二時間半の移動を経て、県庁所在地に到着した。 市の外れにあるテーマパークで行われるニンジャファイター・ムラクモのショーの開演時間は充分間に合ったが、 N型溶解症によるサイボーグ大量死事件の影響で尻切れトンボに終わった本編を補完する完結編と銘打っている だけあって、来客数は多かった。子供連れだけでなく、子供をダシにして来た親も多いようだった。ムラクモの変身 アイテムのオモチャやフィギュアを手にしている、筋金入りのオタク達の姿も目に付いた。駐車場にも車がびっしりと 留まっていたが、ジープは端の端に辛うじて空いていたスペースにねじ込むことが出来た。 特撮ってそんなに面白いものなんだろうか、と訝りながら、小夜子は当日券を買い求めるために列を成している 人々を眺めた。中にはプロ並みの望遠レンズを備えたカメラを手にしている人間もいて、そこまで気張るほどのもの なのかと気圧された。武蔵野は準備良く前売り券を買っていたので、前売り券を入場券と引き替える窓口に並びに いった。一人取り残された小夜子は、トートバッグの中の弁当を気にしつつ、武蔵野の帰りを待った。観客達の列は 徐々に捌かれていき、武蔵野も戻ってきたが、頭一つ二つ出た身長と壁のような体格のせいで人々は彼を避けて くれた。武蔵野は出入り口付近のベンチに座っている小夜子の元に戻ってくると、入場券を差し出した。 「柳田の分だ」 「おう」 小夜子は座席番号が書かれた入場券を受け取り、腰を上げた。 「客の数、やけに多いな。ムラクモってそこまで面白いのか?」 「面白い。ケレン味と派手な演出と絶妙な伏線の張り方もそうだが、ニンジャファイターのキャラ立てが上手いんだ。 どいつもこいつも必ず欠点があるんだが、それを補えるのは仲間だけなんだ」 「へー。たとえば?」 小夜子がやる気なく尋ねると、武蔵野は即座に答えた。 「ニンジャファイターのリーダーである水神のムラクモは正統派のヒーローだが古風な性格で、一度それと決めたら 融通が利かなくなるんだ。水と同じだ。同じ方向にしか向かえない。そのおかげで解決出来た事件も騒動もいくつも あるんだが、そのせいでニンジャファイター達が窮地に陥ったことも少なくない。だが、そこに鴉天狗のクロウマルが 横槍を入れて方向転換させるんだよ。クロウマルはふらふらしていて落ち着きのない若者なんだが、浮き足立って いるからこそ視野も高ければ幅も広いんだ。だが、そのせいで他人の言うことに流されやすい。そこで一つ目入道 のタンガンが首根っこを掴まえて地に足を着けさせるんだが、タンガンもタンガンで女性にやたらと弱い。そのせい で、敵怪人やらゲストヒロインに何度騙されかけたことか。そんな時、鬼蜘蛛のヤクモがタンガンに絡んできた女性 の魂胆を見抜いて逆にやり込めるんだ。が、そのヤクモも、前世からの恋人とまた恋仲になれたせいでちょっとした ことでふわふわしちまうから、そこをムラクモがまとめるんだ。上手いこと出来ているだろう?」 「一息で設定をそれだけ言えるなんて、どんだけ見たんだよ」 「それは聞くな」 武蔵野は太い眉根を寄せて、サングラスを押し上げて目元を隠した。そうこうしている間に、ニンジャファイター・ ムラクモのヒーローショーが始まった。吉岡グループとハルノネットの製造したサイボーグがことごとく溶けて死んで しまったので、特撮番組で使うサイボーグも例外ではなく、サイボーグアクター達もほとんどが死亡した。それでも、 ニンジャファイター・ムラクモを楽しみにしているファンを裏切るわけにはいかないと奮起して、昔ながらの着ぐるみ やスーツアクターやロボットを駆使し、本筋から懸け離れない程度に話を変えた。その結果、ニンジャファイターは 宇宙山賊ビーハントとの戦いの最中に変身アイテムが奪われて変身能力を失ったが、ニンジャファイター達の魂に 宿る神通力で変身出来るようになり、より凶悪になった宇宙山賊ビーハントと決着を付ける、とのことだった。 真顔でステージを凝視する武蔵野の隣で、小夜子はなんとなくショーを見ていたのだが、徐々にそのストーリーに 引き込まれていった。地方のショーでは素顔を演じている俳優陣は呼べないので、ニンジャファイター達は変身後の スーツを着た状態でステージに現れては敵と戦っているのだが、皆、生まれ変わらずにこの命を使い切ろうと決意 を表明していた。ニンジャファイター達は、妖怪の魂が人間に転生して今の力を得た。だから、また生まれ変わって しまったら、生まれ変わった先の時代や世界で再度戦うことになる。戦いの最中で、宇宙山賊ビーハントの面々も それぞれの流儀や信念に基づいていると知ったから、殺し合わずに生きられる道を見出そうと必死になっていた。 そのためにはまず、ニンジャファイターの変身アイテムであるヒヒイロカネを破壊して輪廻転生の環を断ち切ること が大命題だ、とムラクモは力説していた。そして、宇宙山賊ビーハントもまた、ヒヒイロカネで作り上げられた妖刀を 滅ぼして悪の連鎖を立ち切ろうとしていた。その妖刀によって、宇宙山賊ビーハントの頭領である怨霊のサダモトは 愛妻である妖狐のシラタマを失ってしまったからだ。強さを求めるあまりに、愛して止まない女の血を刀に吸わせた サダモトは比類なき破壊の力を得たが、地球を支配しようと宇宙を平らげようと、シラタマは戻ってこないのだ。 宇宙山賊ビーハントは、ニンジャファイター達の変身アイテムであり、ヒヒイロカネ製のマガタマックスを入手して 底なしの神通力を手に入れたが、それは黄泉の国への入り口であるヒヒイロカネを目覚めさせることでもあり、生と 死の境界を薄くしてしまうことでもあった。シラタマの魂を得たヒヒイロカネは、怨霊のサダモトとニンジャファイター 達が輪廻転生の環の中で何度も戦い、滅ぼし合い、因縁を深めてきたのだと語る。その因果が折り重なるほどに ヒヒイロカネは力を増していく。そして、宇宙全体の生と死を逆転させ、死のない永遠の楽園を作り出すのだと声高 に叫んだ。どっかで聞いたような話だな、と小夜子は思わないでもなかったが胸に納めた。 シラタマや、儂のシラタマや、と折れた妖刀に腹を貫かれたサダモトは、刀を握り締める。ああやっとそなたは儂 の元に帰ってきてくれたか、もう離れはせぬ、何度死を迎えようとも、この刀に呪われた生を繰り返そうとも、そなた 一人では決して往かせはせぬぞ。スーツアクターの演技もさることながら、事前にアテレコされている声優の演技も 鬼気迫っていた。きっと、サイボーグアクター達の無念を晴らそうと思うがあまりに生じた演技力なのだろう。 ニンジャファイター達の手で、サダモトのヒヒイロカネが砕かれる。そして、ムラクモは言う。私達は人間としてこの 世に生まれ変わり、人間と共に過ごし、人間の良さも悪さも知った。そしてビーハントの面々も、生まれ育った惑星 では人間と呼ぶに値する種族なのだ。私達にどんな違いがあったのだろうか。心のままに生きていたいと願うこと も、私達と彼らにはなんら違いはない。だが、ヒヒイロカネはそれを糧とせんがために私達の魂を歪めて宇宙山賊 ビーハントと戦わせ、恨み辛みを貪った。その忌まわしきメビウスの環は、今、ここで断ち切ろうぞ。そして、私達は 一人の人間として、皆と同じ人生を歩んでいこう。寄り添うべき人は、すぐ傍にいるのだから。 ショーが終わる頃には、子供達はステージの空気に飲まれて黙し、大人のファン達は涙を堪えて凝視していた。 サングラスを外して観劇していた武蔵野も感極まっているのか、背を丸めてしきりに顔を拭っていた。小夜子も思い がけず感動してしまい、ニンジャファイター達がステージから去る時には拍手してしまった。 ショーが終わってサイン会と撮影会が始まると、武蔵野は子供達の邪魔をしてはいけないと言って、早々に野外 ステージの観客席から出ていった。テーブルと椅子が並べられた広場に来ると、丁度昼食時だったので、小夜子は あの弁当を広げた。水筒までは持ってこなかったので、やたらと割高な自動販売機でペットボトルの緑茶を買った。 武蔵野は気まずげな小夜子と弁当箱を見比べたが、礼を述べた。 「悪いな、気を遣わせて。ありがたく頂くよ」 「おう」 小夜子は照れ臭かったが、ニンジャファイター・ムラクモのショーの余韻が抜けきっていなかった。 「割と面白かったな。つか、ムラクモってああいう話だったのか?」 「いや。序盤は割とコミカル路線で、ニンジャファイターとビーハントの怪人のドタバタ話が多かったんだが、中盤で ヒヒイロカネの出所が黄泉の国だと解ると脚本家が本気を出したみたいでな。で、N型溶解症があっただろう。それ が決定打になって、死生観の話になったんだ」 「子供向けじゃねぇよ、そんなん。ハードすぎるだろ」 「子供向けと子供騙しは違うんだよ。むしろ、ああいうどぎついものほど、子供の頃に見ておくべきだと思うがな」 武蔵野の意見は極端ではあったが、筋が通っていないわけではない。小夜子は弁当に手を伸ばして、おにぎりを 囓った。取り皿におかずを取って食べていると、武蔵野に問われた。 「こんな時に聞くのもなんだが、柳田はなんであの部署にいたんだ?」 「黙れよ公安の飼い犬」 「答えろ犯罪者」 小夜子が軽口を叩くと、武蔵野もそれに応じてくれた。小夜子は緑茶を呷ってから、一息吐く。 「そんなにややこしい経緯でもねぇよ。あたしは自衛隊の武器科に入って、戦闘車両とか災害支援用の人型重機の 整備をする部署にいたんだ。んで、毎日毎日仕事をしていたら、警官ロボットを流用した人型特殊車両を配備する っつー計画が持ち上がったんだ。そのためにうんざりするほど研修に行って色んな資格を取ったんだが、人型特殊 車両が配備される直前になって急に頓挫したんだよ。タカさんが遺産絡みのゴタゴタをどうにかするために、政府を 顎で使おうとストライキをしたんだろう。おかげで自衛隊は大損害で、人型特殊車両もお蔵入り。ムリョウに変わる 動力部が完成する直前だったからな。んで、仕方ないからタカさんに協力するってことが決まったんだが、コジロウ を政府側で整備するっつーのがタカさんに手を貸す条件になった。タカさんの技術を盗むためだよ。んで、あたしは 人型特殊車両に明るかったから引き抜かれた。だから、言っちまえば、あたしはむっさんの後輩だな」 「なるほどなぁ。で、技術は盗めたのか?」 「それが全然。タカさん、頭の構造があたしらとは全然違うんだよ。当たり前だけどさ」 「だったら頑張れ。これから同僚になるんだろう?」 「すぐじゃないけどな。まー、そのうち、あたしが作ったロボットファイターで世界を席巻してやるよ」 「ああ、応援してやるさ」 武蔵野の何気ない言葉に、小夜子は心臓が跳ねた。それまではなんとも感じていなかったのに、急にあの戸惑い が蘇ってきて、小夜子は居心地が悪くなった。弁当の中身を胃に詰め込んでから、トイレに行くと言ってテーブルを 離れた。テーマパークの隅にある女子トイレに駆け込んで個室に入ると、暴れる心臓を押さえ、小夜子は深呼吸を 繰り返して落ち着こうとした。けれど、一向に効果がなく、苦しさのあまりに泣きたくなってきた。 最低だ、最悪だ。小夜子は次第に自分の恋心の芯を自覚し、腹の底から自分が嫌いになった。長孝は小夜子の 父親にはなってくれないから、武蔵野に父親になってほしいと願っているのだ。だから、褒められたいと思ってしまう のだし、好かれたいと思ってしまった。こんなのは恋でもなんでもない、ファザコンの延長だ、独り善がりな欲望だ。 そんなものをぶつけたら、武蔵野は優しい男だから小夜子を受け止めてくれるだろう。だが、本当の意味で小夜子 を好いてくれるわけではないだろう。女として見られていない、だなんて思い上がるにも程がある。そもそも小夜子 が武蔵野を男として見ていなかったのだから、女として認識されるわけがない。 けれど、父と娘になれるはずもない。 何もかも、やる気が失せる。 それもこれも、自分が嫌になってしまったからだ。荒れ放題の部屋に引き籠もっていると余計に気が滅入るが、 かといって気晴らしになるような遊び場も店も近場にはなく、愚痴を零せるような友達などいない。それでも、一人で 抱えているとどんどん深みに填ってしまうので、誰かに吐き出さなければ気が済まなかった。 そして行き着いたのが、一乗寺が教鞭を執る分校だった。集会所の広間は年季の入った畳が剥がされ、三つの 机と教卓が並んでいた。生徒の人数分のロッカーも後方に置かれ、まだまだ寒い季節なので石油ストーブも据えて あった。さすがに少女達が戯れる教室でやさぐれるのは気が引けたので、小夜子は職員室になっている小部屋で 一乗寺と向かい合った。ジャージ姿の一乗寺は髪をシュシュで結んでいて、一段と女性らしくなっていた。 「んで、さよさよは何をしに来たの? 俺と話しに来るなんて、めっずらしーい」 一乗寺はインスタントコーヒーを湯飲みに入れると、それに無造作に湯を注いでから小夜子に差し出した。 「それが解ったら苦労しねぇよ」 「もしかして、なんかあったの?」 興味津々の一乗寺に、小夜子は苦いだけのコーヒーを啜った。 「言えるか、そんなもん」 「あー、あったんだぁー。じゃ、誰とどんなことがあったのか先生に話してみよう! いえーい!」 「お前はあたしの教師じゃねぇだろ」 「でもでも、先生は先生じゃーん」 澄まし顔の一乗寺は椅子に深く腰掛ると、肉付きの良い足を組んだ。アホくせぇ、と小夜子は毒突き、職員室を 見渡した。一乗寺もまた小夜子と同じく整理整頓が苦手な人種なので、そこかしこに重要書類や教材といった書類 の束が塔を成していたが、空気中を漂う埃の数は少なめだったので一乗寺なりに掃除を頑張っているらしい。 「んで、イチはスーとはどんな感じなんだ」 小夜子が尋ねると、一乗寺は照れた。 「えへへー、そりゃもう。すーちゃん、出張が多くてなかなか帰ってこられないけど、その代わりに帰ってきたら俺の ことを目一杯構ってくれるんだぁ。んで、俺の話もちゃんと聞いてくれるの。もちろん、すーちゃんの話も聞くけどさ、 俺が話す時間の方が長いかな。だってさ、前に比べると嬉しいことが増えたんだもん」 「で、だ」 小夜子は言いづらかったが、意を決して本題を切り出した。 「イチは、スーを誰かの身代わりだと思ったことはあるのか?」 「そりゃあるよ。小学生の時に殺した子でしょ、中学生の時に殺した子でしょ、ショウでしょ、お母さんでしょ」 一乗寺は指折り数えてから、その指をゆっくりと広げた。 「あの時あの人にああしていれば、って思ったことをすーちゃんでやり直しているの。すーちゃんもそれを解った上で 俺に付き合ってくれている。優しいんだよ。変な奴だけどね」 「それは幸せなのか?」 「俺達はね。俺はすーちゃんに構ってもらえて幸せ、すーちゃんは俺にまとわりつかれて幸せ。利害関係が一致して いるから、一緒に暮らしてんじゃん。そういうさよさよは、今、幸せじゃないの?」 少女のような澄みきった目で見つめられ、小夜子は言い淀んだ。 「それが良く解らねぇから、愚痴りに来たんじゃねーか」 「さよさよってさぁ、もしかしなくても、お母さんが嫌いだよね」 一乗寺はマグカップを傾けてコーヒーを啜ってから、しれっと言い放った。 「さよさよの家庭の事情はよく知らないけど、お母さんのことはちっとも聞かないもん。お父さんの話はちょっとだけ 聞いたかもしんない。お父さんがお母さんのことを話してくれなかったから、お父さんがお母さんを嫌いなら自分も お母さんが嫌いだ、って思ったりしたの? 俺もちょっとその気はあったから、男の体になっていたけど、また女に 戻ってからはそうでもないかな。俺のお母さんは世間に馴染めなかっただけなんだなぁ、って解ってきたから」 「勝手に適当なことを言ってんじゃねぇよ」 「女らしくしようとしなかったのも、性格もあるだろうけど、母親を含めた女ってのを否定するためじゃないの?」 「だから、なんでそんな推測するんだよ」 「んー、別にぃ? 適当に言ってみただけ」 一乗寺は意地悪く目を細め、小夜子を見返してきた。小夜子は苛立ったが、コーヒーで紛らわした。 「お前なんかに話したのが間違いだったよ」 「んでさぁ、思うんだけどね」 一乗寺はあっけらかんと笑い、身を乗り出してきた。 「うだうだ悩むだけ時間の無駄だから、ヤっちゃえば?」 「どぁっ、誰とだよ!?」 小夜子が動揺すると、一乗寺は小首を傾げる。 「それはさよさよの自由だよー。でも、すーちゃんは貸してあげなーい。すーちゃんの全部が俺のモノだもん」 「どうしてそう極端なんだよ、お前って奴は!」 「結局さあ、男と女の良さを理解し合うにはそれが手っ取り早いんだよね。俺の場合がそうだったもん」 「だからって、それがあたしに当て嵌まるわけがないだろ!」 「じゃ、さよさよが思う通りにやればいい。ヤってもいい」 「全く……」 小夜子が顔をしかめると、一乗寺はにんまりする。 「大体に置いて、他人に相談している時点で本人の中で結論は出ているものなんだよねー。つばめちゃんとりんね ちゃんと色々と話していると、それがよく解るんだぁ。コジロウ君がどうのいおりんがどうの、って言ってくるんだけど、 最終的には惚気になってんの。だから、さよさよも下手なことを考える前に行動してみたら? それが一番確実だと 思うんだけどなぁ、俺としては」 「行動って」 具体的に何をすれば。小夜子が身動ぐと、一乗寺はマグカップを揺らして底に残ったコーヒーを混ぜる。 「自分を肯定してあげるの。俺はずうーっとそうしてきた。でないと、息苦しくてやってらんないもーん」 「それが出来ないから、どいつもこいつも悩むんだろうが」 「悩む時点で、自己肯定は出来ているようなもんだけどね。悩むってこと自体が高尚な行為だから」 「イチ、やけにまともなことを言うんだな」 「ここんとこ、新学期の準備をしながら一人でいたから、頭の中が整理出来ているだけだよ」 それから小夜子は一乗寺と語り合ったが、事ある事に武蔵野とのことを聞き出されそうになったので、ここにいて は沽券に関わるので適当な理由を付けて分校から逃げ出した。いつのまにか暗くなっていて、月まで昇っていた。 集落には散歩がてら徒歩でやってきたので、自家用車は手元にない。かといって、他の誰かに車を出してもらう のは癪だ。こうなったら、月明かりを頼りに帰るしかなさそうだ。せめてタバコで光源を、と作業着のポケットから出した タバコを銜えてライターを灯し、渋い煙を吸っていると、目の端に光を感じた。 「んあ」 振り返ると、懐中電灯を手にした武蔵野が立っていた。 「何してんだよ」 あんたのせいで無駄に悩む羽目になったんだ、と言いかけたが、小夜子はぐっと堪えた。 「柳田こそ、何をしている」 懐中電灯の光を下に向けた武蔵野に問われ、小夜子ははぐらかした。 「別になんでもねぇよ。これから歩いて帰る。どうせ政府の連中がいるんだから、不審者なんていねぇしな」 「この前の礼をさせてくれないか」 「え、あ、う?」 なんだそれは、一体どういう意味でだ。小夜子が狼狽えると、武蔵野は自宅を指し示した。 「夕飯だけでも喰っていけ。その後で車を出して送ってやるよ。女一人、夜道を歩かせられるほど冷酷じゃない」 まだ気持ちの整理すらも付いていないのに。次から次へと勝手なことを言ってんじゃねぇよ、あたしは別にか弱くも なきゃ若くもねぇよ、大きな御世話だこの野郎、と小夜子は怒鳴り散らしてやりたくなったが、言えるはずもなく了承 した。武蔵野は客を招けることが嬉しいのか、心なしか足取りが軽い。彼の持つ懐中電灯の光を追い掛けながら、 小夜子は一度分校に振り返った。一乗寺は残業しているらしく、カーテンの隙間から光が零れていた。 そして進行方向に向くと、玄関と室内から窓明かりが漏れている、合掌造りの古い家が待ち構えていた。それだけ で無性に目の奥が痛くなり、小夜子は暗がりであることをいいことに顔を歪めた。明るいところに出る前までに表情 を戻さなければ、と自戒しようとするが、ここ最近でひどく揺れ動いている心中は意志に反してぐらつく一方だった。 お願いだから一人にしないで、先にどこかへ行かないで、父さん、ここにいて。 辛うじて言葉には出さずに済んだが、行動に及んでしまった。我に返ると、小夜子は右手に硬い布地を握り締めて いた。恐る恐る目を上げると、それは武蔵野が着ている迷彩服の裾だった。離そうとしても手が緩まず、引き抜こうと しても勇気が足りず、小夜子が硬直していると、皮の厚い大きな手が手首を掴んできた。 父さん。幼子のような震え声が、鼓膜を掠めた。 13 3/22 |