DEAD STOCK




10.Rize Up



 息が苦しくない、喉がざらつかない、嫌な匂いがしない。
 さらさらと肌触りの良い布地が手に触れ、柔らかなクッションが体重を優しく受け止めてくれる。暑くもなければ寒く もない、程良い温度の清潔な空気が体を包み込んでいる。口の中からは甘ったるさが抜けていて、胃腸を不気味に 膨張させていた異物も取り除かれている。瞼を瞬かせてから躊躇いがちに開くと、丸い空が見えた。
 それが天井であると気付くまで、少し時間が掛かった。プレタポルテは自分の手を広げて、クイーンビーの巣の中 ように青い空が投影されている天井に差し伸べてみたが、届きはしなかった。倦怠感と眠気に任せて寝返りを打つ と、気持ちを安らがせてくれる花の香りが膨らんだ。それを胸一杯に吸い込もうとしたが、クイーンビーの巣の中では ガスマスクを通り抜けてきた甘ったるい香りを吸いすぎて頭が痛くなり、気分が悪くなったことを思い出して躊躇した。 一度息を止めてから、少しずつゆっくりと吸い込んでみるが、今度は頭は痛くならなかった。むしろ、気分の悪さが 晴れていった。プレタポルテは何度も深呼吸してから、身を起こしてみた。
 いつも通りのぼやけた視界、音の鈍い世界ではあったが、心地良かった。暖かな光が降り注ぎ、金属を短い針で 弾くような音を組み合わせた音楽がかすかに流れているが、その音色が良く聞こえないのが残念だ。円形の寝床 の周囲を見回してみると、丸い台座に水が詰まった透き通った瓶とコップが添えられ、食べ物と思しきものが皿に 載せられていた。遠近感が解りづらいので目を凝らしながら水をコップに注ぎ、少しだけ飲んで喉を潤すと、冷たい 甘みがすうっと喉から胃袋に流れ込んでいった。食べ物に触ってみると、手応えが軽く、ふわふわしていたので、 これまで食べてきたものとは全く違っていた。恐る恐る囓ってみると、ふわふわしたものの奥から舌触りの良い 粘度の高い液体が現れた。どちらも甘く、柔らかく、綿を食べているかのような感触だった。
 暴力的ではない程良い甘さで腹を満たし、清潔な水を飲むと、大分気分が落ち着いた。プレタポルテは柔らかな クッションに座ってぼんやりしていると、ようやく気付いた。足枷がない。工場から出荷される直前に、左足首に鎖の 付いた足枷を填められ、一生外れないように溶接までされたのに外されている。華奢な左足首には、金属の輪が 填っていた名残である赤黒い痣が付いていて、その部分だけ肉が少しへこんでいた。微々たるものではあったが、 地下世界に放り込まれてから体が成長した証しである。

「やあ」

 聞き覚えのある声が、頭の中に直接響いた。プレタポルテはぎょっとして、辺りを見回す。

「みゅっ!?」

「君は何もしなくてもいい。ただ、そこにいてくれればいい」

「にょん」

 彼に会いたい。彼の傍に戻りたい。プレタポルテは首を振るが、声は言い含めてくる。

「いいかい、君は大勢の人々の憧れとなって、神様となるんだよ。そのためには、誰よりも綺麗で穏やかな暮らしを 送らなければならない。いつでもにこにこ笑って、ふわふわしていて、ぴかぴかでなければならない」

「にょん」

「何も心配することはないよ、欲しいものがあればなんでもあげるよ」 

「にょん」

「良い子だから、もう少し眠っていてね。妖精ちゃん」

 眠りたくもない、じっとしていたくもない。鎖の先に繋がっていた相手を探さなければ、一緒にいなければ、寂しくて たまらない。あの、猥雑で汚濁した日々こそがプレタポルテの短すぎる人生の大部分を占めている。だから、彼らの 存在もとてつもなく大きい。彼らはまだ生きているのだろうか、そしてここはどこなのだろう。
 プレタポルテは喉の奥に熱い固まりが生じ、唇を曲げて小さな肩を窄め、偽物の羽を振るわせて嗚咽を漏らした。 だが、どこからともなく飛んできた針が皮膚の薄い部分に突き刺さり、何かの薬を流し込んできた。静脈に侵入した 異物は血流に従って全身に回っていくと、頭がとろけ、今し方までの絶望が人工的に塗り潰されていった。脳の命令 が変えられたのだろう、自分の意志に反して口角が上向き、目が細められた。
 凄まじい苦痛だった。




 ヴィジョンというヴィジョンの中で、人造妖精が微笑みを振りまく。
 バラ色に染まった頬に淡い緑色の波打った髪、金色の瞳に小さな唇、エルフの如く尖った耳、ぷっくりとした手足、 虹色に輝く羽。小首を傾げてこちらを見つめる姿は様になっていて、頭上に天使の輪が掛かっていないことが奇妙 だと思えるほどに神々しかった。デッドストックに着せられた汚い服を脱がされ、髪の毛一本から爪の間まで徹底的 に洗浄された人造妖精は、清冽さと儚さを併せ持ったドレスを着せられていた。ドレープを付けられた光沢のある スカートの上に透き通った薄い布を被せられているので、寓話の登場人物のように幻想的だ。人造妖精の周囲には 瑞々しい花々が咲いていて、雲を思わせる円形のベッドは見るからに寝心地が良さそうだった。
 その人造妖精を、人々は食い入るように見つめている。ぽかんと口を開けて、目玉が零れ落ちそうなほどに大きく 見開いて、突っ立って、中にはひれ伏して、無数の目という目が人造妖精を凝視している。サンダーボルト・シティに 定住していた人々のみならず、つい先日ヴィジランテに下った人々もまた、同様だった。イカヅチの想定内、いや、 それ以上の効果を新たな偶像は発揮している。
 人々を見守る人造妖精は穢れのない唇を開き、真珠のような真っ白い歯を零して、辿々しくも愛らしい声色で 人々に啓示を授ける。皆さんはとっても幸せです、私も幸せだからです、だから、天上世界を目指して一生懸命に 働きましょう、と。だが、それは人造妖精の言葉ではない。機械で作った、偽物の声を当てているだけである。

「馬鹿みたい」

 ざわめきながらも仕事に戻っていく人々を見下ろしながら、マゴットは上両足の付け根を揺すった。その傍らには、 先日のクイーンビーの色街の陥落作戦で多大な功績を挙げたが故にヴィジランテの主戦力に恐ろしい速さで昇格 した、バードストライクがただの筒に接着剤を塗ってクチバシと羽根を付けていた。

「その馬鹿に付き合っている俺達も、相当にアレだと思うがねぇ」

「そうしないと喰っていけないからね」

 マゴットはサンダーボルト・シティの一角にあるビルの一室にて、イカヅチの電流を受けて稼働している電子機器の 操作に取り掛かっていた。一文字ごとに四角く区切られている板が透き通った光によって作り出されているものに 爪先を差し込むと、その通りに立体映像のモニターが動いた。キーボード、或いはコンソールと称するものである。 今し方も放送していた人造妖精の映像を細かくぶつ切りにして、一秒の何十分の一という一コマをイカヅチを信奉 するようにという文字と映像を差し込んでいく。イカヅチの配下の中でも、コンピューターを扱えるほど知識があるのは マゴットしかいないので、必然的にこの役割が回ってきたというわけだ。

「んで、遠方の地域にヴィジョン受像機を投げ込む仕事は順調?」

 マゴットは人造妖精がうたた寝する姿を撮った映像を加工しながら問うと、新入りは素っ気なく応じた。

「俺が飛ばせるのは鳥であって卵じゃないんだがねぇ。まあ、作り物の鳥に卵を抱かせれば、なんとかなる。飛距離 も俺の力加減でどうにでもなるが、目標が定まっていないとやりようがないんだ。だから、投げ込む先の地域の 距離と地理と情報をもっと多く寄越してくれないか。でないと、ヴィジョン受像機が見当違いのところに落ちちまう から、せっかくのアッパーの落とし物が無駄になっちまう」

「はいはい。出来る限り急ぐけど、僕にも仕事があるからね?」

「俺にも仕事があるんだがねぇ」

 バードストライクは鳥のクチバシを模した覆面を少し上げ、鍔の広い帽子を被り直した。

「それにしても、こんなに大量の人間が掻き集められているのを見たのは生まれて初めてかもしれないなぁ」

「ああ、だろうねぇ。ヴィランなら尚更だよ」

「俺達は全部で何人いるんだ? 今までは考えたこともなかったが、次から次へとゴキブリみたいに沸いてくると、 なんだか気になってきちゃってねぇ」

 バードストライクは嵌め殺しの窓の外を見下ろし、同じ服を着て同じ労働に従事している人々を眺めた。

「都市の人口は一万人弱だね。でも、僕の知る限り、最盛期は人類は百四十億人はいたそうだよ」

「なんだ、それ? 数字の単位なのか?」

 想像が付かないのか、バードストライクは軽く噴き出す。マゴットは作業の手を止め、爪先を上げる。

「そう、数字の単位。一十百千万、のもっと上の単位だよ。まあ……とにかく一杯ってこと。イカヅチのおかげで手に 入った情報やら資料やらを参考にして調べてみた結果、七百年と数十年前の人類はもっとごちゃごちゃしていた。 今でこそ、僕達は人種どころか宗教も失っているけど、あの頃は違ったんだよ。細かい違いでいちいち衝突しては 戦争になって大勢死んで、国という枠組みもあって、経済もぐだぐだではあるけど成立していて、それなりに均衡を 保っていたんだ。数が多すぎるから、何割かは宇宙船で外宇宙に放り出していたようだけど、それがどうなったか までは知らないな。文献に残っていないし。でも、ある日突然天変地異が起きて、どの大陸もズタズタになって人間 も大勢死んで、文明も社会もダメになりかけたんだ。そんな折、人間は宇宙進出のために地球の至る所に建てた塔 があることに気付いた。そう、僕らが見上げて止まない、あの塔さ」

 と、マゴットが天を貫く塔を示すと、バードストライクは作り物のクチバシを小突いた。

「あの塔が何なのかは知らんが、まあ、上を目指そうって言う考えは解らないでもないねぇ」

「僕だって、あの塔の中には入ったことはあるけど用途まではちゃんと把握していないよ。で、話を戻すけど、塔の 作り手はそれはそれは優れた人々だった。頭が良すぎてどうにかなっちゃうぐらい。でも、彼らの頭の良さを持って しても天変地異までは押さえきれなかったから、天変地異でズタズタになった地上から逃げる手段を得ることにした ってわけ。だけど、その時には宇宙船の工場や何やらもダメになっていたから、宇宙には逃げ出せなかった。でも、 地球にはまだ残っている物資があったから、それを使って地球全土を覆い尽くした。その正体が、あの壁」

「で、その材料は?」

「僕の知識じゃそこまでは解らないけど、地球そのものが材料なのは確かだね。足りない分は月を掘り返して補った そうだけど。あ、月っていうのは、地球の周りを回っている衛星のことね。小さい星。で、地球を壁ですっぽり覆うの はいいんだけど、その間は人類が地球から出られくなっちゃう。太陽……はさすがに知っているよね、その太陽から も光を受けられなくなっちゃう。だけど、地上に残された人間を一人残らず壁の上まで輸送するだけのエネルギーが 残っていなかったし、ズタズタになった地球を元通りにするためにはとんでもない年月が掛かるから、賢い人々は 塔の中で凍って眠りに付くことにした。そうでない人々、つまりは僕達の御先祖様は地上に残されて、そのままに されちゃった。それが大体五百年前のことだそうだよ」

「で、その後は?」

「その後はご覧の有様。賢い人々が目を覚ましても地球はズタズタのままだったから、賢い人々は自分達の優れた 遺伝子を存続させつつも地球の復興を待つために、壁の上で世代を重ねていったけど、世代を重ねた分だけ思想が どんどん偏っていった。壁の上に行った理由も壁の下にいる人々の正体も忘れ去られて、今となってはアッパーは 底なしの快楽と享楽を貪るだけの浪費者となった。んで、僕達はアッパー共の排泄物をありがたがって下らない ゴミを集めては泥を啜り、蛆虫を食べているってわけ」

「イカヅチは、俺達とアッパーの立場を逆転させたいのか?」

「建前はね。本音までは知らないけど、そう言っておけば、皆は従ってくれるからね」

 そういう君はどうしたいの、とマゴットが問うと、バードストライクは鍔の広い帽子を外し、長髪を掻き上げた。

「さあてな。これから考える」

「うん。僕もこれから考えるさ。まずは、人造妖精をもっと神格化する方法を考えないといけないから、アイディアを 出す手伝いをしてくれないかな。君はあのスマックダウンと連んでいたからだろうけど、他のヴィランとは違って知性 があるし、何より落ち着きがある。だから、本を読んでくれないかな」

「はぁ?」

 バードストライクがきょとんとすると、マゴットは上両足を上向ける。

「偶像を神格化するに至っては、そのプロセスと決まり事を把握しておかなきゃならないからね。君達だって、闇雲に 相手を殴るわけじゃないだろう? 顎を殴れば砕ける、喉を殴れば息が詰まる、腹を殴れば嘔吐する、後頭部を殴れば 頭が割れる、そういうことを解った上で攻撃を仕掛けるわけだから。それと同じことだよ」

「それこそお前の仕事だろう、蛆虫野郎」

「かもしれないけど、イカヅチが決めた君の持ち場は僕の後衛だからね。だから、手伝ってよ」

 資料ならそこにあるよ、とマゴットが部屋の一角に積み上げてあるディスクの山を示すが、鳥男は渋る。

「あんなもの、どうやって読むんだ」

「それは簡単だよ、この機械の隙間に滑り込ませればいいんだから。あの中身はアッパー言語の解読のついでに、 古い英語に翻訳した寓話や童話や神話の数々なんだ。仕事を抜きにしても面白いから、退屈凌ぎにもなるよ」

「全部読んだのか?」

「読んだよ。隅々まで。翻訳が真っ当かどうかを確かめるために色んなパターンの話を見比べたりもしたけど、基本は どれも同じだね。パターンが決まっている。でも、面白いよ」

「どこで手に入れたんだ?」

「そりゃもちろん、イカヅチが寄越してくれたんだよ。今でこそ倉庫番の身の上だけど、アッパーの排泄物の中でも特 に優秀な機械、ノーバディが持っていたアクセス権限を使って、アッパーのデータベースから引っ張り出してくれた んだ。そのノーバディは、今は妖精ちゃんのお守り役になっているんだ。彼の本来の業務は人造妖精の管理だった から、手慣れているし、妖精ちゃんともお話し出来るからね」

 とりあえず僕達の仕事をしよう、とマゴットは羽を振るわせて浮かび上がり、バードストライクに近い位置のデスク に据えられているコンピューターを起動させた。それにディスクを読み込ませると、バードストライクは渋々ながらも 椅子を引いて腰掛けてデスクに向かった。細長いクチバシを模した覆面が邪魔そうではあったが、脱ごうとはせずに 黙々と活字を追い掛け始めた。何があろうと素顔を曝さないのは、実にヴィランらしいことである。
 上へと至るためには、それ相応の下地が必要だ。知識と知性はその中核を担う重大な要素だ。地下世界の住人 は大半がそれを軽んじているのだが、バードストライクはそうでもないらしく、唇を結んで物語を熱心に読み耽って いる。彼のことは割と好きになれそうだなぁ、と思いつつ、マゴットも自分の仕事を進めた。
 笑顔の人造妖精の映像に、偽物の言葉を被せてやった。





 


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