どうしてそれをもっと早く言わなかったんだよ!」 羽部は高守のコップを掴んで喚くが、高守は言い返す。 『羽部君みたいな人に、そういう初歩的なことを言うと怒られそうかなぁって』 「ああもうっ!」 羽部は高守のコップをドリンクホルダーに突っ込んでから、凶悪な目でつばめを睨んだ。 「この僕が吸い出せなかったムジンのプログラムが佐々木長光の手中にあるのは確定だ、更に言えば寺坂善太郎 が触手の固まりとして成長しきったことも確定した! となれば、佐々木長光が抵抗の意志が強いシュユを捨て、 寺坂善太郎を切り刻んで死にかけさせた後、肉体を乗り換えて行動に出るのは必然だ! なぜならば、あの生臭 坊主は三十二歳だからだ!」 「三十二は十六の倍数だからか」 伊織が指折り数えると、羽部は唇を曲げて牙を露わにする。 「敵は手詰まりなんかじゃなかった、むしろ本腰を入れてきたんだ! だから、今までのこの僕の話は忘れろ、また 一から考え直しだ! 基本理論があるとないとじゃ大違いなんだよ!」 「え、ええー?」 だったら、今までの長話は何だったのだ。つばめは拍子抜けするが、羽部はそれきり黙り込んでしまい、また資料 を貪り読み始めた。だとすれば、どこが要点だったのだろう。これから向かうライブへの緊張感と先行きの見えない 状況で頭が上手く働かなかったので、つばめは一番冷静であろう高守に尋ねてみると、高守は答えてくれた。今、 最も重視すべき点は、佐々木長光の意志が宿ったラクシャが寺坂善太郎の肉体を操ることと、コジロウの機体に 組み込まれているムジンの破片に残留したプログラムがムリョウを起動させ、フカセツテンをも起動させることだ、 と丁寧に説明してくれた。だが、やるべきことは当初の予定通りだ、とも。もちろん、御鈴様のデビューライブも。 「生体安定剤の出所なんだけどよ」 自分の世界に入り込んだ羽部を横目に、伊織がだらしなく足を組んだ。 「俺、見当が付かないわけじゃねぇ。考えてみたら、至って単純な話なんだよ。弐天逸流に捕まった後、俺とりんね はドロドロに溶けた後に一つになったわけだが、その後、ヘビ野郎に薬を飲まされた。その薬ってのは、シュユから 株分けされた植物に手を加えたやつなんだ。で、ヘビ野郎はその植物の粉末にムジンのプログラムをコピーして、 本体からは削除して、りんねの脳に全部ブチ込みやがった。俺とりんねを物理的にくっつけたのもシュユ、りんねと ムジンを同期させたのもシュユ、ついでに言えば人間もどきを作ったのもシュユだ。てぇことはつまり、そういうこと なんじゃねぇの。細かい理屈は解らねぇけど」 『クテイだ! 佐々木長光が売り捌いていた生体安定剤の材料は、クテイだったんだ! なんて奴だ!』 タイプミスをしかねないほどの激しい動作で、高守はボタンを叩いた。 「クテイって、誰」 つばめが問うと、高守は少し間を置いてから文字を打ち込んだ。 『僕の読みが正しければ、彼女はつばめさんの』 高守は続きを打ち込もうとしたが、躊躇い、その文面自体を消した。はぐらかすということは、余程重大で、つばめ の心中を掻き乱すことなのだろう。ならば一層知るべきでは、とは思ったが、御鈴様のデビューライブという壮大な 罠を仕掛けるために出向いている最中に新たな事実を教えられても、困惑して集中出来なくなるだけだ。高守もそう 判断したから、はぐらかしたのだろう。つばめは革張りの座席に座り直し、車窓から外界を窺った。 吉岡グループの工場建設予定地には、一夜にしてライブ会場が完成していた。 12 12/7 |