その日は、一段と蒸し暑い日だった。 超大型低気圧怪獣によって生み出された台風が接近している影響か、湿気が多く、日差しも強かった。朝起きた 段階で体中がべとべとになっていて、動くのも億劫だったが、冷水で顔を流すと少しは気分が持ち直した。世間の 学生達は夏休みを満喫しているのだろうなぁ、と思いつつ、狭間は熱帯夜続きで寝不足気味のツブラと手を繋いで 古代喫茶・ヲルドビスに向かっていた。横断歩道で信号待ちしているだけでも汗が吹き出し、アスファルトの照り返し がハーフパンツを履いた足に襲い掛かってくる。 早朝だというのに陽炎で揺らめく道路をぼんやりと眺めていると、黒々とした固まりが目の端を横切った。ああ、 あれはゴリラだ。狭間は何の躊躇いもなくそう思ったが、しばらくしてはっとした。どうしてゴリラが街中にいるのだ。 しかも、こんな住宅街に。それとも、暑過ぎて頭がおかしくなったのか。真偽を確かめるために振り返ると、電柱 をよじ登っていく黒い巨体が目に入った。布の切れ端のようなものを体に巻き付けているが、確かにそれはゴリラ だった。毛足の長い体毛、人間よりも遥かに太い手足、大きな鼻、類人猿特有の顔。 「――――はぁ!?」 これもまたどこぞの怪獣の仕業か、と狭間は耳を澄ますが、怪獣達の声はどれもこれも困惑していた。ゴリラに 対してである。電柱をよじ登っていったゴリラは頂点に到達すると、平手で胸を叩き始めた。ドラミングだ。 「ゴイラ!」 非常識な光景に目が覚めたのか、ツブラは嬉々としてゴリラを指した。 「とりあえず、警察か保健所にでも通報しよう」 ゴリラを回収してくれそうなのは、それぐらいだ。狭間は公衆電話に向かった。が、電話ボックスの中にも ゴリラが詰まっていた。こちらも布切れを体中に巻き付けていたが、電柱を昇るゴリラよりも距離が近かった ので布切れの柄や色が解った。可愛らしい小花柄の薄手の生地で、帽子とスカーフと思しき細切れの布と、無数の ビーズが散らばっていた。どうやらビーズバッグの糸が切れたようで、バッグとその中身と思しき残骸がある。 「ご……」 またしてもゴリラ。狭間が思わず後退ると、電話ボックスの中のゴリラは歯を剥いてガラスを叩き始めた。 「逃げるぞツブラ、逃げないと危ない!」 狭間はツブラを脇に抱えると、駆け出した。横断歩道の信号もタイミング良く青になっていたので、一息に渡って から今一度振り返ると、赤信号で止まった車の中でもゴリラが暴れていた。しかも、運転席で。 「なんなんだよぉおおおおおっ!」 何の脈絡もなく街に溢れ返るゴリラに臆し、狭間はちょっと泣きそうになった。それに反してツブラは喜んでいて、 ゴリラ達が暴れる様を見てはしゃいでいる。動物園の延長だとでも思っているらしい。狭間はツブラの手を強めに 握って引っ張り、仕事場を目指した。ヲルドビスに行けば解決するわけではないが、避難は出来る。 民家の裏口からもゴリラが飛び出し、商店街の店先ではゴリラが陳列棚を壊し、道路では停車している車を殴って いるゴリラがいて、ゴリラを見かけないことは一秒もなかった。辺りには獣特有の濃い匂いが立ち込め、横浜湾 から流れてくる潮の匂いも獣臭い。幸い、ゴリラ達は目の前にあるものに気を取られていて狭間達に襲い掛かって はこなかったが、ふと疑問に駆られた。こんなにも大量のゴリラが発生しているのに、どうして住民達 は異変を察知して出てこないのだろうか。早々に気付いて逃げ出しているとすれば、それでいいのだが。 逃げ出していなかったとしたら、それはつまり。 無事、古代喫茶・ヲルドビスに到着した。 ゴリラへの恐怖と焦りと、全力疾走したことで全身汗みずくになってしまった。なので、狭間は仕事着に着替える 前に濡らしたタオルで体中を拭いて、出来る限り清潔にした。曲がりなりにも客商売だからだ。店内は冷媒怪獣が 吐き出す冷気のおかげで涼しくなっていたので、汗も引いてきた。ツブラはゴリラと遊びたかったらしく、名残惜しげ に裏口から外を見つめている。 「ゴリラですか?」 住み込みなので狭間よりも早く仕事に入っている九頭竜麻里子は、怪訝そうに眉根を寄せた。 〈ゴリラねぇ。そんなもんがなんで街中にいるんだ?〉 麻里子の短い髪が割れて潰れた赤い瞳が現れ、カムロが割り込んできた。 「ゴリラと言えば、一九三三年にゴリラ型怪獣を本物のゴリラと間違えて見世物にしたら、巨大化して暴れ出した という有名な事件がありましたね。恐竜型怪獣が暮らす離島でひっそりと暮らしていたゴリラ型怪獣は、生贄として 差し出された女性に対して発情した末にエンパイヤステートビルに昇ったはいいが機銃掃射で撃ち落とされるという、 記録映画を拝見しました。一九七六年にも出現しましたが、その際も対処しきれずに射殺したそうですね」 麻里子が淀みなく述べると、狭間も思い出した。 「あー、そういえばそうだな。確か、アメリカには怪獣使いがほとんどいなかった頃の話だったな」 〈アメリカには、今もそんなに怪獣使いはいないさ。昔は結構多かったんだが、白人共がなぁ……〉 カムロが語尾を濁したので、狭間は苦い顔をする。 「ああ、そういうことか」 「ですが、私が知る限りではゴリラ型怪獣を密輸する予定はないのですが」 「九頭竜会以外の悪い奴らの仕業じゃないのか?」 「だとしても、一度にこれほど大量のゴリラが出現するはずがないんですよ。狭間さんの妄想でなければという前提 に基づいてはいますが。ゴリラは群れで行動する動物ですが、群れごと横浜に押し寄せてきたとは考えられないん です。どこぞの怪獣が横浜とアフリカの森を空間湾曲か何かで繋げてしまったとしたら、横浜はジャングルと化して いるべきです。だとすれば、もしかするとアレなのかもしれませんね」 麻里子には思い当たる節があるらしい。是非ともそれを知りたいところだが、開店時間が近いので仕事に戻った。 モーニングサービスのメニューを書いた黒板をイーゼルに載せて玄関に出し、御冷のコップを用意し、氷とスライスレモンを 入れたピッチャーを用意し、と忙しく立ち回っていると開店時間を迎えた。 だが、客の入りが悪かった。毎朝のように食べに来る常連は数人いるのだが、その誰もやってこない。コーヒーの 香りに誘われて入ってくる客もいないし、海老塚に挨拶がてらコーヒーを一杯飲みにやってくる近隣住民もいない し、夜勤明けの労働者すらも来なかった。ヲルドビスで働いて久しいが、こんなことは初めてだった。 「猛烈に暇だ」 開店してから一時間以上過ぎても、誰もやってこない。狭間は次第にやる気が失せてきた。 「暇ですね」 客が誰もいないのをいいことに、麻里子は首を外してカウンターの端に置いていた。 「ヒマー」 二人の退屈が伝染したのか、バックヤードにいるツブラも潰れていた。 「マスター、今日は一体どうしちゃったんでしょうね?」 狭間が厨房を覗き込むと、海老塚甲治は事もなげにコーヒー豆を炒っていた。 「そういう日もありますよ。タチの悪い夏風邪でも流行っているのでしょう、ひどく暑い日が続きましたからね」 〈そうだ……そうなんだよ!〉 と、狭間の頭に唐突に怪獣の声が飛び込んできた。その声の主は、店内の空調を任されている冷媒怪獣スイレイ だった。大きな箱型のクーラーの中に入っていて、外気を取り込んで冷気に変える力がある小型怪獣だ。 〈人の子、それはゴリラ風邪のせいなんだ!〉 「ゴリラ風邪ぇ?」 まるで噛み合わない単語を繋げただけではないか。狭間が思わずその言葉を繰り返すと、海老塚が焙煎する手を 止めて狭間に近付いてきた。麻里子はすかさず首を戻し、平静を装う。 「狭間君が先程仰っていたのは、ゴリラ風邪を罹患した方々のことなのですか?」 「あの、マスター。そもそもゴリラ風邪って何ですか?」 この暑さでとうとうマスターもおかしくなったのか、と狭間が半笑いになると、麻里子が目を丸める。 「そうです、そのゴリラ風邪なんです! 思い出せそうで思い出せなかったのは!」 「だから、そのゴリラ風邪って」 「こうしてはいられませんね。今すぐ店を閉めて対処しなければ、ゴリラ風邪が蔓延してしまいます」 「そうですね。お父さんにも連絡して、若衆達が無事かどうかを確かめてもらいます。ゴリラ風邪は恐ろしいので」 真顔で変な単語を言い合う海老塚と麻里子に、狭間はどんな言葉を掛けるべきか考えあぐねたが、結局は何も 言えなかった。いつのまにか狭間の足にしがみついていたツブラは、事の流れが解らないのかきょとんとしていた のだが、店のベルが鳴った途端にバックヤードに駆け戻っていった。今日、初めての客だ。 「いらっしゃいませ」 これ幸いと狭間は客を出迎えると、若い男女の二人連れだった。片方は常連である兜谷繭香で、もう片方は大柄 ではあるが表情には幼さが垣間見える少年だった。ということは、彼が繭香の幼馴染でボーイフレンドである 槐勘太郎なのだろう。事ある毎に繭香が自慢していたので、狭間は彼の名前とその字までもを覚えてしまった。 洒落たワンピース姿の繭香は顔が真っ赤でぐったりしていて、勘太郎は繭香を支えていた。 「すみません、しばらく休ませてもらってもいいですか」 「ええ、どうぞ」 狭間は快諾して二人を窓際のテーブル席へと案内し、御冷を運んだ。勘太郎の手を借りて椅子に座った繭香は 高熱が出ているのか、息も荒く、目もとろんとしていた。 「お前みたいな弱っちいのが、病み上がりに無理するからだ」 そうは言いつつも、勘太郎は自前のタオルで繭香の汗を拭いてやった。繭香はけほんと小さく咳き込むと、御冷 を取って額に載せた。結露と汗の混じったものが額から顎を伝い、細い首筋に流れ落ちる。 「だって……今日、一緒に出掛けないと、勘ちゃん、明日から合宿に行っちゃうんだもん……」 「柔道部の合宿は半月もしないで終わるんだから、そこまで必死になるこたぁねぇだろ」 「だって……映画の前売り券、無駄になっちゃう……」 「いちいち面倒臭ぇなぁ、お前ってのは」 口では文句を言ってはいたが、勘太郎は繭香が落としかけたコップを受け止めたばかりか、狭間が気を利かせて 渡した濡れタオルを繭香の額に載せてやっていた。言動と行動が相反してしまう性分らしい。繭香はそれが嬉しい らしく、火照った顔を綻ばせている。 「具合が落ち着いたら医者に連れてってやるから、そうやってじっとしていろよ。でないと二度と一緒に出掛けて やらねぇからな。映画も買い物も動物園もだ」 「虫取りは……?」 「虫取りもだ」 勘太郎は凄むが、繭香はへらっと笑って頷いた。 「うん、解ったぁ」 二人の会話から察するに、繭香は勘太郎を誘ってデートをするつもりだったようだが、夏風邪がぶり返して熱が 出てしまったようだった。勘太郎は大柄で良く日に焼けている上に、柔道部だからか体付きもがっしりしているの で、小柄な繭香と並ぶと大人と子供のようだった。どうせ他に客もいないので、狭間は繭香の発熱が少しでも和らぐ ようにと氷を入れたビニール袋を用意して運んでやると、勘太郎に丁寧に礼を述べられた。狭間はまだ何か出来る ことはないかと思いつつ厨房に戻ると、海老塚が渋い顔をしていた。 「これは、あまりよろしくありませんね」 「どうしてですか」 狭間が問い返すと、海老塚は少女の看病をする少年を窺った。 「ゴリラ風邪とは、その名の通り、初期症状は風邪とほとんど変わりがないのです。発熱、倦怠感、喉の痛み、食欲 不振、関節痛といった具合に。ですので、罹患した患者はただの風邪だと思ってしまいますし、ゴリラ風邪について 詳しくない医者であれば見落としてしまうでしょう。最初にゴリラ風邪が大流行したのは一九三三年のことでして、 ゴリラ型怪獣が出現したスカル島で恐竜型怪獣の観察と調査を終えた調査隊が発症したのですが、ゴリラ風邪であると 解らずに普通の治療を施したために発症し、末期症状を……」 「ゴリラ風邪の有効な対処方法は、未だに見つけ出されていないのです。特効薬もありません」 麻里子もいつになく深刻で、カムロも同様だった。 〈俺達怪獣には感染しない病気ではあるが、厄介なんだよ。これがまた〉 「でも、俺は今の今までそんな病気があるなんてことは知りませんでしたよ?」 狭間の脳裏に過ぎった想像はあながち間違いではなかったようだが、当たったところで嬉しくはない。 「それはそうでしょう。ゴリラ風邪の病原菌は、本来はジャングルの奥深くや、ゴリラ型怪獣の生息地であるスカル島 を始めとした離島にだけ存在しているものなのです。研究者や観光客が出入りすることで病原菌が他国に流入して しまうこともありますが、検疫で引っかかりますし、罹患者は治癒するまでは隔離施設に足止めされるので、都市部 で蔓延することはなかったのです。――――今の今までは」 海老塚は悲しげに目を伏せた。すると、勘太郎が突如悲鳴を上げ、コップが砕け散る音やテーブルが倒される音 が響き渡った。何事かと狭間が店内に駆け戻ると、そこには一頭のゴリラがいた。繭香が座っていたはずの椅子が ゴリラの分厚い尻の下で砕け散っていて、繭香が着ていたはずの服の切れ端が黒い体毛に絡み付いていて、繭香は どこにもいない。そのゴリラの前では、勘太郎が腰を抜かしている。 「繭香……?」 「うおっゴリラだ!」 「違うっすよバイトの兄さん、これは繭香っすよ! 繭香だったんすよ、さっきまでは!」 狭間の絶叫で我に返った勘太郎は、狭間に詰め寄ってくる。ゴリラは分厚い唇を尖らせている。 「でっ、でもあれはゴリラ以外の何物でも!」 狭間も言い返すが、勘太郎は頑として譲らない。ゴリラはカーテンで遊び始めている。 「だぁからっ、あれは繭香なんだっつってんだろうが馬鹿野郎! 急に苦しみ出したと思ったら、体がでかくなって、 ゴリラになっちまったんだよ! 俺の繭香が! 繭香なんだよ、ゴリラだけど繭香なんだよ!」 狭間の襟首を掴んできた勘太郎は、半泣きではあったが怒り心頭だった。柔道部だけあって力が恐ろしく強く、 仕事着の襟が伸び切ってしまった。狭間は恐る恐るカウンターを見やると、海老塚は痛ましげに言った。 「それがゴリラ風邪の末期症状なのです」 両の拳を床に付いたゴリラ繭香は、大きな尻を振りながら店内をのっそりと歩き回ってから、外に出るなと大声を 上げて引き留めてくる勘太郎を無視してドアを開け、出ていった。ドアを突き破らなかったのは、繭香の元々の人格 が残っていたからだろう。外に出たゴリラ繭香は野性味のある咆哮を上げ、ゴリラの群れに向かっていった。ゴリラ 風邪の一部始終を目の当たりにした勘太郎は、その場に座り込み、しくしく泣き出した。 当然の反応である。 14 8/24 |