機動駐在コジロウ




一を聞いてジャンクを知る



 玄関のチャイムを押すと、家の中で電子音が響いた。
 一度、二度、三度、とボタンを押し込むと、それと同じ回数のチャイムが鳴った。だが、誰も出てこない。美野里の リアクションが知りたかったが、リビングの掃き出し窓はカーテンに塞がれているので覗けなかった。家主は当の昔 に逃げ出しているので、勝手に上がり込んでいる美野里が出迎えるのが道理なのだが、その気配すらない。それが 少し癪に障ったが、一乗寺は門を開いて敷地内に入った。
 玄関のドアを開けようとするが施錠されていたので、すかさず発砲して吹き飛ばした。鍵が砕けたことを確かめて からドアを押し開けると、すんなりと開いた。三和土の洒落たタイルには無惨に穴が空いて、鉛玉が埋まっている。 本来の家主はインテリアに凝っているのだろう、靴箱の上にはアンティークの楕円形の鏡が掛かっている。一乗寺 は楕円形でツタの絡まったデザインの鏡を覗き、いい加減な長さの前髪をちょっと整えてから、土足で上がった。

「おっじゃましまーす!」

 一発、天井に向けて威嚇射撃をする。泥の足跡を残しながら、リビングに向かう。

「みーのりちゃーん、あーそびましょー!」

 リビングに入るドアの影に隠れ、内部に発砲する。革張りのソファーとシャンデリアにも発砲し、艶のあるカバーに 焦げた穴を作り、澄んだクリスタルガラスを砕く。熱を持ったハードボーラーを上げたまま、一乗寺は周囲を窺う。 美野里がこの場にいる痕跡は、すぐに見つかった。リビングに面している対面型キッチンの奥では、冷蔵庫がドアを 開け放たれ、冷気と中身を零していた。作り置きのおかずが入った器が床で砕け散っていて、いかにも家主が好み そうなチキンの香草焼きが落ちている。牛乳やアイスコーヒーの入ったポットも転がっていて、白と黒が混ざり合った 浅い池が出来ていた。良く冷えた輸入物の黒ビールを見つけた一乗寺は、久しく酒を飲んでいなかったのでそれを 拝借したいなぁと思ったが、戦闘中に一杯引っ掛けるわけにはいかないので渋々冷蔵庫を閉じた。
 キッチンから出てバスルームに向かうが、こちらにも美野里の気配はない。大きな楕円形の浴槽と暖色系の配色 のバスルームには、オーガニック素材のシャンプーや石鹸が並んでいて、品の良いハーブの香りが漂っていた。 ドラム式洗濯機を開け、洗濯物をひっくり返したが、こちらにも異常はない。和室の客間に納戸を探したが、ここも 美野里の姿はなかった。ならば、二階にいると見て間違いない。
 螺旋階段を意識して作られた階段を昇り、二階に至ると、フローリングの床に鋭い爪痕が付いていた。案の定だ。 両親の寝室はベッドが乱れたままで、着の身着のまま逃げ出したのが解る。余程慌てていたのだろう、携帯電話や 財布がサイドボードに置かれたままだ。二階の廊下の窓が割られ、細切れになったレースカーテンが揺れている。 クローゼットを開けてみる。異常なし。ドアの裏側を見てみる。異常なし。ベッドのマットレスを撃ってみる。異常なし。 続いて書斎に入るが、こちらも異常なし。爪痕も付いていなかった。ならば、行く当てはただ一つだ。
 子供部屋のドアは、力任せに割られていた。破片が床に散乱し、中が覗いている。ドアノブを慎重に回して開けて みると、鉄錆の匂いが押し寄せてきた。ウサギ柄の可愛らしい壁紙、花柄のカーテン、ピンク色の掛け布団に白い ベッド、小学校の制服にぬいぐるみの山、子供向けのファッション雑誌、そして部屋の主。

「わお」

 少女の死体を見、一乗寺は低く呟いた。年端もいかない少女の死体はフリルの付いたパジャマ姿で、恐怖と痛み で可愛らしい顔が歪んでいる。抵抗されないように顔を押さえ付けたのだろう、額と首筋に深い切り傷が付いている。 両手足はほぼ無傷だったが、肉の薄い胴体は切り裂かれて中身が失われていた。野生動物と同じく、柔らかい部分 を選んで食べたのだ。キャラクターもののラグに染み込んだ血は乾き切っておらず、臭気もまだ新しい。

「美野里ちゃん?」

 血の雫が点々と連なり、向かっていく、クローゼットに銃口を向ける。

「遊びましょ!」

 だんだんだんだんっ、と残弾を全て撃ち込み、素早くマガジンを交換する。クローゼットの薄いドアに複数の焦げ 穴が空き、銃声の余韻と硝煙が晴れると異音が聞こえた。硬い外骨格を擦り合わせる音だ。クローゼットのドアが 内側から押し開かれると、それは現れた。少女の返り血と肉片を顎に貼り付けた人型昆虫、備前美野里だ。

「いーけないんだ、いけないんだっ! せーんせいは知っているーっ!」

 間髪入れずに撃つ、撃つ、撃つ。美野里の折れ曲がった触角が弾け、複眼が抉れ、折れた顎が割れる。次々に 飛び出した薬莢を靴底で追いやってから、一乗寺はふらついている美野里と対峙した。美野里は頭部の痛みに 怯み、呻き声を漏らして上両足で顔を覆う。だが、嗚咽ではなく、明らかな笑い声だった。

「ふは、は、はぁ、あ、はっ」

 厳つい肩をぎしぎしと軋ませながら、美野里は己の頭部に爪を立てる。

「マスターはどこ?」

「知らないよ、そんなもん。てか、俺があんな奴のことを知っていると思うの?」

 一乗寺が素っ気なく返すと、美野里は折れ曲がりかけた羽を振るわせる。びいいいんっ、と空気が鳴る。

「マスターは私を必要としてくれる、マスターは私の本当の価値を解ってくれる! マスターは特別なんだ!」

「あー、そうか、よっ!」

 大きく腰を捻り、美野里の頭部に回し蹴りを加える。薙ぎ払われて床に転げた美野里は、ぎいぃっ、と昆虫じみた 悲鳴を漏らした。美野里の頭部を踏んで逸らさせてから、首と胴体の繋ぎ目の膜に銃口を当てる。

「特別ってのはね、俺が殺したくなる相手のことなんだよ。あんな奴、本当はどうでもいい。よっちゃんの体を奪って いったことも、本当はどうでもいい。だって、よっちゃんだから心配するだけ無駄なんだもん」

 だぁん、とゼロ距離で発砲すると美野里の頭部が上下し、穴が空き、生温い体液が噴出する。それを浴びた顔を 乱暴に拭ってから、一乗寺はナイフを出して美野里の首に刺し、肩と胴体の繋ぎ目に刺し、中両足の根本に刺し、 下両足の根本にも刺した。激痛で痙攣する美野里を押さえ付け、顎の間に拳銃をねじ込んだ。

「あのさぁ、みのりん」

 美野里に食い散らかされた少女を一瞥してから、一乗寺は口角を歪める。

「人間捨ててまで手に入ったものってある? ないよね? 俺だってないよ、何もないんだよ。人間の振りをしていた けど、人間じゃないから、手に入れたつもりでもなくなっちゃうんだよ。だってさ、この世界は人間社会であって人外 社会じゃないんだよ? 馬鹿だよね? 人間の振りをして生きていった方が、余程賢いと思うけど」

「げぐっ」

 ごぎり、と美野里は拳銃を噛み砕こうとしたので、一乗寺はもう一丁の拳銃を抜いて美野里の顎に突っ込む。

「大体、本当の価値って何? 必要としてくれるのが一番偉いんだったら、この世で最も偉いのは空気とか水とか 穀物とかだよ。みのりんってさ、自己評価が低すぎてウザがられるタイプだよね。実際、死ぬほどウザいんだけど。 ウザすぎてゲロ吐きそうなレベルでウザい。誰かに褒められるまで卑屈になるの? 卑屈になっていたら、誰かが 必ず褒めて認めてくれるの? 馬鹿すぎて頭痛いんだけど」

 がちがちがちっ、と美野里は必死に顎を動かしてきたので、一乗寺は喉の奥に二つの銃口を抉り込ませる。

「だから俺はね、自分最高って感じで生きてんだよ!」

 ぐりっと二つの銃口を上向けさせて、美野里の脳に狙いを定める。両手の人差し指が引き金を絞り切ろうとした、 正にその時、何者かが一乗寺の体を引き剥がした。抵抗する間もなく壁に叩き付けられ、拳銃も両手から落ちる。 咳き込みながら顔を上げると、奇怪なシルエットが窓から滑り込んできた。複数の触手がうねり、絡まる。
 寺坂善太郎だった。厳密に言えば、寺坂善太郎とは別人の顔なのだが、寺坂と同じ触手を備えている男だった。 一乗寺の知る限りでは、人間大の大きさで触手を繰り出す男は寺坂しかいない。だから、ハルノネットが一般向け に発売している男性型サイボーグと同じ、日本人の平均を割り出してシリコンシートをプレスして作り上げられた、 特徴らしい特徴が一切ない男であろうとも、寺坂だと判断した。一乗寺は別の武器を取り出そうとすぐに手を動かし たが、寺坂が素早く伸ばした触手に手足を縛られて吊り上げられ、天井に押し付けられた。

「これってヒロインの仕事じゃないの? 俺、そういうんじゃなーい」

 天井の隅に押しやられた一乗寺が文句を言うが、寺坂は反応しなかった。いつもの鋭角なサングラスの奥の目元 はいつになく険しく、顔付きも強張っている。だが、寺坂の真意が何であろうと関係ない。仕事の邪魔だ。

「いよ、っとぉ!」

 力一杯天井を蹴って前のめりになった一乗寺は、触手の端が天井から離れた瞬間を見逃さずに身を捻り、触手に 捻りを加えて絞った。それが元に戻ろうとする筋力を利用してカーテンレールに突っ込み、背中からずり下がった 際に手首を拘束している触手をカーテンレールに引っ掛けて緩める。その瞬間に右手を引き抜くと、小型の拳銃を ポケットから抜いて発砲する。だが、寺坂の触手が弾丸を阻み、主人の代わりに肉片が吹き飛んだ。

「ちぇー」

 一乗寺が残念がると、触手の本数が数倍に増えた。再び壁に力一杯押し付けられ、両手足を戒める筋力も先程の 何倍もの力になり、両手足の骨が折られかねないほどの激痛が走る。それでも首を絞めに来ないのは、殺す気 がないからか、それとも美野里に殺させたいのか。どちらにせよ、これは寺坂の形をした別物だ。
 寺坂は一乗寺を拘束している傍ら、美野里の関節の至るところに刺されたナイフを一本一本引き抜いてやった。 噴出する体液の量も増えて、美野里は不規則に痙攣していたが、ぎこちなく起き上がって寺坂に縋った。マスター、 マスター、と譫言のように漏らしながら、美野里は震える爪で男の触手で出来た足にしがみつく。その様の女々しさ と主体性のなさに、一乗寺は一層の苛立ちを覚えた。だが、これでは何も出来ない。
 寺坂との下らない日々が脳裏を過ぎり、一乗寺は場違いな感傷に駆られた。周防も好きだが、寺坂はまた別の ベクトルで好きな相手だ。幼馴染みのような、悪友のような、共闘関係のような、敵対関係のような、曖昧で微妙な 均衡の元に成り立っていた関係だった。美野里の一挙手一投足に腹が立つのは、美野里が寺坂を独占するのが 許せないと、心のどこかで思っているからだろう。今更ながら、寺坂とは対等な友人になれていたのだと気付く。
 だが、屑は屑だ。寺坂はどこまでいっても屑であり、褒められる要素は何一つない。佐々木長光はそれを遙かに 上回るレベルでの屑であり、更にその長光に平伏している美野里もまた屑だ。そして、一乗寺もまた屑だ。屑でしか ないから、こんなことでしか自分を生かせない。

「マスター、ますたぁ、ますたぁあああっ、ますたぁあああああっ!」

 美野里はその言葉だけを繰り返し、寺坂の足から腰へと這い上がっていく。寺坂はそれを振り払おうとはせず、 一乗寺だけを睨んでいた。いつになく表情が乏しい寺坂は勢い良く触手を振るったが、一乗寺に当たらず、頭上を 掠めただけだった。直後、体の芯を奪われたかのような脱力感に襲われたが、一乗寺は腹に力を込める。

「いい加減にしろよ、よっちゃあん!」

 美野里が寺坂の特別であるのが面白くない。寺坂が美野里を特別扱いする意味が解らない。

「その女のどこがいいんだ! よっちゃんのことなんか全然見ないし、自分勝手だし、プライドが高いくせに卑屈で 卑怯で底なしの馬鹿なんだ! なのにさ、なのにさぁっ、なんでそいつばっかり構うんだよぉおおおおっ!」

 それが、どうしようもなく。

「ムカつくんだよぉ……」

 心臓が潰され、好意と殺意の中間の感情が噴き上がった。粘っこく、重苦しく、生臭いものが、脊髄を昇って脳を 煮詰めてくる。シュユとクテイのどちらも喰いきれないほどの熱量を持つ感情が初めて精神に至り、一乗寺は嗚咽 を漏らした。面白くない、心底面白くない、けれど寺坂を殺したくない。周防も殺したくない。
 不意に触手の拘束が緩み、壁伝いに滑り落ちて床に座り込んだが、一乗寺は立ち上がれなかった。こんな感覚 は生まれて初めてだ、あしらい方が解らない、心が重たすぎて体の動きが鈍っている。政府に利用し尽くされるのは 嫌だが、今、ここで美野里を殺さなければ自分の価値がなくなってしまう。価値がなくなれば、一乗寺は周防の傍には いられなくなるかもしれない。屑は屑なりに、身の置き場を見つけていたつもりでいたのに。

「辛いか」

 触手の男は美野里を従えたまま、一乗寺へと近付いてきた。一乗寺は反射的に銃口を上げたが、震える奥歯を 噛み締めすぎて、その震えが腕まで伝わって狙いが定まらなかった。触手に銃身をそっと押さえられて床に銃口を 向けられたが、振り払えなかった。引きつった声を漏らしながら滂沱する一乗寺は、頷くことしか出来ず、触手の男が 美野里を連れて脱しても身動き出来なかった。手足に力が入らず、溢れ出る涙を拭えなかった。
 彼は一乗寺に何をしたのだろう。人間と化け物のハイブリットで、好意と殺意の境界が非常に狭く、殺人に躊躇い を覚えず、殺すことが究極の愛情表現だと信じて疑わなかったはずなのに、彼を殺せなかったのがとても嬉しい。 周防を殺せなかったこともとても嬉しいが、彼の口に銃口を突っ込んだ罪悪感が拭えない。
 もう、戦うのは嫌だ。怖い、辛い、悲しい、苦しい、痛い、寂しい、空しい。一乗寺は美野里に喰われた少女の死体 にタオルケットを掛けてやってから、ふらつきながら子供部屋を後にした。泣きじゃくりながら玄関から出ると、武装 した自衛官達に混じって戦闘服姿の周防が待っていた。辛い気持ちを知ってもらいたくて、苦しさを和らげたくて、 一乗寺は周防に縋り付こうとした。だが、彼の突き出した拳銃に額を抉られ、阻まれた。
 殺される理由は、考えるまでもない。他人を殺すことを厭わないことこそが美徳だった者が、今更ながら罪悪感に 苛まれて泣いているのだから。だから、一乗寺にはもう利用価値はない。周防にとっても、きっと無価値だ。屑以下の ゴミだ。一乗寺は苦しみの上に悲しみが上乗せされ、抗う余力すら削がれて目を閉じた。
 周防に存分に愛された。だから、死ぬのは惜しくない。




 苦痛と苦悩の果てに書いた答えは、大半が間違っていた。
 道子の手による採点の終わったプリントと向かい合い、つばめは泣きたくなっていた。あまりにもひどすぎて、自分 で自分が情けなくなってくる。これでは授業内容を進められない。二学期初期まで戻って徹底的に復習しなければ、 今後に響いてしまう。これまでも成績優秀とは言い難い人生を送ってきたが、ここまでひどい点数は初めてだった。 つばめはぐっと唇を噛んでから、忌々しいプリントを裏返した。
 向かい側に座っている道子はちょっとばつが悪そうだったが、一緒に頑張りましょうね、と励ましてくれた。つばめ は大きく頷いてから、一度深呼吸した。気を抜くと涙が出てきそうになるので、気晴らしに外に出ることにした。寺の 中では比較的片付いているので教室代わりにしている本堂を後にし、正面に向かい、玄関でスニーカーを履いた。 すると、馴染み深いスキール音と共に白と黒の機体が滑り込んできた。

「あれ、コジロウ」

 遠くまで移動したのか、関節部からの排気熱が多く、薄い陽炎が生まれていた。コジロウは速度を緩めて境内に 入ってくると、正面玄関前で停止してタイヤを脛に収納した。廃棄熱を多量に含んだ蒸気を排出してから、コジロウは つばめに歩み寄ってきた。

「帰還した」

「うん、おかえり。でも、どこに行っていたの? パトロール?」

「物資の調達だ」

「お使いなんて、頼んだ覚えはないんだけど」

「本官の判断によるものだ」

 そう言って、コジロウはつばめにレジ袋を差し出してきた。

「嗜好品の欲求が満たされなければ、精神状態に著しい影響が現れる。よって、今後の行動のためにも、その欲求 を満たしておくべきだと判断した」

「あ、うん」

 つばめはきょとんとしながらもレジ袋を受け取り、中身を確かめた。紙パックの牛乳とカステラだった。

「……え?」

「つばめが所望していた食料品ではなかったのか」

「いや、違う違う、違わないけど! でも、お金はどうやったの、どこで買ってきたの!?」

 つばめがコジロウに詰め寄ると、コジロウは本堂を指した。

「前回同様、設楽女史の銀行口座から拝借した」

「あー、そういえば……」

 この寺に来た日の夜、気が抜けたのか、つばめは月経が始まってしまったのである。その時に手持ちの生理用品 がなかったので、恥を忍んでコジロウに買ってきてくれるように頼んだのだ。その時は道子の移動手段がなかった から、ということもある。その時に道子が、当面の生活費にしてくれ、と言って銀行口座の番号とパスワードをつばめと コジロウに教えてくれた。その現金を使って買ってきてくれたようだが、一体どこの店まで行ったのだろう。
 訝りながらレシートを出してみると、一ヶ谷市に隣接した町の街道沿いにあるコンビニの住所が印刷されていた。 一ヶ谷市内の店舗は、政府が一ヶ谷市内全域に避難勧告を公布したので客どころか店員もいなくなっているから、 わざわざ市外まで買いに行ってくれたらしい。

「ありがとう、コジロウ。一緒に食べられないのが残念だなぁ」

 つばめはコジロウに微笑みかけ、レジ袋を掲げた。

「カステラはパンではない。カステラとパンは形状こそ似ているが、材料と製造方法が根本的に異なる」

 コジロウの返答に、つばめは一瞬面食らった。が、すぐに思い出した。うんと小さい頃、つばめはカステラとパンを 混同して覚えていたことがある。だから、カステラが食べたいと言ったつもりでパンを食べたいと言ったら、おやつに 出てきたのが普通のパンだったので泣き喚いてしまった。語彙が貧弱すぎて、自分の思い違いを正すための語彙 すら持ち合わせていなかったせいだ。備前夫妻を大いに困らせてしまったことも思い出し、つばめは照れた。

「解っているって」

 つばめは照れ隠しにはにかんで、コジロウの手を取った。夕方に差し掛かってきているから、夜気を含み始めた 外気に曝されていた彼の手は冷え切っていた。その手を軽く引っ張ると、コジロウはつばめの意図を察してくれた のか、つばめを持ち上げて肩に載せてくれた。座り心地は今一つだが、視界がぐっと高くなるので見通しが利くので 彼の肩に載るのは大好きだ。そこから見える景色が素晴らしければ、今以上に好きになれるのだが。
 浄法寺の境内から見下ろした船島集落は、在りし日の姿を失っていた。背の高い針葉樹に覆われた土地には、 恐ろしく巨大な結晶体が身を沈めていたからだ。西日を帯びて煌めく様は美しかったが、異様だった。シュユが 致命傷を負ったことで安定を欠いたフカセツテンは一瞬にして移動し、船島集落に戻ってきたのだが、それきり何の 動きも見せなかった。つばめが近付いて触ってみても、語り掛けてみても、他の遺産を通じて感じ合おうとしても、 無駄だった。シュユの肉体は政府によって保管されているが、厳密にはつばめの所有物ではないので、シュユは 未だに引き渡されていない。シュユを目覚めさせられれば、フカセツテンを操作出来るかもしれないし、事態の活路 が見出せるのだろうが、このままではそれさえも不可能だ。何度も政府側に掛け合ったが返答は鈍く、シュユを渡す 気は更々ないようだった。かといって、シュユを強奪して事を荒立ててしまっては、ごく普通の人間に生まれ変わった 吉岡りんねと、ただの人型昆虫となった藤原伊織に何かしらの影響が及ぶだろう。
 だから、身動きが取れない。気落ちしていても何も始まらないから、勉強したり、遊んだり、家事に勤しんだりして 日常の続きを再開している。長らく住んでいた土地を追いやられた一ヶ谷市民達からの非難も聞こえてくるが、それを 気にしていられるほどの余裕はなかった。

「何があっても、傍にいてね」

 つばめはコジロウに寄り掛かると、コジロウはつばめの背を大きく硬い手で支えた。

「それが本官の任務だ」

 皆、遺産とは関わらずに生きていければいいのに。けれど、それは浅はかな理想でしかない。それぞれの用事が 終わって、皆が再び船島集落に来てくれたとしても、どんな行動を取るのが正しいのだろうか。シュユをどうにかして クテイもどうにかしたら、遺産をどうするべきなのだろうか。コジロウとは別れたくないが、他の遺産を処分しても コジロウだけを手元に置いておくのは変だ。コジロウだけを優遇したら、他の遺産が哀れだ。だが、遺産を人間の手 が届く場所に止めておく方が余程危険だ。これ以上の悲劇を防ぐためにも、決断を下さなければ。
 でも、まだその時ではない。だから、今しばらくは一緒にいられる。つばめはコジロウを小突いて地面に下りると、 道子と高守の姿がないことを確かめてから、コジロウの胸部装甲に寄り掛かった。同じものを見つけて買い直し、 また前と同じ位置に貼ってあげた片翼のステッカーを手でなぞり、決意を新たにした。
 最後の最後まで、踏ん張ってみせる。





 


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