機動駐在コジロウ




急がばマイウェイ



 同時刻。美野里は通話を切り、苦笑した。
 都心のオフィス街にあるカフェのテラス席で、美野里はピックアップトラックを貸してくれた男と向かい合っていた。 通りに面した席なので、通行人が振り返っては視線を残したまま通り過ぎていく。中には通り過ぎた後に携帯電話 のカメラを向けてくる者も何人かいたが、男が睨みを利かせるとすぐに逃げていった。当人に許可も得ずにカメラで 撮影しようとするのはいけないことだが、興味を惹かれるのも無理もないと美野里は思ってしまった。
 何せ、彼は法衣姿なのだ。剃り跡さえない綺麗なスキンヘッドに、未来的なデザインの鋭角なサングラスを掛けて いることと上背の高さも相まって、やたらに目立ってしまう。鼻が高く頬骨と顎が尖り気味で、サングラスの奥の目元 も吊り上がっているので、僧侶らしさはどこにもない。そのため、僧侶の格好をした不審者として通り掛かった警官に 呼び止められた回数も少なくない。そんな彼の名は、寺坂てらさか善太郎よしたろうという。

「あの野郎、バックレるつもりだったな?」

 寺坂は包帯をきつく巻いた右腕でテーブルを叩き、八重歯を剥いた。

「一乗寺さんはあの車を返してくれるって言ったんだから、もうそんなに怒らないで下さいな」

 美野里は寺坂を宥めるべく、自分が頼んだレモンケーキを半分切り分け、寺坂の空になった皿に移してやった。 途端に寺坂はそのケーキをフォークで突き刺し、二口で食べ終えた。

「で、なんでこんなつまんねーところで話さなきゃならないんだよ? 酒の一滴もねぇじゃねぇか」

「そりゃ、昼間っからお酒を飲まれたら困るからです。だって、あの車が戻ってきたら乗って帰るんでしょ?」

「当ったり前だ、俺のなんだから」

 寺坂は不満が溜まっているのか、口角を曲げながらアイスカフェラテを啜った。

「で、なんで寺坂さんは長光さんの葬儀にいらっしゃらなかったんですか?」

 美野里はそう言ってから、不安げにこちらを窺っていた店員を呼んで二つめのケーキを頼んだ。

「そりゃさっきも言っただろ、二日酔いだったって」

 寺坂は早々に飲み終えたアイスカフェラテをストローで掻き回し、氷をやかましく鳴らした。

「ですが、その原因を聞いていませんよ?」

「だぁーから、何度も同じことを言わせんじゃねぇ」

 顔を背けた寺坂は懐からタバコとライターを取り出すと、無造作に銜えて火を灯した。

「原因なんて解り切っちゃいますけどね!」

 美野里は寺坂の手からライターを引ったくると、寺坂は慌てた。

「おいこら、何しやがる!」

「歌舞伎町ですか。しっかしお好きですねぇー。でも、本を正せば誰の金だと思っているんですか」

 半透明のライターに赤い文字でプリントされているのは、いかにも安っぽいキャバクラの店名と電話番号だった。 美野里が心底軽蔑した目を向けると、寺坂は紫煙と共に文句を吐き出した。

「御布施をどう使おうが俺の勝手だろうが、あーうるせぇ」

 寺坂善太郎の本職は住職で、佐々木家が長年檀家となっている寺の跡継ぎでもある。だが、僧侶らしさが一欠片 もなく、俗っぽさと欲望の固まりだ。酒とタバコと女に浸り切っていて、近年では車とバイクを買い集め始めている。 それも高級車ばかりで、山奥の田舎と年季の入った寺院にはまるで似合わない派手なスポーツカーがガレージに 並んでいる。美野里が借りたのはその内の一台であり、佐々木長光の葬儀に合わせて都心に出てきていた寺坂が 乗ってきた車だったのだが、諸々の事情で一乗寺昇に又貸しする羽目になった。美野里としてはそのつもりは毛頭 なかったのだが、あれよあれよという間に政府のヘリコプターに押し込められて都心に移送されてしまい、一乗寺に 車を返してくれという暇すらなかった。おまけに車の持ち主である寺坂は肝心要の佐々木長光の葬儀には現れず、 連絡すらなかった。これでは葬儀が成り立たないと慌てた美野里は、斎場のスタッフにも手伝ってもらい、なんとか 手の空いている僧侶を招いて葬儀を執り行った。そのこともあり、美野里は寺坂に苛立ちを募らせていた。
 だから、車を返してほしければ船島集落に帰って佐々木長光の遺骨に経を上げてくれ、と脅すつもりで呼び出した のだが、分校に電話を掛けて一乗寺と連絡を取ると寺坂が無理矢理携帯電話を奪い取って、一乗寺と話を付けて しまった。おかげで随分と予定が狂ってしまったが、これで船島集落に向かう理由が十二分に出来た。そのことに ついては、この欲望まみれの生臭坊主に感謝すべきかもしれない。

「帰りたくねぇんだけどなー、あんなしみったれた場所に」

 椅子を倒しかねないほど上体を反らした寺坂は、無駄に長い足を組み、雪駄を履いたつま先を揺する。

「あっちのキャバクラにはろくな女がいねぇし、化粧も服も超芋臭ぇし、どこの飲み屋に行っても顔見知りだらけだし よー。その点都会はどうだ、人間の絶対数が多いから顔も体も平均値が上だし、フェラーリのキーを見せればすぐに きゃあきゃあ行って擦り寄ってくるし、札びらバラまきゃどうとでもなる。これがどれだけ楽しいか解るか!?」

 急に上体を起こした寺坂は美野里に迫ってきたが、美野里は顔を背けた。

「いえ全く。ていうか、私はそういうのは嫌いですから。夜の世界を否定するわけじゃないですし、ああいう接客業は 特殊技能の元に成り立っているのである意味では立派だなぁと思いますけど、生理的に無理なんです」

「ホスト遊びでもすりゃいいのに、みのりんも」

「誰がしますか、あんなこと。それとなんですか、その変な呼び方は。馴れ馴れしすぎて気色悪いです」

「そんなんじゃモテねぇぞ。つか、俺が知り合ってからも男がいた気配は皆無だったな、そういえば」

 なるほど処女か、と寺坂が勝手に納得したので、美野里は氷の残る水のグラスを揺らした。

「その空っぽの頭にぶっかけてやりましょうか、ちゃちな痴話ゲンカみたいに」

「あーそりゃいいねぇ、刺激的だ」

 臆するどころか楽しげな寺坂に、美野里はなんだか馬鹿馬鹿しくなって水を呷った。が、冷えすぎていたので虫歯の 治りきっていない奥歯に染みて呻き声を漏らしかけた。寺坂はアイスカフェラテのグラスを呷り、氷を噛み砕く。

「で?」

「で、ってなんですか」

 痛みが引いてから美野里が問い返すと、寺坂はカフェの店内を見渡した。

「いつのまに、俺達がこの店を貸し切ったんだ?」

 そういえば、二つ目のケーキを注文してから十数分経つのだが、店員が近付いてくる気配はない。それどころか、 店内のざわめきも聞こえなくなっていた。テラス席にいた数名の客の姿もないが、テーブルには注文して間もないで あろう湯気の昇るコーヒーと食べかけのリブサンドが残されている。道路を行き交っていた車もなく、歩道を歩いていた サラリーマンやOLも同様で、カフェの周囲一帯だけが時間の流れから切り離されたかのようだった。
 寺坂は腰を浮かせると、法衣の襟を正してから右手の包帯に手を掛けた。美野里は不安感に襲われ、他に誰か いないのかとテラス席から身を乗り出すが、やはり見当たらなかった。ビルとビルの先にある交差点から赤い光が 滑り込んできたので目を凝らすと、無数のパトカーが道を塞いで車と人間の通行を阻んでいた。カフェを囲んでいる ビルを仰ぎ見ると、ミラーガラスの窓越しに会社員達が鈴生りになってこちらを見下ろしている。

「何が起きたのよ?」

 とりあえず状況を把握しようと美野里は携帯電話を開き、インターネットに繋いでニュースサイトを開き、絶句した。 美野里と寺坂のいるカフェで爆発物が発見された、とのニュースがトップにでかでかと書かれていた。だが、そんな 気配は全くなかった。店内を見渡してみても、それらしい不審物は見受けられなかった。もしも爆発物があるのだと したら、他の客達と共に美野里と寺坂も退去を促されるはずだ。けれど、店員も他の客も何も言わずに、会計すらも 終えずに出ていった。そして気付いた頃には、警察車両によって道路が封鎖されて包囲されていた。

「そういえばみのりん、なんかヤベェのを敵に回したって言っていたよな」

 寺坂は二人が座っていたテーブルに手を伸ばし、伝票を取った。

「もしかして、この店の親会社がそれなのか? ん?」

「あぁっ!?」

 伝票の下部に印刷されている店名と企業名を見、美野里は仰け反った。グッドヒルズ。それはあの吉岡グループの 飲食系産業を総合して経営する会社名であり、当然ながらこのカフェも吉岡グループの系列店だった。ということは つまり、この爆弾騒ぎは吉岡りんねの差し金ということか。だが、彼女達が付け狙っているのは、つばめだけでは なかったのか。美野里は血の気が引き、よろめく。

「それじゃこれって、吉岡りんねって子の一存で起きている出来事なの? 有り得ない……」

「考えてみりゃ吉岡グループはマスコミにも手ぇ出しているし、インフラも警備システムも売り捌いている。警察官僚が あの大企業の幹部連中と連んでいるらしいから、たぶん、まあ、そういうことなんだろうなぁ」

 うげぇ面倒臭ぇ、と寺坂が声を潰すと、美野里は青ざめながらへたり込んだ。

「も……もしかして、私が狙いだったり、しちゃうの?」

「はぁーいんっ、御名答でぇーすぅんっ」

 不意に、明るく甲高い女性の声が響き渡った。今にも泣き出しそうな美野里が顔を上げると、カフェのバックヤード からウェイトレスの制服に身を包んだ若い女性が歩いてきた。寺坂は腰が抜けてしまった美野里の前に進み出る と、ウェイトレスの髪の人工的な光沢とかすかに聞こえるモーターの駆動音に気付いて身構えた。

「てめぇ、サイボーグか?」

「あなたはどこの誰なんですか!? 私、あなたのことなんて知りませんよ!」

 寺坂の背中越しにウェイトレスを見た美野里が声を上げると、女性ウェイトレスはにっこりする。

「そりゃそうですぅーん。だってぇーん、この体は私の本体じゃないんですからぁーん。私は吉岡りんね御嬢様の専属 メイドにしてぇ、佐々木つばめちゃんの遺産を掻っ払う一味の一員なんですぅーん。それでぇ、備前さんを襲うために このお店で働いていた女の子の体をちょいちょいっと乗っ取らせてもらってぇ、使わせて頂いているんですぅーん」

「なんだぁ、あの喋り方。すっげぇ苛つく」

 寺坂が眉のない眉間を顰めると、美野里は寺坂の法衣を握り締めた。

「サイボーグ同士のハッキング……? でも、そんなことは不可能のはずよ。第一、サイボーグボディの認証コードは 本人の脳波をパスワード代わりに使っているし、生体情報が一致しなければ補助AIだって作動しないわ」

「あーはぁーん?」

 女性ウェイトレスは首を傾げると、目を据わらせた。

「そんなものはぁーん、ただの見せかけですぅーん。ていうかぁーん、サイボーグボディを総合的に管理している大元 のコンピューターからアップデートプログラムと一緒に侵入すればぁーん、セキュリティなんて無意味ですぅーん」

「なあみのりん、サイボーグの販売会社ってどこだっけか?」

 寺坂が美野里を小突くと、美野里は肩を縮めながら答えた。

「業界一位は吉岡グループの系列会社だけど、業界二位はハルノネットだったかしら」

「自己紹介が遅れましたぁーん。私ぃ、設楽道子と申しますぅーん」

 ウェイトレスは膝を曲げて一礼してから、笑顔を消し、エプロンのポケットから数本のナイフを取り出した。

「そしてぇ、今し方御紹介に与ったぁーん、サイボーグ業界二位のシェアを誇るハルノネットの社員ですぅーん」

「ああ、そうかい。だからどうした」

 寺坂は右腕の袖を捲り上げ、包帯の結び目を解いた。

「相手はサイボーグなんだ、首さえ無事ならそれでいいんだろ?」

 緩んだ白く細い帯がウッドデッキで渦を巻き、戒められていた右腕の素肌が露わになる。昼間の明るい日差しが 作った彼の影が形を変え、自由を得た右腕が不気味にうねる。禍々しさの権化のような無数の肉の紐が波打って、 主の意志のままに翻り、ムチのようにウッドデッキを力強く叩いた。

「ダメですよ、どこから撮られているか解ったものじゃ」

 美野里は寺坂を引き留めようとするが、寺坂は赤黒い肉の紐を一本伸ばし、美野里の鼻先を小突いた。

「ケーキ、くれただろ。その分は働いてやらぁ」

 そう言うや否や、寺坂は駆け出した。テーブルと椅子を蹴散らしながら突っ込んでいった僧侶へと、ウェイトレス のサイボーグボディを借りている道子は的確にナイフを放ってきた。ケーキ用のデザートナイフは銀色の弾丸となり、 美野里の目前を貫いてウッドデッキの手すりに突き刺さった。続いてフォークが何本も一度に投擲され、テーブルの 脚や椅子の背もたれに命中しては抉れる。一般用サイボーグの腕力にはパワーセーブが施されているので、本来 であればこんな芸当は不可能だ。モーターが焼き付く前に補助AI側で自動停止を行うからだ。だが、道子は借り物の ボディの性能を最大限に引き出しているのか、今度はテーブルを一度に複数担ぎ上げて投げてきた。

「あ、そぉーれぇーんっ!」

 バレーボールのトスのような気軽な掛け声の直後、三つの円形テーブルがウッドデッキに迫ってきた。そのうちの 一つがウッドデッキと店内を隔てるガラスの入ったドアに激突し、双方の破片を撒き散らしながら一度バウンドして 道路に落下して粉々に砕け散った。生きた心地のしない美野里は、テーブルの影で身を縮めていた。
 美野里の様子を気にしつつ、寺坂は久々に外に出した触手との折り合いを計っていた。ここしばらくはキャバクラ やその他諸々の場所で遊び呆けていたため、包帯で縛り付けていた。全部で百二十八本に枝分かれする触手の 右腕を人間らしい腕の形に保っておくためと、外見を偽装するためには必要なことではあるのだが、いざという時に 反応が悪くなるのが難点だ。肩の骨の根本と繋がっている最も太い触手を長く伸ばして床を殴り付け、バネ代わりに して天井に向かう。狭い店の割に洒落た作りになっているので、天井にある梁に足を掛ける。が、梁に積もっていた 埃と雪駄の相性が悪すぎて、寺坂は無様に滑り落ちた。

「うおう!?」

「なぁーにやっているんですかぁーんっ!」

 振り返り様に、道子と名乗った女性サイボーグは手近な皿を投げ付けてくる。寺坂は細めの触手を広げて網状に 張ると、その皿を一枚残らず受け止めてやり過ごしてから、後退る。

「そう都合良くはいかねぇな」

「そうだと解ったらぁーん、さっさと諦めることですぅーん」

 道子はまた笑顔に戻ると、寺坂に詰め寄っていった。程なくして寺坂は壁に背を当てたが、細めの触手を伸ばして カウンター席と面した調理場に滑り込ませると、冷水が満ちたピッチャーを持ち上げて道子の背中に投げ付けた。 だが、道子は軽くつんのめっただけで、動じもしなかった。床には氷とレモンの輪切りが浮いた水溜まりが広がり、 かすかに爽やかな香りが漂った。濡れた背中を気にも留めず、道子はガムシロップ入りのポーションを数個無造作に 鷲掴みにしてから、寺坂ににじり寄ってくる。

「水を掛けたら壊れるロボットもサイボーグもぉーん、この御時世にいるわけないじゃないですかぁーん」

「で、あんたはそれをどうする気だ?」

 寺坂が訝ると、道子はぐじゅるっと一息に握り潰した。手の甲から肘まで、粘つく甘い液体が絡む。

「こうするまでですぅーんっ!」

 ガムシロップの空ポーションを投げ捨てると、道子は滑り気を帯びた右手で、寺坂の触手を掴んだ。その握力に 寺坂は呻き、道子の手中から引き抜こうとするが、道子は左手で触手の尖端を握って力一杯引っ張った。すると、 ガムシロップの滑り気で一息に道子の懐に引き摺り込まれ、触手と肉体の繋ぎ目に五本指が突き立てられた。

「うおヤベェッ!」

 その指で触手を引っこ抜かれてはたまらないと、寺坂は道子を蹴り付けて脱し、触手を使って跳ねてカウンター に飛び乗った。道子は不満げに唇を曲げながら、寺坂に向き直る。

「あぁー惜しかったですぅーん。面白そうだからぁーん、一本抜いて持って帰ろうと思ったのにぃーん」

「冗談じゃねぇ! 雑草じゃねぇんだ、抜いたら新しく生えてこねぇんだぞ!」

 寺坂は指を突き立てられた痛みを誤魔化すため、右腕の根本を押さえながら喚いた。

「でもぉ、それが無理なら別にいいんですぅーん。だってぇーん、私の目的はぁーん」

 道子は寺坂に背を向けると、テーブルの陰に隠れている美野里を捉えた。美野里はひっと息を飲む。

「御相談なんですけどぉーん、備前さぁーん?」

 手近なテーブルにあった厚手のコーヒーカップを握り締めて割った道子は、大振りな破片を一つ取る。

「今後一切、佐々木つばめちゃんに関わらないでいてくれるっていうのならぁーん、これであなたをスパッとやらずに 済みますぅーん。私としても荒事は避けたいですしぃーん。でもぉー、どぉーしても嫌だぁーって言うのならぁーん」

 美野里の隠れていたテーブルを片手で持ち上げて道路に投げ捨て、道子は美野里の襟首を掴む。

「はいって仰るまでぇーん、とぉーっても痛いことをするかもしれませんよぉーん?」

 そのまま、道子は美野里を右手で吊り上げた。左手には先程割ったコーヒーカップの破片が握られていて、黒い 液体が返り血のように道子の左手を汚していた。息苦しさと恐怖を堪えながら、美野里は意地で言い返す。

「あの子のもらった遺産が、そこまでして欲しいの? 欲しいのなら、買えばいいじゃない!」

「買えるものならぁーん、とっくの昔に買っていますぅーん」

 さあお返事を、と道子はコーヒーカップの破片を美野里の汗ばんだ首筋に添えてくる。破片自体はそれほど鋭利な ものではないが、サイボーグのフルパワーの腕力で斬り付けられれば致命傷を負うだろう。それどころか、頸椎や 神経にまでも傷が及ぶかもしれない。まさか本気じゃないよね、と目を動かして道子を見下ろすが、道子の笑みは 形が整いすぎていて他の感情が一切窺えなかった。

「さあ、どうしますぅーん?」

 道子はテーブルを足掛かりにしてウッドデッキの柵の手すりに乗ると、美野里を空中に突き出した。地面との距離は 二メートルもないが、不自然な姿勢で落ちたら足首ぐらいは傷めるかもしれない。ブラウスの襟元を握り締める指の力 は増していて、カーラーが歪んで生地が伸び切り、ボタンが弾けてしまいそうだった。
 道子の要求には、答えられるわけがない。つばめから離れるなんて考えたくもない。十四歳なのだから、まだまだ 手の掛かる妹であり、大人の助力が不可欠だ。だから、再びつばめと接点を持とうと躍起になり、飲んだくれていた 寺坂を呼び出した上で船島集落に連絡を取ったのだ。吉岡りんねとその部下が恐ろしいということはドライブインで の一件で知り得ていたし、今正に身を持って味わっている。どれだけ金を積まれても、どれほど脅されたとしても、 美野里の心情は揺らがない。アスファルトに放り投げられるのを覚悟して、美野里が否定の言葉を吐き付けようと 唇を開きかけた時、道子の背後に一本脚スツールに触手に絡み付けた寺坂が立った。

「仏罰下すぞゴルァアアアアアアッ!」

 罵声を放ちながら触手をしならせた寺坂は、一本脚スツールの金属製の脚を道子の腹部に叩き込んだ。遠心力と 触手自身が持つ強靱な筋力がウェイトレスの制服と人工外皮を破り、脊椎に似た形状のシャフトを破損させる。 横一線に幅の太い傷口が生じ、一本脚スツールが道子の胴体に挟まってからからと椅子の部分が回転した。人工 臓器の大半が損傷したため、内用液を漏らしながら、道子はぎこちなく振り返る。

「汎用型の耐久性能の低さを忘れていましたぁーん。えへっ」

「ヤベェ俺マジかっけー!」

 寺坂は触手を用いて高く跳ねると、道子の壊れた上半身ごと美野里を抱えて道路側に飛び降りた。すると、脊椎と ケーブルと人工臓器が露わになった下半身は崩れ落ち、タイトスカートをだらしなく広げながら座り込んだ。美野里 はばくばくと高鳴る心臓を落ち着かせるために一息吐いてから、無駄に格好付けている寺坂を押し退けた。

「いい加減に離して下さい、暑苦しい」

「な、な、な、俺って格好良いだろ? 惚れ直すだろ? なーみのりん!」

 道子の上半身を歩道に横たえてから、寺坂が嬉々として詰め寄ってきたので、美野里は辟易した。

「助けてくれたことには大いに感謝しますけど、惚れてもいないので直すものがありません」

「普通はさ、もっとこう、あるだろ。乙女チックなリアクションがさぁ」

 寺坂は残念がりながら懐から予備の包帯を出し、いい加減にまとめた触手に巻き付け始めた。

「あなたと知り合ってもう十年ですよ、今更感激することなんてありません。その腕にだって慣れていますし」

 美野里はそう言いつつも、態度の変わらない寺坂のおかげで多少は落ち着きを取り戻していた。道子が大人しく なったので見やると、瞼を見開いたまま硬直していた。遠隔操作を切断したのだろうが、不正アクセスの影響で元の ボディの持ち主の意識も戻っていないようだった。そうなると、残す問題はただ一つ。
 どうやってこの場を脱するか、だ。美野里は一度ウッドデッキに戻り、荷物の詰まったバッグを抱えて戻ってくると、 それまで道路を塞いでいたパトカーが一斉に発進した。あれよあれよという間にカフェが取り囲まれて、パトライトが 視界を真っ赤に染めた。寺坂は触手の右腕を包帯で隠し終えてから、肩を竦めた。美野里は書類がはち切れんばかりに 入っている重たいバッグを縋るように抱え、絶望した。
 これで、弁護士人生は終わった。





 


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