DEAD STOCK




19.Price Less



 空が赤い。
 その理由は至って簡単だ。赤黒い血の海の色が、大気に反射しているからだ。デッドストックの記憶の奥底では、 海と空は青々とした冴えた色合いだった。分厚い大気を通り抜けて地上に降ってきた光の粒子が、海を青く染め、 更に空も青く染めた。だが、今はどうだ。汚らしい茶色い肉塊に覆われていた星は、その肉塊が壊れたことにより、 至るところに血の瀑布が降り注ぎ、陸地を塗り潰し、ただでさえ汚染されていた海を更に濁した。
 永遠の黄昏、沈まぬ夕日、終わらぬ逢魔が時。だが、いずれ夜は来るだろう。混沌を乗り越えられるほどの力 を携えた能力者が、血の海の底から浮き上がってくるはずだ。今の自分のように。
 デッドストックは生温い血の波の上に漂いながら、ラバーマスクの奥で目を細めていた。散々吼えた際に腹の中 にたっぷりと血を入れてしまい、おかげで止めどない嘔吐感に苛まれて、内臓が裏返るのではないかと思うほど、 吐きに吐いた。舌には早々に腐った胃液の味と鉄の味の名残がこびり付いていて、容赦ない日差しを浴びている せいで喉も干涸らびてしまいそうだが、血を飲めば先程の二の舞なので堪えるしかなかった。
 絶え間ない血の波に、一筋、違う色味の血が混じって流れていく。それは、デッドストックの右腕の根本から滲んだ 腐敗を招く血液だった。それを大量に血を流し込んでしまったから、遠からず血の海は腐り果てるだろう。腐り切る 方が早いのか、クォンタム・ドライブによる浄化が早いのか。どちらの結末が最良なのか。

「あの野郎」

 粘つく口を開き、悪態を吐く。デッドストックを不意打ちで撃ってきた少年の姿が、瞼の裏に焼き付いている。手中に 収まるほど小さいが威力は絶大な熱線銃を右腕の傷口に掠めさせて、医療設備の力を借りて塞いだばかりの傷口を 抉ってきた。ガスマスクの下の素顔は見えなかったが、表情と感情は手に取るように解る。
 浅い付き合いではない。プライスレスがまだまだ小さく、手足も短く、声も女のように甲高い子供であった頃からの 腐れ縁だ。育て親になったつもりもなければ、親しい友人にもなったわけではないが、少年の存在は、常に心中の どこかに引っ掛かっていた。それまでは他人からまとわりつかれることなんてなかったし、利用されることはあれども 利用してくれと頼まれることもなかった。口先だけだとは解っていても、好意を向けられることもなかったから。

「だから、こんな甘っちょろい考えになるのか?」

 殺したくない、という躊躇が胸中を絞ってくる。

「馬鹿馬鹿しい」

 自分に対して毒突いてから、デッドストックは手袋を填めた左手で右腕の傷口を押さえる。出血量が多いわりには 貧血にならないので、血の海からリザレクションの血が体の中に入り込んできているのかもしれない。自分の肉片を 自在に操れる女だったのだから、血を操ることなど造作もないはずなので、有り得る話だ。
 少年の命を代償にして脅し取るものは決めていなかったが、少年の命を差し出すに値する出来事は起きないで あろうと踏んでいた。そうあってくれ、と心のどこかで願っていた。普段の自分らしからぬ思考の数々だが、少年の命 が惜しいと思ったのは事実だ。道具としても個人としても、生まれて初めての友人としても。
 ダウナーであれば誰しもが他人を信用しないように、デッドストックもまた純然たる好意に対しては懐疑的だった。 むしろ、攻撃的だった。上っ面だけならば、どんな極悪人でも取り繕えるし、笑顔も作れるし、怖気立つような甘言 も並べ立てられる。好意はその延長なのだと考えていたし、今まではそうだった。だが、裏表のない好意もあるのだと 知ることが出来たのは、他でもないプレタポルテのおかげだ。あれは幼さ故の無防備さが成すものではあるが、 好意であることに代わりはなく、デッドストックを親兄弟のように慕ってくれた。それは素直に嬉しかったが、嬉しい と認めるのが癪なので敢えて逆の言動を取っていた。プライスレスに対しての言動には、いくらか他意があるが。
 プライスレスは、デッドストックに殺されようとしている。そして、デッドストックを殺そうとしている。どちらに転んだと しても、プライスレスの歪曲した自尊心が満ちるのは間違いない。少年は、げらげら笑ってべらべら喋っているだけ ではないことぐらい、当の昔に知っている。

「……面倒臭い奴め」

 だったら、その願いを叶えてやるまでだ。デッドストックは血の海に浸っていた左腕を上げ、手袋を噛んで剥がし、 素手を曝した。途端にメタンガスが発生し、ごぶり、と手のひらに付着した血の雫が沸騰して熱を生む。それを水面 に叩き付けると、体を取り巻いていた血の海の流れが一気に変わり、メタンガスが渦巻いた。
 そのメタンガスを孕んだ異物が、海中から浮き上がってきた。ビルか何かの残骸であろう、角のあるコンクリート の固まりだった。その上によじ登ったデッドストックは、血を吸いすぎて重たくなったトレンチコートを脱ぎ、ブーツも 脱ぎ、逆さにしてその中に入り込んだ血を出した。ラバーマスクを拭って、干涸らびた鉄混じりの蛋白質を剥がして いると、コンクリートの固まりに少し大きめの波が打ち寄せた。
 視界の隅で、波が膨れ上がり、凝固していく。最初は空豆のような形だったが、それが蠢き、伸び縮みしていくと、 ヘモグロビンの赤さが抜けてまろやかな肌色に変わり、短い手足が生え、頭が出来た。毒々しい赤ばかりの世界 では際立って目立つ薄緑色が、潮風ならぬ血の風でふわりと広がる。
 ぺたり、と濡れた足が生乾きのコンクリートを踏み締める。それは確かな足取りで近付いてくると、デッドストックが コンクリートに貼り付けて乾かそうとしているトレンチコートの上に腰掛け、短い足を抱えて背を丸めた。その背には 何も付いておらず、生えてもいない。薄べったい肩胛骨が、少しばかり飛び出している程度だ。

「私はあの子の母親なのよ。だから、あの子は私でもある」

 舌っ足らずでもなければフランス語でもない言葉で、人造妖精に酷似した異物が喋る。

「さあ、早く私を殺して。でないと、あなたは何度でも、いくらでも、何億年も、あの子と私を追うことになる」

 デッドストックの背中越しに、裸身の少女があの女の声で語り掛けてくる。

「人造妖精の役割は終わったはずだ。お前達を喰ったアッパー共は、皆、死んだ。お前が地上にぶちまけた血の 海に沈んだダウナー共も、皆、死んだ。生きているのは、能力を持った屑共だけだ」

 デッドストックは左腕を挙げ、血の海の波間に揺らぐ割れた球体を指し示す。

「ええ、そうよ。いつまでたっても淘汰されないから、私が選んであげたのよ。後世に残すべき血筋をね。それに、皆、 おいしい思いをして死ねたんだから、いいことじゃないの。新しい世界も、私が作ってあげるわ。あの子とその娘達の 思い描く世界なんて、どうせろくなものじゃないもの」

「誰もお前の妄想には付き合わんさ。だが、お前を殺せば、あれも死ぬのか」

「そうね。死ぬわ。クリスタライズが死んだ後のこの有様を見ていれば、おのずと解るはずよ」

「あれはお前じゃない。お前とは別の個体だ」

「いいえ、同じものよ」

 人造妖精の容姿でありながらも熟れた女の顔をする少女は、デッドストックに顔を寄せる。

「同じ鍋で作ったスープは、お皿に分けても同じ味がするじゃない?」

「そこに別の味を加えれば、別の料理になる。冷めもするし、傷みもするし、腐りもする」

「あら、そう。あの子達をこんなにも愛せるのに、どうして私を愛せはしないの? どうして?」

「さあな」

 左手を振り翳し、血の塊である少女に叩き込んだ。ぶぢゅりっ、との脆弱な手応えの後に破裂し、デッドストックの トレンチコートに新たな染みが出来た。血を煮詰めた固まりもいくつか飛んできたが、それを振り払ってから、風に 乗ってやってきた羽音を耳にした。赤い空と海の合間に、粒子の大きい黒煙が沸いている。
 ジガバチの群れだった。となれば、わざわざ捜しに行く手間が省けた。デッドストックは生乾きで蛋白質が固まって 強張ってしまったトレンチコートを剥がすと、強引に袖を通し、少年の娘達に向き直った。ジガバチの群れは次第に 高度を下げてきたが、攻撃するでもなく、黒い複眼に黒い肌の男を映していた。
 中身のない右腕の袖がはためき、背中を叩いてきた。




 思い掛けない再会だった。
 まさか、クイーンビーに切り落とされた右手が見つかるとは。しかも、腐っていない状態で。その上、デッドストックの 右手は少年の右手首にくっついていた。何を考えているのか、一目見ただけで解る。例によってジガバチの唾液で 両手足を拘束されていたデッドストックは、ひび割れたコンクリートの屋根に転がされた。ジガバチがうわんうわんと 羽音を轟かせながら飛び回っていて、生存者の姿がない血の海の上を支配していた。実際には、そのジガバチ を支配している少年の支配下にあると言った方が正しいのだろうが。
 少し見ない間に、プライスレスは妙な凄みを得ていた。ガスマスクの奥の目はどろりと濁り、デッドストックの右手 が生み出す猛烈な毒素に負けそうになっていた。だらりと垂らしている左手は弛緩していて、姿勢も今一つ安定して いない。ふらふらと歩いてくる少年の背後には、半泣きの人造妖精が蹲っていた。

「ぃよお」

 プライスレスはデッドストックの前で屈むと、これ見よがしに右手の中指を立ててきた。

「下らんことを考えたな」

 デッドストックが一蹴するが、少年は媚びてはこなかった。それどころか、デッドストックの頭を踏んでくる。

「こうでもしねぇと、誰があんたを殺せるんだよ?」

「誰でも殺せる。俺はそこまで頑丈じゃない」

「謙遜してんじゃねぇよ、クソッ垂れが!」

 頭蓋骨とコンクリートが激突し、ラバーマスクの下で皮膚が裂けたのか、生温いものが垂れ落ちてくる。その傷口 を狙い澄まして靴底を落としたプライスレスは、擦り切れたかかとの角で傷口を掘り返す。その痛みと脳を掻き混ぜる かのような振動に、デッドストックは思わず呻きを零す。

「ぐぇぉ」

「あの女に惚れられてから、あんたはただの屑ヴィランじゃなくなっちまった。俺は知らない間にとんでもねぇものを 担がされていて、ただのクソガキじゃなくなっちまった。妖精ちゃんもだ。ただのちっこくて可愛い女の子だったはず なのに、背中に字が書いてあったんだよ。クリスのきったねぇ字でな。それがどういう意味か、解るだろ?」

 傷口を押し開くようにかかとをねじ込みながら、プライスレスはデッドストックの親指でプレタポルテを指した。

「てぇことはつまり、ストッキーは最後に妖精ちゃんを殺す羽目になるんだよ。どう足掻いたって、殺さなきゃならなく なるようにあの屑ビッチが仕込んでいたんだよ」

「それがどうした」

「俺ってば宇宙一優しいってことだよ!」

 ごきん、と体重を掛けた渾身の一撃が頭部全体に加わり、デッドストックの視界が揺さぶられた。首の骨も位置が 怪しくなったのか、嫌な痺れが起きている。プライスレスはつま先を使い、デッドストックの顎を上向かせる。

「ストッキーのマスかく手伝いも出来る俺の右手で妖精ちゃんを殺すか、俺がストッキーを殺すか、どっちがいい?」

「そのどちらも出来るほど、お前に度胸があるとは思えんがな」

「度胸なんかなくたって、頭が回れば生きていけるんだよ。だから、俺はあんたのケツに食らい付いていたんだ」

 左手で側頭部を小突いてから、プライスレスはデッドストックに背を向ける。すかさず降りてきたジガバチが二人の間 に入り込んできて、父親を護衛した。そういえば、少年の背中を見たことはほとんどなかった。いつも、プライスレスは デッドストックの後ろにいた。そして、全財産を詰め込んだリュックサックを背負っていたからだ。
 いつまでも子供だと思っていたが、いつのまにか随分と大きくなったものだ。そればかりか、偉そうだ。デッドストック はおぞましい惨劇が迫っているにも関わらず、やけに落ち着いていた。あれほど執着していた人造妖精が結局は リザレクションの一部なのだと認めてしまったからだろうか。或いは、この期に及んでプライスレスの良心の呵責を 信じているから、なのだろうか。
 いや、違うな、と内心で呟いたデッドストックは、プライスレスの右手が迫る様に怯える人造妖精を見つめながら、 己の真意を悟った。プライスレスの禍々しい右手がプレタポルテの血の気の引いた顔の右半分に触れると、白い 肌は青黒くなり、熟し、崩れた。悲鳴と言うには生易しい、矮小な獣の絶叫がジガバチの羽音を上回り、短い手足 が突っ張って股間の下に浅い池が出来る。偽物の羽が震え、腐った皮膚と目玉がスーツの胸元を汚す。
 これで、何も守らずに生きていける。解放される。些末なことで惑わずに済む。人造妖精の言動で、少年の態度 で、心を乱されないようになる。世界なんて救ってやるものか。他人など守ってやるものか。得も言われぬ解放感に 背筋が逆立ち、口角が上がる。ラバーマスクをずり上げて唾液を吐き付け、両手足を拘束しているジガバチの唾液 を腐らせてやると簡単に解けた。同じ手段が二度も通じるわけがない。
 俄然、面白くなってきた。





 


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