機動駐在コジロウ




仏の顔もセンチネルまで



 悔しさだけが募っていく。
 後部座席に横たえている彼女をバックミラー越しに一瞥してから、男は嘆息した。至るところが傷だらけの外骨格 は痛々しく、六本足には拘束具の鉄輪が填ったままで、羽も萎れている。ぬるりと触手を伸ばし、車の揺れで徐々 にずり下がってしまったシートを掛け直してやってから、信号が変わったのを確認した後に緩くアクセルを踏む。
 バックミラーに映る男の顔には取り立てて特徴がなく、自分らしさは皆無だ。それもそのはず、至る所で行き倒れて いるサイボーグの人工外皮を剥がして被っているからだ。そんなことを躊躇いもなくできるようになった自分に嫌気が 差すが、そうでもしなければこの状況は凌げない、と割り切った。人の生皮を剥いで被る悪鬼が出てくる昔話があった よなぁ、と思い返しながらハンドルを切った。

「あー、天の邪鬼だ」

 瓜子姫を唆して山に誘い出し、木から落として殺し、その着物と皮を剥いで被って成り済ます妖怪だ。いたいけな 子供の頃は、この手の昔話が怖く思えたものだ。実家が寺だったせいもあり、日本昔話の絵本が揃っていたので、 何度も読んだから未だによく覚えている。可愛らしい絵柄とは対照的な残酷なストーリーと恐ろしい妖怪達を見て、 ああはなるまい、と幼心に誓っていたような記憶がある。けれど、今はどうだ。
 濃緑のアストンマーチン・DB7・ヴァンテージヴォランテを一般道から高速道路に滑り込ませ、寺坂はカーステレオ から流れるラジオのニュースに耳を傾けていた。日本各地で前触れもなく昏睡する人間が増えており、病院に搬送される 人の数が多すぎてベッドの数が足りなくなっているらしい。どれほど調べても原因は不明で、サイボーグ達の突然死 と相まって世間には恐怖と死の匂いが蔓延している。
 テレビやラジオやネットでは不安を煽らないようするためか、不自然に明るい話題や番組が流され続けているが、 そんなものでどうにかなるはずがない。最近の流行りは終末論で、その影響で、終末論を全面に押し出した歌詞の 御鈴様の歌がちょっとしたブームになっている。あの大規模なライブの後に実際に発売された御鈴様のCDは、この 半月で上位にランクインし続けている。晩秋の曇り空も相まって、世間はどんよりしている。

「あーあ、アクセルベタ踏みでぶっ飛ばしてぇー」

 行き交う車がまばらな高速道路を眺め、寺坂はぼやいた。だが、下手に目立つ行動を取ると、すぐさま高速道路 仕様の警官ロボットに追尾されてしまう。そうなったら、後部座席に寝かせている美野里も見つかってしまうし、寺坂 の正体も割れてしまうので、これまでの苦労が台無しになる。だから、ひとまず我慢した。
 寺坂が己の肉体を奪い返せたのは、美野里のおかげである。佐々木長光の意識を宿したラクシャをねじ込まれ、 長光に肉体を乗っ取られてしまった。その間の記憶は朧だが、長光の支配下に置かれたシュユとコジロウ、そして 美野里がフカセツテンの外に出ていったが、誰一人として戻ってこなかった。それは長光の計算の範囲内であった ようで、長光は別段慌てもせずにフカセツテンを制御する手段を探していた。元より、美野里は捨て駒にするつもり でいたのだろう。長光一派の奇襲攻撃によって人間もどきの死体だらけになった、弐天逸流本部を散々歩き回り、 空間をループさせる作用がある霧を行ったり来たりして、長光は目当てのものを見つけ出した。だが、その直後に 美野里が無計画にシュユの肉体を損傷させたため、シュユの精神体が強制的に異次元宇宙に弾き飛ばされ、双方 の宇宙の狭間に存在する異次元とフカセツテンに衝撃が加わった。その拍子に寺坂の肉体からラクシャが外れ、 寺坂は自我を取り戻した、というわけである。長光は美野里の不安を煽って操っているが、煽りすぎたらしい。

「で、フカセツテンのイグニッションキーがこれかよ」

 寺坂は運転席のドリンクホルダーに無造作に突っ込んである、四角形の金属板を一瞥した。佐々木家の家紋で ある、隅立四つ目結紋を模ったものだ。大きさは大人の手のひらよりも一回りほど小さく、一センチほどの厚みが あるが重たくはない。材質は金属の棺であるタイスウに酷似しているので、例によって異次元宇宙に存在する物質 を物質宇宙に引き摺り出して形作ったのだろう。
 見つけたはいいが、使い方は今一つ解らない。その方法を知っているであろうシュユは、異次元宇宙から精神体 を引っ張ってこられないし、連絡を取ろうにも頼みの綱であった道子もそのシュユによって異次元宇宙からブロック されてしまった。かといって、クテイを利用するのは危険すぎる。シュユを始めとしたニルヴァーニアンが、苦労して 異次元宇宙に隔離しているのだし、一連の昏睡騒動もクテイが原因だ。異次元宇宙と物質宇宙を隔てる障壁で あったシュユが倒れたことで束の間の自由を得たクテイが、手当たり次第、否、触手当たり次第に人間の精神を捕食 しているせいだ。空間を転移したフカセツテンが船島集落に戻ってきたのは不幸中の幸いだが、それだけだ。
 だから、手っ取り早い対抗措置を講じた。クテイが精神を捕食対象にしている相手に接触し、クテイによる干渉を 阻止することにした。言ってしまえば、兵糧攻めである。ゴウガシャを通じてクテイと接触したために精神を喰い物に されている弐天逸流の信者達に接触してクテイの触手を断ち切り、目覚めさせているが、信者達の数が多すぎる ので焼け石に水だ。だが、何もしないで手をこまねいているよりは余程良いと思い、日々動き回っている。
 そんな中で美野里を見つけ、政府の掃討作戦に乱入して助け出したが、そこから先を考えていなかった。彼女を 助けるためとはいえ、一乗寺とシュユの接続を切ったのはまずかった。一乗寺は生まれながらにしてシュユと接続 していたからこそ、人ならざる力と精神を得ていたが、その力の根源を欠いては彼女はただの人間に成り下がる。 今後も荒事が起こるのは想像に難くないのに、一乗寺が脱落すれば大いに戦力が削げてしまう。

「俺の浅知恵でどうにかなるもんかよ、これ」

 寺坂は不安に駆られて呟いたが、いやいやまだこれからだろ、攻略出来るって、と思い直した。だが、そこに根拠 はない。異次元宇宙と物質宇宙は根本から異なる世界であり、隣り合ってはいるが近付けないものであり、双方を 行き来出来る道子の存在は重要だった。いかに管理者権限を持つつばめだろうと、それだけは不可能だ。だから、 道子を通じてシュユに接して異次元宇宙の側からクテイを打破出来れば、混迷する事態を解決する糸口が見つけら れたかもしれない。だが、双方の世界を跨いでいるシュユが頼りにならないのでは話にならない。だが、しかし。
 悶々と悩みながら、寺坂は関越道を走り続けた。




 一ヶ谷市に向かう途中で、寺坂は高速道路を下りた。
 目的はある。クテイの捕食対象にされている信者達に近付き、異次元宇宙からの接触を断ち切って昏睡状態から 回復させるためだ。もちろん、利益などない。だが、使命感というほど崇高な意思で働いているわけではない。昏迷 した状況を打開するための近道になるはずだと信じて、それを脱すれば美野里と付き合えるのだという、根拠の薄い 下心が原動力だ。当の彼女は後部座席で眠り続けていて、高速道路から下りても触角すら動かなかった。
 昏睡した人々が集められている場所を見つけるのは簡単だ。その街で最も大きな病院に向かえばいい。寺坂は カーナビに従ってハンドルを回し、市街地を通り抜け、市立病院を見つけた。オープンカーのアストンマーチンは良く も悪くも目立つ車なので、病院から離れたコインパーキングに停車してから、市立病院に向かった。
 量販店で手に入れた秋物のジャケットにジーンズという当たり障りのない格好で、いかにもお見舞いに来ましたと 言わんばかりの顔をして病院の正面玄関を潜ると、ロビーの長椅子がベッド代わりになっていた。その上には昏睡 した人々が横たわっていて、家族が不安げな顔をしている。受付は診察や往診を問い合わせる電話がひっきりなしに 掛かってきているらしく、事務員達が応対に忙しくしている。医師や看護師も廊下を行き来していて、余程患者の数が 多いのだろう。こりゃ骨だな、と思いつつ、寺坂は鋭角なサングラスを外した。
 裸眼になって目を凝らすと、見たくもないものが見えてきた。異次元宇宙と物質宇宙の隔たりが曖昧な空間を目視 出来るようになったのは、欠損した右腕の代わりに触手を移植された後のことである。霊感と呼べるほど素っ頓狂で はなく、能力と呼べるほど便利なものでもなく、無用の長物だった。人間の形を失った精神体やニルヴァーニアン の切れ端を目にすることも多いので、気分の良いものではないから、普段は出来る限り直視しないようにするため にサングラスを常用するようになった。もちろん、ファッションとしての側面も大きいが。

「んじゃ、行きますか」

 寺坂はサングラスをポケットに入れてから、ロビーを歩き出した。美野里に散々痛め付けられ、ラクシャに意識を 宿した長光に肉体を奪われたのは散々だったが、そのおかげで新たな能力を手に入れた。フカセツテンの内部と いう、境界が極めて曖昧な空間で肉体が著しく欠損したため、精神体の触手だけを乖離させられるようになったのだ。 言ってしまえば、局部的な幽体離脱のようなものだ。転んでもただでは起きない、ということだ。
 精神体だけで質量を伴わない触手をジャケットの裾から伸ばして、扇状に広げながら、ロビーの外周をゆっくりと 一回りした。寺坂の精神の触手でクテイの精神の触手を断ち切っていくと、昏睡していた人間が目覚め、目覚め、 次々に目覚めていった。程なくしてロビーに寝かされている人間は全て起きたので、先程とは違った意味で大騒ぎ になった。続いて、長椅子や簡易ベッドにずらりと寝かされている人々の間を通り抜けていくと、彼らも目覚め始め、 付き添いの家族が泣き崩れたり、看護師が慌てて医師を呼びに行った。
 精神の触手だけ出しておくのは楽ではないし、長時間は持たないので、寺坂は触手を断ち切るペースを速めよう と歩調も速めた。診察室が並んだ廊下と階段を通り、病棟に入り、流れ作業のように接触と切断を繰り返していき、 手術室、処置室、集中治療室、に程近い廊下を通って中の人間に接触し、通れる場所は全て通っていくと、最後は 屋上に辿り着いた。その頃になると寺坂は心底疲弊し、人工外皮の下で束ねている触手が解けそうになっていた が、意地で踏ん張ってベンチに座った。サングラスを掛けてから、ポケットからタバコを出して銜え、火を灯す。

「うっはー……」

 この肉体には肺は存在していないのだが、ニコチンを含んだ煙を吸うと気分が落ち着く。寺坂が脱力しながら紫煙 を蒸かしていると、屋上の階段を誰かが昇ってきた。入院患者か、その見舞客だろう。寺坂はタバコを咎められると 面倒だと思い、吸い始めたばかりのタバコを携帯灰皿に突っ込もうとした。

「大丈夫ですよ、ここは」

 足音の主は弱い日光の下に出てくると、屋上の隅にあるスタンド型の灰皿を示した。

「あ、どうも」

 寺坂は気を取り直してタバコを銜え、深く吸ってから吐いた。三十代から四十代前半であろうスーツ姿の女性は、 ジャケットの内ポケットからタバコを出すと、濃い色の口紅を塗った唇でフィルターを甘く噛み、火を灯した。

「アストンマーチンに載せてあるETCの車載番号、変えておけばよろしかったのに」

「んあ?」

 何を言い出すんだこの女は、と寺坂が面食らうと、女性はローズ系のフレーバーが効いた煙を漂わせる。

「ナンバープレートすらも変えておかないなんて、不用心にも程がありますよ」

「俺はそういう小細工は苦手っつーか、時間がなかったんすよ」

 この女の正体はどうあれ、寺坂の素性は知っているらしい。寺坂は腹を括り、女性を見返した。

「まー、あの車は昔に使っていたやつだから、キーも同じじゃねぇのって思って突っ込んでみたら動いたから乗って いるだけであって、それ以外の他意はないっすよ。誰に追われようが、何を狙われようが、俺自身はどうでもいい んすよ。なんとでもなるから。でも、車に乗せてある連れには手ぇ出さないでくれます?」

「言われなくても。あれに手を出して、無事でいられるわけがないもの」

「あんた、どこまで何を知っているんだ?」

 寺坂が二本目のタバコを取り出すと、女性はフェンスの金網に背を預けた。

「大抵のことは把握しています。それと、私は初対面じゃありませんよ、寺坂さん」

「あ、あー……?」

 そう言われても、すぐには思い当たらない。寺坂は首を捻り、今まで金を積んで手を出してきた水商売の女性達 と、ナンパが成功して手を出した女性達と、その他諸々の女性達の顔を思い出していくが、目の前の女性の顔には なかなか当て嵌まらない。この女性は好みのタイプではある。気の強さが現れている目付きとシンプルながらも若干 濃いめのメイクにブランドものの白いスーツ、ピンヒールのパンプス、年相応の肉の緩みが熟れた色気を醸し出して いる長い足、スーツの硬い布地を押し上げている胸と尻、整った顔立ち。だが、その美貌は違和感が否めない。

「おねーさん、整形してんじゃないっすか?」

 寺坂の不躾な言葉に、女性は一瞬動揺したが、深呼吸してから言い返した。

「ええ、まあね。ずっと昔に。でも、どうして解ったんです?」

「どぎつい整形したお水の嬢ちゃん達を、掃いて捨てるほど見てきたから、そりゃまあ。顔の輪郭と体付きの骨格が 一致してねぇなーって感じた女は、九割九分そうっすね。目と鼻と唇と頬骨と顎と、胸も」

「胸は自前よ」

「あ、そりゃどーも。そこまで綺麗に仕上げるためには、すげぇ金掛かったでしょ?」

「管理維持費も含めると、億に届くかもしれないですね」

「でしょ? けど、俺はそういうのも嫌いじゃないっすね。整形して自信持った女は結構自意識過剰だから、ちょっと そのプライドをくすぐってやればコロッと落ちちゃうもんなんすよ。で、良い思いが出来る」

「私もそうだと思います?」

 自虐と挑発を込めて女性が囁くと、寺坂は口角を持ち上げる。

「その気があるんなら、本気で落としに掛かりますけど」

「あなたって本当にどうしようもないわね、寺坂さん」

 不意に女性は口調を崩し、噴き出したかと思うと、声を上げて笑い出した。そのリアクションは予想外だったので、 寺坂は若干戸惑い、なんだか気まずくなった。仕方ないのでタバコを蒸かしていると、女性はひとしきり笑ってから、 目元を拭おうとして手を止めた。マスカラが取れてしまうからだろう。

「あーあ。こんなこと、するつもりじゃなかったのに」

 女性は笑いを噛み殺しながら寺坂に近付いてくると、寺坂の手元の携帯灰皿に自分のタバコをねじ込んだ。

「本当に私のこと、覚えていないの?」

「いえ、全然」

 寺坂は間近で女性の顔を眺めたが、やはり思い当たらず、再度否定した。

「うちの店で、何度もラーメンを食べていってくれたじゃないのよ。まあ、メニューは普通のラーメンと野菜ラーメンと おにぎりぐらいだから、選択の余地がないのは事実だけどね。たまに悪い連中に山道に置き去りにされた女の子が 迷い込むから、親切な顔をして近付いてはお持ち帰りしたりして。そのくせ、三年前に少しだけ一緒に暮らしたあの子 には手も出さないなんて。女癖が悪すぎるのに変なところが潔癖なのよねぇ」

 女性は首を横に振って嘆いたが、その仕草には見覚えがあった。あの寂れたドライブインの汚れた厨房で、滅多に 来ない客を待ちながら、タバコを蒸かして気怠げにテレビを見ている女性店主と同じだった。だが、服装も違えば化粧 も大違いだ。寺坂は記憶を反芻し、考え抜き、しばらく悩み、更に考え、ようやく納得した。

「本当に、あのドライブインのおばちゃんなんすね。てか、整形しているかもとは思っていたけど、まさか化粧と服で これだけ変わるとは思ってもみなかったもんで。色々と有り得ない気がするんですけど」

「失礼しちゃうわね」

 女性は苦笑いしたが、寺坂は彼女の名前を知らないことにも気付いた。今の今までドライブインの経営者の名前 など気にしたことがなかったからだ。化粧と服装で化けていなければ、これからも気にしなかっただろう。女性は 寺坂の様子で察したのか、内ポケットから名刺入れを出して一枚抜き、差し出してきた。吉岡文香、とあった。

「吉岡? ってことは」

「吉岡りんねの母親よ。まあ、色々あったから、厳密には母親とは言い切れないかもしれないけど」

 文香は若干語尾を濁してから、寺坂に向き直った。

「回りくどいことは言わないわ、りんねを起こすために手を貸してくれません? もちろん、報酬は出すわ」

「何をどのぐらいっすか?」

「出せる限りの額を出すわ」

「んじゃ、奥さんを一晩借りてもいいっすか?」

「構わないわよ。どうせ、夫はもういないんだし」

 冗談のつもりがまともに受け止められ、寺坂は面食らった。文香は足を組み、パンプスのつま先でコンクリートの 床を小突いた。そんなことをすれば革が傷むはずだが、それを気に留めていられる精神状態ではないようだった。 ふざけた態度を取っていたのも、寺坂に舐められないようにするための空元気だったのだろう。

「りんねはね、自分で自分を殺したのよ。私は遺産のことはよく知らないから、何がどうなったのかは理解し切れて いないけど、あの子が自分を全否定するほど追い詰められていたのは確かなの。それで、つばめちゃん達が力を 貸してくれたおかげで、りんねと伊織君は元通りの形に戻ったけど、意識は戻らないままで」

「俺が出来るのは、クテイに精神を喰われている人達をクテイから解放することだけっすよ。御嬢様が同じ理由で 昏睡しているんだったら、俺もなんとか出来ますけど、そうじゃなかったら何も出来ないっすよ」

「それでもいいわ。やれるだけのことを、あの子にしてあげたいの」

 文香は神妙な面持ちで述べ、洒落たオイルライターを握り締めた。

「で、御嬢様が首尾良く目覚めた後はどうするんすか?」

 寺坂が率直な質問をぶつけると、文香は俯き、肩を怒らせる。

「解らない。解らないのよ、どうすればいいのか。だって、私、りんねをちゃんと産んであげられなかった。りんねが 複製されて肉人形にされていても、逆らえなかった、守ってやれなかったの。りんねを育てられなかったからって、 つばめちゃんに八つ当たりしてもどうしようもないのに、ちゃんとした子供を産めたひばりさんを妬んでもどうしようも ないのに、どうにも出来ないの。ハチさんも会社の地下室で死んじゃうし、死ぬだなんて思ってもなかったの、だから、 これからどうしたらいいのか解らないのよ。解らないから、りんねのために生きるしかないの」

 不安で今にも気が狂いそうなのだろう、文香の声色は次第に上擦り、震えていく。元々、心根が弱い女性なのだと 寺坂は悟る。文香もまた夫を通じて少なからず遺産に接して生きてきたので、その精神の変動はクテイに摂取され ていた。サングラスを外すと、その様は異なる世界の狭間で目にすることが出来た。文香の精神の波は一際荒く、 彼女の苦悩が如実に伝わってきた。縋るものがなければ、不安でたまらなくなるのだ。
 それは金であり、高級ブランドであり、職業であり、男達であり、夫であり、娘だった。周囲に対しては余裕がある ように振る舞う反面、自分の足場が壊れることを常日頃から危惧している。強い自分を演じるがあまりに、内面が 脆くなってしまっているのだ。だから、最後の砦であるりんねがいなくなれば、文香の足場は完全に崩れる。寺坂は りんねを起こしてやるか否か、躊躇ってしまった。
 りんねと伊織を目覚めさせるのはかなり厄介な仕事だが、今の寺坂であれば、出来るかもしれない。双方の宇宙 の狭間に立っていられるのは短い間だけだろうし、その間に出来ることはやり尽くしてしまうべきだ。こうして迷って 時間を浪費するのも勿体ない。寺坂はタバコを押し潰してからベンチから立ち上がり、涙を堪える文香の肩に触手 を絡ませ、一気に引き寄せた。
 舌とは似ても似つかない触手でも、タバコの渋みが効いた唾液の味は良く解った。口紅のぬるつきを感じながら、 人工外皮で出来た唇を離してやると、文香は目を見開きながらたららを踏んだ。寺坂は怪物そのものの舌代わりの 触手を体内に収めてから、にいっと笑ってみせた。

「前払い」

 あんなの本気にしないでよ、何考えてんのよ、と文香の弱々しい罵倒を受けたが、寺坂は罪悪感は感じなかった。 それどころか、弱りに弱った文香の最も弱い部分を掌握出来るかと思うと、ぞくぞくしてくる。長らく、美野里を支配 しようと思っても出来なかった不満が溜まっていたので、尚更だった。
 文香が他人の支えを欲して止まないように、寺坂も他人への支配を欲して止まない。それが最も顕著に表れるの が性行為であり、恋愛だ。束の間だけでもいい、気に入った女性を組み敷けるなら、快感を貪れるなら、どれほど金を 注ぎ込んでも惜しくない。だから、根幹では寺坂と佐々木長光は似通っている。だが、長光は美野里を支配し、寺坂は 美野里を支配出来ずにいる。それがどうしようもなく悔しいから、戦わずにはいられない。
 美野里を好かずにはいられない。





 


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