機動駐在コジロウ




好事、マイン多し



 全てがスローモーションに見えた。
 慣性の法則に従って空中に放り出されたつばめは、一部始終を観察出来ていた。実時間では一秒にも満たない のだろうが、つばめの体感時間はその何百倍にも引き延ばされていた。つばめを持ち上げようと力を入れすぎた せいで寺坂の足元が滑ってハンドルも傾き、前輪が変な方向に滑って地面から外れ、アメリカンバイクの車体全体 が横倒しになった。一拍遅れて、アスファルトと金属が激突する衝撃と音が空気の震動と共に伝わってくる。更に寺坂 がバランスを崩した際に生じた力が触手を経て及び、つばめの進行方向をねじ曲げた。
 目が零れ落ちんばかりに見開いてつばめを凝視している美野里の髪が舞い上がったが、ショッキングな出来事が 立て続けに起きたからか汗ばんでいて、数本の髪が頬と額に貼り付いている。細かな涙の粒が浮かび、奇妙な形 に歪んだ口はつばめの名を呼んでいる。寺坂が上を仰ぎ見、つばめの右腕に絡み付けた触手を増やそうとする が、つばめの体重に応じた強さの遠心力がそれを許さなかった。右腕をきつく縛っていた十数本もの触手が一本、 また一本と滑り抜けていき、せめてもの意地で触手の尖端だけでも捉えようとするが、人差し指の第一関節にすら 挟まらず、そして。

「うおおおおおいっ!?」

「つばめちゃああああああんっ!?」

 突如、時間の流れが戻ってきた。寺坂の情けない悲鳴と美野里の絞め殺されそうな悲鳴を受けながら、つばめは 死を確信した。やはり寺坂になんか頼るんじゃなかった、もっと建設的で確実な方法を選ぶべきだった、コジロウに 気を遣ったのも間違いだったのかな、だけど、と十四年の人生の走馬燈を見ながら考えていた。と、その時。
 ぬかるんだ田んぼに頭から突っ込みそうになったつばめを、あの鋼鉄の手が受け止めてくれた。泥と雪解け水を 巻き上げながらスラスターの出力を弱め、軟着陸する。足元に熱風を伴った波紋が広がり、田んぼの畦が濡れた。 無意識に閉じていた目を開き、つばめが見上げると、心なしか破損が回復しているコジロウがいた。

「負傷はないか、つばめ」

「命令無視したー!」

 助けてもらったことを感謝する前に、つばめは不躾な言葉を口走ってしまった。おまけにまた横抱きにされている。 その恥ずかしさと、意地を張ったのに無駄になった空しさと、頼りになりすぎる彼に対する諸々の感情を持て余し、 つばめは目眩がするほど頭に血が上った。コジロウはつばめの文句には構わずに足を進め、田んぼから出ると、 舗装された道路につばめを立たせた。両足にたっぷりと泥を纏ったコジロウも道路に上がり、直立した。

「つばめ」

 コジロウが冷静極まる声で話し掛けてきたので、羞恥に駆られたつばめはつっけんどんに返した。

「何だよーもう!」

「本官は、いかなる事態、いかなるコンディションであろうと、現マスターの安全を最優先することが義務付けられて いる。現マスターの命令を無視する行動を取らねば護衛出来ないと判断した場合、本官は現マスターの命令を無視 して行動することが可能となっている。よって、つばめの意見は」

「まあ、そんなことだろうと思ったけどさぁ!」

 所詮は機械なのだ。少女漫画的な展開を想像した自分がどうしようもなく馬鹿馬鹿しくなって、つばめは彼に背を 向けて虚勢を張った。ヒロインの危機を都合良く察知して駆け付けるヒーロー、というには無機質すぎるし、彼自身 の態度も極めて冷淡なので、余計に自分の妄想が情けなくなってくる。コジロウが駆け付けてくれた理由にしても、 考えるまでもなく先程の地雷の爆発音だ。つばめの命令を無視するために必要なプロセスがあったから、雪崩の時 に比べれば初動が遅かったようだが、それでも充分間に合っているのが空恐ろしいところだ。

「あービビった、心臓すっげぇ痛ぇー……」

 寺坂が触手の右手で禿頭を掻き毟ると、美野里はその場にへたり込んだ。

「ほっとしたら、腰が抜けちゃったぁ……」

「地雷の処理作業を開始する」

 コジロウは泥の足跡を付けながら菜の花畑に向かっていったので、つばめは慌てた。

「それこそダメだって、どこに埋まっているかなんて解らないんだし! それに、また爆発したりしたら!」

「各種センサーによる走査で、地雷は振動感知式であると判断している。よって、処理方法は簡単だ」

 コジロウは菜の花畑の前に屈むと、顔を上げた。目線を左右に配らせて菜の花畑の広さと斜面の角度を確かめ、 地面に軽く拳を当てた。そして、上体を捻ってその拳を高く上げた後に振り下ろした。ずんっ、と地面全体が波打つ ほどの振動が発生した。傍目からではただのパンチにしか見えなかったが、コジロウの拳は地中深く埋まって手首 までもが没し、無数のひび割れも枝分かれしながら四方に伸びた。
 直後、菜の花畑が吹っ飛んだ。土が粉微塵に砕け、火の粉が舞い、爆風が駆け抜け、黄色く小さな花を咲かせて いた菜の花は一本残らず消し飛んだ。甘ったるい香りは土と煙の匂いに塗り潰され、吹き下ろしで黒煙が薄らぐと 変わり果てた地形が露わになった。どこぞの紛争地帯だと言っても差し支えのない光景に、つばめはしばし言葉を 失ってしまった。コジロウは事も無げに拳を引き抜くと、土を払った。

「作業、完了」

「わ、ワイルドだなぁ」

 確かに簡単ではあるが、力任せすぎやしないか。頭上を舞い散る黄色い花吹雪を視界の端に捉えながら、頭の 片隅でそんなことを考えたが、つばめはそれを口には出さなかった。地雷や爆弾の類を処理するには結局のところ 爆発させる必要がある、と社会の授業で教えてもらった記憶がある。特に地雷は処理が面倒で、掘り返す作業中に 誤って起爆させてしまうことだってあるし、全部掘り返したつもりでいても妙なところに残っていることもあり、それを 踏んでしまう事故も後を絶たない。だから、一度に全て起爆させて処理するのが最も安全で確実ではあるのだが、 これでは花見の風情もへったくれもない。この分では、桜の木も無傷ではあるまい。

「桜は倒れやしねぇよ。あればっかりは、どうにもならねぇように出来ているんだ」

 つばめの懸念を察したのか、寺坂がもうもうと立ちこめる黒煙の奥を示した。緩やかに下りてきた風が濁った煙を 払いのけると、無惨な菜の花畑の先には、傷一つない桜の木が悠々と枝を伸ばしていた。

「終わったんならもう行こうぜ、いい加減に腹減ったんだよ」

 寺坂は立ちゴケしたアメリカンバイクを起こすと、跨り、ヘルメットを被った。

「これだけのことがあったのにノーリアクションですかぁ? 色々と信じられないんですけど!」

 足腰の力が戻っていないのか、美野里は座り込んだままだった。寺坂は愛馬を暖機しつつ、美野里を見下ろす。

「みのりんだって、じきに慣れるっての。銃声にせよ、爆弾にせよ、何にせよ。歩けないんなら乗れよ、ついでに 俺に乗ってくれちゃってもいいんだぜ?」

「全力でお断りしまっす!」

 美野里は意地で立ち上がったが、足元がふらついていた。

「ついでだからさ、爺さんに初七日の経を上げてってやるぜぃ」

 寺坂のやる気に欠ける言葉に、つばめは眉根を曲げた。

「ついでって、それが寺坂さんの本来の仕事でしょ」

 じゃー俺は先に行っとくから、と寺坂は触手を戒めていない右腕を振り回してから、排気音を散らしながら佐々木 家に向かっていった。美野里は寺坂の後ろ姿を力一杯睨んでいたが、つばめに縋り付いてきた。

「全くもう……」

「先生といい、なんといい、どうしようもない大人ばっかりだなぁ」

 けれど、心底嫌いになれないのはなぜだろうか。つばめは足元が覚束無い美野里を支えて歩いたが、実を言えば 自分の足元もそれほど確かではなかった。つばめの背後には両足と右の拳を泥まみれにしたコジロウがおり、その 気配を感じているから背筋が伸ばせているようなものだった。万が一倒れたとしたら支えてくれる、という安心感が あるからでもあったが、それ以上にコジロウに情けない姿を見せたくない、という意地を張っていたからだ。
 今後のためにも、コジロウに守られてばかりではいたくない。しかし、彼を守れるような力もなければ才覚もなく、 助力すらも難しい。ならば、コジロウに守られるに値する女になってやる。そしてあわよくば、プログラム言語だけで 出来上がっている彼の人格を突き動かし、心を生み出させ、つばめに惚れさせてやる。
 吉岡りんねが抱いているであろう野望に比べれば些細な願望かもしれないが、今のつばめにとっては、コジロウ への恋心を肯定するだけで大仕事だ。野望にせよ願望にせよ欲望にせよ、当人の身の丈に合ったものでなければ 叶えられるはずもない。だから、好意を寄せる相手と両思いになりたい、と思うだけで充分だ。
 叶いもしないことほど、願いたくなるものだ。




 別荘の片付けがそれなりに進み、日も暮れた頃合いに、矮躯の男は戻ってきた。
 というより、いつのまにか別荘に戻ってきたことに気付いたと表現した方が正しい。伊織は武蔵野と共にリビング に散乱した木片を一纏めにして外に出し、埃まみれの床を掃除し、少し緩んだブルーシートを貼り直し、一段落した ので夕食を摂ろうと支度を始めた時、視界の隅に高守の姿が見えた。足音も立てずに地下階の階段を昇ってきた のか、幽霊のように突如現れたのである。高守を視界の隅に捉えた伊織は、悲鳴が喉の奥から出そうになるほど 驚き、戸棚から出した袋ラーメンを床に落としてしまった。一呼吸してから、伊織は毒突く。

「んだよ、てめぇ」

「ん、ああ」

 伊織の反応で武蔵野は察したらしく、食器棚を閉じてから振り返った。

「で、どうだった」

 薄暗い階段からシャンデリアの明かりが落ちているリビングに入ってきた高守は、くたびれた作業着に乾いた土と 枯れ葉を付着させていた。履き潰した作業靴を脱いでから手近なスリッパに履き替えた後、高守は撫で肩の間から 短く生えている首を横に振った。普段と表情に差はないが、心なしか気落ちしているようではあった。

「まあ、そんな感じはしたがな」

 最初から上手くいくことなんてない、と高守を慰めつつ、武蔵野は三人分の丼を取り出した。

「役に立たねー」

 伊織は片手鍋に水を入れると、ガスコンロに掛けた。喰うなら手伝え、と武蔵野から言われたからである。りんねや 他の者達に命じられると心底癪に障るのだが、武蔵野が相手だと苛立つ気にならないのが不思議である。伊織 が武蔵野に対して敵意どころか関心も抱いていないから、だからだろう。仕事の上のどうでもいい関係というのは、 意外と楽なものだ。片手鍋の中に湯が煮立ってくると、武蔵野は火力を緩めてから乾麺を入れた。

「醤油で良かったか?」

 武蔵野が袋ラーメンの空袋を高守に見せると、高守は頷いた。

「お嬢が戻ってくるのは、もう二三日先になるんだそうだ」

「何、電話でもしたん?」

 丼の底にスープの素を入れながら伊織が言うと、武蔵野はふやけてきた乾麺を菜箸で解した。

「暗号回線でな。まあ、お嬢にも色々あるんだろうさ。その間、俺達は自由だ」

「自由っつっても、こんなクソ田舎じゃ……ん」

 やかましい着信メロディーを耳にして、伊織は言葉を切った。ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。薄い 金属板状の携帯電話の受信ボタンを押すとホログラフィーが浮かび上がったが、映像通話モードではなく、ただの 音声通話モードだった。少々面倒に思いつつも、伊織は携帯電話を音声通話モードに切り替えた。

「あー俺、あー、あ、うん?」

 スピーカーではない骨電動式の受話器を側頭部に当て、伊織は受け答えた。

「は? 何それ? つかマジ? うっわー、ヤバくね? 俺? あー別に?」

 一通り会話を終えてから通話を切ると、煮えた乾麺と湯を丼に入れる手を止めて武蔵野が尋ねてきた。

「何の電話だ」

「商売敵に喋るわけねーじゃん!」

 伊織は武蔵野に思い切り中指を立ててから中身の入った丼を取り、箸を引っ掴んで、熱気の籠もるキッチンから 抜け出した。りんねがいるわけでもないのだから、武蔵野と高守と同じテーブルを囲んで食べる意味も理由もない。 階段を昇って二階の自室に入った伊織は、壁のスイッチを押して照明を付けてから、床に直接丼を置いた。

「つか、マジ?」

 電話の内容を反芻しながら、伊織は底で固まっているスープの素を掻き回した。味覚なんて当の昔に弱り切って いるのだから、味を馴染ませても無駄なのだが、ついつい人間らしいことをしてしまう。今し方まで煮立っていた乾麺 を啜り上げても、舌と粘膜が火傷する温度であるにも関わらず痛みも熱さもまるで感じない。せいぜい感じるのは、 喉越しと胃袋の圧迫感だけだ。嗅覚だけは異常に鋭敏なので、味が想像出来るのがまだ救いである。
 名前通りの厳つい外見の割に几帳面な武蔵野が載せてくれた輪切りのネギと海苔を絡めた麺を貪りつつ、伊織 は久し振りに真面目に考え事をした。フジワラ製薬が先だって攻勢に出たのならば、伊織もそれ相応の行動を取る 必要がある。戦いになるとなれば、ようやくまともに味の解るものを口に出来る。その瞬間を想像するだけで、神経が 逆立ってくる。伊織は口角を吊り上げ、尖った八重歯を剥いた。
 鉄錆の味が懐かしい。




 鎮火しても尚、燻っていた。
 先手を打たれてしまった。それも、決定的な手段でだ。一乗寺は苛立ち紛れに蒸かしたタバコを吸い込んでから、 ため息混じりに吐き出すと、火災の名残である煙に己の紫煙を混ぜた。コジロウの無線を通じて得た情報を元に、 藤原伊織が本来所属している企業であるフジワラ製薬に探りを入れて、過去の調査記録や人員の流れから見当を 付けた研究所に捜査令状を送り付けたまではよかった。だが、その直後に研究所で火災が発生した。
 地方都市の郊外に設置された研究所は、コンクリート製の箱のような建物だった。分厚い塀と電流の通った鉄柵 に取り囲まれていて、小振りな要塞のようだ。周辺住民への聞き込み調査では怪しげな噂や情報は得られなかった ものの、この研究所では高頻度で治験の被験者を募集しており、治験を終えた被験者のほとんどがフジワラ製薬と 契約を結んで正社員となっているのが判明した。だが、その後、正社員となった被験者は実家に戻ることすらなく、 連絡すらも途絶えていることも解った。だから、ここの研究所で伊織のような怪人を生み出しているのだと判断して 乗り込もうと突入部隊を編成したのだが、到着した時には既に火の手が上がっていた。

「ちょーっと焦りすぎたかなぁ?」

 一乗寺は出番のなかった愛銃をホルスターに戻し、タバコのフィルターを噛み締めた。

「でも、研究所からトンズラこいた車両はトレース出来たんだよね? 出来ないと言わないでよね、スーちゃん?」

「当たり前だ、ボンクラな仕事はするもんかよ」

 そう答えた男は、一乗寺の防弾ジャケットの内ポケットに手を滑り込ませると、素早くタバコを取り出して銜えた。 一乗寺はライターに火を灯して向けると、その男は身を乗り出してタバコに火を灯し、深く吸った。

「トラックが十台、バンが二十五台、乗用車と軽自動車が合わせて三十二台。そのどれが遺産を持ち出した車なのか はまだ解らんが、全部が当たりだと楽なんだがな。対戦車砲一発で終わらせられるからな」

「そりゃいいねぇー、後片付けが面倒だけど!」

 一乗寺がけらけらと笑うと、戦闘服姿の男、周防すおう国彦くにひこは太い眉を顰めた。

「お前、あの子の前でもその調子なのか?」

「まー、今更どうにかなるもんでもないし? 俺の頭がおかしいのは、今に始まったことでもないもん」

「そこをどうにかするのが大人ってやつだろう。もう少し付き合え、確保しておきたい人間がいるんだ」

「へいよー。んで、東京にお戻りになった御嬢様はどうするん?」

「泳がせておけ。敵が尻尾を出すまで手を出せないのが歯痒いがな」

 だからスーちゃんと呼ぶな、と周防は一乗寺の肩を小突いてから、事後処理に奔走する消防署員達の元に戻って いった。一乗寺はにこにこしながら周防の広い背を見送ってから、吸い終えたタバコを携帯灰皿にねじ込み、不意に 表情を強張らせた。怪人を殺すのは、もうしばらくお預けになりそうだ。それまでは銃撃戦も楽しめまい。
 退屈極まりない。





 


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