機動駐在コジロウ




仏の顔もセンチネルまで



 美野里を載せたアストンマーチンを走らせ、寺坂は移動した。
 文香の乗ったベンツに先導されて向かった先は郊外にある病院だったが、先程の市立病院とは打って変わって 昏睡した患者は一人も搬送されていなかった。一般の外来患者もおらず、ロビーは閑散としている。医師や看護師 の代わりに吉岡グループの関係者が多く行き来していて、忙しない。文香の後に続いて病棟に移動すると、一番奥 の病室に通された。南側で日当たりも良ければ間取りも広い、特別待遇の患者専用の部屋だ。
 SPらしき人間がスライド式のドアを開けてくれたので、中に入ると、病室の中央にベッドが二つ並んでいた。その 窓際に少女が、扉側に人型軍隊アリが横たえられていた。考えるまでもなく、少女がりんねで軍隊アリが伊織だ。 少女の面差しは、寺坂の知る吉岡りんねに比べるとかなり地味だった。不細工ではないのだが、人目を惹くほどの 華がない。文香の少し気まずげな反応から察するに、整形手術を受ける前の文香にそっくりなのだろう。
 寺坂は無遠慮に二人に近付くと、サングラスを上げて伊織を眺めた。黒い外骨格を備えた屈強な青年の精神を 貪ろうとする触手の影は、見えるようで見えなかった。度重なる異変が、伊織と異次元宇宙を遠ざけたのだろうか。 目を凝らしながら視線を動かしていくと、伊織の精神体がずれていて、りんねの精神体と重なり合っていた。恐らく、 伊織は遺産とその産物を掌握しているシュユの支配から何らかの理由で逃れたが、遺産の産物故に個として独立 するのは難しかったらしく、逃れた先でも支配を求めていたようだ。要するに、伊織はりんねに依存している。

「あー、こりゃまずいな」

 りんねと伊織は、精神体が近付きすぎている。微妙なパワーバランスで支え合っているような状態なので、片方 を分断すると片方が崩れてしまう危険性がある。かといって、このままでは二人は個としての意識を保てなくなるかも しれない。互いの精神と記憶と自我が溶け合い、絡み合い、伊織でもりんねでもないものに成り果てる。

「りんねは目覚めるの、目覚めないの、どっちなの?」

 文香のストレートな質問に、寺坂は言葉を濁した。

「起こそうとすれば起きるかもしれねぇけど、無理に起こしたら死ぬかもしれねぇんだよ。だから、出来る限り何も しないでおいた方が、御嬢様といおりんのためだ」

 寺坂は二人に背を向けて病室を出ようとすると、文香がジャケットの裾を掴んできた。

「ここまで来ておいて、私にあんなことをしておいて、何もしないで帰るっていうの!?」

「どうしても起こしてほしいんだったら、さっきの続きをしようか」

 寺坂は躊躇いもなく文香の腰に手を回すと、文香は体を強張らせ、寺坂を押し返そうとする。

「止めなさいよ、りんねの前で」

「旦那が死んだんだ、誰の女でもないんだろ?」

 寺坂が文香の首筋に顔を寄せると、文香は唇を噛んで顔を背けた。異形の男に対する恐怖と娘の人生を天秤に 掛けているのだろう、寺坂の胸を押す手の力は曖昧だった。もう一押しで簡単に落ちるな、と寺坂は値踏みする。 スーツ越しに文香の体を探り、触手で緩やかに太股を戒める。やろうと思えば振り払えるだけの力に止めておくの が肝心だ、無理強いするのは良くない。それでは、どちらも楽しめない。

「そういう問題じゃ、ないわ」

 文香は唾を飲み下してから、拳を固める。

「どうすればいいのか何も解らないけど、どうしたらいいのかも解らなくなってきたけど、こんなことをするために私は 今まで踏ん張ってきたわけじゃないの。りんねのお母さんになりたいって、ずっと、ずっと、それだけを考えてきた。 そりゃ、子供のために体を売って日銭を稼ぐ母親はいないわけじゃないし、私だって今よりもっと若くて選択の余地 がなかったら、あなたに簡単に股を開いていたかもしれないわ」

 でもね、と文香は寺坂を押しやってから、左手で顔を覆って唇を曲げる。古びた結婚指輪が鈍く光る。

「私、やっぱり、あの人のことが好きなのよ。ハチさんがどういう目的で私と結婚してくれたのかも、まだ解り切って いないけど、あの人が私を拾ってくれたから今があるの。りんねだって、ハチさんとの間に出来た子供だから、どう しても取り戻したかったの。今もそう。りんねのためなら、なんでも出来るって、してやるって思っていたの」

 寺坂の腕の中から脱した文香は、少しよろけながら、りんねの横たわるベッドに近付く。

「でも……無理みたい。ごめんなさい、りんね」

 細い肩を震わせて嗚咽を堪える文香の背から、寺坂は目を逸らした。文香は母親なのだ、寺坂が想像していた 以上に。それが無性に煩わしくなり、寺坂は足早に病室を後にした。背筋がむず痒くなり、笑い飛ばしたいような、 怒鳴りつけたいような、そんな衝動に駆られる。正面玄関から出て喫煙所に向かい、タバコでも吸って気張らしを しようとしたが、不定型な感情は胸中に淀む一方だった。
 居たたまれなくなった寺坂は、半分も吸わなかったタバコをスタンド灰皿に突っ込んでから、駐車場に向かった。 濃緑のアストンマーチンは運転手を待ち侘びていて、後部座席では美野里が未だに眠り続けている。ロックを解除 してからドアを開け、後部座席に入る。シートを剥がし、六本足に鉄輪が填ったままの人型ホタルを見下ろす。

「俺とヤるの、そんなに嫌か?」

 寺坂は傷だらけの外骨格に触手を這わせ、苦笑する。我ながら、醜い恋だ。恋愛の泥臭い部分だけを煮詰めた かのような、おぞましい劣情の固まりしか抱けない。それでも、決して振り向いてくれないからこそ、美野里が好きで たまらない。欲しくてたまらない。けれど、美野里が振り向いてくれたら、その瞬間に劣情が消え去ってしまうのではと 危惧してもいる。事を終えて果ててしまうと、妙に冷静になる、あの瞬間が訪れるのではないかと恐れている。
 だから、このままでもいいのでは、と頭の片隅で考える。だが、このままではダメだとも思う。美野里が長光に対して 執着を抱いているから、長光は美野里の感情を喰らってラクシャを動かしている。美野里の関心を長光から離す ことが出来れば、戦況は少しだけ変わる。そのための恋なのだと、クテイとシュユが拮抗している力場の狭間から 生じた必然なのだと、うっすらと理解している。それなのに、彼女にだけは躊躇いを覚える。

『女性の寝込みを襲うなんて最低ですねー』

 カーステレオが独りでに作動し、聞き覚えのある声が流れてきたので、寺坂は興醒めした。

「なんだよ、邪魔しないでくれる、みっちゃん?」

 カーナビの画面が勝手に切り替わり、立体映像が映った。そこに写っているのは見覚えのない女性型アンドロイド だったが、背景が浄法寺なので道子に間違いないだろう。

『皆さんの動向を見張っておいてくれ、特に美野里さんに気を付けておいてくれ、ってつばめちゃんに頼まれている んですよ。だから、美野里さんが人を襲いそうになったら色んな機械を遠隔操作して妨害したり、他の皆さんの動き を監視しているんですけど、寺坂さんは相変わらずの絶倫ですねー。普通の神経だったら、文香さんに手を出せる わけないですよね。あーそうですよね、寺坂さんにはもう人間の神経はないんでしたねー』

 いつになく道子は拗ねていて、冷え切った眼差しを注いできた。

「何、怒ってんの」

 道子らしからぬ態度に寺坂が半笑いになると、道子はつんと顔を背ける。

『いーえ、別に』

「てか、なんで俺んちにいるの? 合い鍵は、あー、あったなぁ。ガレージんとこに」

『フカセツテンがつばめちゃんちの上に乗っかっちゃったので、船島集落に入れないんですよ。んで、仕方ないから 寺坂さんちに居候しているだけです。どこもかしこもぐちゃぐちゃだったので、片付けたんですけど、なんですかあの AVとエロ本の山、山、チョモランマ! どれだけ隠し持っていたんですか! お寺なのに!』

「えー、捨てないでくれよー。渾身のコレクションなんだから」

『捨てたくても捨てられませんよ、あんなもの! ライトな分野からハードコアまで守備範囲が広すぎですよ、なんで スカトロ本が台所の棚にあるんですか、正気じゃありませんよ、当の昔に滅んだはずのVHSが出てくるなんて異常 ですって、しかも動くんですよ、ビデオデッキが! リマスターされたDVDだけじゃ飽き足らなかったんですか!』

「怒るポイント、そこなの?」

 寺坂が不思議がると、道子は目を据わらせた。

『わっざわざ古い映像媒体で見る辺りが変態の極みだなぁと思いまして』

「DVDだと味気ないっつーか、せっかくあるんだから使わないのもなーって思ってさ。VHSを。まだ動くし」

『エロ本やらAVを変な場所から見つけるたびに、つばめちゃんがげらげら大笑いしながら持ってくるので、帰って きたら綺麗さっぱり処分して下さい。おかげで私もつばめちゃんも慣れちゃって慣れちゃって。私は別にいいですよ、 永遠の処女ですから、聖女ですから、天使ですから、電子の妖精ですから。あ、突っ込んでくれないんですか?  ……まあ、いいでしょう。私はともかくとして、つばめちゃんは前途有望なうら若き乙女なんですから、そういうのに 擦れさせちゃいけないと思うんです。エロ耐性の薄さと初々しさもまた、ローティーンの魅力ですから!』

「俺もそれは解るけどさ、みっちゃんが力説するようなことか? まあいいや、中身、見た?」

『カテゴリー分けして箱に詰めておくために、私はいくらか目を通しましたよ。つばめちゃんは表紙だけですが』

「えー……それはちょっと嫌だなぁ。男心として」

 寺坂がげんなりすると、道子は喚いた。

『こっちの方が嫌ですよ! 私が御世話になっていた頃からもエロの山に埋もれていたかと思うと、純情だった 生身時代の私がエロ同人みたいに陵辱されたような気分になるんですから! 責任取って下さい!』

「だから、何をだよ。あーもう解った、解ったからさぁ。どう考えてもヌケないのは処分しちまうから。黴びてたり、湿気 を吸ったやつも後で燃やしちまうよ。だから、ちょっと黙ってくれよ。俺も色々あってだなぁ」

 道子の剣幕に寺坂が辟易すると、道子は嘆息した。

『いいですか、寺坂さん。こうやってぎゃんぎゃん言われている内が花なんですからね、本当にどうでもよくなったら 無視しますからね、注意もしませんからね。それと、コレクションするなら保存状態をしっかりしておいて下さい、古い VHSは半分以上黴びていましたし、DVDも埃だらけの傷だらけですし、エロ本は湿気を吸っているのが多かったん ですから。あと、タイトルをアイウエオ順で並べておきましたし、エロ本は内容別にしておきましたからね。エロ漫画 雑誌も結構ありましたけど、ロリエロ漫画がないのはさすがだと思いました。でも、人妻ものが一定数あるのはなぜ ですか? 武蔵野さんのことをあんなに茶化していたのに、寺坂さんも結局は人妻が好きなんですか?』

「それはやめてくれる? いやマジで。てか、みっちゃん、ちょっと会わないうちにオカン化してねぇ?」

『しっかりせざるを得ないんですよ、状況が状況ですから』

 だから寺坂さんもしっかりして下さいよ、と道子に念を押されたが、寺坂はシートに隠した美野里を見やる。

「なあ、みっちゃん。俺がみのりんと一緒にいるってこと、つばめには言わないでおいてくれるか?」

『何を虫の良いことを。美野里さんのせいで、つばめちゃんがどれだけ苦しんだと、私達がどれだけ迷惑したと』

「黙ってくれたら、みっちゃんに好きなことをしてやるよ。ボディがロボットでも、どうにかなるだろ?」

 冗談めかして言ったが、寺坂は覚悟を据えていた。道子は、ある意味では寺坂の聖域だ。三年前の数ヶ月間、 寺坂と共に過ごしてくれた少女に対して劣情を抱かないことで、自分にもまだ人間性があるのだと思えるようにして おいた。だが、それが結果として道子に手を出さないことで支配することになっていると気付いたのは最近で、結局 は道子も他の女達と同じなのだと知ってしまった。最早、自分には人間らしい部分は残っていない。だから、自分を とことん貶めてしまえばいい。そうすれば、美野里への支配欲にも素直になれるだろう。

『嫌ですよ』

 長い長い沈黙の後、道子は弱く答えた。

『私は寺坂さんのことが、その、えと、ああそのなんですか、改まって言うのは死ぬほど恥ずかしいっていうか、既に 二度も死んでいて死に損ないの幽霊みたいな奴が言うのもなんですけど、まあ……その、好きっていうか、寺坂さん 以外の男の人は気にならないっていうかで。だから、その、生身の頃だったらほだされていたかもしれませんけど、 今の私は人間でもなんでもありません。つばめちゃんの持ち物です、道具です、遺産です、アマラです』

 道子は画面の中で寺坂に背を向け、俯いた。髪が滑り落ち、コネクターの付いた首筋が露わになる。

『だから、好きだなんて言っても、言われても、何にもならないんです。だから、何も思いません』

「それ、マジで言ってる?」

 寺坂が意地悪く問うと、道子は頷いた。ロングヘアで黒髪のウィッグが、その動きに合わせて揺れる。

『本当ですってば。クテイさんとシュユさんが何を食べているかも解っているんですから、些細なことでいちいち心を 乱していたら、敵の思う壺じゃないですか。だから、尚更です』

 そして、道子は通信を切った。カーナビのモニターも沈黙し、カーステレオも同様だったが、寺坂の心中はひどく 波打っていた。この意地っ張り、と道子を小突いてやりたくなった。美野里への劣情も嘘ではないし、道子に対して 感じる近親者に似た好意も嘘ではないが、比重は公平ではない。気が多いことが辛いと感じたのは、初めてだ。
 だが、欲しいのは道子ではない。




 毎日、一人分の食事を作るのは億劫だ。
 食べるのが自分だけとなると余計に面倒臭く感じるが、手を抜いてもいいことはないので、つばめは古めかしい 台所に立っていた。寺坂がいい加減に使っていた台所はゴミが溢れんばかりに溜まっていたので、ゴミの山を外に 出すまでが一苦労だったが、床が見えてくるとその後は楽だった。埃を掃いて拭き掃除をし、油汚れの付いたタイルや 水垢が付いたシンクも徹底的に洗い、冷蔵庫もアルコールや重曹で綺麗にし、調理器具も新調した。
 そのおかげで、清々しく料理が作れる。食べてくれる相手がいないのは張り合いがないが。つばめはフライ返しを 使い、フライパンの中で柔らかく焼けたオムレツをひっくり返した。が、力加減を少々失敗したらしく、綺麗に巻けて いた表面が破れてしまった。だが、自分が食べるのだから気にしない、と思い直してオムレツを皿に移した。

「お帰りー、道子さん。あのエロ本の山、片付け終わったの?」

 勝手口から戻ってきた道子に声を掛けるが、道子は眉根をきつく顰めて唇を噛んでいた。

「うぅ……」

「どうしたの? 段ボールからムカデでも出てきた?」

 ガスコンロの火を止めてから、つばめが台所から廊下に出ると、道子はつばめにしがみついてきた。

「焼き払いましょう、あのエロ本の山! あんな人の所有物なんて、保存しておくだけ宇宙の損失です!」

「でも、あれって一応寺坂さんの私物だし」

 死ぬほど嫌だけど、とつばめが付け加えると、道子は目を吊り上げる。

「だからこそ焼き払いましょう! ガソリンでもなんでもぶっかけて! そうでもしないと気が済みません!」

「もしかして、道子さん、寺坂さんと何かあったの?」

 段ボール箱の山を片付けに行っただけにしては、長々と外にいたから、その間に寺坂と連絡を取っていたとしても おかしくはない。つばめが指摘すると、道子は半泣きのような表情を作った。だが、ボディがサイボーグではないの で生理食塩水は出てこなかった。道子はへなへなと崩れ落ちると、つばめに抱き付いてきた。

「ちょっと慰めて下さーい……。こればっかりは、どんなワクチンプログラムも自己修復システムも効きませんから」

「よしよし」

 つばめは半笑いになりながら道子を撫でてやると、道子はつばめの胸に顔を埋めながら嘆いた。

「あー惨めったら惨めです。でも、これでちょっとスッキリしました。生殖器が服を着て歩いている触手男にいつまでも 執着している自分が馬鹿なんですから、少しだけ踏ん切りが付きました。でも、もうちょっとだけ慰めて下さい」

「はいはい」

 つばめは壁に寄り掛かり、道子の重みを受け流しながら、彼女のウィッグを被せた頭を撫でてやった。ふと視線を 感じて振り返ると、廊下の角からコジロウがこちらを窺っていた。気になるならいっそ来ればいいのに、体を半分 だけ出してつばめと道子を凝視しているから、少し不気味である。つばめはコジロウを追いやるか否かを迷ったが、 今は道子を慰めることに集中してやろうと思い、手を振った。コジロウは渋々といった動作で離れ、去っていった。 電脳体でも遺産の産物でもなんでもない普通の女性に戻った道子は、年相応に弱く、情けなかった。
 つばめは寺坂が道子に何を言ったのか、道子がどうやって寺坂を振ったのか、ちょっと知りたくなったが、それを 聞き出すのは野暮なので胸に納めておいた。これでは、昼食のために作ったオムレツが冷めてしまうが、今ばかり は仕方ない。妙な話ではあるが、道子に甘えられたのが嬉しかったからでもある。
 彼女が気を許してくれている証拠だからだ。





 


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