地鳴りを伴いながら、色街が這っていく。 青白い電流が空気中に弾け飛ぶと、色街の土台であった天上世界の地盤であり地下世界の空を塞ぐ壁が脈動し、 さながら尺取り虫のように進んでいく。土台はいびつな四角形であり、幅だけでも数十キロはあるので、ちょっと 進むだけでも甚大な被害が生じた。色街からイカヅチの街までの最短距離を辿っているはずなのだが、土台本体 の質量が大きすぎるので距離があまり稼げず、出発から数日が経過しても十キロも進んでいなかった。 砂と泥を纏った土台が痙攣するたびに煌びやかな街が崩壊し、娼館が砕け、灰燼と化す。その様を瓦礫の山の上 から傍観しながら、デッドストックは右腕の傷口の具合を確かめていた。幸運にも出血は止まったのだが、露出 した骨はそのままで、被せられるようなものがないので傷口を塞ぐことすら出来なかった。能力の都合上、傷口が 化膿しそうになる傍から腐敗してしまうので、逆に清潔さが保たれていて、腐敗した血肉を喰らいに来たハエが 産み付けた蛆虫の卵もことごとく腐ってくれた。なので、傷口を焼き付ける必要すらなかった。 時として、妙な能力も役に立つものである。だが、右腕が生えてくることもなく、義手もないので、デッドストックは 使いづらくなった右腕を持て余しているだけだった。廃ビルを積み重ねて作られている、かつてクイーンビーの色街 の周囲を警戒するための物見台は見晴らしが良く、イカヅチの支配下にあるジガバチの群れの動きもよく見えた。 統制が取れていて、死角を作らないようにと常時動き回っている。能力者達も何人か配置されているらしく、色街 の残骸に盗みに入ろうとした人間が即座に潰され、殺されていた。 「すんげーキモい……」 プライスレスが率直な感想を述べたので、デッドストックはラバースーツの右袖の尖端を縛りつつ、同意した。 「そうだな……」 今し方まで単なる地面だと思っていたものが、巨体を波打たせながら、重苦しく這い進んでいくのだから。しかも、 色街が通り過ぎた後には圧砕された瓦礫や抉られた土に混じって、ぬらぬらと光る液体の筋が付いていた。それ はナメクジを思わせるので、尚更嫌悪感が掻き立てられてしまう。色街の土台がどういうものなのか、見れば見る ほど解らなくなってきてしまうが、相手の動きを見ていなければこちらも出るに出られないのだ。 二人が物見台の中に戻り、地下へと向かうと、全てを奪われた女王バチが唸りを漏らしていた。その周囲には、 辛うじて彼女の傍に残った数匹のジガバチが群れていて、女王バチを取り押さえている。ジガバチ達が放つ熱が 狭い部屋の中に籠もり、触角を逆立てて羽を振るわせているクイーンビーを蒸らしている。死なない程度に弱らせて おかないと単身でイカヅチに襲い掛かりかねないので、ハニートラップが部下に指示しておいたのだ。 額に赤い印が付いたジガバチ、ハニートラップは敬愛すべき女王を離れた位置から見守っていたが、二人の姿 に気付くと触角を上げた。ぎしぎしと軋む足を折り曲げて体を反転させた彼女は、複眼を上げる。 「どうだ、街の様子は」 「あいつの移動速度は昨日と同じ、時速十メートルって感じ? けど、守りはガチガチで付け入る隙もねぇ。下手に 近付いたら、イカヅチのジガバチにやられちまうよ。で、そっちは? 卵、産んでくれそう?」 プライスレスが肩を竦めると、ハニートラップは毒々しく恨み言を漏らし続ける女王バチを見やる。 「その兆しすらない。我らが女王は、今は発情期ではないからな」 「そうか。有効な策だと思ったのだが」 デッドストックの言葉に、クイーンビーは金属製の足による拘束を振り払おうと身を捩る。 「あんた達みたいなオスとは違うのよぉ、そう簡単に卵なんて産めるものじゃないわよぉ!」 「けどよ、クソ婆ァ。あんたは今の今まで、自分のケツからひりだした卵を育ててジガバチっつー兵隊を作って、あの 街をどうにかしていたんだろ? だったら、それと同じことが出来ないわけがねぇじゃん」 「産んだところでねぇ、幼虫に与える餌がいいものじゃないとジガバチにはならないのよぉ! そのための餌は私の 巣に溜めてあったのにぃ、あいつらが全部壊しちゃったのよぉ! 餌も何もないんじゃ、兵隊が作れるわけないじゃ なああああああぁいっ!」 「だが、それ以外に戦力は見込めない」 「それはハニートラップが勝手に決めたことであってぇ、私はあんた達と手を組もうだなんて思ったことはただの一度 もありゃしないわよぉ! この出来損ないっ、尻軽ぅっ、脳足りんっ!」 理不尽な出来事の数々で溜まりに溜まっていた憤りを爆発させ、クイーンビーはジガバチ達を跳ね飛ばし、六本足 をコンクリートに食い込ませた。天井や壁にめり込んだジガバチを背にして、クイーンビーは部屋の隅で大人しくして いるハニートラップに詰め寄ると、上右足の爪をハニートラップの首関節に押し付ける。 「こんな奴ら、使い道があるわけがないじゃなあいっ! イカヅチのことだってぇ、私の力だけでなんとかしてみせる わよぉ! 私のフェロモンと毒を併せれば、ジガバチのコントロールだって取り戻せるしぃ、娼婦と客だってすぐにまた 呼び戻してみせるわよぉ! 娼館だってなんとかなるわぁ! たかが兵士の分際でぇ、私に楯突かないで!」 「ですが、女王」 主人の凶行に抗わずに、ハニートラップは複眼で複眼を見返す。 「助力は不可欠です。たとえ、それが有効でないと思えたとしても、女王と我々では戦力に限界があります」 「だったらぁ、こいつらを上手く使う方法を考えなさいよぉ、今すぐに!」 「今……ですか」 「ええそうよぉ、今すぐよぉ、大見得を切るだけの価値があるって示してみなさいよぉ!」 クイーンビーは大きく顎を開き、ハニートラップに食らい付かんばかりに詰め寄り、中両足で頭部を掴んで荒々しく 揺さぶる。後頭部を何度も壁にぶつけられたハニートラップは下両足を曲げて崩れ落ちたが、触角を片方上げて、 デッドストックとプライスレスを窺ってきた。苦い静寂の後、忠臣は答えた。 「あれが生き物であるならば、手の打ちようはあります。生きている限りは、どんな種族であろうとも、必ず空気を 吸います。私達でさえも吸い、吐き出しています。ですから、あの土台も空気を吸っているはずです。その穴がどこに あるのかまでは、私では把握出来ませんが、その穴の位置さえ解れば土台を窒息させられます。彼の力で」 ハニートラップの爪が上がり、デッドストックを指す。 「……ああ、なるほどねぇ。それは悪くないわねぇ。でも、兵隊が必要になることに代わりはないわぁ」 少し間を置いてから、クイーンビーはハニートラップの策を把握したようだった。少し落ち着きを取り戻したのか、 ジガバチ達を追いやってから古びた箱の上に緩やかに腰掛けて下両足を組み、頬杖を付いた。 「そうなると、オスが必要だわぁ。フェロモンをいじって体のホルモンバランスを変えて、山ほど食べれば、なんとか 卵を作れなくもないけどぉ、私は別にマリア様じゃないからぁ、受精しないと卵は無駄になっちゃうよねぇん。だから、 オスカーを貸してくれるぅ?」 「は、へぇっ!?」 途端にプライスレスは後退り、窓から逃げ出そうとしたがジガバチに阻まれ、壁に追い詰められた。 「ちょ、おい、待てよクソ婆ァ! 俺とお前って厳密に言えばちったぁ血の繋がりがあるんだろ!? そんな遺伝子を 使ったら、ろくでもねぇ屑虫しか産まれねぇよ! つか、俺、虫相手に勃てるほどアレじゃねぇし! 全力で無理無理 無理無理無理無理無理ぃ! ヤるぐらいなら死ぬ、切り落とすっ、タマも潰すぅううううっ!」 などとプライスレスは喚き散らしていたが、程なくしてジガバチに捉えられ、別の部屋に運ばれていった。私だって あんたみたいなのは相手にしたくないけどぉ、選択の余地がないのよぉ、とクイーンビーはぼやきながらも、少年の 後に続いて姿を消した。その場に取り残されたデッドストックは、思わずハニートラップと顔を見合わせたが、彼女は 上両足を竦めてみせただけだった。嫌だ止めてぇそれだけはお願いだからぁ、とのプライスレスの情けない悲鳴が 聞こえてきたが、何かの毒を使われたらしく、呂律が回らなくなってきた。 それから、数時間が経過した。その間、デッドストックは少しずつ進んでいく色街の土台の行方を見守りながらも、 ヴィジョン受像機に浮かび上がる着飾った人造妖精の姿を眺めたり、ハニートラップと多少の情報交換を行ったり、 限りある食糧を口にしたり、一眠りしたりと、久し振りに穏やかな時間を過ごした。 そして生命力と遺伝子をこれでもかと搾り取られたプライスレスが戻されてきたが、デッドストックは特に構う理由 などなかったので、左手だけでショルダーバッグの整理をしていた。クイーンビーのものなのか、それともジガバチの 体液なのかは定かではなかったが、オレンジ色の作業着を脱がされている少年の体の至る所に甘ったるい匂い がする液体がまとわりついていた。デッドストックは少年を一瞥し、平たく言った。 「良かったな。金を払わずに済んで」 「何がだよ!」 言い返すだけの余力はあったようで、プライスレスは起き上がり様に怒鳴った。粗末な衣服は残らず剥がされても ガスマスクだけは意地で守り通したらしく、外された形跡はなかった。変なプライドがあるのだろう。 「あんなクソ婆ァ、俺の好みじゃねぇし! てか、ヤるならもっとまともで柔らかい普通の女がいいし!」 「だが、出すだけ出したんだろう」 「そんなん、ただの生理現象に決まってんだろ! ああ認めたくないっ、思い出すのも嫌だっ、ぐわああああっ!」 精神的に死ねるぅっ、と嘆きながらプライスレスは床を殴り付けたが、散々搾り取られたことによる疲労が現れた のか、そのまま突っ伏して気を失うように寝入ってしまった。なんとも忙しい。狭い部屋の真ん中で大の字に倒れて いられると邪魔なので、足で転がして部屋の隅に追いやったが、起きる気配はなかった。 ハニートラップに寄れば、クイーンビーが受精した卵を産卵するためには最低限でも一ヶ月は必要だそうなので、 その間は身動きが取れなくなるのは間違いない。無数の卵を孕んだクイーンビーのために食糧を掻き集める仕事 が増えてしまったが、そればかりは仕方ない。女王バチを利用するからには、こちらも利用されるのが義理である。 だが、利用し合うだけであって連むわけではない。何せ、相手もヴィランなのだから。 地上の太陽の如く、光り輝く都市に向かって巨大な生物がじっくりと進んでいく。時折雷撃が駆け抜けては土台の 隅に的確に落雷するようになったので、何事かと注視すると、土台の四隅に太い金属柱が刺さっていた。遠目から だと避雷針のように見えるが、実際の用途はその逆だと考えるべきだ。イカヅチの能力による強烈な電気ショックで 痙攣を促し、土台の移動速度を強引に上げさせているのだ。上手い使い方を考えるものだ。 明かり代わりに付けているヴィジョン受像機の中で、人造妖精が流暢に喋っていた。片言のフランス語ではなく、 ダウナー同士が使うクセが強い上に恐ろしく古臭い英語を操り、とろんとした目で愛想を振りまき、ふんわりとした 衣装とクッションが置かれた背景と淡い色合いの照明が、愛らしい外見をこれでもかと強調していた。見るからに 甘そうな食べ物を頬張り、瑞々しい果物を囓り、透き通った水を飲み、暖かく微笑みかけてきた。 反吐が出た。 ぴかっ、びりっ、ばしゃーん。 青白い電流が炸裂して鉄骨に突き刺さると同時に足元が脈動し、ぐらつく。その都度、イカヅチが支配する街へと 近付いていくのは解るのだが、どうにもじれったい。じれったくてじれったくて、体の中がざわざわする。ちくちくする、 ずきずきする、ばりばりとびりびりとめりめりとざくざくとじょきじょきとじゃきじゃきと、自分が自分を切り裂いてくる。 浅く息を吸った途端に背中から刃が飛び出し、真新しい制服の布地を貫いた。生温いものが左の肩胛骨の下から 流れ出してきて、ブラウスに染み込んでスカートにまで至る。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。 痛いから、痛いという事実を認めてはいけない。ジャクリーン・ザ・リッパーは両の二の腕を抱えて苦痛から自分 を守ろうとしたが、両の手のひらから飛び出した新たな刃が二の腕を貫きそうになったので、寸でのところで両手を 止めて虚空を掴んだ。瞼が捲れ上がっている左目から勝手に溢れた涙が、包帯を巻いた顔に染みる。 「……まーくん」 まーくん。まーくん。まーくん。 「この御仕事、退屈だねえ」 いるはずもない彼に話し掛けてから、ジャクリーンはイカヅチが矢継ぎ早に発射してくる雷撃を見上げた。名目として は、クイーンビーから奪い取った領地の土台の護衛として配置されているのだが、仕事をする気は全くなかった。 イカヅチが過電流を浴びせて作った、自分で考える力のない能力者達がいるからだ。彼らはヴィジランテではない 人間を見つければ即座に反応し、有無を言わさずに殺す。その稚拙な能力を使うこともあれば、手近な武器で殴打 して脳天をかち割ったり、手足を叩き折ったり、内臓を潰したり、と手段も簡単だ。だが、いちいち手間を掛けて時間と 労力を喰うよりも、その方が余程良い。効率的だからだ。 皮膚を突き破らない程度の長さの刃も、常に内臓の内側に生えているので、その痛みが下腹部をちくちくと刺して くる。それを気にしないために、問答無用で下半身から流れてしまう血からも意識を反らすために、ジャクリーンは 必死に彼のことを考えていた。まーくん、まーくん、まーくん。 まーくんはジャクリーンに触れても細切れにならないし、血を見ても嫌な顔をしないし、刃が出過ぎたせいで皮膚も 筋肉もズタズタになったせいで左目だけしかまともに残っていない素顔を見ても嘲笑わないし、女の機能がほとんど ダメになった体でも構わずに抱き締めてくれるし、血だらけで穴だらけの肌を綺麗に拭いて真っ新な包帯を巻いて くれるし、ジャクリーンを愛してくれる。それがまーくんだ。 「まーくん、あのねぇ」 ジャクリーンは使い古したブーツを履いた足を揺らしながら、彼に語り掛ける。 「この前のデート、行けなくなっちゃってごめんね。着ていく服がなかったの」 瓦礫とゴミと都市に囲まれた塔を左目に映し、仰ぎ見るが、暗い壁しか見えなかった。 「だって、イカヅチが寄越してくれる服はこれしかないし、着替えもこればっかりだし、綺麗な白い布は横長に切って 包帯にしちゃうし……。どうせなら、一番可愛い恰好で会いたかったの」 そうか、そりゃ残念だなぁ。と、ジャクリーンの頭の中で彼は言う。 「うん。だって、まーくんに可愛いなぁって褒めてもらいたいから」 俺はいつだってそう思っているよ、ジャッキー。 「えぇ、嘘ばっかり」 嘘なんか吐くかよ。 「本当にぃ?」 本当だ。だから、もう少し自分に自信を持てよ。 「無責任なこと、言わないでよね。その気になっちゃうじゃない」 そうそう、その笑顔だ。 「え? そうかな、笑っちゃったかなぁ」 ジャッキー。俺の可愛いジャッキー。そうやって、ずっと笑っていてくれよ。 「んふふ、まーくんがそう言うなら、ちょっと考えてもいいかなぁー」 包帯の下で頬が緩んだような気がしたが、肉も皮も削げて頬骨が剥き出しになっているので、笑顔なんて二度と 作れるはずもない。だから、ただの錯覚なのだ。ジャクリーンは刃の生えた両手で顔を覆おうとしたが、それが顔面 に突き刺さってしまうので下ろした。行き場を失った両手を瓦礫の上に添えると、刃が呆気なくコンクリートを削いで 小さな欠片を作った。その間にも、落雷、痙攣、脈動、前進が繰り返されていた。 まーくんの顔はぼんやりしている。誰かに似ているようで、誰にも似ていないようで、だけど見覚えのある顔と声と 仕草と態度をする。詰まるところ、ジャクリーンの理想とする異性の断片を寄せ集めたものである。だから、まーくん そのものはこの世には存在しない。するわけがない。異性に限らず、大抵のダウナーはジャクリーンが触れた途端 にバラバラに切り裂かれてしまうからだ。だが、イカヅチはそうではなかった。 だから、イカヅチのことだけは認識出来るし、言うことも聞こえてくる。触れられるから、近付けるから、彼は生き物 であって能力者であってヴィジランテのボスなのだと理解出来る。だから、ジャクリーンの中にあるのは、まーくんと イカヅチとそれ以外だ。左目を通じて感じ取れる世界を眺めながら、ジャクリーンは細めの刃が生えてきた指先で コンクリートを引っ掻いた。まーくん、ジャクリーンと刻み、その周囲をいびつなハートで囲んだ。 イカヅチの思惑がどうあれ、まーくんを否定されないのであれば付き合うだけだ。これまでも、イカヅチはおかしな ことをしてきたから、それに振り回されるのには慣れている。言われるがままに出掛けて、手当たり次第に暴れて、 適当に殺せばいいだけなのだから。ジャクリーンはコンクリート片がまーくんであると思い込み、寄り掛かった。 途端に、側頭部から現れた刃がまーくんに突き刺さった。 13 7/26 |