機動駐在コジロウ




寸鉄、ハートを刺す



 機械的に夕食を終えた後、ようやく小夜子は口を開けた。
 舌の回りを良くするために少しだけ酒の力を借り、武蔵野の頼りがいのある背中に額を当てながら、長年胸中で 凝っていたものを解していった。小夜子は父親が好きだった。片親で、頼れる大人が父親だけだったからということ も相まって心の底から寄り掛かっていた。価値観の中心で、世界の軸で、世の中の全てだった。だから、父親の背 を追って機械技師の道に進むのは自然の流れだった。だが、独り立ちした姿を見せる前に父親は病死してしまい、 仕事ばかりで家に寄り付かなかった父親と向き合う機会も失った。

「あたし、最後まで父さんのことをなんにも知らなかったんだ」

 武蔵野の太い背骨を額で感じながら、小夜子は温くなった缶ビールを手の間で転がした。

「あたしを産んだ女のことも教えてもらわなかった。どうやって出会ってなんで別れて、あたしを引き取ったのかも、 知らないままだった。今からでも調べられなくもないだろうけど、正直、知りたくない。それを知ったら、あたしが思う 父さんの姿がダメになっちゃう気がするからだ。でもさ、やっぱりあれだよ、父さんに認めてほしかったんだ。全部。 上手く言えないけど、好きになってほしかったんだ。だってそうだろ、父さんが家に寄り付かなかったのはあたしが そんなに好きじゃなかったからだろ。タカさんを見てりゃ解るよ」

 だから。

「親にも好かれなかった人間が、誰かに好かれるわけがないんだ。それなのにさ、あたし、馬鹿だよ」

 言うつもりもなかった言葉が次から次へと口から出てしまい、小夜子は喉の奥で呻きを殺した。心臓が、内臓が、 神経が、骨が、無数の棘に切り刻まれる。武蔵野の迷彩服の裾を再び握り、傷口から漏れた真情を絞り出す。

「あんたは父さんの代わりじゃないし、あたしじゃひばりさんの代わりになんてなれない。だけど、だけどさ、あんたと 一緒にいられて嬉しかったんだ。馬鹿だよ。だって、あたしはそういう対象にはなれねぇし。一応、穴はあるけどさ、 それだけだよ。それだけなんだよ。突き放さないでくれよ。近くにいてくれよ。せめて、話し相手になってくれよ」

 そこから先を望むのは、あまりにも愚かだ。自分には、女としての価値が欠片もないからだ。その証拠に武蔵野 は小夜子の体を一切触ろうとはしない。手首を掴んでくれたのは反射的な行動であって、小夜子が弱っていたから 心配したわけではないだろう。それは楽ではあるが、果てしなく空しい。

「人の家庭の事情に口出し出来るほど、俺は立派な人間じゃないが」

 武蔵野は小夜子を気にしつつ、抑え気味に言った。

「柳田の親父さんは、そんなに冷たい人間じゃないと思うがな。だってそうだろう、医者にも行かないで根を詰めて 仕事をしていたのは、一人娘を育てるためだ。それが結果として柳田を一人にすることになっちまったが、男手一つ でそこまで育てられたんだ、きっと後悔はしちゃいないさ」

「そうかな」

「それと、こう言うのもなんだが、死んだ人間にそこまで義理立てしなくてもいいと思うぞ。不幸な結果になっちまった ことは否めないが、それもこれも親父さん本人が選んだ結末だ。柳田がそこまで思い詰めるもんじゃない」

「それでいいのかよ」

「俺はそうすべきだと思う、ってだけだがな。傭兵だった頃も、新免工業の実働部隊で戦っていた頃も、俺の周りでは 何人も死んでいった。俺が殺した相手も数知れない。そいつらの人生を全部背負って生きられるほど、俺の背中 は広くなければ足腰も強くないんだ。昔はちったぁ悩んだが、今は腹を括っている。少しぐらい自分の幸せってやつ を求めたって誰にも咎められはしないぞ。まあ、柳田は犯罪者になるかどうかの瀬戸際だが、非常事態の緊急措置 だと判断されれば刑罰はかなり軽くなるだろう。それに、遺産の存在は厳密には政府に認められちゃいないんだ。 怪人連中と同じだ。アマラを持ち出してつばめに渡したところで、アマラそのものが存在していないんだから、起訴 されたこと自体が無効になる可能性もある。報道機関に柳田の情報が流れていないところを見ると、目眩ましにも 使われていないようだしな。だから、遠からず自由になれる。その時にどうしたいのか、また考えればいい」

「それ、公安の入れ知恵か?」

「いや、半分以上は俺の主観だ」

「そんなん、気休めにもならねぇよ」

 小夜子は笑おうとしたが、口角が奇妙に歪んだだけだった。

「なんで俺にしたんだ」

 長い長い間を経て、武蔵野に問われた。それと同等のラグの後に質問の意図を察した小夜子は、ささくれ立った 心中が熱く疼いた。居たたまれなくなり、武蔵野の迷彩服に爪を立てる。

「それが解れば、誰も苦労はしねぇよ」

「ああ、そうだなぁ」

 自分の過去を顧みたからか、武蔵野が自嘲する。記憶の中の父親の背よりも広い背に縋り、小夜子は零す。

「嫌なら、止めるけど」

「別に嫌じゃない」

「嘘吐け」

「俺はそこまで器用な人間じゃない」

「格好付けてんじゃねぇ」

「なんというか、面倒臭いな」

「悪かったな。こういう奴なんだよ、あたしは」

「いや、柳田のことじゃない。俺のことだ」

 広い背が上がり、肩越しに伸びてきた大きな手が小夜子の頭に慎重に載せられた。

「まあ、なんだ。俺もこういう人間だから、面と向かって反吐が出るような口説き文句を言える性分じゃない。だから、 今日のところはこれで勘弁してくれないか」

「……おう」

 小夜子は武蔵野の強張った手の感触に感じ入り、息を詰めた。その手が離れてしまうのが惜しかったが、代わり に背中に一層体を寄せた。そうしていると、少しずつではあるが、凝り固まったものが緩んでいく気がした。

「で、あたしのどの辺が気に入ったのか教えろよ。もののついでに」

「細かいことを説明出来るほど、明確な理由じゃない。目が合ったからだ」

「なんだ、それだけかよ」

 自分と同じではないか。小夜子は嬉しさと照れ臭さがない交ぜになり、僅かに肩を揺すった。

「けど、だからってセフレ扱いするんじゃねぇぞ?」

「馬鹿言え。そんなことが出来るような度胸があると思うか」

「確かに」

 小夜子は武蔵野の背中に寄り掛かり、笑いを堪えた。それから、特に何をしたというわけではない。味がほとんど 解らなかった夕食を食べ直すために晩酌をしたのだが、武蔵野も酒を引っ掛けたので車を出せなくなった。なので、 小夜子は一晩泊まることになったが、手を出されなかった。触られもしなかったし、寝床も別の場所に用意された。 それが物足りなくもあったが、小夜子との適度な距離感を見出そうとしている武蔵野のいじらしさに、またも好意を 覚えた。自室の布団とは段違いに柔らかい布団に潜り込んで、小夜子は深く息を吸い、吐いた。
 心に刺さった棘は、柔らかくなっていた。




 短い春が終わり、初夏が訪れた。
 武蔵野が毎日精魂込めて手入れしている畑には、作物が葉を広げつつあった。それを武蔵野が住まう家の縁側 から眺めているだけで、不思議と心中が凪いだ。ひやりとする板張りの床に寝そべっていると、家主が戻ってきた。 風は涼しいが日差しが強いからだろう、ツナギの上半身を脱いで黒いタンクトップ姿を曝していた。小夜子がごろり と寝返りを打ってから身を起こすと、武蔵野は小夜子の隣に腰を下ろした。

「で、どうなった」

「今のところは起訴猶予だが、またどうなるか解らねぇ。で、また裁判所に呼び出されちまった。旅費は自前だから、 東京まで行くのが面倒臭ぇよ。遊び歩こうにも、行きたいところが遠いしなぁ。まー、ロボットの基板と部品を漁りに 秋葉原のジャンク屋には行くけどな。パソコンも新しいのを自作したいし。ソフトで3Dの図面を作成するのはいいん だが、処理落ちしてすぐに固まっちまってさー。コジロウ、ムジンでも貸してくれねぇかな」

 小夜子が怠惰に報告すると、武蔵野は首に掛けていたタオルで汗を拭い取った。

「そりゃ無理だな。とりあえず、弁護士の言うことをちゃんと聞いて下手は打たないようにしろよ」

「ガキの使いじゃねぇんだから。立件されないように、大人しくしているけどさ。収監されたくはねぇし」

「ああ、頑張れ」

「おう。で、弁当なんだけどな、冷蔵庫に入れておいた。中身は教えてやらん」

「そりゃどうも。二人前か?」

「当たり前だろうが。自分で作ったものを自分で喰わなくてどうする」

 小夜子は武蔵野の屈強の体を仰ぎ見たが、近頃感じている違和感の真偽を正すために尋ねた。

「むっさんって混血? なんか、骨格とか肌の色とかが微妙に違う気がするし、日本人だったらそこまで派手な筋肉 付かないだろーって、最近思ったんだけど。違っていたら、悪い」

「少しだけだ。父方の祖父がアラブ系アメリカ人だったそうだが、だからどうってことでもない」

「まあ、そうだな。それが今のむっさんと関係あるかどうかっつったら、ねぇな、これっぽっちも」

「ああ、ないね。俺も最近気付いたんだが、俺が十七歳の頃にお前が産まれた計算になるんだな」

「今更すぎじゃね? てか、むっさんの高校時代なんて想像付かねー。なんか笑えてくる」

「なんというか、人生、何がどうなるか解らんもんだな。高校生の俺に二十九年後にはこうなると言ったところで絶対に 信じないだろう。あの頃の俺は特にひどかったからな」

「なんにしたって、今が良ければいいんじゃねぇの?」

 小夜子は勢いを付けて上体を起こし、寝乱れた髪を掻き上げた。

「こうやって毎日通うのも悪くねぇけど、面倒臭くなってきた。いっそ、一緒に住んでもいいかなぁ」

「だったら、まずは掃除することを覚えてくれ。お前の部屋に行った時、ひどかったからな」

「誰も来ないと思うから、締まりがなくなっちまうんだよ。解るだろ、なあ」

「少しはな。だが、だらしなくしていてもいいことはない。それは解るだろ、さすがに」

「一応はな」

 小夜子は体を傾け、武蔵野の汗ばんだ上腕に寄り掛かった。父親のものよりも余程濃い、男の匂いがする。

「んで、また何もしてこねぇの? 御立派なモノをぶら下げてくるくせに。使わなさすぎてジャムっちまたか?」

「昼間から何を言いやがる」

 武蔵野はやりづらそうに毒突いたが、決して嫌がってはいなかった。あれから、二人の間で急激な変化が起きたと いうわけではない。互いに好きだと明言したわけではないし、どちらもベタベタした恋愛沙汰は苦手なので、男同士 のような言い合いを繰り返しているばかりだ。甘さとは程遠い関係ではあるが、その距離感が心地良いので互いに 満足している。だが、その均衡がいつまでも持つわけではないこともまた、互いに解っている。

「今度、父さんの墓参りに付き合ってくれねぇかな。どうせ暇だろ?」

「見ての通りだ。それで、親父さんの墓はどこにあるんだ」

「結構遠いぞ。あたしの実家、北関東の外れの方だから」

「その間、畑の手入れは伊織にでも任せる。あいつは見た目の割には信用出来るからな」

「せっかくだから、スカートでも履いてやろうか」

「嬉しいね、あの足をまた拝めるのか」

「うるせぇー」

 小夜子は身長に比例した長さの足を投げ出し、縁側の外に出した。汗を吸ったジーンズが肌に貼り付いていて、 少し動かしづらかった。着古したTシャツの裾が風を孕み、腹部から背中に掛けて空気が巡り、清涼感が訪れては 通り過ぎていった。風通しを良くするために戸を開け放している室内にも風が抜けていき、分校から漏れ聞こえる 少女達のお喋りもかすかに混じっていた。雪が消え、皆が住み着いてからは、集落も息吹を取り戻している。
 あれから、武蔵野は小夜子に色々なことを話してくれた。幸福とは言い難い幼少期、他人に甘えられないが故に 頑なになっていた思春期から青年期、傭兵として戦い始めた頃の苦悩、新免工業での仕事、そして佐々木ひばりに 対する複雑な感情と、小夜子に抱いているまろやかな好意。目が合ったことを切っ掛けに、武蔵野は小夜子を目で 追うようになっていた。話が合うか否かは別として、程良い付き合いをするには最適だと感じていたからだ。そうでも なければ、ヒーローショーになど誘うわけがない。その時は対等な友人になれればいいとだけ思っていたそうだが、 小夜子が武蔵野の趣味を無下にしなかったことがやけに嬉しかったので、それから薄々意識するようになっていた のだそうだ。小夜子にも、その気持ちは良く解る。趣味を受け止めてもらえることは大事だ。

「小夜子」

 前触れもなく下の名前で呼ばれ、小夜子は羞恥に駆られて俯く。

「……ん」

「昨日、風呂に入ったのか? 暑くなってきたんだから、少しは頻度を上げたらどうだ」

「そんなん、あたしの勝手だろうが」

「なんだったら、付き合ってやってもいいぞ」

「うるせぇー」

 小夜子は力なく手を振り、武蔵野の上腕を軽く叩いた。武蔵野は抗いもせず、笑っているだけだった。それが本気 かどうかは別として、気に掛けてもらえるのは悪い気はしない。それでも、武蔵野と接するようになってからは徐々 にだらしなさは改善しているのだが、所詮は微々たるものなので傍目からではよく解らないらしい。なんだったら、 一緒に風呂に入ってもいいかもしれない。そうすれば、手を繋ぐか否かで散々迷う関係から、少しだけ進歩出来る 可能性もなきにしもあらずだ。かすかな期待と過剰な不安を覚えたが、小夜子の胸は痛まなかった。
 もう、棘は抜けていたからだ。







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