機動駐在コジロウ




掃き溜めのツール



 十五年前。
 備前美野里は凡庸に生きていた。なんとなく、ありきたりで、退屈で、平坦で、億劫で、自分の進路を真剣に考えた ことはなかった。十四歳の女子中学生なのだから仕方ない、というのは簡単だ。弁護士として日々忙しく働いて いる両親はどちらも中高生の頃に己の将来を見据え、弁護士を目指して司法試験の下地となる勉強を始めていた のだから。美野里を取り巻く環境も平凡極まりなく、通っていたのも有り触れた公立中学校で、クラスメイトは学力も 品性もレベルが低かった。芸能人やアイドルのゴシップでぎゃあぎゃあ騒ぎ、少年漫画の展開に一喜一憂し、些細 なトラブルで人間に優劣を付け、矮小な世界で発展途上の自我を鬩ぎ合わせていた。
 その日も、美野里はなんとなく生きていた。どうせ地区大会も勝ち抜けないんだから、という冷めた空気が漂って いるせいで顧問も部長もやる気がない部活を終え、コンビニで菓子パンを買い食いして、今夜見るドラマの内容を 携帯電話でチェックし、ついでにレコーダーに録画予約を入れてから、手伝うべき家事を思い出していた。

「えーとぉ、お米研いで、冷凍してあるハンバーグ焼いて、それからなんだっけ」

 住宅街に差し掛かり、誰もいないのをいいことに、美野里は独り言を喋っていた。こうやって喋らなければ頭の中 を整理出来ないのは、自分が馬鹿な証拠だと思っていたが、幼い頃からのくせなので直せなかった。御飯を炊いて おく準備とおかずの調理、それからもう一つが思い出せない。掃除機を掛けておくのか、それとも風呂掃除だった のか、それ以外の何かだったのか。朝、登校する前に教えられたはずなのだが、頭から抜けてしまった。
 そんな自分が嫌になる。両親は理知的で、食卓で交わす会話も難しい言葉が多い。お嬢さん育ちの母親は品が 良く、仕事も家事もきっちりとこなしている。父親の書斎の本棚に詰まった分厚い本は、背表紙を見ただけで頭が 痛くなりそうなものばかりだ。それなのに、そんな二人から産まれた美野里は、つくづく馬鹿だ。
 一昨日返却された小テストは、点数がひどすぎたので通学カバンの底に突っ込んだままだ。ちゃんと勉強をしよう と思うのに、机に向かえば小一時間もしないで眠ってしまう。漫画もセリフをいくつか読み飛ばしてしまい、話の筋を きちんと追えない。文字しかない小説は、三分の一も読まないうちに放り出す。だからといって、運動が出来るわけ でもなく、部活でも仲間の足を引っ張ってばかりだ。外見は可愛いと言われることがあるが、モデルや女優になれる レベルではない。不器用で要領も悪いから、家事の手伝いも最低限だけだ。
 次第に気が滅入ってきて、美野里は家に帰りたくなくなった。どうせ、米を研いでも磨ぎ汁を流す段階でシンクに ぶちまけてしまうだろうし、母親が冷凍保存しておいた手作りハンバーグも火加減を間違えて真っ黒に焦がしてしまう だろうし、それ以外の家事も未だに思い出せない。家に帰らずに遊びに行こうか、とも思ったが、小テストの点数が ひどすぎたせいで追試をしなければならなくなったので、その予習をする必要がある、

「……あー、もう」

 もっと賢くなりたい。まともになりたい。美野里は自己嫌悪を渦巻かせながら、角を曲がった。すると、自宅の前に 一台の車が留まっていた。黒のロールスロイス・ゴースト。物々しささえある外車に気圧されていると、その車から 運転手が出てきて後部座席のドアを開いた。そこから、和装の老人が現れた。

「備前さんのお嬢さんですね?」

「あ、はい。そうですけど」

 きっと、この人はお金持ちだ。美野里が少々臆しながら答えると、老人は愛想良く笑みを見せた。

「東京まで出てきたのだから御挨拶でも、と思ったのですがね」

「だったら、事務所に行けばいいんじゃないですか?」

「御仕事の邪魔をするわけにはまいりませんよ。よろしければ、少しお話を聞かせて頂けませんか」

「え、あ、でも」

 美野里は俯き、目線を彷徨わせた。話すことなんてない。自分の話なんてつまらないから、両親に聞かせては 無駄な時間を取らせてしまう。毎日毎日、あんなに忙しそうにしているのだから。だから、知らない人になんて。

「御両親の事務所には連絡を入れておきますから、無用な心配は掛けずに済みますよ。私が誰だか知らないから 不安なのでしょう、でしたらお宅に上がらせて頂かなくとも結構ですよ。私の車でお話ししましょう」

 老人に促され、美野里は若干迷ったが、車に乗り込んだ。外に突っ立っているのは気まずかったし、かといって 家に上げたところで、美野里では持て成せないからだ。母親のようにおいしい紅茶なんて淹れられないし、ケーキを 切り分けるのでさえ下手なのだから。だから、その言葉に甘えておくことにした。
 ロールスロイスの後部座席はとても座り心地が良く、内装も洒落ていた。美野里はそれに感嘆しながらも、老人 としばらく会話した。彼の名は佐々木長光といい、美野里の父親に財産管理の仕事を任せているのだそうだ。ならば 社長なのだろうかと美野里が問うと、長光は笑って言った。無駄に広い土地と小金を掻き集めているだけの世捨て 人であり、そんなに大層なものではないですよ、と。
 どんなことでもいいから話してくれ、若い人と話すのは久々だから、と長光に懇願され、美野里は躊躇いながらも 話し始めた。内容は特になく、学校のこと、クラスのこと、部活のこと、通学途中で起きた出来事、テレビのことなど 思い付く限りに話した。両親に言いたくても言えなかったことばかりだった。自分でも下らないと思っていたが、誰かに 話したくてどうしようもなかった。一通り話し終えると、いつのまにか日が暮れていた。
 次に御両親にお会いする時はこちらから連絡します、予定の目処が立ったらこちらに連絡して下さい、と長光は 電話番号を書いた名刺を手渡してきてくれた。美野里は深々と一礼してから、長光の車を見送った。
 それが、美野里と長光の出会いだった。




 両親は日を追うごとに忙しくなっていった。
 父親が独立して立ち上げた法律事務所は仕事量に比例して規模が小さく、若い弁護士や事務員の数も少なく、 両親はどちらも深夜になるまで帰ってこなかった。それでも、たまの休みに母親が隅々まで綺麗に掃除をして料理 の仕込みもしておいてくれるので、自宅は荒れなかった。美野里は退屈な日々を送っていたが、暇を持て余した末に 長光に電話してみたところ、長光は嫌がりもせずに受けてくれた。それどころか、東京に出てきた時には直接会って くれるようになり、あのロールスロイスに乗って美野里を行きたいところに連れていってくれた。
 観光名所、ショッピングモール、遊園地、繁華街、などと休みのたびに遊ばせてくれたばかりか、長光は美野里が 欲しがるものを全て買い与えてくれた。流行りの服や靴、最新機種の携帯電話、パソコン、化粧品、本物のブランド バッグ、有名な洋菓子店のケーキ、と美野里の欲求を隅々まで満たしてくれた。どうしてこんなに良くしてくれるのか と美野里が不思議がると、長光は言った。孫が産まれるからですよ、と。

「だったら、私じゃなくてお孫さんを可愛がってやればいいのに」

 ロールスロイスの後部座席で、買ったばかりの服に着替えた美野里は首を捻った。

「私には二人の息子がいるのですが、折り合いが悪いのですよ」

 よくお似合いですよ、と長光は美野里の服を褒めてから、切なげに頭を振る。

「どうしてですか? だって、こんなにお金持ちで、長光さんはいい人なのに」

「それが息子達には鼻に突くようでしてねぇ。長男の長孝は資格を取って早々に家を出て、それきり一度も連絡して くれません。次男の八五郎もです。私の財産を食い潰そうと遊び回っていたようですが、ある時を境にやはり家に 帰ってこなくなりました。妻も体が弱り切っているのですから、せめて孫の顔だけでも見せてやりたいのですが」

「こんなことを言うのは失礼ですけど、息子さん達は冷たいんですね」

「ですが、二人にもそれぞれの人生があるのですから、それを咎めてはいけないと思いましてね」

「でも、だからって……」

 美野里は値札を取ったばかりの服を見下ろし、少し気が咎めた。

「私も、御礼なんて全然していないのに、長光さんによくしてもらってばっかりで」

「美野里さんが喜んで下さることが、何よりの御礼ですよ」

「だけど」

 美野里が渋ると、長光は銀縁のメガネの奥で弓形に目を細めた。

「でしたら、少しお付き合いして下さいませんか? あまり時間は取らせませんよ」

 もちろん、美野里は快諾した。まだまだ遊び足りなかったし、長光を慰めてやりたくなったからだ。ロールスロイス は都内の道路を擦り抜け、繁華街を過ぎ、小一時間程で目的地に到着した。だが、そこは美野里が期待していた ような場所ではなかった。これまで食事時に値の張るレストランや料亭に連れて行ってもらったことが何度かあった ので、今回もそれだとばかり思っていた。しかし、行き着いた場所は病院だった。
 一乗寺私立病院。出産前のお嫁さんのお見舞いに来たのだろうか、と美野里は考えながら、背の高い白いビルを 見上げていると、長光に急かされて病院に入った。長光が受付で職員に声を掛けると、少々の間を置き、スーツの上 に白衣を着た男がやってきた。その男の胸元には、藤原忠、とのネームが下がっていた。

「やあやあ久しいですな、佐々木さん!」

 藤原が威勢良く挨拶すると、長光は丁寧に頭を下げた。

「忠さんこそ、御元気そうで何よりです。息子さんはいかがですか?」

「イオリは相変わらずだとも。与えただけ喰う、喰っただけ暴れる、そしてまた喰いたがる、その繰り返しだ!」

 そのイオリという少年は、余程元気が良いのだろう。美野里が長光の影に隠れていると、藤原は長光の背後へと 回って美野里に近付いてきた。美野里がちょっと身を引くと、藤原は興味深げに見回してきた。胡散臭い男である。 その胡散臭い白衣の男に案内されて、美野里と長光は応接室に案内された。
 美野里と長光が並んで座ると、藤原はその向かい側に座った。大柄な体格と濃い顔付きが、気の強い語り口と やたらと堂々とした態度に合っている。大金持ちの長光に会っても下手に出る様子は全くないので、どこかの会社 の社長なのかな、と美野里は内心で見当を付けた。

「それで、今日はこちらのお嬢さんとはどんな御用で? アレを見舞おうというのであれば、考え直した方がよろしい でしょうなぁ。あの娘はまた悪さをしでかしてきましたし、弟は大人しくしているだけで精一杯ですからな」

「あの姉弟には近付きませんよ。あなた方も、それは同じでしょう」

「ふはははは、そうとも、そうだとも。いや、解っていらっしゃる。アレは検体としては非常に貴重であり、稀少なので 、すぐに手を施すのは勿体ないのですよ。ですから、我らも手を出しません。他の連中もそうでしょうとも」

「エンメイさんは?」

「最近、とんとあれとは顔を合わせませんなぁ。都内に部下をばらまいて、何やらごそごそしているようですが、それ が何なのかまでは見当が付いていませんよ。付いていたとしたら、とっくに手を打っておりますがね」

「そうですか。それはあれかもしれませんね、タカモリさんの御家事情と関わりがあるかもしれませんねぇ」

「だとしても、それこそ手を出せませんなぁ。連中の技術は我が社にとっても有益ですが、掴み所がなさすぎて。D型 アミノ酸ですら持て余し気味だというのに。佐々木さんが我々に売却して下さる薬も、成分分析が思うように進んで おりませんのでね。化学式の組み方が、我らの知る範疇とは違うのかもしれませんなぁ」

「あれは再現出来ませんよ。あれだけは」 

「ふははははは、そうでしょうとも」

 藤原は高らかに笑ってから、今一度、美野里を見据えた。

「して、本題に入りましょう。私が来ている日にここを訪れたということは、そういうことでしょうからな」

「ええ、そうですよ」

 長光もまた、美野里を窺う。美野里は戸惑い、身を縮める。

「あの、私、なんでここに連れてこられたんですか?」

「美野里さん。こんなにも愛らしいあなたと向き合おうとしない御両親は、とても冷ややかですね」

 長光が柔らかく言う。その言葉に美野里は胸中を潰され、う、と声を詰めた。そうだ、そうなのだ。両親が自宅に いてくれる時間はほとんどない。今週だって、朝も晩も顔も見られなかった日がある。美野里の部屋に新しいもの がどれだけ増えていようと、両親は気にも留めてくれない。普通の親子だったら、どうやってそんなものを買う金を 手に入れたんだ、と詰問してくるはずだ。それなのに、咎めもしない。
 だから、長光に構ってもらいたかった。可愛がってほしかった。一緒にいてほしかった。けれど、長光では両親の 代わりにはならない。現実を突き付けられ、美野里は項垂れた。真新しいスカートの布地にぼたりと涙が落ち、染み になった。長光は優しい手付きで美野里の背中をさすってやりながら、言葉を続ける。

「学校で何があったのか、というお話も聞いてくれませんものねぇ。食事時も仕事の話をするばかりで、美野里さん に気を割いてくれませんしねぇ。お休みの時も、家の仕事をしているばかりで一緒に出掛けてもくれませんしねぇ。 お辛いでしょう、寂しいでしょう、悲しいでしょう」

 長光の語気の穏やかさに、美野里は震える顎を食い縛ったが嗚咽が漏れた。

「御両親と同じ目線に立てば、御両親は美野里さんを認めてくれることでしょうね」

「……で、でも、わたし、ばかで、ばがでぇっ」

 馬鹿だから、両親には絶対追いつけない。美野里が頭を抱えて嘆くと、長光は美野里の背を軽く叩く。

「美野里さんは賢くなれますとも。ねえ、忠さん?」

「精密検査と免疫反応をしてみる必要はあるが、まあ、アレは何者も拒まないですからな」

 だから大丈夫でしょう、と藤原が念を押したので、長光は美野里の顔を上げさせてハンカチを差し出した。

「美野里さん。あなたは誰よりも素晴らしい存在になれますよ。御両親も、きっと誇らしく思われますよ」

 そうなれば、どんなに幸せか。美野里は感情の堰が切れ、声を上げて号泣した。あまりにも泣きすぎたので、施術 をするのは日を改めて、ということになり、長光の車で自宅に送ってもらった。けれど、やはり家の中は冷え切って いて窓明かりも点いていなかった。それが、美野里の決意を一層強くした。
 一ヶ月後、美野里はあの病院で施術を受けた。精密検査を受けた後、何がいいか選んでくれ、と藤原が昆虫標本 を差し出してきたので、美野里はホタルを選んだ。他の虫はどれも気色悪かったが、ホタルは光るところが素敵だと 思ったからだ。麻酔を掛けられ、半日以上眠ってから目覚めると、美野里は変わっていた。
 薄く霧が掛かっていたかのような頭が冴え渡り、どんな問題でも淀みなく解けるようになり、知識も息をするように 覚えられるようになり、運動も出来るようになった。しかし、味覚が著しく変わり、それまで好物だった料理や御菓子を 受け付けなくなった。頑張って胃に入れても吐き戻すようになり、仕方ないので病院で処方された赤いカプセルと スポーツドリンクを飲んで腹を満たしていた。そしてある日、ホタル怪人に変貌した。
 恐怖と混乱のあまりに長光に泣きながら電話をすると、長光は美野里にこう言った。落ち着いて、大丈夫だから、 それよりも今はその姿を御両親に見られないようにするべきだ、だから外に出た方がいい。それに従って美野里が 自室の窓から抜け出すと、長光は続けた。今から言う場所に孫が連れてこられる、息子夫婦は孫を養子に出して しまうつもりだ、だから孫を助けてやってくれ、美野里さんの御両親には話を通しておくから、孫を育ててくれないか、 と。なんて冷酷な、と美野里は躍起になり、長光に言われるがままに動いた。
 そして、都内一等地にあるタワーマンションのエントランスにやってきた車を襲い、武装した男達を蹴散らし、一人 の男の片目を潰し、長光の孫を奪い取って逃走した。だが、初めて怪人に変身したからだろうか、次第に体の自由 が効かなくなってきた。自宅の玄関先に赤子を置いてから自室に飛び込んだ途端、人間体に戻り、美野里は全身 を震わせる達成感ととろけるような高揚感に浸った。ああ、これでまた長光から褒められる。褒められる。
 それから、佐々木つばめは備前家の一員になった。




 更に十年後。
 美野里はつばめの立場と能力を知り、つばめに過剰なスキンシップを取ることで管理者権限を利用して人間への 捕食衝動と変身を制御しながら、父親の事務所で弁護士として雇われていた。怪人になったことで司法試験も無事 合格出来たのだ。大学の在学中に長光から仕事を命じられ、一ヶ月ほど触手にまみれた男と付き合う羽目になって しまったが、なんとか乗り切った。寺坂の性格も触手も何もかも嫌だったが、長光のためならばと思えたからこそ、 最後まで踏ん張れた。おかげで両親と対等になれたが、つばめとの付き合い方に困っていた。
 つばめは美野里に甘えてくる。両親にも甘えてくる。独りでに喋って動く、不気味なパンダのぬいぐるみをいつも 連れていて、それと会話している。しれっと我が侭を言い、かつて美野里がしてもらいたかったが言い出せなかった ことを、難なく両親にしてもらっている。へらへら笑う。人の顔色を窺う。要領が良い。最初から賢い。手先が器用だ。 お姉ちゃんお姉ちゃん、と美野里を無条件に慕ってくる。それが、どうしようもなく腹が立つ。
 どろりとした敵意を腹の底に隠しながら、美野里は明るく笑って暮らしていた。そんな最中、父親が長光の実家に 招かれたので、美野里は喜んで同行した。長時間のドライブの末に辿り着いたのは田舎という言葉を体現している 場所で、山と田畑以外は何もなかった。古い合掌造りの家に一人で暮らしている長光の元を尋ねると、白黒の外装 に赤いパトライトを備えた人型ロボットが出てきた。それから、長光が備前親子を持て成した。

「あれは長男が作って寄越したものなのですよ。私の暮らしを楽にするためだ、とは言っていましたが、それが どこまで本当なのやら。ただ、見張っておきたいだけなのかもしれません」

 長光は、背景に全く似合わないロボットを見、苦笑した。それから長光はつばめの近況を訊いてきたので、美野里 は元気だと答えた。蹴り飛ばしたくなるぐらいに。長光は満足げに頷き、笑みを零した。こんな顔は美野里に対して 見せてくれたことはない。つばめが実の孫だからだ。それなのに、つばめとその両親は長光に会おうともせずに、 田舎に押し込めている。許し難い。許せるわけがない。許していいはずがない。
 正義感に似た怒りが、徐々に溜まっていった。




 それから二年後。すなわち、現在から三年前。
 長光が遺言状をしたためた。その理由は、長男である長孝が警官ロボットを改造したからだという。今までの警官 ロボットは一般的な動力源と回路を備えていただけだったので、脅威ではなかったが、本来は長光の所有物である 遺産を警官ロボットに搭載させた。だが、その遺産、ムリョウはつばめの管理者権限によって長光の所有権が解除 され、上書きされていたので、つばめの意思一つで長光を陥れられるようになったのだそうだ。
 それなのに、長光の遺言書にはつばめに全ての遺産を譲渡すると書き記されていた。仕事の合間を縫って船島 集落を訪れた美野里は、遺言書の草稿を見て愕然とした。長光はいつものように穏やかに笑っているだけであり、 青ざめる美野里とは対照的だった。美野里は震える手で草稿を置き、長光を問い質した。

「なんでこんなことにするんですか!? だって、あの子も、あの子の親も、長光さんにひどいことばかり!」

「落ち着きなさい、美野里さん」

 長光は美野里を宥めてから、緑茶を勧めてきた。美野里はそれに少し口を付けたが、味が解らなかった。

「遠からず、私は肉体的な死を迎えます。妻に尽くしていましたから、あまり長持ちはしないと自分で解っています。 ですが、私は精神的な死は迎えません。妻から受け取った遺産に、私の精神体を移してあるからです。今は下の 息子の娘に預けてありますがね」

「それ……どういうことですか?」

 長光が死ぬなんて、嫌だ。美野里が泣きそうになると、長光は外を指し示した。

「私の妻、クテイはこの先にある桜の木と一つになっています。妻はこの世の者ではないので、得るものも人間とは 違います。ですから、クテイをより満たしてやるために、私は一時的につばめさんに遺産を全て預けるのです」

「でも、それじゃ」

「遺産相続の仕事は美野里さんが引き受ければよろしいのですよ。そうすれば、名義を変えても正規の手続きさえ 行わなければ、遺産の名義もそのままです。私の死亡届も同様です。そうすれば、万事上手くいきますとも。クテイ も喜んでくれることでしょう」

「奥様が?」

「ええ、そうです。クテイは遺産と繋がりのある者が生み出す、心の揺らぎを喰らうのです。中でも、クテイの管理者 権限が隔世遺伝している、つばめさんのものは特に喰らいやすい位置にあります」

「心の……」

 それは、つまり。美野里が浅く息を飲むと、長光は笑みを絶やさずに返した。

「ええ、そうです。つばめさんが苦しんだり、悩んだり、困ったり、怒ったりすれば、クテイは喜びます。そして、クテイの 力を受ければ、生まれ変わった私が目覚めるのも早まります。ですからね、美野里さん」

 存分にあの子を追い詰めてやって下さい。長光の言葉に、美野里は軽く目眩がするほど歓喜した。無意識のうち に笑みが顔一杯に広がり、頬が火照り、胸が高鳴り、目尻から滲み出た涙が化粧を溶かしそうになった。つばめを 追い詰めて苦しめて痛め付けて悲しませれば、長光の利益になるだなんて。利害が一致している。
 喜びすぎて、船島集落にいつのまにか居着いていた一乗寺に気付かず、檀家の僧侶である寺坂が佐々木家を 訪れたついでに美野里をナンパしてきたことも忘れてしまい、鼻歌を零しながら東京への帰路を辿った。
 これで、心行くまでつばめに危害を加えられる。





 


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