その先に、何があろうとも。 目の前の快楽には、勝てるわけがない。ダウナーとして生まれ、ヴィランとして生きていたのだから、娯楽らしい 娯楽はただ一つしかない。そう、殺人だ。能力を行使して自分よりも遙かに屈強な相手を組み伏せ、倒し、殺しては 総毛立つほどの快感に襲われる。腐敗能力のせいで酒を飲んでも効かないし、ドラッグも体に入れた傍から腐って 用を成さないし、女を抱こうにも突っ込む前にダメになってしまう。だから、必然的にデッドストックに残された快楽は 殺人に関するものしかなかった。故に、その快感を誰よりも痛烈に感じることが出来ていた。 「来い」 あの鎖を失った左手を掲げ、挑発する。プライスレスはジガバチが持ってきてくれた鉄パイプを担ぎ、一笑する。 「それがストッキーの最上級の好意の示し方だったりするぅ? だったら、俺、マジ嬉しいんだけど」 「今日だけはいくらでも喋らせてやる。だが、その分、楽しませろ」 「妖精ちゃんを飼ってべたべた可愛がっていたのって、最後の最後で無惨に殺すためなんでしょ?」 「だからどうした」 「普通さぁ、ああいう流れだとハッピーエンドにするのが主人公ってもんなんだよね。俺が観てきた映画だと、大体 はそんな感じだった。ストッキーみたいなやさぐれたおっさんが妖精ちゃんみたいな可愛い女の子を拾って、その子 に振り回されながらも段々感化されてきて、デレッデレになるんだけど、いいところでおっさんか女の子のどっちかが 家族とか組織のせいで引き離されちまう。でも、最後には幸せになるんだ。そういう映画が作られた時はそんな感じ の結末が求められていたわけだし、俺もその方が良いって思う。けどな、ストッキーはそういうのを台無しにしちゃう タイプだ。だろ?」 今更肯定するまでもない。デッドストックは歩み出しながら、左手の手袋を噛んで外し、トレンチコートのポケットに ねじ込んだ。プライスレスとの距離を詰めながら、ラバーマスクの下で口角を広げる。 「どいつもこいつも」 プライスレスが振り下ろしてきた鉄パイプを右肩で受け、少年の足を払った後、首に思い切り左腕を打ち込んだ。 デッドストックの左腕を軸にして半回転したプライスレスは、背中からコンクリートに落下して鈍く呻いた。その胸に ブーツの靴底を力一杯落としてから、ラバーマスクの顔をガスマスクの顔に近付ける。 「俺を過大評価しすぎなんだよ」 ごきん、と頭突きを当てて少年の後頭部をコンクリートに激突させてから、その襟首を左手で掴む。 「クリスタライズの奴にしても、俺をヒーローにさせようとしていた。自分がヒーローになれない立場だと知った上で、 俺に理想を叶えさせようとしていた。俺がそんな器でも人格でも能力でもないことぐらいは、俺自身が一番良く理解 している。人造妖精は言うに及ばん。俺に良心があるというクソッ垂れな前提に基づいて、俺にべたべたと甘えて きやがった。そしてお前だ、プライスレス。俺を殺してやろうという心掛けは上等だが、俺はお前如きに殺されるほど 弱いつもりもなければ、優しくもないんでな」 薄汚れたオレンジ色の作業着の襟元が腐っていくと、その下に着込んでいる赤いスーツが露わになった。首筋も その赤いスーツに覆われていたが、ガスマスクにも塞がれていない素肌はすぐに見つかった。顎の裏だ。迷わずに 顎の裏に左手を突っ込むと、指で思い切り下顎の骨を締め付ける。皮膚が腐る激痛で、少年は絶叫する。このまま 首を腐らせて落としてしまえば死んでしまうが、それではあまりにも惜しいので手を放してやる。 その場に崩れ落ちたプライスレスは痙攣し、げはごへっ、とガスマスクをずらして吐き戻すが、その際に顎の下から 腐った皮膚が滑り落ちて筋が露出した。苦痛に呻く少年を見下ろしながら、デッドストックは次はどこを腐らせて やろうかと思案した。髪の毛と頭皮を腐らせて頭蓋骨を剥き出しにしてやるか、ガスマスクを剥いで目玉を抉って やろうか、それとも。考えているだけで、腹の底が熱してくる。疼いてくる。 「ロックキャンディ! レッドシロップ!」 不意に、プライスレスの右手がデッドストックの左腕を捉える。と、同時に娘達の名を叫んだ。すぐさま複数の羽音 が頭上から迫り、デッドストックが左手の自由を取り戻す前に背中を切り裂かれる。トレンチコートの強張った布地 が裂け、血の海の名残に新たな血が混じる。背中の筋を切られて俯きかけると、今度は超低空飛行で襲ってきた ジガバチが、ブーツごと足の筋を断ち切った。ぶつん、との衝撃の後に両足に力が入らなくなり、膝を付いた。 「……調教したのか」 足元に広がる血の海と自由を失った両足から生じる痛みに震えながらも、デッドストックは吐き捨てた。 「いいや、躾けたんだよ。だって、こいつらは俺の可愛い娘達だ」 パパの言うことを聞かないわけがないんだ、と胸を張るプライスレスの背後に、複眼の隅が白化して結晶のように 見えるジガバチと、色素が不足しているせいか外骨格が赤っぽいジガバチが舞い降りた。前者がロックキャンディ、 後者がレッドシロップとみていいだろう。二匹はプライスレスを慮ってきたが、少年はそれを制止し、左腕以外の自由 を奪われたデッドストックの前に立ちはだかった。一段と息が荒くなっているのは、死期が近いからか。 「いくらでも喋っていいって、さっき言ったよな、ストッキィッ!?」 プライスレスは鉄パイプを振り下ろしてデッドストックの左腕の肩関節に命中させ、関節を外す。 「ぐぇあっ!」 度重なるダメージに耐えかねてデッドストックが吼えると、プライスレスは鉄パイプを担いだまま、喋る。 「ストッキーを過大評価? んなもん、しちゃいねぇ。俺はストッキーのみみっちくて情けなくて泥臭くて生臭いところ も含めて、ストッキーが気に入っているって何度も言ったし、行動で示してきたじゃんか。そりゃ、ヒーローマニアの 度が過ぎたクリスとか、ストッキーがヒーローも同然だった妖精ちゃんは、リズ絡みの物事の中心にいるストッキー がヒーローだって思うかもしれないが、俺はそうじゃない。最初から、密造酒造りが上手いわりに商売下手で、他の 誰よりも強いくせに変に驕り高ぶらないで、そのくせ内心じゃ結構プライド高くて、一度だけ抱いた女のことが未だに 忘れられないくらい繊細な、ド屑のストッキーが好きなんだよ」 鉄パイプの尖端でデッドストックの頭部を小突きながら、プライスレスは浮かれる。 「けど、勘違いするなよ? 惚れた腫れたの方の好きじゃない、こいつ面白ぇーっていう方の好き。解る?」 「少しはな」 「そのクソッ垂れに面白いストッキーが、妖精ちゃんで右往左往するところなんて見たくなかったんだよ。俺のことを 見てくれないのに妖精ちゃんばっかり見るのが不満だったのは、まあ事実だけど? んで、まあ、ストッキーが好き 勝手に暴れている分にはまだ良かった。俺も面白かったし。でも、クリスが死んで壁が崩壊してリズの血がどばどば 降ってきてから、ちょっと思っちゃったんだよ。このままストッキーがリズを殺したら、ストッキーはクソッ垂れな世界を 改変しちまう。どれだけ時間が掛かるかは解らないけど、ストッキーの能力が俺達全員が死んだ後の新しい世界を 作るための引き金になるのは間違いない。それってさ、ストッキーがヒーローになっちゃうってことじゃん?」 ごり、とラバーマスクの上から、鉄骨の尖端がデッドストックの額を抉ってくる。 「そんなのってねぇよ、マジ有り得ない、つか許せない、てか台無しじゃん。ストッキーはさ、そうやって血塗れでゲロ まみれで泥まみれでいるのが一番格好良いって、俺が宇宙一知っている。そういうストッキーだから、俺はマジ最高 だってケツを追いかけ回していたんだよ。それなのに何だよ、自分だけ世界なんか救っちゃうのかよ? そんなのって ないだろ、最悪すぎんだろ、死ねよ! クソが!」 叫びながら、プライスレスは鉄パイプを真横に振り抜いた。その直線上にあったデッドストックの首は薙ぎ払われ、 無様にコンクリートに倒れ込んだ。だが、足も左腕も言うことを聞かないので、立ち上がれるはずもない。首の骨に ヒビでも入ったのか、嫌な音がした。首筋からは血も出ている。 「だから、それが過大評価だと言っているんだ」 それでも、まだ舌は動く。デッドストックはコンクリートに頬を擦り付けた態勢で、くぐもった声で喋った。 「お前が俺に何を見出しているのかは知らんが、俺にあまり価値を求めるな。ただの毒酒を作る殺人鬼だ」 「そうだよ、そうなんだよ、それだけで充分なんだよ。ゴチャゴチャしたものなんて、あんたにはいらないんだ」 デッドストックの血が付いた部分から赤く錆びた鉄パイプを一瞥し、プライスレスは饒舌に喋る。 「だから、ストッキーがリズにやらされそうなことを俺が奪ってやる。俺と、俺の娘が、この星をどうにかする」 「何を言い出すかと思えば、下らん」 「でもって、ストッキーを殺してやるよ。でねぇと、誰も彼もあの女のオモチャにされ続ける。今のストッキーが最後の ストッキーだっていう保証はないし、イミグレーターも宇宙の果てにもっといるかもしれないし、アッパーだってまとも な奴が生き延びているかもしれないし、そもそも俺達がこうしていること自体が量子コンピューターの中の出来事なの かもしれないし、他にも色んなことは考えられるけど、俺はそうするのが一番じゃないかって思ったんだよ」 「馬鹿馬鹿しい」 「ああ、俺もそう思う。だってさ、まだ十六なのにさ、娘がこんなにいて世界をひっくり返せる能力があって、おまけに 面と向かってドブ臭い男に告ってんだぜ? それなのに、ストッキーは釣れないんだからなぁ」 参るぜ、とぼやき、プライスレスは顎で示した。すぐさまロックキャンディとレッドシロップが飛来し、デッドストックの 自由が効かない両足と左腕を拘束してきた。爪を直に突き刺すと腐ってしまうので、ねじ切れた鉄骨を使ってデッド ストックの両足と左腕をコンクリートに縫い付けた。肉と骨を砕いた異物が貫通した瞬間、デッドストックは痙攣して 腹を反らしたが、両足に開いた穴が広がっただけだった。最早、痛みという範疇ではない。 「だから、余計に追いかけ回したくなるんじゃないか」 ずぎゅるっ、とプライスレスの鉄パイプがデッドストックの下腹部に突き刺さり、スーツは破れなかったがその中の 内臓が破れた。血なのか内容物なのか、釈然としない生温い液体が噴き出して溜まっていく。プライスレスはスーツ と同じ素材で作られた手袋を被せている左手で、デッドストックのスーツの胸元を開くと、溜まっていた体液が一気に 溢れ出した。それはプライスレスの服を焼き、その下のスーツも汚した。そして、凶器を盛大に引き抜く。 「俺の勝ちだぁっ、ストッキィ!」 へへへ、ふへへへ、ひへははは、と狂気の滲む笑いを上げるプライスレスも、殺人衝動に酔っていた。ダウナー であり、ヴィランだからだ。他人が満たされる様を見るのはあまり楽しいものではなく、一矢報いてやりたい衝動が 痛みの奔流の中に沸き上がる。片足さえ引き抜ければ、体を捻られる。左腕も千切れば、きっと。だが、そんなこと をすれば取り返しの付かないことに。しかし、取り返しが付くような人生を望んでいたか。否。 「ごぇおうおあああああああああっ!」 腹の底から叫び、激情で激痛を紛らわそうという稚拙な努力をしながら、デッドストックは筋の切れた両足を腰を 使って思い切り引っ張り、デッドストックの血を存分に浴びたために赤く錆びた鉄骨を折ると、左肩をコンクリートに 叩き付けて強引に関節を元に戻す。自身の血の海を這いずることを許すほど、プライスレスも甘くない。だから。 「ぎひぃっ!?」 左腕の筋力だけで跳躍したデッドストックは、獣の如く、少年の首に食らい付いた。何度となく殴られているために 本数が乏しい歯で、激情を筋力に変えた顎で、オレンジ色の作業着と赤いスーツに覆われた首を、ラバーマスクを 剥がさずに噛み付く。三枚の薄くも頑丈な遮蔽物を貫けはしなかったものの、デッドストックに残された最後の武器は プライスレスの腐りかけた顎の下に程近い喉にめり込んだ。そして、慣性の法則でデッドストックの弛緩した肉体 がプライスレスの背後に転げ落ちると、少年の首から抉り取った腐った肉が、べちゃりとコンクリートを叩いた。 おとうたまおとうたまおとうたま、と首から下を真っ赤に染めたプライスレスをジガバチ達が取り囲む。プライスレスは 左手で首を押さえるも、出血は止まらない。デッドストックは手足をでたらめに投げ出した恰好のまま、言った。 「俺の勝ちだ」 「かもしんねぇ」 どちらの声もぼやけていて、濁っていたが、二人の耳にはそう聞こえていた。理解出来ていた。 「だったら、特別にあんたの願いでも叶えてやるよ。さっさと言えよ、屑ヴィランのガス野郎」 「あの女を殺せ。お前は俺の特別な道具だからだ。使い切ってやるよ」 「ふへへへ、んだよそれぇ。でも、まあ、特別だし?」 遠のきつつある意識の端で、少年の声を聞いた。他愛もない別れの言葉のようでいて、一世一代の告白のようで いて、単なる気さくな挨拶のような、そんなものだった。おとうたまおとうたまおとうたまおとうたま、とジガバチの娘達 が父親を追っていく。彼女達が通りすぎるたびに細切れになる日差しを受けている人造妖精は、顔の右半分だけが 醜く腐ってしまったが、それ以外は愛らしさを保っていた。 殺人衝動が満たされた充足感と達成感で、体中が熱い。下半身の機能さえ真っ当なら、空っぽになるほど放って いただろう。これでいい。もう思い残すことはない。もっとも、そこまで生に執着していたわけではないし、こんな大事 がなければ自分が何者なのかも追求するつもりもなかった。長かった旅も、ようやく終わる。 生まれて初めて、熟睡出来そうだ。 空が青い。 どうしようもなく鮮やかで、腹が立つほど澄んでいる。空気を吸えば甘く、濃く、粘膜が潤った。汚染物質の粒子や 砂や煙といったざらつきは感じられず、舌の上にも血の味は残っていない。荒っぽく開かれたはずの腹が塞がり、 左腕と両足をコンクリートに縫い付けていた鉄骨の破片も抜けていたが、トレンチコートの右腕は平たいままだ。 あれから、何がどうなったのか。考えるだけでも嫌になって、デッドストックは甘すぎる空気を吐いた。 全身を焼いてくる日光の強さに辟易して体を起こし、目を上げると、デッドストックが横たわっていたコンクリート片 の周囲にちゃぷちゃぷと海水が打ち寄せていた。攻撃的ですらある鮮烈な日差しが濃い影を足元に落とし、目が 眩んでくる。筋も骨も切られたはずの手足が動き、頭が働き、目が機能し、意識がある。脳に流れ込んできた大量 の情報が、これは紛れもない現実だと知らしめてくれる。だが、この景色はなんだ。 「しえる・ぶる」 垂れ下がった髪で顔の右半分を隠した人造妖精が、少しだけ良くなった滑舌で喋った。 「なんだ。生きていたのか」 デッドストックが軽い落胆と甚だしい安堵を得て漏らすと、プレタポルテはこくりと頷き、青い海と空の間を貫くように 聳えている光の柱を指し示した。クォンタム・ドライブが放つ、この世の理を塗り替えるほどの膨大なエネルギーは、 かつて地球を天上と地下に隔てていた壁を支えていた塔のようでもあった。 「ごしゅじんさま」 プレタポルテの長い睫毛に縁取られた金色の瞳が光を宿し、デッドストックを真っ直ぐ見つめる。 「これであなたは、わたしのものよ」 潮風が本来の色を損なうほど汚れきった薄緑色の髪を払い、腐った顔の右半分を光の下に曝す。皮膚が剥げて 歪んだ口角を更に歪め、剥き出しの頬の筋肉が引きつり、垂れ落ちる膿と血に右目が抉られた眼窩から止めどなく 流れる涙が顎を伝って首を濡らす。その口調はリザレクションではなかった。プレタポルテ自身の、壮絶な経験を 経て生まれた独占欲だ。よろけながら近付いてきたプレタポルテは、頼りない手付きでデッドストックのラバーマスク を抓み、剥がした。途端に生じたメタンガスの臭気を厭わずに、かかとを上げて精一杯身を乗り出し、男の裂けた 唇に花びらのような小さく柔らかな唇をそっと重ねてきた。 膿と血と涙と、命の味がした。 13 10/6 |