古代喫茶・ヲルドビス。 狭間真人が光永愛歌に連れていかれた場所は、その名の通り、化石だらけの喫茶店だった。壁の至るところに ある飾り棚には化石が並んでいて、壁も地層のように塗り分けられている。アンモナイト、恐竜の爪、奇妙なツノが 生えた獣の頭蓋骨、平べったくなっている植物、琥珀、などと様々だが、特に数が多いのは三葉虫の化石だ。 年季の入ったジュークボックスからしっとりとしたジャズが流れ、コーヒーの奥深い香りが満ちている空間には いささか不釣り合いな内装だ。だが、それは店主の趣味だからとやかく言うものではない。と、狭間は思い直した。 「で、何を注文するかはもう決めた?」 光永愛歌はメニュー表を狭間に渡してきたので、狭間はそれを受け取った。メニューの値段は真っ当だ。 「そういう光永さんは、何を頼むつもりなんですか?」 「愛歌でいいわ」 「それじゃ、愛歌さん。改めて聞きますけど、何を頼むつもりなんですか?」 「ビーフカツレツのサンドイッチとコーヒーもいいかなぁって思ったけど、やっぱりナポリタンかしらね。ここのコーヒーは ドイツ式だから、味が濃くて香ばしくておいしいのよ。でね、デザートのケーキはショコラーデン・シュニッテン! 一切れが大きくて食べ応えがあるし、甘さが丁度いいの! お勧めって言ったら全部ね! 全部食べたから!」 「どんだけこの店に通い詰めたんですか」 「横浜に来てからはずっとだから、三年かな。だって、おいしいんだもの」 「どのメニューもカタカナばっかりで、英語じゃない気がするんですけど」 「そりゃドイツ語だもの」 「んじゃあ、ナポリタンにします。一番安いし」 「そうよ、それが最高なの! スパゲティは太麺でもっちりしていて、トマトソースの絡まり具合が絶妙で! 具は ピーマンとタマネギと生のマッシュルームとベーコンなんだけど……ってまあいいや、さっさと注文しちゃおう。 ナポリタンとブレンドコーヒー、二人前でよろしく!」 愛歌がカウンターに手を振ると、その奥で控えていたギャルソン姿の初老の店主が一礼した。 「かしこまりました。では、しばしの御待ちを」 それから十数分後。テーブルには二人が注文した品が揃った。愛歌はにこにこしながら、ローストビーフのサンド イッチを頬張った。狭間も熱々のナポリタンを口にしたが、確かにおいしかった。狭間は船島集落の温泉街の一角 の大衆食堂でアルバイトをしていて、賄いでナポリタンも食べていたが。これは材料からして違う。一キロ百数十円 の業務用スパゲティでは、小麦の香りなんてするわけがないからだ。トマトソースも酸味が強めで隠し味のスパイス が効いているので、自家製とみていいだろう。手間を掛け過ぎだ、採算が取れないぞこれ、と思いつつ、狭間は空腹 を満たした。愛歌が常連になるのも頷ける、奥深い味だった。 「ふはー、幸せ」 ショコラーデン・シュニッテンという仰々しい名前のチョコレートケーキを食べつつ、愛歌は弛緩する。 「それで、その、あれをどうしましょう」 狭間はごとごとと暴れるシビックを指すと、愛歌は唇の端に付いたクリームを紙ナプキンで拭った。 「さっき、本部に電話して聞いてみたのよ。そしたら、あっちでも大騒ぎになっていたわ。移送するはずだった 怪獣がいなくなっていたんだからね」 「そりゃ当然でしょう」 「でも、本部も本部で忙しいから、あの子の回収には来られないんだそうよ。イナヅマがいなくなってからは、 イナヅマの代わりになる怪獣を探さなきゃいけないんだもの」 「それも当然ですね」 「だから、現場の判断でしろとのお達しが上司から来たわ」 「そんなんでいいんですか?」 「私だって、それでいいとは思っていないけど、そう言われたんじゃ仕方ないわよ」 愛歌はコーヒーを飲み干すと、紙ナプキンを新しく一枚取り、胸ポケットから取り出したボールペンで文字を 書き込んだ。シャンブロウ。 「これ、なんですか? どういう意味ですか?」 馴染みのない言葉だったので狭間が訝ると、愛歌はその紙ナプキンを狭間に渡す。 「音読はしないでね。ちょーっと珍しい種類の怪獣の名前だから」 「はあ」 シャンブロウ。愛歌の字はやたらと上手く、とめはねがきっちりしていた。その文字を見つめていると、愛歌は 氷が溶けた御冷で喉を潤してから、独り言のように語る。 「その怪獣は、本来地球から産まれてくるものじゃないの。人類がその怪獣と接したのは火星の地表だけど、人類 にとって危険な習性を持つ怪獣だから、火星から外へは決して持ち出さなかったの。火星と地球を行き来する宇宙 怪獣戦艦も、ここ十数年は御無沙汰だから、そこから持ち込まれたという筋はないわ。けれど、外見の特徴や生態 から判断して、あの子はその名前に分類される怪獣に類似しているか、同種である可能性が極めて高いの」 「はあ……」 「ギリシャ神話って知っている?」 「まあ、少しは」 「それに出てくるメドゥサみたいなものだと思ってちょうだい」 「目が合うと石にされるんですか?」 「そっちじゃなくて、髪の毛の方。髪の毛の一本一本が自在に動く触手なの。で、その触手を使って獲物の 体力や体液を吸い上げて捕食するの。言ってしまえば、ヒルみたいなものね」 「そうなんですか!?」 「そうよ」 「ああ……だから、俺……」 喉の奥にねじ込まれた触手に体力を吸い取られたのか。今更ながら納得したが、同時に絶望し、狭間は俯く。 「希少な怪獣の生態を観察するためにも、あの子を所有していた狭間君からあの子を手に入れた理由を知るためにも、 そもそもなんでそんな怪獣が新潟の片田舎にいたのかを調べるためにも、狭間君の身柄を預からせてもらうわ。もちろん、あの子もね」 「はあ」 「というわけだから、狭間君。今日から私と一緒に住みなさい」 「身柄を預かるってそういうことなんですか、それは根本的に違うんじゃないですか!? 同棲じゃないですか!」 「あんまり大声出さないでよ。音楽が聞こえないじゃない」 「あ、すいません」 狭間は椅子に座り直してから、愛歌を問い質す。 「それもやっぱり上司の判断なんですか? 俺が、その、愛歌さんと同居するっていうのは」 「半分はね。で、もう半分は私の判断。狭間君とシャンブロウを離れた場所に住まわせていたんじゃ、いざって時に 対処出来ないし、何より毎日毎日お伺いを立てるのが面倒臭いの。だから、一緒に住んだ方が色々と手っ取り早い でしょ? でも、生活費は折版だから。家賃も。ちゃんと働いて払ってね」 「住民票を移さないと働くに働けませんけど」 「それはもう狭間君のご両親にやってもらったし、同居するってことも説明済みだから大丈夫」 「よくないですよ、なんにもよくないです」 「狭間君。タバコ、いる?」 洋モクだけど、と愛歌が差し出してきたのはアメリカンスピリットだった。狭間はそれを一本受け取り、愛歌が 火を灯した後のマッチを使って火を着けた。少しずつ吸って味わうと、少し気分が落ち着いた。 訳の解らないことの連続だが、愛歌が一番訳が解らない。これなら、怪獣娘の方が余程単純だ。シャンブロウと 呼ばれる火星生まれの怪獣の幼生体であり、何らかの理由で狭間と接触を測り、そして光の巨人を打倒した。だから、 怪獣娘と怪獣達は狭間を利用しようとしているだと察しが付くが、愛歌とそのバックに付いている怪獣監督省の考えは さっぱり解らない。いつも吸っていたゴールデンバットとは違う、雑味のない味が粘膜をざらつかせる。 「で、何か聞きたいことはある? 同棲相手君」 慣れた仕草で灰を灰皿に落とし、愛歌はにんまりする。フィルターに付いた口紅の赤さに、女を感じた。 「その髪の色、一体何なんですか。パンクですか」 妙に気まずくなった狭間が目を逸らすと、愛歌は濃いピンク色の髪を肩から払う。 「そんなもんよ。だから、気にしないで」 「公務員なんですよね?」 「そうよ」 「誰がどう見ても規則違反なんですけど」 「細かいことは気にしないの。そのうち慣れるから。どこか行きたいところはある? 真っ直ぐ私んちに行く んじゃ、つまんないものね。要望があれば案内してあげるわ」 愛歌の笑みは、にこにこしているというよりも、へらへらしていると表現した方が正しい表情だった。敢えて 明るい話題を選んでいるのだ。桜木町での一件に触れないために。 あの日、あの時、何があったのか。狭間も全容を理解しているわけではないが、入院している間にテレビと新聞の 報道である程度は把握している。横浜港に突如出現した光の巨人が消滅させたのは、横浜と神奈川県東部一帯の 電源であった発電怪獣イナヅマだけではなかった。高宮重工業造船所で製造中の大型客船と、その中で作業して いた労働者も光の巨人に触れて消失してしまった。骨も残さずに。解っているだけでも、被害者の人数は五〇を 超えている。大惨事だ。 「桜木町に行かせて下さい」 「造船所の中には立ち入れないわよ」 「行かせて下さい」 狭間が強く言い切ると、愛歌はわざとらしい笑顔を収めた。 「どうしても?」 「はい」 「そっか……」 愛歌はため息まじりに煙を吐き出してから、ぎゅっとタバコを押し潰した。 「そこまで言うなら、連れて行ってあげるわ」 「ありがとうございます」 「いいってことよ。どうせ時間もあることだしね」 愛歌は腰を上げると、伝票を手にした。 「んで、奢るのは今回だけだからね? 退院祝いのついでだから」 「ありがとうございます、愛歌さん」 「マスター、お勘定ー」 愛歌は伝票を持ってカウンターに向かうと、店主がレジスターに打ち込んで会計を行った。小型の計算機怪獣が レジスターの中でかちかちこちこちと歯を噛み合わせて計算する音を聞いているだけで、狭間には合算した数字が 解るので、レシートが吐き出される前に合計金額が解った。締めて一三二〇円。 タバコを吸い終えてから揉み消してから、狭間は店内を見渡してみた。一番奥の席に座っている女学生の存在に 気付き、不良娘だなあ、と狭間は思った。日も高いうちから喫茶店に籠るなんて、勤勉な学生がやることではない。 腰近くまである長い黒髪が垂れ下がり、横顔が隠れている。女学生は黙々と本を読み耽っているが、そのタイトル までは窺えなかった。 すると、女学生が目を上げた。狭間が反射的に顔を背けて座り直すとドアベルが軽快に鳴り、いらっしゃいませ、 と店主が新たな客を出迎えた。仕立てのいいグレーのスーツに身を固め、臙脂色のネクタイを締めている、長身の男 だった。男も常連客のようで、会計を終えた店主と挨拶を交わしてから、女学生の元へ向かった。 「お待たせしました、御嬢様」 オジョウサマ。狭間が目を丸めると、オジョウサマと呼ばれた女学生は本を閉じた。 「大して待っていませんよ、スドウさん。本を一冊読み終えただけですから」 「桜木町での騒ぎの後、色々とありましてね」 「横浜港が閉鎖されてしまったから、船便の到着が遅れているのですね?」 「それもありますが、寿町が騒がしくなりましてね」 「でしたら、今夜の御食事会は静かになってしまいますね」 「申し訳ありません」 「お気になさらず。父の具合はいかがでしたか」 「御元気でした。足の骨が繋がるまでは、もうしばらく掛かりそうですが」 「そうですか……」 寂しげに呟いた女学生は、肩に掛かった長い黒髪を払った。 〈おい、そこの若いの〉 どこの誰が呼んだのだ。狭間は辺りを見回すが、声の主は見当たらなかった。だが、怪獣には違いない。 〈うちのオジョウサマはいい女だが、近付くなよ? 火傷じゃ済まないからな〉 「言われなくても」 狭間が声を押さえて反論すると、女学生の髪の束が独りでに持ち上がり、その隙間から赤い目玉が覗いた。 〈それで良し〉 が、すぐに髪の隙間は塞がり、落ち着いた。何が起きたのか理解するまでに少し時間を要し、狭間は女学生から 目を離しても、あの目玉が忘れられなかった。血走った白目と焦点が定まり切っていない赤い瞳孔は、真っ直ぐに 狭間を捉えて話し掛けてきた。怪獣同士が連絡を取り合って情報交換している、というのは以前から感じ取っていた ことであり、狭間のことも怪獣業界では周知されているのだと薄々知っていた。だが、怪獣の種類や特性については ほとんど知らなかった。というより、調べようとしなかったのだ。怪獣にあまり深入りしてしまうと、人間の社会に 馴染めなくなるのではと危惧したからだ。だから、あの怪獣がなぜ女学生の髪と同化しているのか見当も付かず、 狭間はしばらく考え込んでしまった。 「狭間君。行くよ」 愛歌が狭間を急かしたので、狭間は荷物を持って立ち上がったが、店から出る際に女学生をちらりと見やった。 それに気付いた愛歌は狭間を愛車の影に引っ張り込むと、小声で言った。 「マリコちゃんは別嬪さんだけど、近付いちゃダメだからね? あの子は、聖ジャクリーン学院っていう凄い 御嬢様学校に通っている子なんだから、傷物にしたら大事よ」 「いえ、そんなつもりないですよ。連れ合いの人は親戚かなんかですかね」 「スドウさんもヲルドビスの常連だけど、マリコちゃんの親戚じゃないよ。マリコちゃんのお父さんの部下」 なるほど、社長令嬢か。過保護になるのも無理はない。愛歌のシビックに乗り込んだ狭間は、バックミラーに映る 女学生を見、再度ぎょっとした。涼しげな目元と細い鼻筋に瑞々しい唇、それらを内包している輪郭は卵型で、清楚 なロングヘアが良く似合っている。グレーを基調としたセーラー服を着た体はほっそりとしていて、揃えられた両膝 の滑らかさが眩しい。恐ろしささえ覚えるほどの美貌だった。すると、愛歌が狭間の目の前で手を振った。 「大丈夫?」 「あ、はい、なんとか」 横浜に来たことよりも何よりも強烈なカルチャーショックを受けて、狭間は心臓が痛んだ。映画女優に匹敵する、 いや、それ以上かもしれない。あんな人間がこの世に存在していいんだろうか、などと考えている間に、愛歌 が運転するシビックは労働者で溢れ返る工場街に入り、桜木町に到着した。 造船所には、惨劇の爪痕が刻まれていた。 14 4/22 |