機動駐在コジロウ




オーダーを仇で返す



 視界が捻れ、捩れ、巡り、転じた。
 見覚えのある社章が印刷された旗が壁に吊り下げられ、上等な革張りのソファーがガラステーブルを囲み、花瓶 には秋の花々が見事に生けられて季節感を与えていた。ここがハルノネット本社の応接室であるとは、道子は即座 に理解したが、ここに至った理由が解らなかった。今度は誰の記憶なのか。
 ドアが開かれ、社長秘書の女性が来客を案内してきた。その二人は体格の良いサイボーグで、片方は新免工業 の社長である神名円明だとは一目で解ったが、もう一人のフルサイボーグの男の正体が掴めなかった。フレームの 形状と積層装甲の配置と関節の駆動範囲からして、新免工業の工業用サイボーグを使用しているのだとは察しが 付いたが、それだけだった。物質宇宙との接続さえ取り戻せていれば、ハッキングして調べられるのだが、異次元 宇宙に電脳体だけを縛り付けられていては何も出来ない。
 程なくして、ハルノネットの社長が応接室に入ってきた。アイロンの効いたダークグレーのスーツに紺色のネクタイ を締め、引き締まった顔付きが若々しい。これがオリジナルの吉岡八五郎だ。だが、道子を始めとしたハルノネットの 社員は、本宮春信と名乗っていた。吉岡グループの社長であった彼の複製体は、いかにも社長然とした恰幅の いい脂ぎった男だったが、本物の吉岡八五郎は無駄を削ぎ落としている。表情も乏しく、遺産を巡って敵対関係に ある神名円明と対峙しても、眉一つ動かさなかった。

「お呼び頂き、ありがとうございます」

 マフィアのボスのような印象を与えるスーツとソフト帽を身に付けていた神名は脱帽し、一礼する。

「うむ! 悪役が雁首揃えて悪巧み、といった構図だな! いやあ楽しみだ!」

 もう一人のサイボーグが喋った途端、その正体が判明した。藤原忠である。大柄な戦闘サイボーグなので常人の 服は身に付けられないからだろう、ライダーススーツを思わせるツナギの服で銀色の肌を覆っていた。

「私達は手を引いた立場ですよ、藤原さん。もっとも、遺産絡みの争いを繰り広げていた時の緊張感は、ビジネス の駆け引きとはまた違った楽しさがありましたけどね」

 神名がマスクに手を添えて笑みを零すと、藤原は太い腕を組んで胸を張る。

「で、だ。かつては中ボスか四天王にも匹敵する立場であった我々だが、手痛い敗北を期した後、遺産争いの前線 から叩き落とされて敗者復活戦のようなイベントすら起きなかったわけだが、その辺については吉岡君はどう思う かね? 私としては、再生怪人の如くばったばったと薙ぎ倒されたいなぁとうっすらと願っているわけだが」

「長らく御迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 娘に似た銀縁のメガネを掛けている吉岡は、深々と頭を垂れた。

「いえいえ、お気になさらず。ナユタのことは、私の好きでやっていたことですから。それに、吉岡君や他の皆さんに ナユタを売り払わなかったのも、私が遺産争いから離れるのを惜しんだからですよ」

「そうだ! アソウギがなければ、私は心行くまで悪役ごっこを楽しめなかったからな! 調子に乗りすぎて新免工業 に狙撃されて死んだのも、その後に生首を拾われてサイボーグに改造されたのも、伊織と思い切り戦って良いところ までいったが結局負けたのも、全て私の自己責任だ! 訴訟とか面倒臭いし、賠償金だの何だのとやり取りして は表沙汰になってしまうし、そうなると裁判で陳述書に悪役ごっことか怪人のことを一から十まできっちり書いたもの が公文書として保存されてしまうし、そうなるとさすがの私も恥ずかしいからだ!」

 藤原は意味もなく仰け反り、ソファーの背もたれに埋もれた。

「それで、吉岡君がわざわざ正体を明かして私達を呼び付けたのは、何も謝罪のためだけではありませんでしょう。 昨日のあのライブといい、何といい、事が大きく動いているようですからね」

 お掛け下さい、と促してから、神名は秘書が運んできてくれた紅茶に、角砂糖を一つ入れた。

「単刀直入に申し上げます。船島集落を破壊する工作活動に、手を貸して頂けませんか」

 吉岡は二人と向かい合う位置に腰掛けると、強く言い切った。藤原は快諾するかと思いきや、渋った。

「その利益が見当たらんなぁ。というか、私は既にフジワラ製薬の社長からは退いているし、個人資産であった裏金 は前のボディに注ぎ込んでしまったからすっからかんだし、その手の業界にコネはないぞ。あるのは神名君だ」

「やろうと思えば、世界各国に散らばっている子会社の社員と兵器を動かして一個中隊程度の戦闘員と兵器を動員 出来ないこともないですけど、日本国内でそれをやるのは厳しいですね。確かに船島集落は法律のエアーポケット ではありますけど、それは長光さんの個人資産から生まれる莫大な税収を見込んでいるから、政府が黙認している からであって、長光さんとその近親者であれば見逃してもらえますけど、部外者はそうもいきませんよ」

 神名が肩を竦めると、吉岡は落胆を滲ませた。

「そうですか。無理を言ってしまいましたね」

「まあ、気持ちは解らんでもないぞ。つばめちゃんの生体組織を入手出来なくなってしまえば、遺産を持った者共が 次に狙うのは船島集落の植物だからな。あれは、吉岡君の御母堂なのだな? りんねちゃんが生まれる前の生体 安定剤の成分は、弐天逸流が作った人間もどきと酷似していたからな。一乗寺昇がシュユと人間の私生児だと いう事実を踏まえるならば、その考えにしか行き着かん。この際、非科学的だのなんだのというのは置いておく」

 藤原の言葉に、吉岡は目を上げた。

「ええ、そうですよ。私は今でも母を理解し切れていませんが、あれが良くないことだけは解ります。あれがこの世に 現れなければ、何事も起きなかったのですから」

「御母堂はお亡くなりになったのでは、と思いましたが、愚問でしたね。相手は人智を越えたモノですから」

 神名が少し笑うと、吉岡は膝の間で組んだ自分の手を見下ろす。

「母は亡くなりませんよ。母が被っていた人間の皮、というか、私と兄の本当の母は当の昔に亡くなっていますがね。 もっと早くに気付くべきでした。母が一体何を求めて、父の元にやってきたのかを」

「と、仰ると?」

 藤原が問うと、吉岡は項垂れる。

「母は人の心を喰うのです。厳密に言えば、母は遺産同士を繋げているネットワークを利用し、人間の感情の波を を捕食するのです。だから、母は父を追い詰めていきました。父は人間でもなければ地球上の生き物でもない母を 受け入れ、伴侶として暮らしていましたが、人間の感情は慣れるに従って凪いでいきます。情熱は真っ先に衰える ものです。ですが、恐らく、それが母が最も好む食事だったのでしょう。片田舎の農夫に過ぎない父に、過剰な愛情 表現を求めるようになりました。……居たたまれませんでした」

「子供の目からすれば、それは確かに」

 普通の両親でもちょっと嫌です、と神名が苦笑すると、藤原は大きな肩を揺する。

「いや、すまん。クテイとはシュユと同種族なのだろう? それが、その、うん……想像した私が馬鹿だった」

「いえ、笑って下さい。笑って頂ければ、少しは私の気が晴れます」

 吉岡は過去の苦労を思い出したのか、伏せた眼差しがどろりと淀んだ。

「母と良く似た姿の兄は早々に家を出ましたが、私は父を見捨てることが気が咎めて、なかなかそれが出来ません でした。帰宅すると色んな意味で気まずいので、外で遊んでいてくれと父から金を持たされて、結果として放蕩息子 になってしまいました。そして、文香に出会いました。金銭欲と物欲が服を着て歩いているような女で正直辟易した んですけど、こうも思ったんです。父と母の暮らしを支えている、遺産絡みの莫大な資産を浪費してしまえば、両親は あの奇怪な生活から解放されるのではないかと。ですが、文香にどれほど貢いでも、文香の努めるキャバクラの 売り上げに貢献しても、現金が減らないんです。むしろ、増えていたんです。母は賢かったので、父の名義で株券 やら何やらを買い込んでいたからなんですよ。絶妙なタイミングで売り買いしていたらしく、後から株取引のデータを 見てみると、一円も損をしていませんでした。内助の功、というか、今にして思えばアマラの力ですよね」

「演算能力の精度を恐ろしく高めれば、未来予知も可能ですからね。上手い使い方ですよ」

「そうです。それから、思ったんです。父は母に魂を食い潰されようとしているけど、母の所業を咎めないばかりか 自由が効く時に何も言わないのだから、父と母は互いの関係に満足しているんじゃないかって。そうしたら、急に 何もかもが馬鹿馬鹿しくなって家を出たんです。その頃には文香も落ち着いていたし、文香の妊娠を期に結婚したん ですが、その子はきちんと産まれませんでした。人間からは懸け離れた兄の子は、まともに産まれたのに」

 吉岡の目が上がり、口角が僅かに持ち上がる。笑顔を作るか否か、悩んだのだろう。

「母は私と兄からも激しく変動する感情を喰らいたいがために、私と兄の体に手を加えていました。お二方も御存知 でしょうが、管理者権限は隔世遺伝するのです。だから、兄の子にその管理者権限が備わったのですが、それは 好機ではないかとも思ったんです。兄の子を、つばめさんを母の餌にしようと考えたんです。そうすれば、私と文香 は母に感情を喰われずに済みますしね」

「では、りんねさんの複製体を作ったのは?」

「私ですよ。母の下に育っていたのですから、コンガラの扱いぐらいは覚えますよ。昔は、コンガラを使って足りない 食料品や日用品を複製していたのでね。ですが、微調整は出来なかったので複製するたびに外見年齢がちぐはぐ になってしまいましたけど。だから、今のりんねは成功作なんです。我ながら惚れ惚れする出来です。まあ、文香 には父の仕業だと言い聞かせておきましたけどね」

「ならば、我が息子の伊織と出会った、意思のあるりんねちゃんの複製体はどうなのだね? あれはラクシャに憑依 している御尊父の意識が、りんねちゃんを操り人形にしていたのだろう?」

「あれは、父の意思です。吉岡グループを動かしていた、私と文香の複製体を作ったのも父です。私はようやく父が 母に逆らってくれたのだと喜んで、父の言うがままに働きました。吉岡グループの経営も、私自身が回すよりも余程 上手くいくようになりましたし、こうしてハルノネットの取締役に収まって、思うようにやれていますし」

 吉岡の語り口は、いくらか得意げだった。

「君の部下であった美作彰に、集積回路のムジンとアマラを手配したのも吉岡君かね?」

 藤原が挙げた名に、道子は凍り付いた。あの男だ。忘れもしない、忘れようがない、あの妄想狂だ。

「美作彰ですか。あれは、兄と親しい小倉重機の社長の妻の弟、という立ち位置だったので、兄を追い詰めるために ムジンとアマラを与えたのですが、美作は思ったよりも成果を上げてくれませんでしたよ。設楽道子という逸材を発掘 してくれたことは大いに評価していますけどね。それと、桑原れんげを生み出してくれたことも」

 近視用のレンズの奥で目を細めた吉岡は、ホログラフィーモニターを作動させる。そこには、削除したはずの道子 の忌まわしき分身であり概念の集積体、桑原れんげが浮かび上がった。吐き気がするほど甘ったるいアイドル風の 衣装を着ていて、きらきらと光るエフェクトが掛かっていた。

『はぁーいっ! 皆の心にズッキュンバッキュン、御鈴様なんて目じゃないハイパーアイドルにして全世界のファンの もの、桑原れんげちゃんでーっすぅ!』

 桑原れんげは微笑み、薄い手袋を填めた手をひらひらと振ってピンクのハートを撒き散らした。

「驚くことはありませんよ。本社並みのパワーがあるサーバーは複数ありますからね、そこにバックアップを取って あっただけのことです。アマラが政府に押収されている今であれば、設楽道子に妨げられずに桑原れんげを ネットワークに放逐出来ます。そうすれば、今度こそ遺産を掌握出来るでしょう」

「桑原れんげ嬢で世間を撹乱している最中に、船島集落を落とせと?」

 顎に手を添えた神名が声を低めると、藤原はごきりと首を曲げる。

「まあ、効率的ではあるな」

「必要経費はこちらでお支払いいたしますよ。なんでしたら、フジワラ製薬にも一枚噛んで頂きましょうか。一ヶ谷市内 全土に感染症を蔓延させて周囲から隔離させる、というのはどうでしょう。在り来たりですが」

 吉岡の提案に、神名は少し首を傾げる。

「お話は解りましたが、そこまで私達に暴露してよろしいのですか? このままですと、私と藤原君はあなたの部下の サイボーグ部隊に蜂の巣にされてしまいそうなんですけどね」

「まさか。取引を持ち掛けた相手ですよ、丁重に扱いますとも」

 吉岡は人当たりの良い笑顔を作るが、メガネの奥の目は笑っていなかった。

「ですが、事を円滑に進めるために必要な作業がいくつかあります。それもお手伝い頂けますね?」

「あのフカセツテンの処理ですか?」

「それもそうですが、まずは母の気を逸らしておかなければなりませんので、シュユを破壊して頂けませんか。あれは 藤原さんが開発なさったD型アミノ酸の分解酵素を使えば、痛め付けられますので」

「ふむ、ならば化学式は教えてやろうとも。酵素の精製は、吉岡君の方で勝手にやってくれ」

「ありがとうございます。神名さんはいかがなさいますか」

「少し時間を頂けませんか。シュユの件も、船島集落の件も」

 神名が吉岡を遮ると、吉岡はすんなりと引き下がった。

「ええ。ですが、こちらにも準備がありますので、今週中にはお返事を下さい」

「では、失礼いたします」

 神名が腰を上げると、藤原も立ち上がった。

「さらばだ、吉岡君!」

 二人のサイボーグが退室する様を見送ってから、吉岡はソファーに座り込み、頭を抱えた。後ろへ撫で付けている 髪が乱れるのも構わずに掻き毟り、荒い息を吐き出しては焦って吸い込み、を繰り返している。口元はぐにゃりと 歪み、混乱と歓喜が混じっていた。この時、道子はようやく誰の記憶を覗き見しているのかを悟った。吉岡八五郎 は呼吸を乱しながら、道子の視点の位置に近付いてきた。視界が上下し、ぶれ、デスクに横たえられると、吉岡は 何かを探っていた。彼のメガネに映っているのは額縁で、その中には小さな絵が収まっている。額縁の合わせ目の ほんの僅かな隙間に監視カメラのレンズが填っており、吉岡はそれと記録装置を外した。一連の映像が保存されて いるメモリーカードを抜き、デスクのパソコンに差すと、程なくして桑原れんげが現れた。

『データのダウンロードと同時に暗号化を実行中でーっす! もうちょっとだけ待ってね!』

「れんげ。あの男は、確実に死んでいたはずではなかったか?」

『うん、れんげはそう思っているよ。でも、あの人、元気だったね。れんげにはよく解らなぁーい』

「行き先はトレースしているな?」

『もっちろん! すぐに割り出してあげるね、パパ!』

 愛想の良い笑顔を振りまくれんげに、吉岡は破顔する。

「私の味方は、お前だけだな」

 怒濤のように押し寄せる、感情、感情、感情。吉岡八五郎は、実兄に凄まじいコンプレックスを抱いている。同様に 母親に対しても、父親に注がれる愛情の一欠片でもいいから自分に注がれればと願って止まない。それなのに、 己の家族の異様さから、欲することが出来なかった。人間ではない肉体であるにも関わらず、まともに我が子 を産ませられた兄が妬ましい。おぞましい。羨ましい。だから、どちらも滅ぼさねば収まらなかった。いかなる手段を 使ってでも、陥れなければ気が済まない。吉岡の心身に淀む泥濘とした感情を、あの触手が掬い取る。
 育てた作物を、収穫している。




 神とは道具だ。
 知的生命体が猥雑な意識を律するために、本能的に生み出す手段の一つでしかない。彼らは欲求を排して高み へと上り詰めたが、その結果、宇宙に点在している知的生命体同士を結び付ける糸でしかなくなり、異次元宇宙に 完成された演算装置は、恋愛感情を好みすぎて中毒を起こした個体に占領されてしまった。彼女は欲望に従って 愛を貪り尽くし、伴侶をも食い尽くしても飽き足らず、遺産に連なる者達の情念を求め続けている。
 それを止める術は、あるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、道子は携帯電話のネットワークを経由して手近な ロボットに滑り込んだ。多少のプロテクトはあったが、電脳体を阻むほどの硬さはない。プログラム、システム、設定、 メモリー、その他諸々を手早く確認し、このロボットは看護用ロボットだと把握した。安定性を重視した多脚型の 女性型ロボットで、太いアームは患者を抱き上げるためのパワーを備えている。安心感を与える丸い体形とピンク 色の外装に、ナースキャップを思わせるパーツが頭部に付いていて、ゴーグルには多彩な表情を浮かばせるために 様々な表情パターンがプログラムされている。そのロボットを通じて周囲の環境を確認し、理解した。
 看護ロボットがいるべき場所、病院だった。道子はその病院のシステムに難なく潜り込むと、この看護ロボットの 個体識別番号を探し出してメンテナンス中にして非番にすると、仕事を他の看護ロボットに振り分けた。そうやって おけば、病院の業務にそれほど支障を来さずに済むだろう。
 廊下をスムーズに進むためのタイヤと階段を昇降するための多脚を切り替えながら、病院の中を歩き回るうち、 状況が見えてきた。この病院は御鈴様のライブ会場に最も近いだけでなく、吉岡グループの子会社が経営していた ので、ライブ会場で負傷した人々が多く搬送されていた。患者リストを閲覧し、その中に羽部鏡一の名があったこと に少々驚いたが、顔には出なかった。目元以外は、警官ロボットに似たマスクフェイスだからだ。
 エレベーターを乗り継ぎ、八階にある集中治療室へと進む。もちろん関係者以外立ち入り禁止で、看護ロボットも 専用のものでなければ入れないように設定されているのだが、少しそれに手を加えて、エレベーターホールにある ゲートを通り抜けた。先程閲覧した患者リストに記載されていた通り、吉岡りんねが入院していた。
 パスワードをクラックして電子ロックを解除し、物々しささえある分厚い扉を抜けると、広い病室の中央のベッドに 一人の少女が横たわっていた。隣接されたベッドでは、大柄な人型昆虫が背中を丸めている。少女と人型昆虫は 互いの指先と爪先を触れ合わせていた。二人の傍には、つばめと警官ロボットが座っていた。

「あれ? 道子さん?」

 つばめに名を呼ばれ、道子はぎしりと身動いだ。まだ名乗ってもいなかったのに。

「設楽女史の電脳体の存在を確認」

 警官ロボット、コジロウは赤いゴーグルで道子を捉えた。機体の固体識別番号が違っていたので、コジロウでは ないのかと一瞬勘繰ったが、つばめの傍にいる警官ロボットがコジロウではないわけがないのだ。道子はタイヤを ころころと転がしながら二人に近付くと、額を小突くような仕草をして小首を傾げた。

「恥ずかしながら帰ってまいりましたー。でも、どうして私だって解ったんですか?」

「だって、その看護ロボットはピンクだから外来用でしょ。水色は病棟用で、クリーム色がICU用だって、ここに来た 時にナースさんが説明してくれたんだよ。で、どのロボットも絶対に違う持ち場には行かないようになっているって。 だから、外来用の看護ロボットが病棟に来るはずがないじゃん? だけど、そういうことが出来るのは道子さんだけ だよなーって思って。その通りだったし」

「わあ、名推理ですね!」

 道子が褒めると、つばめは照れた。

「いや、別に、全然。でも、道子さんが戻ってこられたってことは、フカセツテンの妨害はなくなったってこと?」

「いえ、そういうわけではないんですよ。異次元宇宙に閉じ込められている時に、同じような立場になっていたシュユと ちょっと揉めてしまいまして、追い出されちゃっただけなんです。情けないですけど。だから、異次元宇宙との接続 も切れているんです。なので、アマラが手元に戻ってきても、以前のようには……」

「それでも、こっちの世界のネットの中は自由に動き回れるんでしょ? 今だって、そうだし」

「そりゃあもう! 携帯ゲーム機からスーパーコンピューターまでなんでも!」

「じゃ、大丈夫だよ。なんとかなるって」

「ですよねー」

 それ以外の障壁も多かったのだが、気付いたら、物質宇宙に電脳体が戻っていた。道子は曖昧な返事を返して から、ベッドに横たえられた二人に近付いた。人型軍隊アリは、伊織だと一目で解る。少女のベッドに付いた 名札は吉岡りんねだったが、顔付きも体形も道子の記憶の中の御嬢様とは違う。一度、りんねの意思によって 遺伝子が破壊されたので、それを道子が再構築させてから二人の肉体を繋ぎ止めていたアソウギを分離させ、 更に二人の肉体を形成する分子に振動を与え、本来あるべき形に整えたからだ。だから、この姿こそがりんね が生まれ持った遺伝子の形であり、文香が死産した胎児が成長した姿でもある。

「一応、コジロウのムジンを使って、吉岡りんねの頭の中にあったプログラムは全部吸い出したんだけど、意識 が戻るかどうかは解らないんだってさ。伊織もそうだって」

 つばめは二人の寝顔を眺め、複雑な感情を吐露した。

「二人共、意識が戻った方がいいんだろうけど、戻らないのなら、それはそれならそれでいいのかもしれない。 これ以上、辛い目に遭わなくて済むから」

「ですね。そればかりは、お二人の意思で決まることですからね」

 道子が同意すると、つばめは目元を擦った。気が立っていたからか、寝付けなかったようだ。

「とりあえず、うちに帰らないとね。フカセツテンも持って帰らなきゃならないし。その中にいる、武蔵野さんとか先生 とか寺坂さんとか、外に出してあげないと。どうやればいいのか解らないけど、きっとなんとかなるよ。私がなんとか 出来るんだから、なんとかしなきゃダメなんだ。でないと、何も終わらない」

「どうしてもダメだと思ったら、遺産を捨ててもいいんですよ? 管理者権限は、そういうものでもあると思います」

「それだけはダメだよ。それだけは」

 この気持ちも、クテイは喰らっているのだろうか。背中を丸めがちなつばめの後ろ姿はいつになく小さく見え、道子は つばめにそっと寄り添った。つばめはちょっと照れ臭そうにしたが、道子を振り払おうとはしなかった。病室には 少女と人型昆虫に付けられた心電計の電子音が規則的に響き、嵌め殺しの窓から降り注ぐ陽光は暖かい。
 異次元宇宙との接続を断ち切っても、コジロウと通じ合おうとするつばめの思いがある限りは、クテイはつばめの 精神を貪るだろう。誰を恨もうと、誰と憎み合おうと、誰と愛し合おうと、クテイは貪欲につばめを喰らい続けている。 今、この瞬間でさえもそうだろう。異次元宇宙から追放されてしまったのは困るが、シュユの命令を受け入れること は出来なかった。だから、全力で刃向かおうと決めた。コジロウや他の皆と共に、つばめを守り、助け、支えてやり、 遺産を巡る争いを生き抜こうと決意を据える。道子は人間ではなくなった。だから、動かしてもらう手が必要だ。
 その手の主が、他でもないつばめだ。





 


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