機動駐在コジロウ




メモリーは心の窓



 海に没した異物は、あまりにも巨大すぎた。
 東京湾に沈んだフカセツテンを眺めながら、つばめはぼんやりしていた。気付いた頃には夕暮れ、茜色の西日が 鋭く差し込み、空の端が藍色になりつつあった。あの壮絶なライブと戦闘の後も、慌ただしく事は進んだ。
 紆余曲折を経て再びつばめの手中に戻ったナユタを使い、フカセツテンを浮かばせて最悪の事態は回避したが、 問題はその後だった。ライブ会場から全ての人間を退避させたが、フカセツテンをいつまでもライブ会場の真上に 浮かばせているわけにはいかない。だが、全長三千メートルもの結晶体をどうやって移動させるのか。宇宙船だと いうからには操縦出来るのだろうが、頼みの綱であった高守信和はそれを把握していなかった。フカセツテンと密接 な関係にあるシュユは岩龍との格闘戦の末に昏倒し、未だに目覚める気配はない。武公との戦闘で手痛い敗北を 期した美野里は政府の人間に回収されてしまい、意識不明だという。コジロウのパンチを喰らってステージから転落 した羽部鏡一も病院に搬送されたが、彼もまた目覚めていない。そして、コジロウは満身創痍だ。
 だから、フカセツテンの移動はつばめがナユタを使って外側から行うしかなかった。しかし、つばめがナユタの力 を操れる保証はない。出来ることといえば、せいぜい弱重力の空間を生み出すことだけである。ナユタを握り締めて フカセツテンを動かそうと何度も何度も念じたが、上手くいかず、最終的にはフカセツテンを浮かばせている原動力 であるナユタごとつばめを東京湾上に移動させ、安全地帯に回避してからナユタの出力を切り、フカセツテンを海中 に落とすしかなかった。だが、それもすんなり進まなかったので、移動させるだけで何時間も掛かった。

「疲れた……」

 エンヴィーの衣装から私服に戻ったつばめが項垂れると、肩に触手を絡ませている種子、高守が慰めた。

『本当に御苦労様。後はフカセツテンの中に入って、佐々木長光と彼に囚われた面々を解放しないとね』

「でも、どうやってあの中に入るの? 爆薬をセットしてドカンってやっても効かなかったんでしょ?」

 つばめが波間に没した結晶体を指すと、高守は触手を曲げ、携帯電話のボタンを叩いて文章を書く。

『フカセツテンを構成している物質は、こっちの宇宙には存在していないからね。当然だよ。タイスウと同じく、異次元 宇宙に物質だけ存在していて、その次元をねじ曲げてこっちの宇宙にあるかのように見せかけているだけだから。 だから、どんなに威力の強い兵器を使っても穴は開けられないよ。シュユの心を開かせるしかない』

「シュユは外の世界が嫌いなの?」

『というより、許せないんだろうね。クテイも、クテイを奪った佐々木長光も、奴を増長させた僕達にも』

「私のことは?」

『御鈴様の歌で目覚めた時に認識しただろうけど、そこから先については解らないな。僕はシュユの分身も同然では あったけど、彼の意識と繋がりがあったのは、肉体に見せかけていた子株から親株を切り離す前までだったから ね。それに、今のシュユは完全に独立している。もしかすると、遺産同士の互換性すらも切断している可能性が 否めない。だから、彼に期待しすぎないことだ』

「あれだけ苦労して叩き起こしたのに敵側に回って、そのくせいじけているっての? 根性曲がりめ」

 つばめがふて腐れると、高守はつばめの肩を軽く叩いてきた。

『まあまあ、そう言わず。大体、シュユにも同情の余地が大有りじゃないか。宇宙船の故障か何かの理由で墜落した 惑星でパートナーと離れ離れになった挙げ句に原住民に大事な道具が売り払われて、触手を切り刻まれて分身を 山ほど造られて、それが崇められて、気付いたら新興宗教の神様にされていたんだから。いじけたくもなるよ』

「ほとんど高守さんのせいじゃない。新興宗教なんて、とっとと止めておけばよかったじゃん」

 苛立ち紛れにつばめが触手を弾くと、高守は携帯電話ごと仰け反ったが、踏み止まった。

『そうもいかないんだよ。一度始めたものを止めるのは、なかなか大変でね』

「上納金を荒稼ぎしたかったの? それとも、シュユを半覚醒状態にしておいて良いように扱いたかったから?」

『それもないわけじゃないけど、なんというか、良心が咎めたんだ』

「良心? 詐欺師の代名詞みたいな新興宗教の幹部には一番似合わないセリフだよ、それ?」

 つばめが腹の底から疑って掛かると、高守は若干気圧された。

『そりゃまあ、そうだけど。でも、シュユを信じていることで救われている人がいたのも確かなんだ。どう生きるのか、 何を信じるべきなのか、迷っている人は大勢いたんだ。僕だってその一人だ。剣術の腕はそれなりにあったけど、 道場を継げるほどじゃなかったし、再興出来るほどの人徳もなかったんだ。だから、シュユと出会って彼の種子に 寄生されたのは、嫌じゃなかった。むしろ、僕みたいな人間でも何かの役に立つんだって思えたんだ』

「でも、弐天逸流のせいで不幸になった人は、救われた人の何倍もいるんだよ。誰だって何かに縋りたくなるのは 解るし、私だってこの前みたいに弱り切った時に都合の良いことを言われたら、ぐらって来ちゃうもん。でも、それは 正しいことじゃない。シュユは人間の常識を越えた世界から来たのは確かだけど、神様じゃない。神様なんてものは いないんだ。本当にそんなのがいるとしたら、こんなことにはならない」

 つばめは高守の種子を握り、肩を怒らせる。高守の触手はつばめの指を剥がそうとして、止めた。

『そうだね。全ては人の悪意から始まったことだ。僕や他の皆は、その人の悪意の隙間を埋めるような商売をして 長らえてきたんだ。約束通り、僕は弐天逸流を解体するよ。シュユが目覚めたことで、信者達の洗脳も解けたはず だしね。解けていなかったとしたら、僕が生体接触して解除する。もっとも、フカセツテンとその中に入っている複製 された異次元だけは僕の手に負えないと先述しておくよ。あれはシュユの領分だ』

「シュユがまた目を覚ましたら、今度は私が話を付ける。でないと、何も終わらない」

『そうだね。それがいい』

 高守は頷くように触手を上下させた。つばめはその日和見な態度が若干癪に障ったが、高守に対して怒る余力 もなく、文句も言えなかった。二人が会話をしている間にも、背後では大勢の人間が忙しく動き回っていた。ライブ 会場の後片付けに奔走する人々や人型重機、周囲を封鎖するためにやってきた政府関係者、フカセツテンの警護 に当たる巡視船とヘリコプター、負傷者達をピストン輸送している救急車両、大騒ぎを聞き付けて忍び込もうとする マスコミを排除する警察官達、などなど。この場で何もせずにいるのは、つばめと高守ぐらいなものだ。

「あ、いたいた。おーい、つっぴー!」

 背後から声を掛けられ、振り返ると、疲れた表情の美月が手を振っていた。つばめは振り返り、駆け寄る。

「ミッキー! そっちはどう、大丈夫だった?」

「うん、まあ。気持ち的には修羅場だけど。羽部さんがヘビだったから」

 美月は眉を下げ、首を竦める。罪悪感を覚え、つばめは苦笑する。

「羽部さんが人間じゃないってこと、もっと早くに教えておいたらよかったかな」

「うん、まあ、それはちょっとね。ひどいなー、薄情だなー、ってちらっと思ったけど、羽部さんの正体を事前に教えて もらっていたらそれはそれで面倒なことになったかもしれないから、あのタイミングでよかったのかなって。だけど、 あの人、これからどうなっちゃうのかな」

 美月は着替えている暇もなかったらしく、アイドルの衣装のままだった。それが汚れることすら躊躇わずに羽部を 抱き起こしたのだろう、チェック柄でフリルの付いたスカートの裾が赤黒く汚れていた。鮮やかな輪郭を帯びた横顔 はやけに大人びて見え、つばめは複雑な気持ちに駆られた。美月本人は無自覚なのだろうが、彼女が羽部に好意 を抱いているのは確かだ。それが友人に対するものであれ、異性に対するものであれ、釈然としない。
 幼稚な嫉妬か、浅ましい羨望か。どちらでもあるのかもしれない、とつばめは胸中の疼きをやり過ごした。羽部は 人間ではないし、ろくでもない性格だし、美月と親しくさせるのはとてつもなく嫌だ。羽部のことだ、美月の真っ直ぐな 思いを踏み躙って嘲笑い、弄ぶかもしれない。それでも、美月の羽部に対する好意は届くだろう。なぜなら羽部には 感情が備わっているからであり、捻くれて拗くれて曲がっているが人格も存在する。だから、伝わる。

「やっぱり、羽部さんのいる病院に行ってくるよ。だって、起きた時、傍に誰もいなかったら寂しいから」

 しばらく逡巡した後、美月は顔を上げた。

「コジロウ君の改修作業は進んでいるから、安心してね! じゃあね、つっぴー!」

 そう言い残し、美月は駆け出した。通り掛かった小倉重機の社員に父親の居所を聞き出すと、教えられた方向に 向かって迷わず走っていった。スカートの裾が翻り、リボンが靡き、サイドテールが躍る。彼女の活力の漲った背に 手を振りながら、つばめは唇を噛んだ。羽部と美月がどうなるのかは解らない。だが、美月が傍にいてくれるなら、 羽部も悪いようにはならないだろう。そう思いたい。
 太陽が完全に没すると、潮風がぐっと冷え込んできた。吉岡グループの社員に促され、つばめは控え室にしていた コンテナに戻ることにした。あれほどまでに巨大なフカセツテンを世間から隠すのは容易な作業ではないが、つばめ が見ていても事態が好転するわけでもないからだ。ライブ会場の裏手を横切り、セットを輸送してきたトラックの群れが 駐車している臨時駐車場に入り、控え室のコンテナに入った。

「おう」

 その中では、御鈴様の衣装を脱いだ伊織が簡易ベッドに横たわっていた。その様に、つばめは懸念する。

「大丈夫? 具合悪いの?」

「悪いっつーか、疲れやすいんだよ。りんねの体は。自分の意思でほとんど動いたことなかったせいでな」

 微熱が出ているのか、伊織の白い頬は血色が良くなっていた。不謹慎ではあったが、目元がほんのりと赤らんで 瞳も潤んでいるから、氷細工の人形が溶けて消えてしまうかのような、儚げな美しさを感じずにはいられなかった。 伊織はつばめを手招きしたので、それに甘えてコンテナの奥へと進んだ。伊織の身辺の世話をしていた吉岡家の 使用人達は、すぐさま道を空けてくれた。

「何か用?」

 つばめが簡易ベッドの傍にあった椅子に腰掛けると、伊織は薄い唇を綻ばせた。

「俺がどうなろうが、りんねだけは死なせないでくれ。それだけだ」

「やだなぁ、縁起でもないこと言わないでよ。死亡フラグが立っちゃうよ?」

 伊織らしからぬ弱気な言葉につばめが笑い出すと、伊織は口角を吊り上げる。

「馬鹿言え、俺は一度死んだんだ。もう一度死のうが、どうってことねぇよ」

「体が良くなるまで、大人しくしているんだよ。これからも大変なことがあるだろうしさ」

「言われるまでもねぇし。つか、寝るから出ていけよ。ウゼェ」

 伊織は寝返りを打ってつばめに背を向けると、手で払った。その態度につばめはむっとしたが、弱っている相手に 文句を言うべきではないので、素直に引き下がることにした。一旦コンテナの外に出てみたが、その後、中に戻る のはちょっと気まずくなった。かといって、海風が吹き付けてくる外にいるのも寒い。はてどうしたものか、と高守と 共に思い悩んでいると、赤い光を放つ物体が後片付けで忙しく働く人々の間を縫ってきた。

「つばめちゃん!」

 ぎゃぎゃぎゃぎゃっ、と砂利を蹴散らしながらブレーキを掛けて止まったのは、一体の警官ロボットだった。現場には 事後処理のために多数の警官ロボットが派遣されているので、機能停止したコジロウがコジロウネットワークを使って 一時的に動かしている下位個体なのだろうか。だとしても、ちゃん付けするなんて彼らしくもない。

「……え?」

 だとしたら、この警官ロボットは一体。つばめが呆気に取られると、警官ロボットはつばめの手を取った。

「こんなところにいたんだね、僕が来たからもう大丈夫だよ!」

「ぼ、僕?」

「さあ、一緒におうちに帰ろう! 暗くなる前におうちに帰らないと、お母さんが心配するよ!」

 そう言うや否や、警官ロボットはつばめを横抱きにし、脛から出したタイヤを再び回転させた。

「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!」

 思わぬことに動揺したつばめが警官ロボットを引き離そうとすると、警官ロボットは首を傾げた。

「どうしたの、つばめちゃん? おトイレ? だったら、ドアの前まで付いていってあげるね」

 ね、と警官ロボットが頷いてみせた。その仕草に、つばめは抵抗を止めた。この言葉は、この態度は。

『つばめさん。彼はコジロウなのかい?』

 高守が問うてきたが、つばめは答えられなかった。答えたくなかった、と言うべきかもしれないが。警官ロボットは つばめを抱え直すと、人並みと瓦礫の山を擦り抜けていき、ライブ会場に隣接した車道に出た。政府と警察による 封鎖も検問も通り抜けていき、制止する声がいくつも投げ掛けられたが、警官ロボットは止まらなかった。
 僕がいるから大丈夫。僕はいつでも君の味方だ。僕が守ってあげるから。いつも、いつも、いつも、彼はつばめに 優しい言葉を掛けてくれた。彼はつばめの兄だった。彼はつばめの弟だった。彼はつばめの父親だった。彼が彼で あったなら、と何度願っただろう。これが夢なら覚めないでくれ、たとえ悪夢であろうとも。
 警官ロボットの首の後ろに手を回し、きつく手を握り締めながら、つばめは警官ロボットの肩に顔を埋めた。警官 ロボットはつばめの肩に大きな手を添えて、大丈夫だよ、と一際柔らかな声色で囁いてくれた。寝入る前に、一人で 留守番をしている時に、仮初めの家族の帰りが遅い時に、怖い話を読んで怯えている時に、不意に寂しくなった時 に、彼はいつもその言葉を与えてくれた。綿の入った手で頭を撫でてくれた。抱き締めると抱き締め返してくれた。 つばめが少し大人になり、それが妄想であると割り切るようになると、彼はいつのまにか喋らなくなった。いつまでも 甘ったれた子供ではいられないと覚悟を決めて、彼を仕立てている糸を解き、綿を抉り出し、袋を作り、そこに現金 を入れるようになった。大事な友達だったのに、金庫代わりにするようになった。
 否。大事だから、何があっても傍にいたかった。小さな子供の頃と同じく、つばめを守る武器である現金を守って ほしかった。金庫代わりにしておけば、いつも連れて歩いていても不思議はないと自分に思い込ませるためだった。 ずっと、ずっと、ずっと、傍にいてほしかった。もう一人のコジロウに対する憧れとは異なる、暖かな気持ちが全身の 隅々まで行き渡っていく。つばめは頭を撫でてくる手付きの優しさで、確信した。
 この警官ロボットには、パンダのコジロウの心が宿っている。




 埋立地から都心に向かう車中、美月は外界を見つめていた。
 運転席には父親の小倉貞利が収まり、ハンドルを握っている。事後処理とロボットファイター達の改修で忙しいの は確実なのに、重要な仕事を部下に一任して、美月を羽部が搬送された病院まで送り届けると言った。羽部と美月 の仲を勘繰っているのか、それとも他の理由があるのだろうか。いずれにせよ、父親が傍にいてくれるだけで、美月 の気持ちは和らいだ。親子二人の時間が取れたのは、久し振りだ。
 街灯の傍を通りすぎるたびにオレンジ色の光の帯が伸び、縮み、暗い車中に半円を描く。カーステレオから流れて くるのはFMラジオで、CDショップの売り上げランキングの合間に埋立地で起きた異変に関するニュースを報じて いるが、どれもこれも捏造されたものだった。吉岡グループが早々にマスコミに手を回し、情報操作を行った証拠 である。この分では、政府すらも吉岡グループの財力に丸め込まれているかもしれない。

「こんな時に言うのはなんだが」

 交差点で一時停止し、小倉は赤信号を見上げながら話を切り出した。

「いずれ、レイガンドーを解体することになる」

「それって、あのムジンって回路のせい?」

 美月はなるべく感情を押さえようとしたが、言葉尻は上擦った。想像するだけで、気が狂いそうになる。

「そうだ。だが、レイガンドーを廃棄するわけじゃない。ムジンに頼ったシステムを一から構築し直して、俺達の手が 及ぶ範囲の技術で生まれ変わらせるんだ。もちろん、岩龍もだ。二体から取り外したムジンは、コジロウに使用した ムジンと接続させることになっている。タカがそう決めたんだ。図面も引いてあるし、部品も届いている。後は俺達の 手で組み立てて、つばめさんにコジロウを再起動してもらえば完成する。どういう意図があるのかは解らんが、それに 逆らう理由もないからな」

「そう、だね。でも、レイはどうなるの。ムジンの回路があったから、レイと岩龍は人工知能があそこまで成長した んでしょ? そうなんでしょ? だから、ムジンを外しちゃうと、二人は今までの二人じゃなくなっちゃうんでしょ?」

「ああ、その通りだ。三体のロボットに分けられていたムジンは常に情報を共有し、並列化していたから、人工知能を 成長させることが出来たんだよ。言ってしまえば、理性はレイガンドーが、感情は岩龍が、知能はコジロウで分け 合っていたんだ。だから、ムジンを一つにしてコジロウにだけ搭載することになれば、レイガンドーはお前の知るレイ ガンドーではなくなるかもしれない。だが、あいつはあいつなんだ」

「うん。解っているよ」

「俺だって、タカの言うなりにしたいわけじゃないさ。だが、ムジンが手元にある限り、俺達はいつまでも佐々木家の ゴタゴタに巻き込まれちまうんだ。今回はなんとか上手くいったが、何度も荒事に巻き込まれてたまるか。RECは やっと世間に認知されたんだ、アンダーグラウンドの娯楽でしかなかったロボットファイトを表舞台に引き摺り出せた んだ、ここで躓いてたまるもんか。吉岡グループはヤバいんだ、これ以上馴れ合うべきじゃない。だから、ムジンさえ 俺達から遠ざけてしまえば、俺達は地に足を着けたまともな商売が出来るんだ」

 か細く答えた美月に、小倉は懸念を吐露した。父親も、十五年もの月日を共にしたレイガンドーがレイガンドーで なくなってしまうことを惜しんでいる。だが、遺産が生み出す利益とそれを上回る危険を目の当たりにしたのでは、 反論の余地もなかった。信号が青に変わると、小倉はアクセルを踏んだ。

「羽部って奴とは、どうなんだ」

「友達ですらないし、あの人も私のことをそう思っていないよ。でも、羽部さんのこと、放っておけないの」

「……ああ、解る。解るさ。若い頃の母さんがそうだったから」

 小倉は美月以上に感情を押し殺して、ハンドルを切った。羽部が収容された吉岡グループ系列の病院の看板が 見えていた。搬送された患者の数が多いのだろう、駐車場は騒がしかった。先に話が通っていたのか、小倉重機の 社名が入ったワゴン車が玄関前のロータリーに入ると、女性看護師が現れて案内してくれた。車を降りた美月は父親に 礼を言ってから、羽部が運ばれた部屋まで急いだ。レイガンドーの今後を考えるだけで涙が出そうになったが、メイク が落ちるのも構わずに目元を拭った。羽部に下手な心配を掛けたくないからだ。
 行き着いた先の病室には、化け物が横たわっていた。医師も看護師も下半身がヘビの男に対して困惑気味では あったが、的確な処置を行っていた。尻尾はベッドからはみ出してとぐろを巻き、コジロウの拳で強かに殴られた顔 の右半分は止血のためのガーゼが分厚く貼り付けられ、尻尾の長さを含めた体格に合わせた量の点滴のパックが 吊り下げられていた。身内の方ですか、と看護師に問われ、美月は知り合いだと答えた。
 慌ただしく病室を出入りする看護師達を横目に、美月は病室の隅にあったパイプ椅子に腰掛けた。羽部が人間で はないと知って、なぜか安心していた。彼が常人だったなら、受け止めきれない部分が多すぎたからだ。掛布の下 から出ている手は青白く、日々ロボットを相手に奮闘している父親とは違い、皮も薄ければ骨も細いので男の手と いうには軟弱すぎた。けれど、疎ましいとは感じなかった。生きてきた世界が根本的に違うのだから。

「ねえ、羽部さん」

 色々と話したいこと、聞きたいこと、教えたいこと、教えてほしいことが山ほどある。だが、どれから話せばいいのか 解らなかった。レイガンドーを失うやるせなさと、つばめとの濃い繋がりが途切れる恐怖と、かつての友人である りんねに対する戸惑いと、目の前のベッドに横たわるヘビと人間の混在した男への感情が絡み合っていたからだ。 恐る恐る指を伸ばし、羽部の手に触れてみると、ぞっとするほど冷たかった。
 それでも、縋らずにはいられなかった。





 


12 12/23