機動駐在コジロウ




急がばマイウェイ



 警察署のロビーで、つばめは呆けていた。
 船島集落から都心までは車で四時間程度掛かってしまうので、またもや車酔いの憂き目に遭ったのも原因だが、 カーラジオからひっきりなしに流れていたニュースのせいで心底疲れ果ててしまった。警察署にはこの上なく馴染む コジロウはつばめの斜め後ろに控えていて、直立不動の姿勢を保っていた。辺りはすっかり暗くなっていて、昼間は 忙しなく行き交っていた人々も大分減っている。両手で缶を握り締めていたために生温くなったコーラを一口飲み、 つばめは体を折り曲げるようにため息を吐いた。そうすれば、少しは疲れが抜けるような気がするからだ。
 正面出入り口の左脇に、本日の交通事故件数、負傷者数、死亡者数がホログラフィーで表示されている。小学生 が描いた水彩画を使った交通安全標語のポスターが、交通課の受付に張り出されている。運転免許の更新手続き の手順を印した案内板があり、昼間中は大人達が群がっていた記帳台は、今はひっそりとしていてどこか寂しげでも あった。警察署に面した道路を行き交う車の音と時折出入りするパトカーのサイレンで、静寂とは程遠いものの、 打ちっ放しのコンクリートの壁と隅々の薄暗さが深夜の病院を思い起こさせた。

「よーっす、元気ー?」

 相変わらずの軽い調子で、一乗寺は二階から降りてきた。つばめは顔を上げたが、眉を下げる。

「いいえ全然」

 この状況で、元気など出るものか。船島集落を出発して間もなく、ピックアップトラックのカーラジオから流れてきた のは都心のオフィス街のカフェで爆弾騒ぎが起きたというニュースだった。すぐさまワンセグに切り替えて生中継の 映像が流れているテレビのチャンネルに合わせてみたところ、事件現場であるカフェのテラス席にいたのは、紛れも なく美野里だった。そして、一緒にいたサングラスの僧侶が、ピックアップトラックの持ち主であるよっちゃんだろう と察した。それから程なくして美野里とよっちゃんはサイボーグのウェイトレスに襲い掛かられたが、十分もしない うちに中継が途切れてしまった。以後、続報もなく、つばめは不安を持て余していたが、一乗寺がどこかに電話を した後に事件現場の最寄りの警察署に車を止めた。それから、かれこれ二時間は過ぎてしまい、船島集落を出てから 七時間弱は過ぎたことになる。一日を棒に振ってしまった。

「まあまあ、そう落ち込みなさんな」

 一乗寺は馴れ馴れしくつばめの頭を撫でてから、親指を立てて後ろを指し示した。

「ほれ、お望みのお姉ちゃんだぞう」

 階段を下ってきた美野里は、つばめの姿を見つけるや否や駆け出してきた。

「つばめちゃあーんっ!」

 一乗寺を押し退けてつばめにしがみついた美野里は、化粧が崩れるのも構わずに頬摺りしてきた。

「良かったぁ良かったぁ、また会えたぁー! お姉ちゃん幸せー!」

「お姉ちゃんも元気そうで良かったよ。逮捕されずに済んだの?」

 抱き締められた気恥ずかしさと嬉しさをない交ぜにしながら、つばめが問うと、美野里はしょげた。

「されたのよ、きっちり。でも、一乗寺さんが刑事さん達にないことないこと言って、なかったことにしてくれたのよ」

「頭っから尻尾まで嘘八百の調書を作っちまったんだよ、そこのクソ不良教師がな」

 袴を振り回すように大股に階段を下りてきたのはサングラスを掛けた僧侶で、不機嫌極まりない顔をしていた。

「あ、よっちゃん!」

 と、つばめが美野里の肩越しにサングラスの僧侶を指すと、僧侶は大人げなく言い返してきた。

「違ぇーよ! 駄菓子みたいな名前で呼ぶんじゃねぇ! てかお前はどこの誰だ!」

「失礼しちゃうわねぇー。こちらは長光さんのお孫さんで、遺産の相続人で、寺坂さんとこのお寺の檀家さんで、私の 可愛い可愛い妹のつばめちゃんです。今後は失礼のないようにお願いしますね」

 美野里はつばめの肩を押し、僧侶の前に出した。すると、僧侶はにやけた。

「なんだ、だったら早くそう言えよ。みのりんの妹なら、いずれこの俺の義理の」

「ならないならない、ないないなーいっ!」

 一乗寺はけたけた笑い、無駄にリズミカルに僧侶の後頭部を引っぱたいた。僧侶はつんのめり、叩き返す。

「やりやがったなこの野郎!」

「身の程知らずの生臭坊主めぇー、悔しかったらやり返してみろー」

 一乗寺が子供のように煽ってから逃げ出すと、んだとてめぇっ、と僧侶はすかさず追い掛けていった。どちらもいい 大人なのに、やっていることは下校途中の小学生男子と同等なので、馬鹿馬鹿しいったらない。二人を見ていると 余計に疲れそうなので、つばめはコジロウを見上げながら僧侶を指した。

「コジロウ、あの人って誰だか知っている? で、よっちゃんってのは渾名?」

「彼の名は寺坂善太郎。外見から解るように僧侶であり、先代マスターを始めとした佐々木家と関わりの深い寺院の 住職だ。よっちゃんという名は、一乗寺諜報員が寺坂住職に一方的に付けた愛称だ」

 コジロウが淡々と答えてくれたので、つばめはとりあえず納得した。

「なるほど、ヨシタロウだからよっちゃんか。先生とあのお坊さんって、幼馴染みだったりするの?」

「一乗寺諜報員と寺坂住職が知り合ったのは二年前だ、よって幼馴染みという語彙に値する関係ではない」

「そうは見えないんだけどなぁ」

 生まれてこの方腐れ縁、という関係にしか思えないほど、教師と僧侶は乱暴にじゃれ合っている。だが、あの二人に 構っていてはいつまでたっても話が前に進まないので、つばめは美野里を促し、くたびれた長椅子に腰掛けた。

「で、お姉ちゃん。何がどうなってこうなっているの?」

「それがねぇ、色々とややこしいことになっているみたいで、一言で言い切れる問題じゃなさそうなのよ」

 美野里はストッキングに包まれた両足を投げ出し、パンプスのつま先を上向けた。

「私と寺坂さんを襲ってきたのはサイボーグの女性で、カフェの警報機やら監視カメラの映像に小細工して爆弾騒ぎを 仕立て上げた挙げ句、あのウェイトレスさんのサイボーグボディを遠隔操作して襲い掛かってきたのよ。私のこと なんてそこまでして襲うべきものでもないような気がするけど、まあ、用意周到なのよ。小細工出来るっていうこと は、事前に監視カメラに差し替えるための偽物の合成映像を作っていたってことだし、私達以外のお客さんを店内 から立ち去らせるのも打ち合わせをしておかなきゃ、まず無理よ。一乗寺さんがざっと調べてみてくれたんだけど、 あの時、店内にいたお客さんは全員吉岡グループの系列会社の社員だったのよね。あの近辺のビルもいくつかは 吉岡グループの系列会社が入っているから、当たり前と言えば当たり前なんだけどね。立ち去らせた方法は簡単、 爆弾騒ぎを起こす前に関係者全員の携帯電話にメールを送っただけ。といっても、一度に全員が立ち去るとあまり にも不自然だから、数分ごとに区切って送信していたようだけどね」

 背を丸めて頬杖を付き、美野里は横目にコジロウを見上げる。

「でもって、そのサイボーグの女性は設楽道子っていう名前なんだけど、吉岡グループの社員じゃなくてハルノネットの 社員だって言っていたのよね。つばめちゃんも知っているでしょ、携帯電話の」

「あー、うん。携帯の他には、通信インフラの整備とか、サイボーグ関連の事業を展開している会社だよね」

「そうなのよ。これって、ちょっと引っ掛からない?」

 美野里はトップコートのみのマニキュアが少し剥げた指先で、グロスがほとんど取れた唇を押さえた。

「私はてっきり、吉岡グループの一部門がつばめちゃんと遺産をどうにかしようとしているとばかり思っていたのよ。 でも、あの御嬢様の手下が全く別の会社の社員となると、話が大きく変わってくるわ」

「それってつまり、私と遺産を狙っている会社が吉岡グループだけじゃないってこと?」

「そういうことになっちゃうの。それで、一乗寺さんがでっち上げの調書を作っている合間に調べてくれたんだけど、 まーどいつもこいつもろくな経歴じゃないのよ。ほら、見てこれ」

 美野里はジャケットのの内ポケットから、四つ折りにした一枚のコピー用紙を取り出した。つばめは美野里の体温と ほのかな化粧の香りが染み込んでいるコピー用紙を広げ、警察署内のコピー機の類でプリントアウトしたであろう 簡潔な書面を読んだが、すぐにはその内容が頭に入ってこなかった。誰も彼も、経歴がぶっ飛んでいたからだ。
 粗い粒子の顔写真付きで、吉岡りんねとその部下の名前が箇条書きされていた。一番上は当然ながらリーダー である吉岡りんねの名前と本籍と経歴が書かれていたが、そこからして変だった。書類の上では都内の国立大付属 の金持ち御用達の御嬢様学校に通っていることになっていたが、高名な国立大学を飛び級で卒業していた。

「は?」

 人間業ではない、それどころか漫画の中の住人だ。つばめは面食らいながら、次の項目を見た。恐らくは履歴書 の顔写真であろう極めて目付きの悪い青年は、その顔付きと髪型からして通夜の際にコジロウの棺に横たわって いた青年だろう。彼の名は藤原伊織といい、言わずと知れた大企業であるフジワラ製薬の御曹司だそうだ。だが、 昆虫に酷似した形態に変身出来る改造人間、とも書き加えてあった。伊織の顔写真の傍には、あのドライブインで つばめに襲い掛かってきた人型軍隊アリの写真が添えられていた。
 続いて三人目は、角張った輪郭と角刈りと顔の傷跡が威圧的な男だった。やはり写真写りは悪かった。彼の名は 武蔵野巌雄といい、二十代の頃は自衛隊で自衛官として活躍していたものの海外での活動中に行方不明になり、 それから十数年後に発見された時には、中東で軍事会社の社員となり、実質的には傭兵となって戦っていた。一旦 帰国させられたが、その後は海外を拠点とする新免工業が身柄を引き受けていた。となると、グレネード弾で雪崩を 起こした後につばめを狙って狙撃してきたのは、武蔵野巌雄とみて間違いないだろう。
 四人目は、履歴書の写真であることをまるで構わずにポーズを付けているメイドの女性だ。彼女の名は設楽道子と いい、今日、美野里と寺坂を襲った張本人だ。電脳工作に特化した性能を持つサイボーグであることと、息をする ようにハッキングを行えることが書き記されていたが、過去の経歴は一切書かれていない。藤原伊織と武蔵野巌雄 は生年月日と血液型と本籍が記載されていたが、道子は真っ白だった。正体不明ということか。
 最後の五人目は、履歴書の写真から見切れかけるほど小柄な中年の男だった。よれよれの作業服姿であるせい で、一層悲壮感を強めている。吉岡グループの子会社の下請けの工場で働いていた男だそうだが、それは表向きの 顔であり、実際には弐天逸流という剣術の流派を取り仕切る立場にあるらしい。だが、その弐天逸流もまた偽装した 姿であって、正体は過激な思想を持つ新興宗教団体だそうだ。偽装に次ぐ偽装で、こんがらがりそうだ。

「コジロウは、敵がこんなにいるってことを知っていた?」

 ちょっと泣きそうになりながら、つばめがコジロウにコピー用紙を向けると、コジロウは書面を一瞥した。

「把握している。だが、彼らは皆、先代マスターが存命していた頃は表立った接触を行ってこなかった。よって、本官 が護衛活動を行う機会も皆無だった」

「じゃ、なんで私に代替わりしたら、急に元気になっちゃったわけ?」

「先代マスターは遺産の扱いに非常に長けていた。だが、つばめにはその経験が一切ない。よって、遺産の真価も 把握していない。言葉は悪いが、世間知らずの小娘であれば畳み掛けられる、と敵方が判断したと予測している」

「そりゃどうも」

 コジロウの的確かつ辛辣な言葉に、つばめはげんなりした。すると、美野里がつばめを抱き寄せた。

「大丈夫よ。これからは私も一緒に住むから、なんとかなるって」

「え? 本当!?」

 その言葉でつばめが元気を取り戻すと、寺坂にアームロックを掛けつつ一乗寺が言った。

「うん、そうだぞう。ほらほら、授業中につばめちゃんが山ほど書いた書類があるじゃない。あの中にね、みのりんと 一緒に住んでもいいよーっていうのがあったの。知らなかった? 途中から読んでなかったでしょ、内容を」

 その通りである。つばめは歓声を上げた美野里にのし掛かられ、少し苦しくなったので押し返したが、自然と顔が 緩んできてしまった。コジロウと二人だけだと緊張してしまうし、身近な大人が男性だけというのも心許なかったが、 美野里なら申し分ない。備前家を出てしまえば、これまで感じていた引け目も感じなくて済むだろう。

「じゃ、帰ろう、お姉ちゃん! コジロウも!」

 つばめが美野里の手を取って警察署の玄関に向かうと、コジロウも付いてきた。

「了解した」

「おいこら待てやぁっ! まずは俺の車を返せよ、ついでにみのりんもだ!」

 一乗寺を力任せに振り解いた寺坂が駆け出していくと、一乗寺も追い掛けてきた。

「つばめちゃーん! そういえば、まだ何も奢ってもらってないんだけどー?」

 駐車場に出たところで男達に追い付かれたので、つばめはピックアップトラックの助手席に乗り込み、シートベルト を締めてから考えた。美野里が運転席に座ると、後部座席に座った寺坂が渋々イグニッションキーを渡してきた。 寺坂が隣なのが不満なのか、一乗寺はやや不機嫌そうではあったが後部座席に座った。コジロウが跳躍して荷台 に飛び乗ると、彼の重量でサスペンションが大きく上下した。

「じゃ、適当なファミレスで手を打ちましょう。帰り道にあるだろうし」

 でなかったらサービスエリア、とつばめが後部座席に収まった男達に振り返ると、一乗寺は承諾した。

「はいはーい」

「教師が生徒にたかるなよ……」

 寺坂は極めて真っ当な文句を呟き、一乗寺と目も合わせたくないのか窓の外に向いた。美野里はイグニッション キーを回してエンジンを暖機した後、大きなハンドルを回して一際目立つ車体を幹線道路に滑り込ませた。その後の 道中は、一乗寺と寺坂が騒がしすぎたので楽しいとは言い切れなかったが、美野里がいてくれるおかげで少しは 懸念が紛れてくれた。船島集落への帰路の途中で見つけたファミリーレストランに入ると、つばめはオムライスを、 美野里はハンバーグセットとケーキセットを、一乗寺はただひたすらサラダバーを貪り、寺坂はタバコを蒸かしながら カレーを二杯平らげ、コジロウは当然ながらピックアップトラックの荷台に待機していた。
 その後、美野里から一乗寺に運転を代わり、後部座席で美野里と並んで座ったつばめは車体の揺れを感じていると 眠気を覚えた。美野里は昼間の騒動で疲れ果てたのか早々に寝入っていて、つばめに寄り掛かってきたので、 つばめも美野里に寄り掛かって目を閉じた。まだ自分には味方がいるのだと思うと、随分と心が安らいだ。
 明日からも頑張ろう、と思えた。




 サーバールームに籠もった熱が、機体の廃熱を妨げていた。
 脳の収まっている本体の機能を回復させていき、全てのシステムに異常がないことを一つ一つ確認してから、瞼を 開いた。無数のケーブルが這い回っている薄暗い天井には、ホログラフィーモニターの明かりが届いている。別荘の 敷地内に設置してある電波の中継基地局とリンクさせていたネットワークを切断し、四方八方から飛び込んでくる 電波を遮断してから、サイボーグボディを起き上がらせる。耳障りな軋みが起きる。いや、最早障る耳すらない。
 設楽道子はベッドの端に腰掛けると、廃熱不良を起こさないために脱いでいた服を取った。首の後ろのジャックに 差してあったケーブルを一息に抜くと、かすかな頭痛が消え失せてほっとする。手足の関節と外装の隙間を空けて 冷却液を巡らせていくと、腫れぼったい過熱が回路や関節から抜けていき、安堵する。人間で言うところの知恵熱が 起きていたからだ。脳をフル稼動させてサーバーと同調させ、ハルノネット本社のホストコンピューターを経由して 一般女性のサイボーグボディのハッキングを行うと、それ相応の過負荷が掛かった。あの弁護士の女性が言って いたように、本来、サイボーグボディは他人に貸し借り出来ないように作られている。だから、かなり無理をした。

「でも、これで……」

 機体性能と己の能力は実証出来た。試験段階ではぎりぎり可能だと言われていたが、実際にサイボーグ同士の ハッキングを行うのは御法度だった。同じハルノネットの社員同士と言えども、他人の意識に侵食されたくはないし、 下手をすれば機体と電脳の過負荷がフィードバックして脳が損傷を起こすかもしれないのだ。だから、今の今までは 実験すら出来ずにいた。だが、これからは違う。思い通りに動き回れるのだ。

「あの子、死んじゃいないよね?」

 道子はボディを借りた女性サイボーグの安否が少し気になり、手早くネット上に流れるニュースを見た。情報操作 をしたおかげで都心の爆弾騒ぎの扱いは小さくなっていたが、道子が放った情報とは異なる情報も混じっていた。 爆弾自体が狂言だった、という記事の主軸だけは変わらないものの、弁護士の女性と僧侶の男性の扱いが記事に よってまちまちだった。二人がカップル扱いされているものもあれば、別のニュースサイトでは見ず知らずの他人に なっていて、そうかと思えば別れ話のもつれになり、また別の記事ではウェイトレスの女性も含めた三角関係だった、 ともあった。道子とは別ルートで情報を流布した輩が、余程いい加減なことを言ったのだろう。おかげでニュースの 扱いが格段に小さくなっているのはありがたいことだが、茶化されているような気がする。肝心の女性サイボーグの 生存は確認出来たので、ほっとした。人殺しをする度胸まではないからだ。

「ま、気は抜けないけどさ」

 道子は瞬きすると、別荘内にいくつか設置されている監視カメラの映像を得た。サーバールームに入ってからの 八時間の間に、皆が何をしていたのかが少し気になったからだ。程なくして再生された映像の中では、別段異変は 起きていなかった。朝食を片付けた後は誰も彼もが暇を持て余して過ごしていたが、昼食の頃合いになると武蔵野 が伊織にせっつかれてキッチンに入っていた。武蔵野はぼやきながらも分厚く骨張った手で手際良く調理していき、 人数分のうどんを作っていた。りんねの丼には、天ぷらにはしないまでも、フライパンで軽く焼いたちくわが山盛りに なっていた。武蔵野に呼び出されて自室から下りてきたりんねは、ちょっと笑いかけて表情を殺した。だが、嬉しさは どうしても隠し切れないらしく、ちくわを存分に食べながら頬を緩めていた。
 武蔵野が作ったうどんは至って簡単なもので、地下階に備え付けられている人間も入れそうな大きさの冷凍庫に 保存されていた冷凍うどんを、濃縮タイプのめんつゆを薄めた汁に入れ、湯で戻した乾燥ワカメと火を通したちくわ を載せただけのものだった。だが、道子の料理とは食い付きが違っていた。笑いはしないまでも、伊織は明らかに 喜んで食べていたし、高守の箸の進みも早く、りんねは食べ終えた後に緑茶を飲みながら弛緩していた。

「へーえ、おいしいんだぁ」

 羨ましくなる前に妬ましくなり、道子は己の舌を指先で抓んだ。痛覚センサーがあるので、指がシリコンの固まりを 潰した違和感は回路を経由して脳に届くものの、それ以外のものはなかった。肉体がダメになった際に脳も損傷した ため、味覚の記憶がほとんど思い出せないことも相まって、道子は鬱屈した思いを抱えていた。
 形だけのメイド、形だけの女、形だけの人間。道子を道子たらしめているものは、頭部に詰まっている五キロ弱の 蛋白質塊だけだ。それを失ってしまえば、後に残るのは量産されたフェイスパターンとプロポーションのサイボーグ ボディだけだ。生前の己の姿は覚えていない。記録すら残っていない。設楽道子という名ではなく、別の人間の名で 生きていたことを朧気に記憶しているだけだ。それ以外の記憶はほとんどない。それもこれも、海馬を貫いて大脳に 突き立てられている銀色の針のせいだ。
 その針がなければ、道子は人間の範疇を超越した電子工作能力は得られず、道子の崩れかけた脳を固めておく ことが出来ないのは理解している。だが、これほどまでに疎ましい異物があるものか。
 異物に抗うために、道子は戦うのだ。吉岡グループを後ろ盾にハルノネットを滅ぼし、銀色の針の呪縛から逃れ、 本当の自分を取り戻し、遺産とやらの力であわよくば生身の体も取り戻し、己の人生も取り戻してくれる。そのため にはどんなことでもしてやる。頭の悪い言動を演じ、甘ったるい媚を売り、年下の少女に傅くことも厭わない。
 この感情があるから、人間として生きていける。





 


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