横濱怪獣哀歌




砂上ノ牢獄



 歯が痛かった。
 狭間の右下の奥歯が痛み出したのは三日前のことで、その時は気のせいだろうと思っていた。だが、日を追うごと に痛みが激しくなり、あまりにも強い痛みで夜中に目が覚めてしまったほどだ。咀嚼がろくに出来ないので食事 も思うように摂れなくなったため、ツブラに与えてやれる体力も激減した。喉に触手を突っ込まれた際に痛む歯に 触れてしまったら、と考えると怖気立ってしまい、口を開けてやれなかったからでもある。

「さっさと歯医者に行きなさい」

 愛歌は狭間に痛み止めの錠剤を渡してやりつつ、苦笑した。

「ここまで痛くなると行くしかないですね、やっぱり」

 右側の頬も心なしか腫れぼったく、舌も上手く回らないので、狭間はもごもごと喋った。

「でも、今日は休診日だから明日になるわね」

「マヒト、イタイ?」

 他人事なのであっけらかんとしている愛歌とは裏腹に、ツブラは不安げに狭間を見上げてくる。

「痛い。痛すぎてこの世の全てに恨みを抱きたくなるほどに」

 痛み止めを飲んでも大して効き目はないが、ないよりはマシだ。だが、固形物を噛める状態ではないので、狭間 は牛乳を胃に入れてから錠剤を飲み下した。

「そんなにひどいなら、今日は仕事を休ませてもらったら? 今は麻里子ちゃんもいることだし」

 出勤するために身支度を整えながら、愛歌が提案する。

「いえ、仕事には出ますよ。人前に出られる顔じゃないですけど、裏方なら出来るんで。じっとしていても何にも ならないですし、あんまりひどかったら早退させてもらえばいいんで」

「あら、頑張るのねぇ。でも、あんまり無理しちゃダメよ。夕飯も湯豆腐にでもしましょうか、初夏だけど」

「気を遣わせてすみません」

「いいってことよ。私、御豆腐大好きだから」

 それじゃ行ってくるわね、と愛歌は玄関に向かい、下駄箱からパンプスを取り出した。その下駄箱に見慣れないもの が置いてあることに気付き、狭間は訝った。中央がくびれたガラス製の容器が木製の枠に填まっていて、ガラス容器の 中には粒子が細かい赤い砂が入っている。手のひらよりも小さいので、三分を計れるものだろう。

「あれ、砂時計なんてありましたっけ?」

「あー、これ。もらったの」

「誰にですか?」

「誰ってそりゃ……誰だっけ。まあいいか、大したことじゃないし」

 と、愛歌はバッグを肩に掛けてドアノブに手を掛けたが、ドアを開けずに止まった。

「狭間君、今日って何月何日だっけ?」

「七月五日ですけど」

 座卓の下に潜り込んでいる新聞を取り出して日付を確かめた狭間に、愛歌は振り返る。

「何回目の?」

「な?」

「ナ?」

 狭間が聞き返すと、ツブラもそれを真似した。愛歌はしばらく唸っていたが、おもむろに砂時計を掴んでドアの外に 放り出した。ぱきゃん、と薄いガラス容器が割れる音がどこからか聞こえてくると、愛歌はぐっと拳を握った。よし、 よおし、と虚空に向かって勝ち誇った愛歌は、今度こそ出勤していった。

「あの人、深酒しすぎて酔いが抜けてないのかなぁ」

「ナイノカナァ」

 それとも、怪獣Gメンの仕事に根を詰めすぎて疲れているのだろうか。痛み止めが回ってきたおかげで冷静さを 取り戻した狭間は、仕事に出かけるための支度を整えた。ツブラにも変装セットを着せてやったが、近頃は出勤前に べったりと貼り付いてくるようになった。満足させないと離れてくれないので、狭間はツブラを抱き寄せて軽くキス をしてやるようになった。最初の頃に比べると慣れてきたが、やはり恥ずかしいし、照れ臭い。

「マヒト、オトーフ、オツカイ」

 狭間と額を合わせながら、ツブラは白目のない赤い瞳を柔らかく細める。

「はいはい。仕事帰りに一緒に行こうな」

 ツブラを引き離し、サングラスを掛けさせてから、狭間は照れ隠しに笑った。ツブラは湯豆腐は食べられないが、 昆布出汁を舐めさせてやる程度であれば大丈夫だ。味が解るだけでも気分が違うらしく、上機嫌なツブラは狭間の 手を取って急かしてきた。そこまで喜ばなくてもいいのなぁ、と思いつつ、狭間は下駄箱に手を掛けた。
 すると、砂時計が手に触れて倒れた。




 翌朝。
 今日こそは歯医者に行ける、と狭間は決意と安堵とその他諸々を混ぜた感情を抱きながら布団から起き上がり、 ずきずきと痛む奥歯に気を遣いながら水を一杯飲んだ。シンクには昨夜の夕食の名残である、土鍋があった―― はずなのだが、入っていない。けれど、狭間の記憶と胃袋には湯豆腐の味が残っている。昆布を煮すぎてとろけて しまったが、どうせだからと湯豆腐と一緒に食し、鶏団子も煮込んで食べたのだ。主に愛歌が。

「……あれ?」

 その後、愛歌はやけに早いピッチで酒を飲んで寝入ってしまった。狭間は土鍋をシンクに運んでから水を張って、 銭湯に行ってきてから洗おうと思っていたのだが、痛み止めが効いてきたのと疲れが出たせいで眠気に襲われ、 帰宅して間もなく寝入ってしまったのだ。だから、土鍋と二人分の食器が手付かずで残っているはずだった。だが、 それがない。ツブラが洗い物をしてくれるとは思えないし、そんなことが出来るのであれば、とっくの昔に古代喫茶・ ヲルドビスで皿洗いの仕事をさせている。となれば、一体。

「気のせい、だと思うにしてはなんかこう、解せないなぁ」

 狭間は寝乱れた髪を掻き上げながら、ドアの郵便受けに突き刺さっている朝刊を引っこ抜いて広げ、日付を見て 訝った。それから何度も見直し、ページを捲って見直し、テレビを付けてみるが、やはり。

「七月五日!?」

 ということは、今日も歯医者は休みなのか。狭間が絶望に襲われていると、ふすまが開いた。

「ほほほほほ、やっと気付いたようね」

 寝起きのままの姿で現れた愛歌は、ピンク色の長い髪を映画女優のような仕草で掻き上げた。

「今朝、じゃなくて、前の今朝の愛歌さんの行動が変だったのはこれのせいですか!?」

 狭間が新聞の日付を指して愛歌を問い詰めると、愛歌はにやりとする。

「そうよ! そうなのよ! 私が覚えている限り、七月五日が来たのは今回で百回目よ!」

「なんで七月五日なんですか!?」

「私の知ったこっちゃないわよ、そんなもん! どうにかして抜け出そうとして色々やってみたけど、なんにも変わり はしないのよ! ちなみに狭間君が砂時計に気付いてくれたのは前回が初めてで、それまでは砂時計に気付こうとも してくれなかったんだから! 木曜日でもやっている歯医者に狭間君を連れていって虫歯になっちゃった親知らずを 抜いてあげたこともあるし、夕御飯を湯豆腐じゃないものにしてみたこともあるし、仕事をサボって一歩も外に 出ずに過ごして見たことも多々あるし、ツブラちゃんと仲良くしたことだってあるし、何もかもが嫌になっちゃって お隣さんに殺されてみたこともあるし、単身で九頭竜会に挑んでみたこともあるし!」

「へ、あ、えぇえええええ!? そんなことになっていたなんて、俺、全然気付きませんでしたよ!?」

「なんでそうなったのかは、覚えていないわけじゃないのよ」

 百日分の鬱憤を吐き出したからか、愛歌は嘆息した。そして、下駄箱の上にある砂時計を窺う。

「七月四日に、誰かからあの砂時計をもらったの。必要ないし、何よりアレの材料は違法だから、怪生研に持って いって精密検査をした後に保管してもらおうって思っていたんだけど、怪生研も休みなのよ。今日」

「土日祝日だけじゃないんですか」

「じゃないの。設備点検の日だから、どうしようもないの。怪生研に近い部署に行ってみようって考えたこともあった んだけど、どこも事前連絡しておかないとダメだから行くに行けなくて」

「だとすると、砂時計の中身は怪獣なんですか?」

 だが、狭間には何の声も聞こえてこない。先日出会った、神話怪獣ニギハヤヒの分身であるナガスネヒコは言葉 を発していたのだが、あれは本体のニギハヤヒが遠隔操作していたからだ、と思い直した。それに、怪獣だからと 言って、誰も彼もがお喋りであるとは限らない。むしろその逆だ。世の中には狭間に話し掛けてこない怪獣も数多く 存在しているのだから、狭間にも他の怪獣にも何も言わずにひっそりと長らえている個体がいてもなんら不思議は ない。人間の中にも、寡黙で閉じこもりがちな人間はいるのだから。

「で、どうなの。狭間君。その怪獣、何か言っている?」

 愛歌が砂時計を突き出してきたので、狭間はやや腰を引きつつ受け取る。

「えーと……」

 砂時計をひっくり返すと、上から下に零れ落ちていた赤い砂が逆方向に進む。かと思いきや、砂は同じ方向にしか 落ちていかなかった。横にして転がしてみても、振ってみても、結果は変わらない。砂時計を耳元に当ててみても、 怪獣らしき声色は聞こえてこない。鼓膜をくすぐるのは、砂がさらさらと擦れ合う音だけだ。怪獣電波を感じたか 否かをツブラに尋ねてみたが、首を横に振って否定した。

「なんにも聞こえません」

「嘘よ」

「嘘じゃないですって」

「じゃ、なんなのよ! なんで私はいつまでも七月五日を過ごさなきゃならないのよ! このままじゃ、あのドラマの 続きがどうなるかが解らず終いだし、給料日も来ないし、給料日が来なければパーマを直しに行けないし、同じ仕事を 何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すのは飽きちゃったのよ! 永遠に歳を取らずに済むかなぁって思ったことも あるし、狭間君は何も覚えていないから後腐れのない関係になれるかなーって考えたこともあるけど、でも、そんなの つまんないじゃない! 飽きた! もう嫌!」

「ちょ、っと、落ち着いて下さい愛歌さん」

 半泣きでまくし立ててきた愛歌がとんでもないことを言った気がしたが、狭間は聞かなかったことにした。

「だけど、どうして狭間君は今回に限って気付いたのかしらね」

 言うだけ言って気が済んだらしく、愛歌は真顔になった。落ち着けとはいったが、急に落ち着かれるとそれはそれ で反応に困る。愛歌は今までの狭間の行動を思い返し、前回の狭間の行動と比較していたが、顔を上げた。

「あ、そうか! 狭間君、砂時計に触ったんだわ!」

「そういえばそうでしたけど、それが」

「となればもしかすると、もしかするかもしれない! ちょっと行ってくるわ、狭間君は仕事に行ってね! 午後には 聖ジャクリーン学院の虫好き三人娘が来てケンカするけど、大したことないから気にしないで! 誰の彼氏が一番 イケてるかっていう下らないことが発端だし、麻里子ちゃんが出ていくと落ち着くし、チョコレートパフェの盛りを少し だけ増やすと繭香ちゃんは泣き止むから! でも、マスターには許可取ってね! それと、今夜は湯豆腐じゃなくて すき焼きにしましょう! 御豆腐は大好きだけどさすがに飽きたし、狭間君が気付いてくれたお祝いね!」

 じゃあね、と愛歌は部屋から飛び出しかけたが、寝て起きたままの恰好であることを思い出して引き返してきた。 大急ぎで着替えて髪をまとめて化粧をして、冷蔵庫に残っていた味噌汁と冷や飯を掻き込んでから、愛歌は今一度 飛び出していった。愛歌の言うことが本当なのだろうか、と狭間は半信半疑ではあったが、出勤した。
 昨日、いや、前回の七月五日では生物部の虫好き三人娘は来ていたがケンカはしていなかったからだ。裏方で皿を 洗いながら店内の様子を窺っていると、三人のお喋りが徐々に高揚していき、ついに言い争いになった。少女達は 徐々に声が大きくなっていくが、よくよく聞くと確かにその内容は愛歌の言う通りだった。
 繭香の旦那は工業高校の札付きの不良でダメだ、違うよカンちゃんはそんなんじゃないよ音々ちゃんの相手の人 だって大学生なのに高校生に手を出すなんて、そうよ私のセヴランよりも素敵な男性はいないのよ、などなど。皆、 引く気はないらしく、言うことがどんどん過激になっていく。このままでは他の客にも迷惑が掛かるので注意をしに 行かなければ、と狭間が皿洗いを中断すると、麻里子が狭間を引き止めて三人娘の元に向かった。そこで麻里子が 一言二言述べると、三人は我に返ったらしく、言い争いが収束した。それから三人娘は周りの客に非礼を謝ったが、 羞恥のあまりに繭香が泣きそうになってしまった。そこで、狭間は海老塚の許可を得てから、繭香が注文していた チョコレートパフェを多めに盛ってやってから麻里子に運んでもらった。
 そして、夕食はすき焼きにした。





 


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