機動駐在コジロウ




佐々木家と人々



 季節は巡り、四月を迎えた。
 雪国の春は、まだまだ遠い。日差しこそ和らいできたが、至る所に分厚く雪が残っている。抜けるように高い空は 清々しかったが、地上は未だに色彩に乏しい。除雪車が積雪を吹き飛ばしていったおかげで通りやすくなった道路 を悠長に歩いているのは、四肢から触手を生やした異形、シュユだった。ニルヴァーニアンが物質宇宙で活動する ために作り出したアバターは環境適応能力が高いので、この程度の寒暖差はどうというとはない。
 下半身の触手を波打たせて前進しているシュユの影絵は、以前とは少し変わっていた。背中に生えた光輪からは 青い光が淡く漏れていることに代わりはないが、裸身ではなかった。大判の布を袈裟のように巻き付けているので、 さながら徳の高い僧侶のようだった。黄土色の布地は赤黒い肌に馴染み、雪景色にも映えている。
 かつて船島集落と呼ばれた一角に向かう道を辿っていくと、重機の駆動音が聞こえてきた。緩やかな坂を下りて いくと、そこでは人型重機や普通の重機などが忙しげに働いていた。桜の木を中心にして異常に成長したクテイの 生体組織を除去するために、雪も溶けきらないうちから地面を掘り返しているのだ。フカセツテンが押し潰した民家 の残骸は泥と一緒に山積みにされていて、防寒着を着た作業員達が人型重機に指示を送っている。
 防護マスクを被った警備員に気付かれたが、シュユが一礼すると、彼らは咎めもせずに通してくれた。それだけ、 シュユが重宝されている証拠だ。それでなくても、遺産を巡る争いに荷担していた人々の大半が死んでしまっている ので、気色悪い異星人であろうとも無下に出来ないのだ。
 最も作業が進展している場所は、他でもない佐々木長光邸の跡地だった。その近辺は早々にクテイの赤黒い根 が切断されて除去され、地面が覗いていた。シュユは触手を冷たい泥で濡らしながら、佐々木邸の敷地に入ると、 作業員達が身を引いてくれた。小倉重機製の人型重機達も後退し、シュユに道を空けてくれた。

「ああ……これかぁ」

 シュユは両腕に当たる触手を伸ばして泥を払い、部品のない顔を近寄せた。佐々木邸の土台の真下に、瓦屋根 が埋まっていた。シュユが作り出した異次元の中に存在していた、弐天逸流本部の残骸だ。フカセツテンごと船島 集落と異次元が重なり合ったので、対消滅したかと思われていたが、根の除去作業の最中に地底から次々と建物 が発掘されていた。佐々木長光によって破壊された本堂は跡形もなくなっていたが、それ以外の建物はクテイの根 にも耐え抜いていたらしい。だから、地面を掘り返していくうちに屋根が現れる。

「んー、と」

 シュユは触手を使って瓦屋根を剥がし、建物の中を覗き込んだ。触手を数十本垂らして視覚情報を取得すると、 埃の積もった梁の下には、工房があった。机の上には作りかけの人間の頭部が転がり、木枠と布で出来た骨格が あり、工房の壁には人間もどきの部品が入っていたであろう液体の詰まった瓶がずらりと並んでいた。
 人間もどき達もまた、自分達の在り方に悩んでいた証拠だ。彼らは生前の記憶を持っていながらも、自分が本物 の人間ではないと悟っていた。周囲の環境と自我の乖離が激しくなればなるほど、生前に酷似した暖かく柔らかい 肉体に耐えられなくなった。その結果、脳を切り分けて人形に加工するようになった。以前、船島集落に程近い集落 で一乗寺と寺坂が殺害した少女、富田六実もその一人だった。弐天逸流に入信した後に死亡し、人間もどきとして 復活したはいいものの、人間ではない自分を人間として扱う家族や友人に恐怖を感じた。だから、弐天逸流に入信 していた技術者に頼んで脳を摘出してもらい、人形の体に移し替えていた。

「難しいもんだよなぁ、その辺って」

 シュユは人間もどきの人形を作る工房から触手を引き上げ、作業員達が呼び出した政府の人間に内部の調査を 委ねてから、佐々木邸の敷地を後にした。これで弐天逸流の実体解明はまた一つ進むだろうが、それが人間達の 理解の範疇に収まるかどうかは別問題である。人間もどきには人間もどきの世界が出来上がっていたからだ。
 人間とそうでもないものを隔てているのは、単純に肉体の違いだけではない。倫理観、自我、常識、通念、などと 言い方はいくらでもあるが、要するに視点が人間に近いか否かだ。人間もどきは限りなく人間に近い目線と感覚を 持って作られてはいたが、偽物であり、農作物の一種だった。その落差が彼らを苦しめていた。だから、弐天逸流 が潰えたことで彼らは本当の死を迎えた。元々死した者達だったのだから、黄泉の世界に旅立つのが理だ。

「おや」

 掘り出された根の割れ目から、人間の生白い腕が垂れていた。それに気付いたシュユが手近な作業員を触手の 先で招いて腕を示すと、作業員はすぐさま無線で連絡を取った。程なくして船島集落跡地の近隣に設置されている 診療所から、医師と看護師が派遣されてきた。作業員達は赤黒い根を慎重に割り、体液でぬるつく木片を除去し、 腕の主を掘り出した。年若い女性だった。シュユは女性の薄く濡れた肌に触手を伸ばし、そっと触れた。
 時折、こうして死を免れた人々がクテイの根の中から生まれてくる。人間として生きたいという強烈な意思がある からこそ、また人間として物質宇宙へと戻ってこられる。そうでない人々は、異次元宇宙で安寧の死を迎えている。 それはシュユであろうと誰であろうと強制出来るものでもなく、操作出来るものではない。けれど、しばらく物質宇宙 を離れていた人々は精神体が乖離しているので、少しだけ手を貸してやらなければ、目覚められない。

「これで、二百五十六人目だね」

 だから、触れなければならない。シュユが触手を下げて間もなく、女性は咳き込んでクテイの体液を吐き出すと、 呻き始めた。医師と看護師が手際良く女性のバイタルを確認した後、担架に乗せて運んでいった。こうやって再び 人間として生きようとする人々は、皆、N型溶解症が完治した元患者として社会復帰する手筈になっている。生前 の記憶をはっきり持っている人間は少なく、親族からも死んだものとして扱われている場合がほとんどなので、政府 によって全く新しい戸籍と名前を与えられることがほとんどだ。そして、ほぼ全員が新たな一ヶ谷市民となる。非常 事態宣言で退去した一ヶ谷市民は、未だに七割以上が戻ってきていないからだ。空っぽの町を埋めるには、空っぽ の人間が丁度良いというわけだ。

「どうにかなるものだよ、意外と」

 シュユは懐を探ると、隅立四つ目結紋が刻まれている菱形の金属板を取り出した。これだけでは鍵に過ぎないが、 ニルヴァーニアンの技術の粋を集めた道具を起動させられる代物である。佐々木長光は、これでフカセツテン を操縦していたつもりだったようだが、そんなに矮小な枠で収まるものではない。フカセツテンの上位互換である、 フカセツ・フカセツテンを動かせる、正に遺産と称すべきものだ。
 物質宇宙での騒ぎが収まらなければフカセツ・フカセツテンを使ってしまえ、と異次元宇宙に漂うニルヴァーニアン 達はしきりにシュユに囁いてきていた。それはシュユが今のシュユになってからも変わらず、物質宇宙に対して差別 感情を抱いている証拠でもあった。だから、シュユは事態の収拾と好転に努めた。物質宇宙はニルヴァーニアンの おもちゃではないし、物質宇宙に生きる人々もまた盤上の駒ではないからだ。

「僕達は散々余暇を楽しんだじゃないか。だから、異次元宇宙が僕達の存在に飽き飽きして、クテイを生み出して 刺激を与えてくれたんじゃないか。往生際が悪いよ、君達は」

 佐々木家の家紋を弄びながら、シュユはカーブした坂道を上り始めた。

「神様ごっこも、そのうち終わらせてあげるよ。御飯がおいしいってことを思い出しちゃったんだから、もう一押しで 誰も彼もが退屈な精神世界から逃げ出してくるはずさ。そのためには、もっと色んなものを食べないとね」

 今日の御飯はなんだっけ、と独り言を漏らしながら、シュユは硬い圧雪の上を歩いていった。

「あ、そうか。今日はあの日だったっけ」

 じゃあ御飯も特別だね、と呟いてシュユは歩調を早めた。曲がりくねった坂道を上り、除去したクテイの根を積載 したダンプトラックが行き交う道路を通っていく。その途中で吉岡文香が経営していたドライブインに差し掛かるが、 今では閉店している。元々、佐々木長光を見張るための店であり、客もほとんどいなかったので、遺産を巡る争い が収束したことを機に店を畳んだのだ。ガラス戸の内側でカーテンは閉め切られ、閉店、との貼り紙があった。
 時間が過ぎれば、世の中はおのずと移り変わる。




 雪を退かして土を露出させた畑の上に、アーチ型の骨組みを立てていく。
 野戦の最中に身を隠すためのテントを張ったことは何度もあったが、ビニールハウスを張るのは初めてだった。 なので、武蔵野は説明書をしきりに見比べながら、骨組みを等間隔に立てていった。簡単そうに見えて意外と複雑 なのが、この手の代物だ。いい加減な仕事をすれば、ビニールを張ってもよれてしまうだろう。
 上ばかり見ていて首が疲れたので、武蔵野は一旦目線を下げた。首を回してから、辺りを見回す。船島集落から 程近い集落で、民家もまばらに建っているが、本来の住民は一人残らずいなくなっているので閑散としている。その 理由は言うまでもなく、N型溶解症が蔓延したというハッタリのせいだ。N型溶解症とその原因となるバクテリア自体 が政府のでっち上げなので、実際には船島集落も一ヶ谷市も至って安全だ。だが、住民達は挙って住民票も本籍も 他県に移してしまったので、一ヶ谷市全体が空白地帯となって空き家も大量に発生した。
 なので、武蔵野を始めとした面々は、その空き家に居を構えることにした。家賃も微々たるもので、農耕地も格安 で明け渡してもらったので、せっかくだからと畑を耕してみることにした。だが、農業は見た目ほど簡単なものでは ない。天候も思い通りに来るわけではないし、相手は生き物なのだから、上手くいかないのが当たり前だ。

「で、これで何すんだよ」

 骨組みだけのビニールハウスに入ってきたのは、人型軍隊アリ、藤原伊織だった。

「何って、そりゃあ」

 武蔵野は借り受けた民家の作業場を指し示し、山積みになっている苗箱を指し示した。

「米を作るには、苗を育てなきゃならんだろうが。家と畑と一緒に田んぼの土地も借りたからな、使ってやらなきゃ 勿体ないだろう。道楽に過ぎんが、やることがあるとないとじゃ大違いだからな」

「で、その田んぼはどの辺にあるんだよ」

「まだ雪の下だ。雪が溶けて地面が出てきたら、畑仕事を手伝ってくれるか?」

「暇だったらな」

 伊織はこきりと首を曲げ、触角を揺らした。その言葉に、武蔵野は少し笑った。

「ああ、頼むよ」

 伊織もまた、船島集落に程近い場所に居を移していた。といっても、武蔵野や他の面々のように空き家を借りて いるわけではなく、吉岡文香の自宅に同居しているのである。もちろん、吉岡りんねと暮らすためだ。あの戦いの後 に再会してからは、りんねと伊織は以前にも増して離れなくなった。最早、恋人や家族の範疇を越えた関係であり、 一心同体といっても過言ではない。実際、御鈴様だった頃はその状態だったのだから。
 船島集落での凄絶な戦いの後、伊織は政府によってこの集落に隔離された。N型溶解症が著しく悪化した末期 患者という扱いになり、集落から一歩も外に出ないという条件で生存を許されている。その他にも細々と取り決めが 交わされたが、最も効力が強いのがそれだった。以前の伊織であれば文句を言っていただろうが、りんねの傍に 身を落ち着けたからか、伊織は素直に政府の指示に従った。
 武蔵野のかつての上司であり、佐々木長光の傀儡であった吉岡りんねは、伊織と似たような理由で一ヶ谷市に 隔離されることになった。伊織と同じくN型溶解症の感染者ではあるが、比較的症状が弱かったために生き残った が脳にダメージを受けたので、知性が若干後退している、ということにされている。実のところ、りんねは頭の回転も 良ければ理解も吸収も早いのだが、精神年齢が外見の肉体年齢に追い付いていないのでそう見えるのだ。それは 周囲からしてみれば惨いことではあるが、りんね本人は自分が世間に馴染めない人間だと充分理解しているので、 それでいいと言った。母親と大好きな青年と共に、心穏やかに生きていけるからだと。吉岡文香も同様で、りんねが 誰の道具にもされずに生きていけるのならと了承した。
 吉岡親子と過ごすようになってからは、伊織は格段に穏やかになった。荒っぽい言動はそのままだが、他人への 態度は棘がなくなっていた。何度も体を欠損してはアソウギで修復してきたのでダメージも蓄積している上、異次元 宇宙との接続が完全に切れたので遺伝子情報をダウンロード出来なくなったので、人間体には二度と戻れないが、 伊織はそれでいいと言っているし、りんねも今の伊織が好きだと言っている。だから、何も憂うことはない。

「なんかさー」

 伊織はきちりと顎を開き、上体を反らして空を仰いだ。腹部の膜の傷口は、綺麗に縫合されている。

「かったりぃな」

「ああ、解る」

 武蔵野は軍手を外し、作業着のポケットにねじ込んだ。

「体中が軽くてな、落ち着かないんだ。銃もナイフも仕込んでいないから、どこもかしこも楽すぎて」

「なんか、色々とやらなきゃならねぇこととか、しなきゃならないこととか、あるような気がするけどさ」

「生き残った責任、みたいなものか?」

「まあ、そんなもん。けど、思い付かねぇよな、実際。つか、俺らがクソ爺ィと戦って生き残ったのは、俺らがクソ爺ィ よりも生き意地が汚かったっつーかだし。だから、テキトーにやるしかねーかなーって」

「これから考えればいいさ。俺も、これから考える」

 武蔵野は、一人住まいには広すぎる合掌造りの家を見上げた。一ヶ谷市は古い家を保存することに力を入れて いたらしく、船島集落の他にも合掌造りの家が残っている集落が複数存在していた。この集落もその一つであり、 手入れも行き届いていたので、片付けと掃除をすればすぐに住める状態だった。なので、武蔵野を始めとした皆は それぞれの条件に見合った家を見つけ、別々に引っ越した。
 武蔵野と伊織が愚にも付かない会話をしていると、集落の真ん中を貫いている細い道路に人影が現れた。薄手の コートを羽織った少女で、軽く息を弾ませながら二人の元に駆け寄ってきた。

「伊織君、ここにいた」

「他に行く当てもねーだろ。つか、俺の話し相手になる奴なんて、むっさんしかいねーし」

 伊織が黒い爪を上げて武蔵野を示すと、武蔵野は渋面を作った。

「お前も俺をそう呼ぶのか。まあ、嫌とは言わんが」

「で、なんだよ」

 伊織が畑から出て少女に近付くと、少女は上気した頬を綻ばせ、コートを脱いだ。

「制服。つばめちゃんと美月ちゃんとお揃い」

「おう」

 片方の触角を曲げて、伊織は微妙に声を上擦らせた。少女、吉岡りんねは、誇らしげに紺色のブレザーと同じ色の ジャンパースカートを見せびらかしている。丸襟のブラウスも新品で、臙脂色のボウタイの結び方は緩かったが、 それは後で手直しさせればいいだろう。白いハイソックスに茶色のローファーを履いた足を曲げて、スカートの裾を 両手で持ち上げてみせながら、りんねは小首を傾げた。太い三つ編みに結んだ長い髪が、肩から零れる。

「似合う?」

「あー、まあな」

 伊織が曖昧な返事をしたので、武蔵野は率直に褒めてやった。

「ああ、似合うぞ。三つ編みも自分でしたのか、りんね」

「うん。お母さんが教えてくれた」

 赤いフレームで楕円形のレンズのメガネを掛けたりんねは、誇らしげに笑んだ。

「おう、頑張れ」

 武蔵野が励ますと、りんねは頷いた。

「うん。頑張る」

 だが、伊織は顔を背けていたので、りんねはむくれた。

「伊織君。こっち見て」

「その制服、俺の前で散々着てみせたじゃねぇか。つか、何度も見たもんに何を言えっつーんだよ」

 伊織がやりづらそうに複眼を逸らすと、りんねは三つ編みを掴んで持ち上げた。

「三つ編み」

「それも、何度も何度も練習してただろうが。で、失敗するたびに俺に原因を聞いてきただろうが」

「メガネ」

「それも、買ってから何度も俺に見せてきただろうが。つか、毎日見てんだろうが」

 伊織は首を曲げながらぼやくが、決して嫌がっているわけではなかった。それどころか、りんねを正視しないように 視線を逸らしている。そのくせ、二本の触角はしきりにりんねに向かっているので、武蔵野は呆れてしまった。素直に なれば手っ取り早いものを、どうしてわざわざ嫌がる振りをするのだろうか。
 そんな伊織に、りんねは怒って言い返すどころか優しく微笑んでいた。りんねは伊織の無愛想さが愛嬌だと知って いるからだ。伊織にはそれが尚更気恥ずかしいのか、上体を思い切り捻ってりんねの視線から逃れようとしたが、 りんねは体を傾けて伊織に視線を注ぎ続けている。どうしようもなくお互いが好きなのだと、見ているだけで解る。 出会った経緯は最悪で、ここに至るまでの道程も棘が敷かれていたが、傷付き合って補い合ったからこそ、二人は 誰よりも深く通じ合えている。その関係は、素直に羨ましいと思える。

「あーもう、ウゼェな」

 伊織は爪の背でがりごりと後頭部を引っ掻いてから、りんねに向き直り、投げやり気味に褒めた。

「はいはい可愛いよ、可愛い可愛い! そう言えば気が済むんだろ!」

「うん。嬉しい」

 りんねは満足げに頷いてから、伊織をまじまじと見つめた。

「伊織君。格好良い」

「だぁーもう!」

 直球で褒められたのが余程恥ずかしかったのだろう、伊織は畑から駆け出してりんねを横抱きにすると、下両足 を大きく曲げて高く跳躍した。黒い影が空に吸い込まれると、りんねのはしゃいだ歓声が降ってきた。この様子から すると、伊織がりんねを抱えて飛び回るのは日常茶飯事なのだろう。荒っぽくはあるが、若い二人の戯れには最適 なスリルがある。それにしても、あの伊織がこの様とは。武蔵野は堪えきれなくなり、ひとしきり笑い転げた。
 ビニールハウスの組み立てが一段落したので、自宅に戻ることにした。法事の時間までにはまだ余裕はあるが、 身支度を整えておくに越したことはない。これでようやく、区切りが付く。泥に汚れた長靴を脱いでから玄関に入り、 奥の間に向かった武蔵野は、居間の座卓に横たえてあるブレン・テンを一瞥したが、触れなかった。
 新免工業に深く関わっていた武蔵野は、かつての雇い主や同僚達に関する情報を政府側にぶちまけたのだが、 公安に目を付けられた。銃刀法違反を始めとした犯罪で立件されるのかと思いきや、汚れ仕事を厭わずに苛烈な 戦闘と過酷な任務を切り抜けてきた技量を評価され、公安に入らないかと誘われた。だが、目的は武蔵野の戦闘 技術ではなく、内閣情報調査室を捜査したいがために足掛かりにするためだった。武蔵野の傍には周防と一乗寺 がいるので、彼らの情報を横流ししてくれとも依頼された。給料も悪くないが、同じ窮地を切り抜けた者を売るような 真似は出来ないと突っぱねると、今度は武蔵野が傭兵時代に通じていた人間の情報をくれと言ってきた。それなら 気が咎めないので、言われるがままに情報を渡した。後で知ったことだが、かつての傭兵仲間達は国際指名手配 中のテロリストに身を窶していたらしく、武蔵野の渡した情報でテロを未然に防げたそうだ。それが功を奏したのか、 武蔵野は公安の工作員としての籍を与えられ、つばめや伊織の監視役という仕事も与えられ、定期報告をすれば 一定の給料と身の安全が保証された。その仕事自体に抵抗はないし、当人達にも了解を得ているので、武蔵野は 見よう見まねの農業の合間に公安の仕事をしている。人生、何が起きるか解らないものである。
 公安は武蔵野に籍を与えてこの集落に据えておくことで、内閣情報調査室に釘を刺しておきたいのだ。これまで 内閣情報調査室は、遺産に関する事件や情報を一手に引き受けていたが、その分、隠蔽された事実や抹消された 情報も多々あった。だが、武蔵野は両者の内輪争いに荷担するつもりは毛頭ないので、内閣情報調査室の諜報員 である周防とも親しくしているし、公安には深入りしていない。せいぜい、頭越しにやり合っていてくれと思っている 程度だ。第一線からは身を引いているし、何より穏やかな日々を失いたくないからだ。
 長らく、欲しいものがあった。実力行使で手に入るものだとは思っていなかったが、強くなければ手に入れる資格 がないと思い込んでいた。故に、戦って戦って戦い抜いたが、戦えば戦うほど遠ざかっていった。初めて心底惚れた 女は人様の嫁で、ようやく触れられた暖かなものは他の男への恋慕で、欲しいと思えば思うほど罪深さが増した。 だが、それはもう終わった。愛する人もおらず、家族が出来たわけではないが、欲しかったものは手に入った。
 帰りたいと思える家と、友人だ。





 


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