横濱怪獣哀歌




猿ノ湧ク災イ



 ウッホオッホと運ばれた先は、埠頭の倉庫だった。
 ツブラ共々倉庫に投げ込まれた狭間は、強かにコンクリートに背中をぶつけた。長時間担ぎ上げられていたために 乗り物酔いのような目眩に見舞われていた上、背中の痛みでしばらく起き上がれなかった。ゴリラ独特の臭気と 熱気と宗教的儀式のような雰囲気に飲まれてしまったからでもある。ツブラも似たような状態らしく、赤い触手 がだらしなく広がっている。動くに動けないので寝そべっていると、軽い足音が近付いてきた。

「あの、大丈夫ですか?」

 ぐるぐると巡る視界に辟易しながら目を上げると、そこには私服姿の兜谷繭香がいた。ゴリラではなく人間の姿 に戻っていたので、無事にゴリラ風邪は完治したのだろう。

「ヲルドビスのバイトのお兄さんですよね、それと、えっと」

 繭香の視線がツブラに向きかけると、ツブラはすかさず変装道具一式を触手で掻き集め、身に着けた。

「その小さいのはツブラっていいます。えぇと、細かいことはまた後で……」

 起き上がると吐きそうだ。狭間が力なく応じると、繭香は小走りにどこかに行き、すぐに戻ってきた。その手には 水を張ったタライと濡れ布巾があり、それを使って介抱してくれた。そのおかげで、乗り物酔いならぬゴリラ酔いも 落ち着いた狭間は起き上がり、繭香が持ってきてくれた水を飲み、ツブラにも飲ませてやった。

「ここ、なんなんです?」

 狭間は一息吐いてから、鉄筋コンクリート製の倉庫をぐるりと見回す。窓もドアも締め切られているので、熱気が 立ち込めていて、コンテナは一つもない。今になって汗が浮いてきて、背筋を垂れ落ちていく。

「この倉庫は、輸入した果物を追熟させるための倉庫なんですけど、見ての通りの有様で」

 繭香は白いハンカチを出し、額に滲んだ汗を拭う。

「もしかして、ゴリラが食べちゃったせいですか」

「もしかしなくても、ゴリラのせいなんです。ああなると解っていたら、勘ちゃんとデートに行かなかったのに、あんな姿 を見せちゃったんだもん、勘ちゃんのお嫁になんて行けない!」

 ゴリラ風邪に罹患していた際の記憶が蘇ったのか、繭香はハンカチで顔を覆って嘆いた。

「ああっ、記憶があるのが嫌! せめてゴリラじゃなくて虫になりたかった、格好いい甲虫になりたかった! ゴリラに なると行動も全部ゴリラになっちゃうから、高いところに昇っちゃうし、ゴリラ同士で群れを作っちゃうし、動物だから 目の前にある食べ物を手当たり次第食べちゃうし、何より嫌だったのが全裸だったこと! ゴリラ風邪が収まりかけた時 になんとか家に帰れたから服を着られたけど、街中で元に戻ったらと考えるだけで、うわああああんっ!」

 それは確かにきつい。狭間でもそう思うのだから、年頃の女の子にとっては地獄だ。

「でも、治ったのであれば、どうしてまたゴリラと関わっているんです?」

「デス?」

 狭間の語尾を真似て、ツブラも問う。はぁはぁと息を荒げていた繭香は、顔を上げ、目を吊り上げる。

「関わりたくて関わっているんじゃないんです! あの後、勘ちゃんもゴリラ風邪に掛かっちゃって、どうにかしなきゃ って近付いたら、あっという間に攫われてこの倉庫に閉じ込められちゃったんですよ! 宿直室があってお風呂も冷蔵庫も 扇風機もテレビもラジオもあるしゴリラ達が食べ物も持ってきてくれるからからまだマシなんですけど、家に帰るに帰れない んです! 家に帰れないと、夏休みの宿題が終わらないじゃないですか!」

「真面目だなぁ、繭香さんは」

「非常事態だからこそ、日常を追い求めてしまうものですよ」

「ヒジョー?」

「ひとまず、ゴリラ達の目的が解らないことにはどうにもなりませんね」

「それならもう解っていますよ。あと、ゴリラ達は監視しているようでしていないので、外に出られます」

「へ?」

 だったら、なぜさっさと逃げない。すると、繭香はまた嘆いた。

「どのゴリラが勘ちゃんなのか、解らなくなっちゃったんですよー! 勘ちゃんが元に戻った時に着せてあげよう って服も持ってきたのに、元に戻るのは知らない人達ばっかりで! その人達にも服は貸してあげましたし、連絡先 も教えてもらいましたけど! 勘ちゃん、丈夫なのに風邪を引くと長引いちゃうから、一生ゴリラのままだったら私は どうしよう! ゴリラでも勘ちゃんは勘ちゃんだし、お嫁に行くって約束しているし、だけどゴリラは……」

「それは……」

 そこまで深刻に考えるほどのことなのだろうか。狭間は、打ちひしがれている繭香を慰めるべきか、さっさと家に 帰った方がいいとせっつくべきか、しばらく悩んでしまった。倉庫の中にいるとまた具合が悪くなりそうなので、繭香 が寝起きしている宿直室に行き、扇風機と良く冷えた麦茶で涼んでいると、倉庫が騒がしくなってきた。地震が起きた のかと勘違いするほど、倉庫全体が揺れて軋んだのは、大量のゴリラが詰めかけたからだろう。

「始まりましたね」

「何が?」

「ナニガ?」

「どっちの獲物が凄いか合戦ですよ。勘ちゃんゴリラを探すついでにゴリラ達を観察していて解ったんですが、彼ら は群れのリーダーの優劣を決めるために獲物を掲げて比べ合うことで、無用な争いを回避しているんです。金色の 布が引っ掛かっているゴリラは恐ろしく強いんですが、あまりにも強すぎるので、ゴリラの群れが壊滅しかけたこと があるんです。実際、ゴリラ化していた私が入っていた群れは、金色の布のゴリラによって散り散りになりましたし。 このまま潰し合っていては全滅してしまう可能性がある、と群れのリーダー達が話し合って、生み出したのが、これ なんです。合理的ですよ、獣とは思えないくらいに!」

「元々人間ですけどね」

「でも、人間もケモノじゃないですか。……まあいいです、この辺の議論は堂々巡りになるので割愛します。それで、 どっちの獲物が凄いか合戦に勝った方のリーダーとその群れは、東京から運ばれてきた補給物資を優先的に取り に行ける権利を得るんです。栄養を付けないことには、風邪は治りませんからね」

「だったら、大人しく静養していればいいものを」

「それが出来ないんですよ、ゴリラですから」

 おかげで私はまだ体中が筋肉痛ですよ、と繭香は肩を回していたが、我に返った。

「ということは、狭間さんは今日の獲物ってことじゃないですか。こんなところにいてはいけませんよ、ゴリラ達に 品評されなくては! では、ごきげんよう!」

 そう言うや否や、繭香は狭間とツブラを宿直室から追い出した。優しいのか優しくないのか、今一つ計りかねる娘 である。繭香が付けた名前はいい加減だが、どっちの獲物が凄いか合戦がゴリラ達に均衡を与えているのであれば、 その均衡を崩すわけにはいかない。狭間は心底げんなりしながらも、倉庫に向かった。
 ドアを開けた途端、先程の熱気が数百倍に膨れ上がった熱が襲い掛かってきた。どこもかしこも黒い獣が占め、 窓や天井の鉄骨や配管にまでもぶら下がっている。その時点で狭間は目眩がぶり返し、よろめいた。ゴリラは狭間 とツブラを呆気なく捕まえて担ぎ上げ、大玉転がしの要領で運んでいった。しかし、狭間とツブラは生き物なので、 そう何度も何度も回されては三半規管がおかしくなる。不意に平たい場所に放り投げられてしまったが、今度もまた 起き上がれず、唸るだけで精一杯だった。ツブラは狭間に必死にしがみついていたが、身動き一つしない。

「ホッホホホホホーウ!」

 分厚い唇を尖らせて吼えたのは、鳳凰ゴリラ仮面である。彼を中心にしてゴリラの輪が幾重にも出来ていて、狭間 とツブラはその輪の中心の空間に転がされていた。狭間とツブラは鳳凰ゴリラ仮面に掴まれて高々と掲げられると、 ゴリラ達は一斉に雄叫びを挙げた。言葉の意味は解らないが、讃えているという雰囲気は伝わってきた。
 続いて、別の群れのリーダーのゴリラが獲物を掲げた。美しく鍛え上げられた白刃、ヴィチロークだった。ここに 至るまでに散々な目に遭ったらしく、刀身に現れた赤い目はどろんと濁っている。また別の群れのリーダーが誇らしげ に掲げた獲物は、ホルスターに入ったままの二丁の怪銃、ボニー&クライドだった。こちらも反撃する余力すら残って いないらしく、諦め切っていた。両者とも涎と泥にまみれていて、かなり汚い。
 それから、ゴリラのためのゴリラによるゴリラの審議が始まった。言っていることはさっぱり解らなかったが、激論 をぶつけ合っていて、時に殴り合いに発展しかけていた。ゴリラの円陣の真ん中に座り込んだ狭間とツブラは、互いに 身を寄せ合ってじっとしていた。この状況で反撃出来るのは、余程の猛者である。
 狭い空間に隙間なく詰まったゴリラとゴリラとゴリラとゴリラ、密閉されたままの窓という窓とドアと搬入口と窓 と窓、通気口すらゴリラに塞がれていてゴリラとゴリラがゴリラをゴリラに。ゴリラがこんなにも大量にいるのに換気 もへったくれもない環境だからか、空気が段々薄くなってきた。暑苦しさによる頭痛と酸欠気味の頭痛が入り混じった おかげで、狭間は猛烈に気分が悪くなってきた。だが、ゴリラだ。ゴリラしかいない。ゴリラ達の話し合いは終わらない どころかヒートアップしていて、ついにはヴィチロークを振り上げ――――

〈耐えられんっ、耐えられんわあああああああーっ! スマー・サショール!〉

 赤い目から体液なのか涙なのか判別しかねる液体を撒き散らしながら、ヴィチロークは自力で浮上して一回転し、 衝撃波を放った。途端にゴリラ達が吹っ飛び、黒い獣の波がうねり、上下する。

〈こうなったらどのゴリラがどこの誰だろうが構わん、成敗してくれる! 俺はゴリラのいない世界に行く!〉

 狭間が止める間もなく、否、止めるだけの余力はなかった。かなり腹に据えかねていたのか、ヴィチロークは 泣き喚きながら衝撃波を放つ、放つ、放つ。その攻撃がゴリラの群れを吹き飛ばす度に黒い体毛が飛び散ったが、血は 出てなかったことからすると、このゴリラ風邪騒ぎでヴィチロークは消耗しているようだ。そうでもなければ、今頃は ゴリラの細切れの死体だらけになっていたはずだ。
 ヴィチロークの反乱を切っ掛けに、他の怪獣義肢達も暴れ始めた。ボニー&クライドは銃身を過熱させて汚れを 熱消毒してから熱線を撒き散らし、倉庫の天井や屋根に大穴を開けた。おかげで外気が入ってきたが、それも真夏の 熱気がたっぷり含まれていたので焼け石に水だった。ゴリラ須藤を引き摺りながら壁に突っ込んだシニスター は、奇声を上げながら壁をこれでもかと殴り付け、外に飛び出していった。その穴から倉庫に突入してきたのは 真っ赤なサバンナで、ゴリラ達をぽんぽんと蹴散らしていくが、やはり速度は遅めだった。
 その騒ぎに紛れて、狭間はツブラの手を引いてふらふらと外に出た。真昼の太陽が眩しすぎて目を閉じかけたが、 直射日光は肌を刺してこなかった。それどころか、外気がひんやりしている。これはもしや、と狭間は血の気が 引いて後退ると、有翼の光の巨人が太陽を背にして浮かんでいた。ヴィチロークがゴリラを相手に大立ち回りを 繰り広げていることを察知して、早々に現れたようだった。

「うおあああっ!」

 狭間はその場から逃げ出そうとしたが、光の巨人は一体ではなく、倉庫の四方を取り囲んだ。

「マヒト……」

 ツブラは戦う意思を示したが、目もとろんとしていて顔色も優れないので戦える状態ではなさそうだった。ならば、 どうする。狭間はツブラをきつく抱き締めて光の巨人達と睨み合っていたが、光の巨人は錯乱気味のヴィチロークが 衝撃波で薙ぎ倒しているのがゴリラの群れだと知ると、訝しげに首を捻った。

「ヴィチロークが吹っ飛ばしているのが人間じゃないから、判定を決めかねているのか」

 光の巨人が困るところなど、初めて見た。しかし、その気持ちはよく解る。それからしばらく、光の巨人の動向を 見守っていたが、光の巨人達はにゅうっと体を伸ばして倉庫の真上で額を突き合わせ、話し合いらしきものをした。 声というにはささやかすぎる音をやり取りした後、光の巨人達は首を左右に何度も捻りながら浮かび上がっていき、 消えた。これでいいのか、と狭間は自問したが、これでいいんだよ、と無理矢理自答した。
 理解出来なければ、納得しなければいいのだから。




 ゴリラ風邪が収束したのは、発生から二週間後のことだった。
 患者の数が徐々に減っていき、ゴリラ化していた人々が本来の姿に戻っていくと、今度は町中の惨状が目に付く ようになった。だが、誰も彼もゴリラ化していたので責めることは出来ず、どこの誰がやったのかを調べようにも 調べられるはずもなかったので、怒りの矛先が宙ぶらりんになってしまった。店や住宅を修復するための助成金が 国から支給されることになったが、審査にまず時間が掛かり、審査が通って申請して受理されても、支給されるまで には更に時間が掛かるとのことだった。それが御役所仕事というものだ。
 その後、営業を再開した古代喫茶・ヲルドビスに繭香と勘太郎がやってきた。店内でゴリラ化したことを詫びる と共に、ゴリラ風邪が治った勘太郎が無事な姿を狭間に見せるためだった。それから二人は、改めてデートをする のだと言って店を後にした。それが羨ましいやら微笑ましいやらで、狭間はなんだか幸せな気持ちで仕事をしていた のだが、休憩時間に掛かってきた電話でそれが吹っ飛んでしまった。
 電話の主は赤木進太郎で、愛歌が世間からは一拍遅れてゴリラ風邪を発症してしまったばかりか、一頭だけなので やたらと攻撃的なので手に負えないからなんとかしてくれないか、というものだった。それこそ怪獣Gメンと保健所 の仕事だろうとは思ったが、頼まれたからには逆らえず、狭間は仕事を早退してツブラと共に出向いた。

「愛歌さん……」

 埠頭の片隅にある消波ブロックの上に、ピンク色の体毛のゴリラが一頭座っていた。体毛の色は髪の色の準じた ものだったのかと今更ながら気付いたが、ピンク色のゴリラという非常識極まる存在を目の当たりにし、狭間はつい 笑ってしまった。すると、ゴリラ愛歌は異様に素早い動作で振り返り、飛び掛かってきた。

「ダメ! アイカ、ダメ!」

 狭間とゴリラ愛歌の間に立ちはだかったツブラは触手を放ち、ゴリラ愛歌を受け止めたが、ゴリラ愛歌は怪力で 触手を易々と振り解いてしまった。それから、ゴリラ愛歌とツブラが壮絶な格闘戦を繰り広げたが、最終的に勝利 したのはゴリラ愛歌だった。ツブラの敗因はスタミナ不足で、図らずも今後の改善点が浮き彫りになった。
 それから三日後。人間に戻った愛歌はふらふらしながら帰ってきたのだが、狭間とは目も合わせてくれず、言葉も 交わしてくれなかった。ゴリラ化したら見て見ぬふりをしてくれ、というのは、狭間は冗談半分だったが愛歌は 本気だったようで、その協定を破られたのが大層嫌だったらしい。
 愛歌の機嫌が直った頃、今度は狭間がゴリラ風邪を引いた。それからの記憶は曖昧だが、夜な夜な徘徊していた ゴリラ狭間は夜な夜な徘徊していた鳳凰仮面と遭遇しては大暴れしていたらしく、ゴリラ風邪が治ると鳳凰仮面から ひどく感謝された。だが、ゴリラ風邪が治った狭間は身動き一つ出来なくなるほどの筋肉痛に襲われ、寝込む羽目に なった。その際、愛歌がお見舞いと称して狭間の枕元に置いたのは、猿がシンバルを叩くオモチャだった。
 だが、狭間は怒るに怒れなかった。怒るだけの気力がなかったからだ。結局、その猿のオモチャはツブラの新たな 宝物となり、毎日のようにシャンシャンとシンバルを打ち鳴らした。愛歌の皮肉は痛烈だったが、これだけで済んで よかったのだと思い直し、狭間は枕元で騒ぎ続ける猿のオモチャに在りし日のゴリラを重ねた。
 もう、ゴリラは懲り懲りだ。





 


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