落ちて、落ちて、落ち着いた。 辛うじて手足の感覚が戻ってきた。何度目なのかすら定かではない微睡みから意識を引き上げ、ぎこちなく手に 力を入れてみると、指が曲がって柔らかいものを握り締めた。ぐじゅり、と粘っこく水気を含んだものが指の間から 絞り出された。息を吸っても胸が痛まなくなったのは、肋骨が治ってきたからだろう。背骨と骨盤の痛みはまだまだ 油断出来ないが、意識が戻ったということは、治りつつあるということだ。能力を持って生まれたことを疎んだことは 今までに何度もあったが、能力者故に再生能力が高いことに感謝したこともまた、それ以上にある。 今、正にその状態だ。デッドストックは生臭い空気をゆっくりと吸い込んでから、ラバーマスクの下から目を上げて 周囲を窺った。右手首に繋いだ太い鎖を辿ると、デッドストックと同じようにヘドロの中に落ちたリュックサックの頂上 で人造妖精が這い蹲っていた。暗がりなので解りづらいが、血の臭いが感じられないことから察するに、派手な傷は 負っていないようだった。リュックサックの傍には、やはり似たような状況のプライスレスが寝そべっている。 「すとっきぃ」 何日も飲み食いしていないからだろう、少年の声は老人のように掠れていた。 「しゃべれる?」 「少しは」 デッドストックは口中に貼り付いた舌を剥がして応じると、プライスレスは首を曲げ、泥に沈んだ髪を乱した。 「ここ、どこだろ」 「知るか」 「よーせいちゃんは」 「死んではいないようだ」 「もうちょいねるぅ」 「勝手にしろ」 それだけの会話を交わすだけで、デッドストックはやたらと体力を消耗した。寝入り端に、リュックサックをごそごそと 探る物音が聞こえてきたので、どうやらプレタポルテはプライスレスの荷物を漁って飢えを凌いでいるらしい。俺の傷が 治りきるまではその食糧が尽きないでくれ、と内心で願いつつ、デッドストックは再び意識を遠のかせた。 それから更に数日が経ち、腰骨と背骨と神経も繋がったデッドストックが起き上がれるようになると、プライスレス もまた身動きが取れるようになった。二人の傍から離れるに離れられないプレタポルテは、寂しさと切なさと恐怖の あまりに泣き出すこともあったが、それ以外は割と大人しくしていてくれた。 プレタポルテが健気にも残しておいてくれた水で喉を潤し、その水を口に含んでから入念に噛み砕いた乾燥蛆虫 を胃に入れていくと、微々たるものだが活力が戻ってきた。胡座を掛けるようになったデッドストックは、泥やら何やら で体中べとべとになっているプレタポルテに縋り付かれながら、改めて状況を確認した。 「あれか」 デッドストックは手回し式充電器と繋げたスタンドライトを上向け、穴を照らした。 「あれだねぇ」 「うぃ」 それに倣い、プライスレスとプレタポルテも上を仰ぎ見た。一筋、青白い光に照らされた埃の粒子が向かう先には いびつな四角い穴が穿たれていた。環境の悪化によって汚染物質を多分に含んだ雨水がコンクリートのひび割れ から染み込み、コンクリートのみならず、鉄骨までもを腐食していたようだった。底が抜けているのはシェルターの 非常口だけではないようで、虫食い穴のようにいくつもの穴が開いていた。だが、三人が落ちてきた穴がその中の どれであるかはすぐに解った。プライスレスのオレンジ色の作業着の切れ端が引っ掛かっていたからだ。 三人が落ちてきた穴の底には、泥と生物の死骸が堆積していた。それがクッションとなったおかげで、全身の至る ところを骨折した程度で済んだようだった。穴と底の距離は目測でも数十メートルはあり、頭から落ちなかっただけ でも幸運だと思うべきだろう。底の両脇には錆び付いた鉄の棒が二本横たわっているので、ここは地下鉄の線路と みてまず間違いない。だが、一つ、重大な問題があった。 「……俺、地下鉄の路線、知らねぇ」 「知っている」 「うぃ」 完膚無きまでに砕けてしまった苔のビスケットの袋を囲み、三人で粉を舐めた。少しは気が紛れた。 「ストッキーは?」 「知るわけがない」 「うぃ」 三人で舐めると粉はすぐに尽きたが、皆、袋の底に欠片はないかと手を突っ込んだ。 「じゃ、どーすんだよ」 「知るか」 「うぃー!」 当然ながら袋は破け、ばりっ、との空しい音が暗闇に響いた。 「つか、マジでどうすんだよ、この状況」 「どうにでもなる」 「うぃ」 デッドストックとプレタポルテの答えに、プライスレスは乾いた笑いを零した。 「どうにかなると思わなきゃ、どうにもならねぇのは事実だけどさぁ。もうちょっと、物事を考えようぜ」 「お前よりは考えている」 「うぃ」 「ストッキーはともかく、妖精ちゃんにそんな知恵はねぇだろ」 プライスレスは残り少ない水を呷ってからガスマスクを元の位置に戻し、泥が付着した髪を乱した。 「歩けるようになったら、とりあえず外に出られそうな道に行ってみようぜぃ。でねぇと、確実に死ぬ」 「それはそうだな」 「うぃ」 更にそれから数日後、デッドストックの足首の骨が繋がってから、三人は行動を開始した。といっても、まだまだ 足取りは遅いので、比較的足の負傷が少なかったプライスレスが斥候を行いつつ、数百年前に廃棄された地下鉄 の線路を彷徨った。だが、地下鉄は下水道とはまるで構造が違うため、一筋縄では行かなかった。 見通しが利かないので行き先が解りづらい、駅には路線図らしきものはあるが大昔の言葉なのであまり意味が 解らない、解ったとしても構造が複雑すぎて現在位置を見失いそうになる、外に出られそうだと思って階段を昇るも 天井が崩落している、横倒しになった車両が邪魔をしている、などのトラブルに見舞われてしまったので、文字通り 一進一退だった。いい加減にうんざりしてきたが、立ち止まっていても外に近付くわけではないので、今日こそはと 当たりを付けながら進むしかなかった。ネズミやコウモリを掴まえては肉を捌き、泥水を濾過して加熱してから啜り、 毒を持っていない芋虫や蛆虫を見つけては火を通して食すのはいつものことなので、問題はなかったが。 この時ばかりは、さすがのプライスレスも口数が減った。 地下の地下に落ちてから、何日が過ぎただろうか。 最初は日数を数えていたが、途中で面倒臭くなってしまったので、解らなくなってしまった。だが、朝日の昇らない 地下世界では日にち移り変わりなどあってないようなものだということもあり、本当にどうでもよくなった。瓦礫を階段 代わりにして上の階層にある線路に辿り着いたが、外への出口にはまだまだ至らなかった。歯痒かったが、焦って 外に出てヴィジランテの領地に飛び込みでもしたら厄介なので、慎重に事を進めていた。 プレタポルテの様子がおかしくなったのは、路線がやたらと多い駅を通り過ぎた後だった。歩き疲れて足が痛いと 文句を言うことはあったが、泣いたのはあの時だけで、拙いフランス語のお喋りを繰り返していた。だが、急に口数が 減って足取りも重くなり、デッドストックにせっつかれても歩かなくなった。 「おい」 デッドストックは鎖を引き、線路に座り込んだ人造妖精を急かすが、プレタポルテは喘ぐだけだった。 「にょ……」 「休みたい気持ちは解るけど、もうちょっと頑張らねぇと」 プライスレスはプレタポルテの頭を軽く叩いたが、ふと違和感を覚え、手袋を外して額に触れた。 「何これ」 「どうした」 「触ってみろって。あ、腐らせないことを前提にな」 プライスレスが急かしてきたので、デッドストックは手袋越しにプレタポルテの額に触れると、汗ばんでぬるついた 肌の下から高熱が生じていた。LEDライトを向けてみると、ガスマスクのゴーグルの下では目が潤んでいて、呼吸 も弱々しい。明らかに何らかの病気を患っている。原因として考えられることは山ほどある。プレタポルテの体には 地下世界への適応能力などないだろうし、病原菌に触れたことすらなかっただろう。だから、病気になるのは時間の 問題だったが、この地下世界で清潔な生活を得られるのは、ほんの一握りの人々だけだ。そして、デッドストックも プライスレスもその一握りの中には入っていない。更に言えば、医者に掛かったことすらない。 能力を持って生まれたダウナーはやたらと回復能力が高く、骨折程度であれば数日で治ってしまうように、病気も 一日と立たずに収まってしまう。能力を持たないために回復能力のないダウナーは、治らずに死ぬだけだ。医者 に掛かろうにも、窮地にまともな医者が近くにいた試しはなかった。それに、最近では医者と名の付く者はヴィジランテか クイーンビーの娼館に囲われているので、そうでない者達が容易に接触出来るものではない。 放っておけば、プレタポルテは死ぬだろう。そうなれば単なる死体となり、何の意味も成さなくなる。しかし、医者を 探しに行けるような状況でも場所でもない。デッドストックがプレタポルテを小突くと、人造妖精は咳き込んだ。 「みゅう」 泥や砂が薄い爪の間に詰まった手で、プレタポルテはデッドストックのトレンチコートを握り締めてきた。他に縋れる 相手も物もないから、全力で頼りに来ている。それが鬱陶しくもあり、面倒だったが、突き放すわけにはいかない のもまた事実だ。デッドストックは首を横に振り、プレタポルテを抱え上げた。小さな体は燃えるように熱い。 「苦しいか」 「う、ぇおう」 プレタポルテのガスマスクの内側で重たい水音がしたので、吐き戻したらしい。 「どうにかしようにも、ここには何もない」 「うぃ……」 「外に出るまで、もう少し待ってくれ」 「うぇ」 「泣くな。それと、まずは吐いたものを出せ」 デッドストックはプレタポルテを一旦下ろすと、ガスマスクを外させてひっくり返し、吐瀉物を捨てた。この数日間で 食べてきたろくでもないものが中途半端に消化されていて、胃液に混じってとろけていた。濡らした布でガスマスク の内側を拭いてやり、プレタポルテの顔も拭ってやると、体液以上に砂が付いていた。 「出せるだけ出せ」 デッドストックが背中を軽く叩くと、プレタポルテは今まで我慢していたらしく、膝を折って吐き出し始めた。最後まで 吐き出して胃液だけになると、プレタポルテは少しは楽になったらしく、呼吸が落ち着いてきた。濾過した水を煮沸 させた湯冷ましを飲ませようとしたが、少し舐めただけで、飲み込もうとしなかった。喉が腫れているらしい。 最低限、水だけでも飲まなければ体力が持たない。デッドストックも、その程度のことは我が身を持って知っている ので再度飲ませようとするが、プレタポルテは嫌がった。口を開けさせようとしても嫌がり、舐めさせようとしてもまた 嫌がり、ついに泣き出してしまった。いつもよりも掠れている悲痛な泣き声が地下のトンネルに反響し、デッドストック とプライスレスの聴覚に突き刺さってきた。だが、力ずくで黙らせては元も子もない。 生温かい胃液にまみれた吐瀉物に惹かれてか、どこからかハエが飛んできた。それも一匹や二匹ではなく、羽音 がどんどん増えていき、いつしか黒いうねりとなって三人を取り巻いていた。ハエの大群がやってきたせいで余計 に不安が煽られたのか、プレタポルテの泣き声は引きつった。ぶんぶんと唸る無数のハエを少しでも減らしてやろうと デッドストックは手袋を外そうとしたが、急に右手首が引っ張られた。 「なんだ」 じゃりぃっ、と鎖が伸び切った。プレタポルテが逃げようとしたのかと振り返ると、泣きじゃくる人造妖精は黒い影 に胴体を抱えられていた。プライスレスがLEDライトを向けると、ハエの群れがざあっと波打ちながら別れ、黒い影 に青白い光をもたらした。弱い光条が照らし出したのは、複眼が顔面の半分以上を占める頭部に短い毛の生えた 外骨格、丸く小さな羽に細長い六本足を備えた、ハエ人間だった。ハエ人間がかちんと顎を鳴らすと、途端にハエの 群れが意志を持った一つの生命体のように蠢き、デッドストックとプライスレスの周囲を分厚く取り巻いた。 「くそっ」 となれば、全て腐らせるしかない。デッドストックはラバーマスクの上から手袋を噛んで右手を曝し、左手も曝し、 ハエの群れを横に薙ぎ払う。その軌道に従って視界は晴れたが、すぐさま新たなハエの群れに塞がれ、またもや 行く手を阻まれた。何度も何度もそれを繰り返すうちに足元にはハエの死骸の山が出来上がり、一歩踏み出すごと にぶちゅぶちゅと潰れた。何百、何千、何万と殺したかは解らない。それでも尚、ハエは途絶えない。 「君達が、あのデッドストックとプライスレス? 見た目も能力も、話に聞いた通りだ」 わああああん、わああああん、と渦巻くハエの群れが二つに分かれ、ハエ人間が顎を開いた。 「あのスマックダウンに楯突いて生き延びているだけでも面白いのにさ、本当に人造妖精を連れているだなんて、 面白すぎてわくわくしちゃう。だけど、この地下鉄は僕の縄張りなんだよね。その辺の落とし前、付けてもらわなきゃ 困るんだよね。だから、ちょっと大人しくしてくれるかな?」 かちん、と再びハエ人間が顎を鳴らした。ハエの群れが弧を描きながら押し寄せ、ラバーマスクの隙間に一斉に 飛び掛かってくる。黒が黒を塞ぎ、腐臭が腐肉を生み、硬くざらついた粒が鼻と口に詰まる。もちろん、肌に触れた 途端に腐り落ちはしたが、腐った傍から別のハエが腐ったハエを食い、新たなハエが襲い掛かるので無駄だった。 いかに腐敗能力が万能であろうと、数で圧倒されては勝ち目はない。じゃぐじゃぐとハエの死骸を噛み締め、昆虫 特有の苦味を否応なしに味わいながら、デッドストックはよろめき、片膝を付いた。 鎖を引いたが、人造妖精は戻ってこなかった。 13 6/18 |