横濱怪獣哀歌




桜木町デ会イマショウ



 怪獣達の要求をまとめると、こうだ。
 先週、一ヶ谷市内にある温泉採掘場から温泉と共に組み上げられた土砂に、怪獣の卵が混じっていた。その卵 の外見は鉄錆のように赤く、普通の怪獣の卵とは異なる螺旋状の模様が表面に付いている。だが、心音が弱すぎるので 計器では観測出来ないため、孵化しない卵として廃棄処分されることが決定した。しかし、その卵から生まれる怪獣 は特別な怪獣であり、怪獣と人類の未来にとっては不可欠な存在なのだ、と。
 だから助けてくれ、と怪獣達は騒いでいるわけだ。けれど、それはれっきとした犯罪だ。盗みだ。怪獣は国土から 採掘される国家資産の一部であり、廃棄される卵も同様だ。そんなものを、どうやって盗めというのだ。狭間には、 そんな力もなければ行動力もない。ただ、怪獣の声が聞こえるというだけだ。聞こえるからといって、怪獣達が狭間 の言うことを聞いてくれるわけではないし、そんなことが出来たら苦労していない。

「……この野郎」

 だが、逆らったら逆らったで、もっと面倒なことになる。狭間は顔を隠すために巻いたマフラーの下でぼやきつつ、 一ヶ谷市内にある怪獣監督省一ヶ谷市分署の建物を見上げた。三階建ての手狭なビルではあるが、その警備は万全で、 拳銃を携帯した警察官が正面玄関前に立っている。狭間は道路を挟んだ向こう側から分署を睨んでいたが、中に 入り込む隙間などなさそうだった。怪獣の卵と共に怪獣に関する物資を保管する施設も兼ねているので、見た目は 古くても作りは頑丈だ。狭間のバイクを突っ込ませたところで、正面玄関すら突破出来ないだろう。

〈あのこがまっているよ〉

〈たすけなきゃ〉

〈すてられちゃう〉

〈かざんのなかにもどされて、まぐまにとけちゃう〉

〈うまれなおすまでには、なんびゃくまんねんもかかっちゃうよ〉

「うるさい」

 目の前の道路を行き交う自動車の動力源であるバンジュー達が、しきりに狭間に呼び掛けてくる。狭間のバイクの バンジューは今のところは大人しくしているが、気が急いているのか震え出している。怯えているのかもしれない。 件の赤い卵の重要性が一切説明されないので、狭間は次第に不信感を募らせていたが、実家に逃げ帰ると今度は ムラクモが騒ぎ立てて叱責してくるだろう。そうなれば、朝方の頭痛を上回る苦痛に襲われてしまう。
 だが、打つ手がないのもまた事実だ。怪獣の卵は分署の地下保管庫に保管されているし、そこに至るまで には何重ものセキュリティを越えなければならないが、狭間にそんな権限があるはずもない。騒ぎを起こして職員達を 出払わせられたとしても、中に入り、地下保管庫に辿り着けなければ意味はない。恐ろしく運良く事が運び、地下に 行けたとしても、今度は赤い卵を手に入れた後の逃走手段がない。

「詰んでんじゃねぇかよ」

 それも、事を起こす前から。狭間は怪獣の声とは異なる理由で頭痛を覚え、顔をしかめる。

「何かお困りかしら?」

 不意にバイクの後部が沈んで、狭間が跨るシートが揺れた。ぎょっとして振り返ると、そこには極彩色の固まりの ような女が座っていた。ショッキングピンクの長い髪に鮮血のような真っ赤なロングコート、カラーコンタクトを入れて いるのであろうオレンジ色の瞳、病的なほど白い肌。こんな田舎ではまず見かけない、パンクロックファッションだ。

「だっ、どっ、なっ」

 誰ですか、どなたですか、なんでもありませんよ、と言いかけて全て噛んでしまい、狭間は身を引いた。女は髪と 同じ色の睫毛に縁取られた目を瞬かせ、狭間を覗き込んできた。

「通りすがりの親切なお姉さんから、とっても素敵なプレゼント。一万円入っているわ」

 と、女が渡してきたのは、ブランドものの長財布だった。

「手ぶらだと卵を運べないから、このカバンもあげちゃう。ちょっと大きすぎるかもしれないけどね」

 そう言って、女は肩から提げていたボストンバッグも押し付けてきた。空っぽだった。

「……は?」

 狭間は財布と女を見比べていると、女は一方的に喋り出した。

「この単車は私に預けてちょうだい。大丈夫、悪いようにはしないし、キーだってちゃんと保管するわ。今から 七分後の八時二十二分に一ヶ谷駅から水上方面の電車が発車するから、それに乗っていって北堀之内駅で降りて。 あの駅には監視カメラ怪獣もいないし、無人駅だから利用者だってほとんどいないから、大丈夫よ。そこで終電になる までやり過ごして、水上方面行きの終電に乗っていって終点まで行って。で、翌朝の高崎方面行きの始発に乗って、 ひたすら東京を目指していって。でも、東京は終着点じゃないわ。横浜よ、横浜に行くのよ!」

 喋りながら身を乗り出してきた女に迫られ、狭間はバイクから落ちそうなほど体を下げた。

「だから、あんた、なんなんですか」

「横浜に行ったら、発電怪獣イナヅマに会いなさい。会って、話を聞いて」

「だから、何の」

「私があなたとお喋り出来るのはここまでよ。だって、これからちょーっと忙しくなっちゃうから!」

 そう言い残して、女はバイクの後部から腰を上げた。何がなんだか解らずに唖然としている狭間を横目に、女は 怪獣監督省に近付いていき、警備している警察官に話し掛けた。それをぼんやりと眺めていると、突如、交差点で 複数の車が急ブレーキを掛けて激突した。何事かと人間達が逃げ惑うと、今度は分署の駐車場に駐車して ある職員の車が暴走した。バンジュー達が狂ったのかと思ったが、そうではない。彼らは示し合わせた上で交通事故 を起こしている。その証拠に、乗っていた人間達は一人残らず無傷だった。
 女は警察官を交差点の事故現場へ引っ張っていきながら、これ見よがしにウィンクしてみせた。チャンスは作って あげたからね、と言わんばかりだった。ここまでお膳立てされれば、腹を括るしかない。狭間はヘルメットの中で盛大 にため息を吐いてから、バイクのアクセルを回してバンジューを煽り立てた。猛烈な排気が噴出し、エンジンタンクの 中身が過熱する。最大限に加速させて分署に突っ込むと、強化ガラス製の自動ドアがすんなりと開いて バイクを受け入れてくれた。ロビーに突っ込んだ狭間は凄まじいスキール音を立てながらブレーキを掛けて、壁に 激突する手前で停車すると、その場でバイクを乗り捨ててキーを放り投げた。あの女を信じたわけではなかったが、 狭い建物の中でバイクを乗り回せるほど操縦が上手いわけではないからだ。
 職員達に制止される、かと思いきや、誰一人出てこなかった。部屋という部屋の電子ロックが働き、一人残らず 閉じ込められていたからだ。これは、署内のパソコンに使用されている基盤である演算怪獣アセンブランが狭間を 助けるためにセキュリティシステムを操作しているのだろうか。廊下を駆け抜けていくと、職員達がドアを開けようと 内側から叩いているが、微動だにしなかった。だが、狭間の向かう先のドアは次々に開いていき、地下保管庫に至る 階段もすんなりと通れ、保管庫本体の分厚い扉も難なく開いた。フルフェイスのヘルメットの中で息を切らしながら、 狭間は怪獣監督省と印刷されている段ボール箱に入った赤い卵を見つけた。
 それは、卵というよりも虫の繭に似ていた。




 横浜に行け、と女は言った。
 その言葉を律儀に守る理由もなかったが、他に行く当てもなかった。重大な犯罪を犯した罪悪感と夜通し電車 に揺られた疲労と追っ手が来るかもしれないという不安で、狭間は一睡も出来なかった。女の財布の金を使って 切符を買い、電車賃に響かない程度に買い物をして飲み食いしつつ、複雑極まりない路線図と睨み合いながら 横浜を目指した。北堀之内駅から高崎駅まで行き、そこから東京には行けたが、そこから先が大変だった。
 しかし、だだっ広い横浜のどこに行けばいいのか。悩んだ挙げ句に狭間が見出した答えは、発電怪獣イナヅマに 最も近い駅で下りることだった。卵の入ったボストンバッグを肩に食い込ませながら、国鉄桜木町駅で下り、観光客 や垢抜けた恰好の人々に混じって外に出た。疲労による頭痛と空腹で疲弊しきった狭間は、人波に揉まれながら ふらふらと歩いていき、高宮重工業造船所前に至った。

「あー……」

 手近なベンチに座り込んだ狭間は、頭を抱えて呻いた。怪獣の卵を盗んだ犯罪者として指名手配されているのでは ないかと思うだけで心臓が握り潰されそうになり、常に人目を気にしていたので体中が強張っている。造船所を始めと した工場や倉庫を出入りしている労働者達は、狭間のことなど気にも留めていないが、誰に見咎められて通報されるか 解ったものではない。足下に置いたボストンバッグの中では、怪獣の卵が左右に転がっている。

「イナヅマの電圧は安定していて助かるぜ、おかげで仕事が捗る」

「東京のデンエイは電力は高いんだが、その分落ち着きがねぇんだよなぁ。たまに停電しやがるし」

「仕方ねぇさ、デンエイは沖縄近海から引き上げられて運ばれてきたばっかりなんだ。まだ馴染んでねぇんだよ」

「だが、横須賀のガニガニには敵わねぇよ。あれは凄かったぞ」

「おいおい、そりゃいつのことだ。ガニガニは照和四十三年には海に帰っちまっただろうが。いつまでも大昔の話を してんじゃねぇや」

「それよりも、この前の野毛で飲んだ時のツケを払ってくれよ。俺だって懐が寂しいんだからよ」

「給料が出るまで待ってくれよ、堪え性のねぇ野郎だな」

「人のことを言えるタマか」

 造船所の労働者と思しき作業着姿の日焼けした男達の会話を聞き流していた狭間は、のっそりと目を上げ、 小山のような生き物を窺った。そこには、水脈怪獣ムラクモよりも寸詰まりなトカゲに似た怪獣が寝そべっていて、 弓形の背中から突き出ている数百本の太い棘に送電用の電線が巻き付けられていた。桜木町駅前に設置された 看板によれば、イナヅマは、全長二百メートル、総排水量三万トン、総出力二百万キロワットを誇り、横浜市を 中心とした地域に常時送電している発電怪獣だ。イナヅマは箱根山の火口から採掘された卵から生まれた怪獣であり、 一九六一年に横浜湾に発電怪獣として配備されてから、一日も休むことなく送電を続けている。
 岩盤のような分厚いウロコを軋ませながら、イナヅマが頭を上げる。十個の青白く発光する眼球が怠慢に動いた かと思うと、その焦点が狭間に据えられると、雷鳴の如き声が狭間の脳天を貫いた。

〈聞いているぞ! その娘、知っているぞ!〉

「ぐあっ!?」

 ムラクモの非ではない声色の厚さと重さに、狭間は思わず耳を塞いだが、声は容赦なく狭間の脳を揺さぶった。 それもそのはず、狭間は怪獣の声を鼓膜を通じて聞き取っているわけではないからだ。怪獣の鳴き声ではない、 感情を伴った明確な言葉が頭の中に直接響いてくる。だから、防ぎようがない。

〈人の子よ、命を惜しむなかれ!〉

「うるさい」

〈人の子よ、己のさだめを憂うなかれ!〉

「うるさいって言ってるだろ!」

〈人の子よ、その娘を疎むなかれ!〉

「だから、黙れって言っているだろ! 俺はお前らの使いっ走りじゃないんだ!」

 限界に達していた疲労が抗いきれない苛立ちを生み、耐えきれなくなった狭間はイナヅマに怒鳴り散らした。その 怒声に、駅前を行き交っていた人々が足を止めて不審げに窺ってきたが、それを気にしていられるほどの余裕は欠片も なかった。

「この卵だってお前らの問題だ! 俺がどうにか出来ることじゃない! 俺はただの人間なんだぞ!?」

〈否!〉

「もういい、帰る、どうにかして帰る、お前らなんかに」

 構っていられるかよ、と狭間は全力で叫んだが、前触れもなく響き渡った警戒警報に掻き消された。鋭い高音の サイレンが、至る所に設置されたスピーカーから迸る。特一級災害警報発令、直ちに避難して下さい、近隣の地下 シェルターに避難して下さい、と、警戒警報を上回る音量で女性が避難を促してくる。人々は混乱しながらも、子供の 頃から学校や自治体で受けた避難訓練に従って、駅舎の地下に設置されているシェルターへ逃げ込んでいく。狭間も 通りすがりの労働者に避難した方がいいと言われたが、頭痛に負けてうずくまった。
 その意味が何なのかは、誰もが知っている。光の巨人が出現するからだ。それは神々しくもおぞましい、突発的な 大規模災害の通称だ。全長は数十メートルから三百メートルの、質量と実体を持たない光の固まりだ。光輪じみた ものを背負っているものもあれば、淡い光の柱と共に現れるものもあり、羽根の生えた小振りな個体を引き連れて いるものもあるが、それらはいずれも触れた物体を対消滅させてしまう。海を抉り、大地を穿ち、都市を削る、災害 の中でも最も凶悪なものだ。
 光の巨人の存在はもちろん知っていたし、テレビや新聞の報道でいかなる被害が生じるのかも解っていたが、実際 に遭遇するのはこれが初めてだ。正しく光の化身である光の巨人は、体が左右に揺れるたびに光の粒子が僅かに 崩れるのか、背景が透けて見える。それなのに、その光の粒子に触れた物質が消えていく。まるで、最初から世界に 存在していなかったかのように。理解しがたい異形に対する畏怖で、狭間は膝が笑い出しそうになった。

〈心して聞け、人の子よ!〉

 音もなく、海が割れる。薄い雲を消し去りながら出現した光の柱が、イナヅマに淡い輪郭を与えた。

〈我らは地の子! 故に光と戦えぬ! 我らは光に抗えぬ! だが!〉

 ウロコの合間に溜まっていた堆積物を零しながら、大波を立てながら、棘に繋がっている送電用の電線をぶちぶち と千切りながら、イナヅマは四肢を伸ばしきった。数百メートルにも及ぶ長さの太い尻尾が大きく振られ、狭間の頭上 に海水の雨が降り注いできた。狭間とボストンバッグはぐっしょりと濡れ、浅い池が大量に出来る。

〈その娘は天の子! 故に光をも喰らえる!〉

 故に、とイナヅマは吼えた。が、顎が開ききる前に、光の柱から伸びてきた腕がイナヅマの頭部に触れた。直後、 イナヅマの頭部が霧散する。頭蓋骨と脳と眼球の下半分と下顎と頸椎が露わになり、円形の傷口からは紫色の血液が 滂沱する。その色に染まっていく横浜湾に、光の巨人が緩やかに踏み出してくる。激しく波打つ海面を進むたびに、 濁った海水が消滅し、光の粒を帯びた霧となる。光の巨人は目も口も鼻もない頭部を怠慢な動作で俯かせると、 己の血で喉が詰まっても尚咆哮を放ち続けるイナヅマに覆い被さっていく。

〈聞け、我が声を! 届け、我らが願いを! そして、その娘を〉

 まもれ、とイナヅマは余力で喉を震わせたがが、最早音ですらない脆弱な空気の揺らぎに過ぎなかった。巨体の 怪獣を抱き締めるように細長い手足を丸めた光の巨人は、イナヅマの咆哮さえも消し去っていく。イナヅマの体積に 応じて光の巨人も縮んでいくが、微々たるものだった。恐竜じみた骨格、筋肉、皮膚、内臓、イナヅマを取り巻く海水が 消滅していき、ついに最後の肉片が消え去った。だが、光の巨人の歩みは止まらなかった。
 一歩、また一歩と光の巨人は陸地へと近付いてくる。その都度、海水が抉られて消失する。これではシェルター など何の役にも立たない。だが、どこに逃げろというのか。狭間はがちがちと震える顎を噛み締めながら、躓いた。
 時を同じくして、ボストンバッグが内側から裂けた。卵が孵化したのだ、と悟った狭間は浅く速い呼吸を整えつつ、 それを見た。細切れになった合成繊維の切れ端と海水の飛沫に混じり、二重の扇状に広がったのは、赤く細い糸の 束だった。その糸の根本、束の中心にいたのは、体長一メートルにも満たない少女だった。
 否、少女に似た外見の怪獣だった。真っ白い肌にアーモンド形の赤い目を備え、手足の先には人間じみた五本指が 生えていて、胸元はつるんとしていて下腹部がぽっこりと丸い幼児体形だった。赤い糸は体の一部らしく、頭部や 胴体に巻き付いている。少女怪獣は目を瞬かせていたが、狭間を捉えると、興味深げに顔を寄せてきた。
 不意に、唇を塞がれた。





 


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