横濱怪獣哀歌




猿ノ湧ク災イ



 ゴリラ風邪は爆発的に流行した。
 あっちを見てもゴリラ、こっちを見てもゴリラ、どこに行こうが、必ずゴリラと出くわす。そうやって一日に何十何百 ものゴリラを目にしていると、人間の姿を保っている自分がイレギュラーになったかのような気持ちになった。 だが、彼らは元々は人間なのだと思い直すことで、狭間は精神の均衡を保っていた。
 ゴリラ風邪の発生から二日後に、保健所職員による説明会が横浜市市役所で開かれた。対応は迅速であるとは 言い難かったが、ここに至るまでに苦労があったのか保健所職員はひどく窶れていた。狭間も説明会会場である 会議室に赴き、変装させたツブラを膝に乗せて拝聴することにしたが、客は少なめだった。百個近く並べられて いるパイプ椅子は半分以上が空席で、被害の深刻さが窺えた。思えば、市役所職員の数も少なめだった。

「それでは、ゴリラ風邪についての説明を始めます」

 保健所職員である中年男性はろくに寝る暇もなかったのか、髪は乱れていてスーツはアイロンが取れていた。

「まず、市民の皆さんに知って頂きたいのは、ゴリラ風邪に感染して末期症状を発症した患者さんは危険な存在で はないということです。姿形は人間離れしていますが、中身はれっきとした人間であり、皆さんの隣人であり、友人 であり、御家族であるということを忘れてはなりません。ゾンビ風邪とは違いますので、噛み付かれても感染すると いうことは絶対にありません。御安心下さい。ゴリラ風邪の感染経路については各方面と協力して調査中ですので、 結果が出次第、発表いたします。では、ゴリラ風邪の特徴について御説明いたします」

 保健所職員は黒板に人体図を描いた紙を貼り付け、指示棒で示す。

「ゴリラ風邪というのは通称でして、正式名称は類人猿型変異性普通感冒といいます。変異性感冒にはゾンビ風邪 を始めとした複数の種類がありますが、最も感染力が強いのがゴリラ風邪なんです。ゾンビ風邪は罹患者の動作が とても遅くなるので感染が拡大する危険性が比較的低いですし、獣人型変異性普通感冒――――通称、オオカミ 風邪は中世から十九世紀末に掛けてヨーロッパで流行しましたが、封じ込めに成功しております。いずれの変異性 感冒も初期症状は普通の風邪と全く同じで、発熱、頭痛、倦怠感、鼻詰まり、鼻水、くしゃみ、喉の痛み、食欲不振 ですが、この段階で普通の風邪なのかゴリラ風邪なのかを見分ける方法はあります。それは、体の一部が毛深くなる ことです。ゴリラ化は一瞬にして終わるわけではありません、ゴリラ風邪を発症し始めてからじわじわと変異して いるのです。高熱が下がった時にゴリラ化が一気に促進するので、あたかも変身したかのように見えているだけで あり、実際はそうではないのです」

 人体図の隣に、ゴリラ化した患者の写真が貼り出される。

「忘れてはならないのは、ゴリラ風邪に掛かった患者さん達はゴリラに匹敵する腕力を持っているという事実です。 これはゴリラ風邪の病原菌が肉体を活性化させているからなのですが、パンチ一つで壁に穴が開いてしまいますので、 迂闊に近付くと大変危険ですので注意して下さい。異変が起きているゴリラ化患者がいても、警察か保健所 に速やかに連絡してその場を離れて下さい。御自身を守ることを最優先にして下さい」

 ゴリラ化した患者の写真を背にした保健所職員は、まばらな聴衆を見渡す。

「ゴリラ風邪の潜伏期間は三日、発症してから末期症状に至るまでに必要な期間は、個人差はありますが一週間程度 です。特効薬はありませんが、通常の風邪と同じく、手洗いうがいと栄養のある食事と充分な休養を取ることで、 ゴリラ風邪の感染を予防出来ます。政府の措置により、ゴリラ風邪が沈静化するまでの間は桜木町を中心とした 一帯は封鎖されますが、陸軍から食糧などの物資の配給があるので安心して下さい。ですが、隔離区域外へ出る ことは禁じられてしまいますので、どうか御協力と御理解を」

「あの」

 狭間が思わず挙手すると、保健所職員は問うてきた。

「はい、なんでしょうか」

「普通の風邪と同じような予防方法で本当にいいんですか? だって、ゴリラ風邪ですよ?」

「ゴリラになってしまいますが、風邪は風邪なんです」

「それじゃ、特効薬がないのも風邪だからなんですか?」

「そうです。抗生物質と解熱剤と栄養剤を処方すれば、それなりの効果は出ますが、最終的には患者さん御本人の 免疫力に頼るしかないんです。歯痒いですが」

「ということは、ゴリラ風邪って自然に治るんですか?」

「患者さんの免疫が正常に働いて、ゴリラ風邪の原因となる病原菌が死滅すれば、元の姿に戻ります」

「そんなことでいいんですか?」

「治るんですから、それでいいんですよ」

 狭間に喰い付かれたのが面倒だったのか、保健所職員は鬱陶しげにあしらった。それからもゴリラ風邪に関する 説明は続いたが、狭間は笑うべきか否かを迷ってしまい、話が頭に入ってこなかった。人間の姿形が変わり果てて しまうような病気であっても、風邪と同じ理屈で治ってしまうのか。そんなことでいいのかゴリラ風邪、と思って しまったが、治るならそれに越したことはない。
 しかし、ゴリラはゴリラだ。




 説明会を終えて狭間とツブラが帰宅すると、愛歌も帰宅していた。
 愛歌が帰宅するのは三日振りだった。ゴリラ風邪が蔓延し始めてから怪獣監督省も忙しくなっているらしく、着替え を取りに戻ってくることはあっても腰を落ち着けることはなく、すぐに仕事場にとんぼ返りしていた。先程の保健所職員 と同様に倦み疲れていて、目が死んでいた。狭間は愛歌を労ってから、昼食の支度を始めた。

「あー……」

 スーツを脱ぐのすら億劫だったのか、愛歌は手足を投げ出して口を半開きにして呆けていた。

「昼飯、注文あります?」

 狭間は冷蔵庫の中身を確かめてから尋ねると、愛歌は脱力しきった手をぷらぷらと振った。

「あったかいラーメンが食べたい。伸びてないのがいい。卵も硬くないのがいい……」

「かしこまりました、少々お待ちを。出前で届いた食事に手を付けられないほど忙しかったんですね」

「そーなのよぉー」

 ブラウスの襟元を緩めた愛歌は、覇気の欠片もない語気でぼやいた。

「ゴリラ風邪の原因、突き詰めれば赤木君だったのよ」

「そうなんですか!?」

「そうよ、そんなことよりラーメン作って。お腹空いた」

 打ちひしがれている愛歌に、ツブラが擦り寄っていった。ツブラなりに慰めているようとしているらしく、赤い触手を 柔らかく絡ませている。愛歌はそれに抗う余力もなく、余程心労が積み重なっていたのか、目の前にいたツブラを 抱き寄せて背中を丸めた。それから、インスタントラーメンが出来上がるまでの間、愛歌は愚痴を零していた。
 トンコツ味のラーメンが出来上がると、愛歌は夢中でそれを食べた。注文された通り、卵は煮え切らないように鍋を 火から下ろす一分ほど前に落とし、白身に火が通りきる寸前で丼に入れた。狭間も自分の分を作って食べていたが、愛歌 は五分足らずで麺を食べ終え、満ち足りた様子で頬を緩めた。

「まともなものを食べると、生き返った気がするぅ」

 御飯も入れよう、と愛歌は冷蔵庫に残っていた冷御飯をスープに入れ、雑炊にして食べ始めた。

「この前、赤木君が別件の捜査をしているって言ったでしょ? あれはね、密輸されてきたゴリラ型怪獣を確保する ためだったんだけど、そのゴリラ型怪獣はゴリラ型怪獣じゃなかったのよ」

「もしかして、ゴリラ風邪を引いた人間だったんですか?」

「そうそう、そうなのよ。で、ゴリラ型怪獣だと思われていた罹患者は怪生研に運ばれたんだけど、そこでゴリラ風邪 が一気に蔓延しちゃったの。罹患者はとっくに完治していたんだけど、密入国と諸々で逮捕されているわ。だから、今、 怪生研は使い物にならないの」

「それじゃ、羽生さんもですか」

「鮫淵さんもね。御見舞いしてきたけど、どっちも見事なゴリラっぷりだったわ……」

「ということは、愛歌さんはゴリラ風邪の患者と接触してきたってことですよね」

「そういう狭間君も、街中で大量のゴリラ風邪の患者に会っているわよね」

「空気感染するんですよね」

「普通の風邪と同じようにね」

 となれば、どちらがゴリラ風邪を発症してもおかしくはないというわけだ。

「愛歌さん、俺がゴリラになっても構わないで下さい」

「狭間君、私がゴリラになったら見て見ぬふりをしてちょうだい」

「ゴイラ!」

 真顔で誓い合った二人の間に、ツブラがひょいと顔を出す。座卓に顎を乗せているツブラは、テーブルに置かれた コップに触手を入れて水道水を吸い上げ、満足げにぷはっと息を吐いた。自分がゴリラになってしまったら、ツブラ の食事はどうなるのだろう。手当たり次第に他人を襲っては体力を喰らうようになってしまうのか、或いは狭間以外 の人間を受け付けずに飢えに苦しんでしまうのか。どちらにせよ、可哀想なことになりかねない。
 ツブラのためにも、ゴリラ風邪に掛かってたまるものか。




 ゴリラ化した患者達の間で異変が起こり始めた。
 それまでは小さな群れを作っているだけだったのだが、大きな群れを成して街中で抗争を繰り広げるようになった のである。黒山の人だかりならぬゴリラだかりがあちこちに出来ては、ウッホオッホとの叫び声が上がり、大きな拳 を肉体に叩き込む鈍い音が聞こえ、ドラミングが響き渡った。これでは夜も眠れないし、昼寝も難しい。
 そこで、狭間はゴリラの抗争の騒音から逃れるべくフォートレス大神を後にした。少しでもゴリラ達から遠ざかれる 場所を探すためである。愛車のホンダ・ドリームは大量のゴリラにびくついているらしく、エンジンが思うように 掛からなかったので、ツブラを連れて徒歩で行くことにした。市役所が設置した配給所に行き、物資を得る時以外 は極力外に出ないように勤めていたが、寝不足とストレスで判断能力が低下していたからだ。
 近所の空き地に差し掛かると、ゴリラの群れが集まっていた。ゴリラ風邪が蔓延する前は子供達が無邪気に遊び、 紙芝居屋の野々村不二三が駄菓子を売って紙芝居を上演していたが、それが遠い昔のように思えてしまう。 狭間はなんともいえない気持ちになって、ゴリラ達に見つかる前に去ろうとした。だが、視界の隅に金色の布地 が掠めたので、足を止めて振り返った。ゴリラ達のリーダー格と思しき、最も屈強で巨大なゴリラは、金色の布地 と壊れたサングラスを頭にくっつけていて虹色に輝くスカーフを太い指に巻いていた。これは、もしや。

「鳳凰仮面!?」

 否、鳳凰ゴリラ仮面だ。いやそんなこと考えている場合じゃない。狭間は後退ろうとしたが、鳳凰ゴリラ仮面は 目敏く気付き、立ち上がった。座っている際も大人よりも身長が高かったのだが、立ち上がると三メートル近い身長 で、息詰まるほどの威圧感がある。鳳凰仮面は元々体格が良い男だったが、ゴリラ風邪のせいで一回りも二回り も大きくなったようだった。ゴリラ風邪には思いがけない効果があったようだ。
 獣の臭い、筋肉の重み、野性の眼。鳳凰ゴリラ仮面が両の拳を地面に付けて歩き出すと、ゴリラの群れはざっと 割れて道を開けてくれた。鳳凰ゴリラ仮面に注がれるゴリラ達の視線は真摯で、尊敬すら込められていた。実力が イコールで権力となる獣の世界では、デタラメな強さを備えた鳳凰仮面は王者になるべくしてなったのだ。もっとも、 人間の世界に戻ってしまえば元の木阿弥なのだが。
 鳳凰ゴリラ仮面は狭間の前で止まると、ずいっと大きな顔を突き出してきた。目鼻立ちに野々村不二三の面影が あるような、ないような。狭間は逃げ出そうとしたが、後退ると別のゴリラにぶつかった。そのゴリラの左腕は岩石 の如き皮膚を持つ怪獣義肢、シニスターだった。ということは、このゴリラは須藤か。ゴリラ須藤か。続いて現れた のは頭が見事に禿げ上がっていてサングラスを耳の端に引っ掛けているゴリラで、恐らく寺崎だろう。ゴリラ寺崎だ。 そして、異様にはしゃいでいるゴリラは恐らく御名斗だ。すると、今にも泣きそうなシニスターの声が聞こえた。

〈嫌だあああああ、ゴリラなんて嫌だああああっ、俺の、俺だけの、格好良くてクールな須藤があああっ〉

〈ゴリラ化しただけならまだいいわよ、私達なんてゴリラ化した御名斗にぶん投げられたのよ!〉

〈そうだそうだ、贅沢言ってんじゃねぇ!〉

 空き地の隅から反論してきたのは、怪銃ボニー&クライドだった。ホルスターに入ったままで泥にまみれている。

〈お前らなんかまだマシだ……俺なんか寺崎に殴られた……。あんなに大事にされていたのに……〉

 空き地にほど近い駐車場の隅で横転しているのは、寺崎の愛車である真っ赤なサバンナだった。

〈そうだ! どうにかしろ! このままじゃ、俺のプライドごと刀身が折れそうだ!〉

 サバンナの割れた窓から飛び出してきたのは、九頭竜総司郎の愛刀、ヴィチロークである。

「そんなこと言われても」

 狭間にどうにか出来たら、とっくに他の誰かがどうにかしている。

〈どうにかしてくれなかったら、ナマス切りにしてやる! 俺の総司郎を返せ!〉

 ということは、九頭竜総司郎も多分に漏れずゴリラ風邪に罹患したらしい。それは気の毒だと思ったが、それと これとは別である。ヴィチロークに切り付けられたらたまったものじゃないので、狭間はツブラを脇に抱えて ゴリラの群れから逃げ出そうとした。が、しかし、鳳凰ゴリラ仮面にあっさりと掴まって担ぎ上げられた。
 さながら、祭りの御輿の如く。





 


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