横濱怪獣哀歌




桜木町デ会イマショウ



 少女怪獣の唇は冷たく、柔らかかった。
 だが、その中にあるものは人間からは懸け離れていて、数十本もの細い糸がぬるりと狭間の唇を割ってきた。 それを体に入れられてなるものかと歯を食い縛ろうとするが、顎に力が入らない。少女怪獣と接触している部分 から、体温が抜き取られていく。貧血に陥った狭間が崩れ落ちそうになると、少女怪獣を取り巻いている無数の糸が 背中を支えてきた。その間にも、歯を押し広げて侵入してきた異物が体内を動き回る。
 喉の粘膜をなぞり、胃袋を掻き回し、胃液を泡立て、唾液を混ぜる。糸の質量の分だけ迫り上がってきた胃液を いやと言うほど味わわされたが、吐き戻そうにも、糸で喉を塞がれている。糸を噛み千切ろうにも、それだけの筋力 が出せるとは思えない。狭間は異物感によって涙を滲ませながら、膝を折ると、声が聞こえた。

「マ」

 超低周波とは異なる、人間のそれに近い声だった。狭間が眼球を辛うじて動かし、少女怪獣と目を合わせると、 少女怪獣は吊り上がった目をにんまりと細めた。笑っているのか、威嚇しているのか。すると、少女怪獣は唐突に 狭間を解放し、細い糸を大きく広げた。そして、光の巨人と対峙した。

「……おい、お前」

 何をするつもりだ。迂闊に近付けば、イナヅマのように死んでしまう。狭間は少女怪獣の体から伸びる赤い糸 を掴むが、するりと解かれた。少女怪獣は狭間に振り向き、また目を細めた。今度は口角も上向けていたので、 確実に笑っている。人間の表情を模している。怪獣らしからぬ表情を浮かべる少女怪獣に違和感を覚えるよりも 先に、恐怖が先に立ち、狭間は二の腕に爪を立てる。

「どうせ、俺には何も出来ないんだ。お前だって、そうだ」

 怪獣の声が聞こえるから、なんだというのだ。怪獣は狭間を頼ってきたが、狭間という人間が当てにならないこと ぐらい、自分が誰よりもよく知っている。それでも、怪獣達は狭間に赤い卵を託した。古い怪獣も新しい怪獣も、皆、 必死になっていた。余程の理由があるのだろうとは薄々感づいていたが、怪獣の世界の一大事に関わりたくないと 思っていた。けれど、怪獣の声が聞こえるからには自分には何か意味があるのだと、やっとその意味が与えられた のだと、心の片隅で喜んでもいた。それなのに、この様はなんだ。

「教えてくれ」

 自分への憤りで膝を立てた狭間は、袖で乱暴に口元を拭ってから、少女怪獣の糸を掴んだ。

「俺は、何をすればいいんだ」

「ソレダケ」

 少女怪獣は糸をしゅるりと曲げて狭間の手に巻き付けると、ちょっと照れ臭そうに小首を傾げた。

「イノチ、スコシ、タベサセテ?」

 お腹一杯になれば、私は大きくなれるから。と、いう声が狭間の脳に直接響いてきた。それと同時に、少女怪獣の 糸から微弱な電流が走り、狭間の皮膚から神経を貫き、背筋を駆け抜けた。命を少し食べさせて、という要求通り、 狭間の体力が先程以上に吸い上げられていく。心臓が痛む、手足が震える、息が上がる、声が出ない。
 酩酊状態に陥った狭間が意識を失いかけた時、歌が聞こえた。怪獣の鳴き声である超低周波とは異なる音域と 言語で奏でられる、哀切な歌だった。その穏やかな歌は次第に鼓動を沈めてくれたばかりか、狭間の弱った意識 を繋ぎ止めてくれた。人間達の悲鳴とイナヅマの断末魔の余韻に歌声が重なり、広がっていくと、光の巨人が放つ 光が異物に遮られた。それこそが、歌声の主だった。
 光の巨人に劣らぬ体躯の巨大怪獣が、新たに出現していた。その頭部からは赤い糸 状の触手が伸び、海面と空中を不気味に漂っている。肌の色も瞳の色も触手の色も少女怪獣と同じだが、体形が 大きく様変わりしていた。凹凸のない幼児体形から、巨体に見合った成熟した女性体形に変貌していた。要するに グラビアモデル並みの、減り張りの付いたグラマラスなボディになっていた。
 元少女怪獣の巨大女性怪獣はたっぷりと膨らんだ二つの乳房を反らし、揺らしながら、澄んだ歌声を響かせる。 その歌声は赤レンガ倉庫を始めとした近隣の建物の窓ガラスを震わせたが、狭間の耳はなんともなく、逃げ惑って いた人間達も同様だった。恐らく、人間には被害が及ばないように音域を調節しているのだろう。だが、光の巨人 だけは別だった。
 巨大女性怪獣の歌に圧倒されて、光の巨人がよろめいていた。たたらを踏み、後退り、光で出来た腕が弛緩 して垂れ下がっている。巨大女性怪獣は歌に合わせて赤い糸を波打たせ、光の巨人に巻き付ける。巻き付けた 部分から赤い糸が消滅する、かと思いきや、消滅したのは光の巨人の方だった。

「嘘だろ……?」

 有り得ない光景に、狭間は頬を引きつらせた。巨大女性怪獣は全長十数メートルはあろうかという目で狭間を 見やると、微笑んでみせてから、赤い糸で光の巨人を戒めていく。光の巨人は激しく暴れて抵抗したものの、両手足 は既に赤い糸で断ち切られてしまい、海に落ちた部位もまた赤い糸に絡め取られて消え去ってしまった。赤い糸が 織り成す繭に包み込まれた光の巨人に、巨大女性怪獣は一際哀切な歌声を放った。
 その歌声によって生じた海面の揺らぎが収束し、赤い繭に至ると、猛烈な爆発が発生した。光の巨人と同じ形の 白煙が噴き上がり、高温の水蒸気が膨らんだ。赤い糸が緩やかに解かれたが、そこには何もなかった。横浜湾に 残っているのは、熱した海水と、イナヅマの残骸の一部である海水に混じった紫色の血液と、巡視船の破片、そして 巨大女性怪獣だった。彼女は再び狭間と目を合わせると、狭間の手に絡めた赤い糸を強めに絞った。
 その意図がなんなのかは、すぐに解った。巨大女性怪獣は大きく仰け反っていき、海中に倒れた。体積に応じた 水柱が立ち上がり、汚れた海水が押し寄せて海辺の広場を濡らし、再び海へと返っていく。その大波の中のものと 繋がっている狭間は手近な柵を掴み、海に引き摺り込まれないように踏ん張った。その甲斐あって引き摺り込まれず には済んだが、肩が抜けそうになった。抜けかけた左肩を回して関節の具合を確かめていると、再度波が打ち寄せ、 赤い糸の主が戻ってきた。それは、本来の大きさに戻った少女怪獣だった。

「何がなんだか解らないが」

 狭間は海水まみれでぐったりしている少女怪獣に近付き、跪いた。

「俺に出来ることは、出来たのか?」

「ン」

 うっすらと目を開けた少女怪獣が頷いたので、狭間は心底安堵した。せめて少女怪獣をまともな場所に寝かせて やろうと手を伸ばしたところ、後頭部に硬い物体が押し付けられた。

「はーい、抵抗しなーい。怪獣保護法違反と怪獣管理法違反と怪獣所持法違反と、とにかく怪獣絡みの法律違反で 現行犯逮捕するわ。それが私の仕事だから、恨みっこなしね」

 聞き覚えのある声に狭間が振り向くと、そこには忘れもしない派手な恰好の女が立っていた。そして、狭間の 後頭部に押し当てられているのは、紛れもない拳銃だった。

「うおぉわあぁ!?」

「抵抗する気であれば、こちらも対処せざるを得ないんだけど?」

 女はピンク色の髪と同じ色に染めた眉を顰めて、オレンジ色の口紅を塗った唇を尖らせた。ロングコートは赤では なく青だったが、それ以外は昨日と同じだ。女は青いロングコートの懐に手を入れ、手帳を取り出した。

「私はこういう者ですから。逆らったりしたら、公務執行妨害とか諸々で罪状が増えるんだから」

「怪獣監督省横浜支部実動課、えと、ミツナガマナカ?」

 手帳の文面を読み上げた狭間に、女は首を横に振った。

「違うわ、愛歌って書いて普通にアイカって読むの。変に捻らなくていいの」

 怪獣監督省実動課。いわゆる怪獣Gメンだ。国の許可を得ずに怪獣を所有したり、無免許で怪獣を取り扱ったり、 怪獣を売買したり、怪獣を犯罪に使用したり、という怪獣関連の違法行為を捜査して取り締まる公務員である。

「あ、すいません。アイカさんですね。随分ハイカラな名前ですね」

「おかげで覚えてもらいやすいけどね。というわけだから、そこのお兄さん。ちょっと付き合ってくれる?」

「でも、こいつを助ける手伝いをしてくれたのはあなたじゃないですか! だって、ほら、この財布も!」

 一ヶ谷市の怪獣監督省分署に入り込めるように手引きをしてくれたのも、運賃を工面してくれたのも、この女に間違い ない。というか、間違えるわけがない。狭間が財布を突き出すと、女は仰け反った。

「あぁー!?」

「思い出しましたか」

「思い出したに決まってんでしょ! 一昨日、お財布を落としちゃったことを! これを どこで拾ったの、てか、なんで持っているの! 警察に届けなさい! 御礼はあげないけど! んで、私のお財布を 一体どこで拾ったの、横浜? 東京?」

「拾ったっていうか……。一ヶ谷ですけど」

「そう、東京だったの」

「いえ、新潟の一ヶ谷です」

「え? そうなの? イチガヤって東京の市ヶ谷じゃないの?」

「いいえ、新潟の田舎です」

「何かおかしいわね。私は昨日も今日もずっと横浜にいたんだけど」

「でも、俺が会ったのは間違いなくあなたですよ」

「変だなぁ」

「変ですよね」

 女と狭間は顔を見合わせ、僅かに沈黙した。が、それも束の間で、女は狭間の腕を掴んだ。

「その辺もはっきりさせるために、とにかく連行させてもらうからね! その子も一緒にね!」

「他にも色々と大変なことがありまくりじゃないですか!」

 細腕には見合わぬ腕力で引っ張られ、狭間がよろめくが、女は言い切った。

「光の巨人の事後処理は私の部署の仕事じゃないの! 他の部署の縄張りに首を突っ込むと面倒なの!」

 お役所仕事だな、と狭間は思ったが口には出さなかった。そこで、気絶している少女怪獣を引き摺っていること に気付いたので、女に一度立ち止まってもらってから少女怪獣を抱き上げた。孵化した途端に急激に成長したのか、 卵の時よりも何倍も重くなっていた。狭間は女の手を借りて少女怪獣を背負ってから、再度連行された。
 女の愛車と思しきホンダのシビックに押し込められ、手錠を掛けられ、女から投げ掛けられる質問に答えられる 範囲で答えていたが、その最中も怪獣達の囁きは聞こえ続けていた。公用車のエンジンであるバンジューからは 褒め称えられ、電話ボックスに入っている公衆電信怪獣ダイヤロンからは無謀さを咎められ、桜木町駅で停車したままに なっている電車を牽引しているつがいのバンジューからは行動の遅さを詰られた。けれど、その言葉に苛立てる ほどの余力があるわけもなく、狭間は吸った息を吐き出した瞬間に気を失った。
 体力が根こそぎ奪われていたからだ。




 狭間が自由を取り戻したのは、それから半月後のことである。
 怪獣監督署の管轄である拘置所を後にした狭間は、腹の底から思い切り息を吐いた。振り返ると、白い建物の 門の前に立っている守衛がにこやかに見送ってくれていた。それに愛想笑いを返してから、狭間は荷物というには 乏しすぎる私物を抱え直し、歩き出した。だが、行く当てなどない。今度こそ。
 シビックの中で気絶した後のことは、よく覚えていない。体力を消耗しすぎて生死に関わる状態だったそうで、緊急 入院させられて処置を受けたが、それから一週間は意識が戻らなかったのだそうだ。その間、例の派手な女、光永 愛歌が狭間の実家と連絡を取り合って事情を説明してくれたのだそうだ。幸い、両親からは勘当はされなかったが、 これだけの事件を起こしてしまっては一ヶ谷に戻るに戻れない。となれば、働き口でも見つけて横浜に留まっておく べきかもしれない。一ヶ谷と違って、給料の良い仕事はいくらでもあるのだから。
 まずはどこに行くべきだろう、と狭間が思い悩みながら道端に突っ立っていると、目の前に車が滑り込んできた。 色彩の暴力とでも言うべきオレンジ色のシビックで、その運転席からは色彩の無駄遣いとでも言うべき身なりの女が 現れた。言うまでもなく、光永愛歌である。

「狭間君!」

「ああ、どうも。愛歌さん」

「退院と拘置所からの出所、おめでとう」

「どうもありがとうございます。俺が寝込んでいる間に親と連絡を取ってくれて、ありがとうございます。おかげで ややこしいことにならずに済みました」

「いいのよいいのよ、あれも仕事のうちだから。一度ぐらいはお見舞いに行くべきかなぁって思ったんだけど、他にも 色々と仕事があったから忙しくって、行くに行けなかったのよ。ごめんなさい」

「それは別にいいですよ。俺も色々と考えることがあったんで」

 その時間がなければ、今も混乱していただろう。拘置所の狭い部屋で蹲り、病室のベッドで横たわりながら、狭間は 自分の境遇と今後についてじっくりと考えた。どういう経緯なのかは見当も付かないが、狭間は怪獣と人間の間を 取り持つ役割を怪獣達から負わされたのは確かである。そして、怪獣達は自身と世界を脅かす光の巨人に対抗 出来る唯一の戦力である、例の少女怪獣を狭間に預けた。丸投げされた、とも言えるかもしれない。

「で、あのちっこい怪獣、どうなりました?」

「よくぞ聞いてくれたわ、狭間君! あの子はうちの部署で管理することになったんだけど、かなり珍しい種類の怪獣 だったから、精密検査をするために小笠原諸島の離島に移送するって決定したの」

「そりゃ結構なことで」

 それなら、怪獣達の目論見は上手くいかない。狭間はほっとして、少し頬を緩めた。田舎から上京したばかりの 世間知らずの若造が、世界の行く末を背負えるわけがないからだ。あの時は腹を括って少女怪獣の餌になったが、 それは窮地に陥っていたからだ。どうせ、狭間はヒーローになれる器でもなければ度胸もないのだから。

「というわけだから、あの怪獣の子と遭遇した際の状況について、狭間君には二三質問したいことが……」

 愛歌が手帳とペンを取り出したところ、オレンジ色のシビックが跳ねた。何事かと振り返ると、シビックの後部ドア が勢い良く開き、赤い触手の塊が飛び出した。うねうねと蠢く髪に似た触手を自在に渦巻かせ、するりと外に出てきた のはあの少女怪獣だった。白目のない赤い目で狭間を捉えると、屈託のない笑顔を浮かべ、そして。

「マー!」

 触手をバネのように伸縮させて体を弾き飛ばし、少女怪獣は狭間に飛び掛かってきた。避ける間もなく、少女怪獣と に覆い被さられた狭間は道路に倒れ込んだ。恐るべき怪力で、少女怪獣は狭間にしがみつく。

「小笠原諸島に運んだんじゃなかったんですかぁ!?」

 少女怪獣を押し戻そうと尽力する狭間が叫ぶと、愛歌は首を捻った。

「おっかしーわねぇー、確かにそういう報告があったんだけど……。そのタイプの怪獣が複数いるってことかしら?  あ、いや、違うみたい。その子の首に個体識別認識票が下がっているから、間違いなくこの前のあの子だわ」

「なんでもいいから、とにかく回収して下さいよ!」

「マー!」

 そうこうしている間にも、少女怪獣は狭間の手足に触手を絡ませ、あれよあれよと言う間に組み敷いた。

「ちょ、おっ、ま」

 待て、と言い損ねた口を少女怪獣の唇に塞がれ、またも狭間の喉にずるんと触手の束が滑り込んできた。

「若いっていいわねぇ……」

 愛歌は白い頬をほんのりと赤らめ、少女怪獣に生命力を貪られる狭間を眺めた。なんでもいいから助けてくれ、と 狭間は暴れるが、少女怪獣は余程飢えているらしく、狭間の喉に突っ込んだ触手を緩めるどころか本数を増やして いた。結局、狭間は触手を力一杯噛んで喉から引っこ抜き、少女怪獣を全力で撥ね飛ばし、自力で危機を脱した。 また寝込むことになっては困るからだ。
 それでも、少女怪獣は狭間にまとわりついてきたので、触手ごと引き摺ってシビックのトランクに詰め込み、強引に 後部ドアを閉じた。ついでに愛歌も車に乗り込ませ、なんでもいいから説明してくれと言った。愛歌はなぜか残念そう ではあったが従ってくれ、狭間は助手席に乗り込んだ。トランクスペースでは少女怪獣が身悶えしていて、赤い触手 がぬるぬると暴れている。何が何だか解らないことだらけだが、ただ一つ、身に染みて理解したことがある。
 狭間真人は、とんでもないモノに好かれてしまったらしい。





 


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