横濱怪獣哀歌




開ケ、地獄ノ釜



 帰省中は、狭間は実家で、愛歌は旅館で過ごす予定になっていた。
 しかし、ゴリラ風邪騒動の最中に愛歌もゴリラ風邪に罹患してしまったせいで、旅館に予約を入れ損ねてしまい、 気付いた頃には船島集落温泉郷の名だたる旅館は予約で一杯になってしまっていた。一ヶ谷市内にある別の旅館 でもいいのではと狭間は提案したのだが、愛歌は温泉がいいと頑として譲らなかったために、帰省当日を迎えても 宿泊先が決まっていないという有様だった。帰省する日程を伝えるために実家に連絡した際、両親に愛歌のことを それとなく話してみると、どうしても宿が見つからないようであれば客間を片付けてやる、と言ってくれた。それは とてもありがたいのだが、そうなった場合、愛歌に一目惚れしてしまった真琴がどうなることやら。
 弟のプライドと初恋のためにも、愛歌が夏季休暇を満喫するためにも、そして狭間の心の平穏のためにも、愛歌 が泊まる宿を手配しなくては、と狭間はある種の使命感に駆られてすらいた。ツブラはどこかに閉じ込めておくのは 忍びないし、暴れられたら大事になるので、いつものように黒髪のカツラとサングラスと黄色いレインコートを着せて やり、赤い長靴を履かせて外へと連れ出した。双方に警戒心を抱かせないためにとツブラと真琴を対面させたが、真琴は 妙な勘繰りをした末に自室に引っ込んでしまい、ツブラは狭間に似た少年に戸惑っていた。
 そして、狭間と愛歌は温泉旅館の予約を取れないかと手当たり次第に当たってみたが、当然ながらどの宿も満室 で盆休みの間は予約が一杯だった。解り切っていたことではあるが、現実を目の当たりにすると多少はショックだ。 夏の日差しとエンジンの熱で暑苦しいシビックを降りた愛歌は、辺りを見回し、表情に覇気を取り戻した。

「お腹空いたから、食堂に行きましょ。何か食べないことには、やる気が出ないわ」

「あ……」

 愛歌の背中越しに看板を見上げ、狭間は臆した。

「なんで立ち止まるのよ、狭間君?」

 ふなしま食堂。それは狭間の以前の仕事場で、ツブラの卵と共に横浜に旅立った日以来、顔を出すに出せなかった 場所だった。愛歌はやたらと真剣に、食品サンプルの後ろに並ぶメニュー表を見上げている。ツブラは見慣れない 建物が立ち並ぶ温泉街に興味津々で落ち着きがないので、手を緩められない。逃げ出そうかと思ったが、ここで 逃げても何も始まらないのだと思い直し、踏み止まった。

「ねえ、狭間君は」

 どれにするの、と愛歌が問おうとした時、ふなしま食堂の裏口が開いた。白い厨房服を着た男は下駄を鳴らして 駆け出してくると、真っ直ぐに狭間に掴み掛ってきた。その勢いでツブラを繋いでいた手が外れ、愛歌の姿が男の 体に隠れたかと思うと、視界が揺さぶられた。殴られたのだと気付いたのは、草むらに転げた後だった。

「てめぇ、どのツラ下げて戻って来やがった!」

「あらまあ」

 愛歌は男を止めるでもなく、泣きそうになっているツブラを抱き寄せて宥めていた。それでいいんです愛歌さん、 と心中で言いつつ、狭間は力一杯殴られた頬を押さえながら起き上がった。狭間を殴り飛ばした男は肩で息をして いて、怒りのあまりに唸っている。長身で肩幅が広く、ただでさえ恐ろしげな顔付きは憤怒で歪んでいる。厨房服の 袖から覗く太い上腕には、オニヤンマの刺青が入っていた。

「どうも御久し振りです、鬼塚先輩」

 狭間は揺れる視界に辟易しながらも立ち上がると、一礼した。ふなしま食堂で働く料理人であり、高校の二学年 先輩である鬼塚八尋は、狭間の愛車のドリームを売り付けた相手でもある。

「しかもなんだ、その女と子供は! まさかたぁ思うが、その派手な女と駆け落ちしやがったのか!? お前が急に いなくなったせいで人出が足りなくなって大変だったんだからな! 落とし前付けてもらおうじゃねぇか!」

「駆け落ちしたわけじゃないですけど、その度は誠に申し訳ございませんでした」

「口じゃなんとでも言えらぁ、誠意を見せろ誠意を!」

「だったら、盆休みの間は日雇いで働きましょうか」

「あれ」

「なんですか、先輩」

「狭間、ちょっと会わないうちに俺が怒鳴ってもビビらなくなっちまったなぁ。なんか寂しいな」

「先輩よりももっと怖い人達を相手にしているものでして」

「確か、お前は横浜に行ったんだよな? 都会って……やっぱり治安が悪いのか?」

「場所にもよると思いますけど、俺が住んでいる町は治安がいいとは言えませんね。ああ、そうそう。寺崎さん ともよく会いますよ、鬼塚先輩の先輩の」

「寺崎さんにぃ!?」

 寺崎の名を出した途端に鬼塚は仰け反り、後退る。それもそのはず、鬼塚は寺崎がまとめ上げていた暴走族の 一員であり、暴走族からレーサーに成り上がった寺崎は一ヶ谷市近辺の暴走族には神格化されているのである。 鬼塚の反応からすると、将来有望なレーサーから前科者のヤクザに落ちぶれても、寺崎善行の栄光は失われては いなかったらしい。ついでに寺崎の運転するサバンナとドリームでレースをしたことを話してやると、鬼塚は勢い を失ったばかりか、畏怖した。鬼塚は寺崎を買い被り過ぎているのだが、今回はそれが功を奏した。

「知らなかったんだ……。お前みたいなボンクラが寺崎さんに目を掛けられていたなんて」

「正確には俺じゃなくて俺のバイクなんですけどね、鬼塚先輩の御下がりのドリーム」

「極道の舎弟頭の寺崎さんの弟分に手を出したとあっちゃ、俺もただじゃ済まない。どうか黙っていてくれ」

「構いませんけど」

「悪かった、本当に悪かった」

 平身低頭謝る鬼塚に、狭間はとてつもない優越感に襲われた。高校時代も卒業後も、食堂で働いている最中も、 狭間は何かと鬼塚に虐げられてきたからだ。勝った、俺は鬼塚八尋に勝ったのだ、と狭間が感慨に耽っていると、 厨房の裏口が再び開き、店名が胸元に入ったエプロン姿の少女が駆け寄ってきた。

「ヤンマ、いつまで話し込んでんの! さっさと厨房に戻る、お客さんが待っているよ!」

 それは、給仕係の秋田あかねだった。小柄で顔付きも幼いので中学生のように見えるが、今年で十九歳になる 年頃の娘である。そして、ふなしま食堂の経営者の娘であり、十年以上働いている大先輩である。

「あれ、狭間君じゃないの? ……もしかして、その人、狭間君の奥さん? でもって娘さん?」

 あかねは愛歌とツブラを見、目を輝かせる。

「きゃーすっごーい、狭間君が急にいなくなったのって愛の逃避行だったのね! うわあ、ロマンチック!」

「だから、違いますって」

 弁解するのも面倒だが、否定しなければもっと面倒だ。狭間が苦い顔をすると、愛歌はにんまりする。

「私は狭間君とはなんでもないんだけど、狭間君の弟君は可愛いなーって思ったのよねー」

「ああー、それって解ります、解ります! まこちゃんって大人ぶっているのが可愛いんですよね!」

 愛歌とあかねの言葉に、狭間は弟に対する周囲の評価を改めた。狭間からすればクールな秀才だったのだが、 年上の女性陣からすれば、それが背伸びをしているように見えるらしい。男と女の価値観には大きな隔たりがある のだと痛感していると、平静を取り戻した鬼塚がきゃあきゃあと騒ぐあかねの頭を押さえた。

「おい、あかね。俺を呼び戻しに来たんじゃなかったのか。お前が話し込んでどうするんだよ」

「あー、そうだったそうだった! 注文入っているよ、中華ソバの大盛りとチャーハンのセット、天ぷらうどん に親子丼、あとは厨房に戻ってからね!」

 じゃあね狭間君、また後でねっ、とあかねは鬼塚と共に厨房に駆け戻っていった。愛歌はにこやかに手を振って 二人を見送ってから、狭間に尋ねた。

「あの板前の子、鬼塚って名前なのね。なのに、なんであかねちゃんはヤンマって呼ぶの?」

「鬼塚先輩は下の名前がヤヒロって言うんですけど、字が下手過ぎて、履歴書の振り仮名がヤンマに読めたらしい んですよ。あと、右の二の腕にある刺青がオニヤンマなんです」

「なるほど。で、あの二人って付き合っているの?」

「結婚するのは時間の問題じゃないかなぁ、と何年も前から思っているんですけど、それがなかなか。鬼塚先輩が 一人前になるまでは、あかね先輩の御両親が許してくれないでしょうし」

「ああいう男って、意外と尻に敷かれるタイプなのよね」

「ええ、確実に」

「シリ?」

 愛歌の陰からツブラが顔を出し、不思議そうに見上げてきた。愛歌は腰を屈め、ツブラと目線を合わせる。

「男の人が女の人に押されちゃうってことよ。ツブラちゃんは言うまでもないけど」

「そりゃどうも」

 狭間はツブラと手を繋ぎ直すと、愛歌の宿探しを続行した。船島集落には三〇軒以上もの宿泊施設があったが、 そのどれもが満室だった。虱潰しに周り続けて日も暮れかけた頃、ようやく空きが見つかった。愛歌が最初に名を 挙げた八雲荘だった。だが、予約に空きが出来るのは明日からだそうなので、そこに予約を入れ、今夜は狭間の 実家で過ごすことになった。丁度仕事帰りの両親と会ったので狭間がその旨を伝えると、早く帰って夕食の支度と 寝床の準備をしてこい、とせっついてきた。どうせ自宅にいるのだから真琴にでもやらせればいいのでは思ったが、 言うに言えず、狭間は両親に命じられるがままに行動した。帰省している身とはいえ、自分は家族であって来客では ないのだ。それは悪いことではないのだが、解せなかった。
 それから、一ヶ谷市の中心地に買い出しに行った。




 両親と愛歌の宴会が収束したのは、夜更けだった。
 運転疲れと気疲れとその他諸々で眠気を催し、早々に自室に引き上げていた狭間は、いつのまにかツブラと抱き 合って寝ていたことに気付いてぎょっとした。だが、離すのが惜しくなって抱き締め直した。触手の肌触りがすべすべ しているし、ひんやりしていて夏場は抱き心地が良いからだ。階下から聞こえていた話し声も落ち着き、両親と愛歌 の笑い声も収まり、母親が洗い物をしているであろう水音が聞こえてきた。窓の外からは虫の金属質な鳴き声と、 冷ややかな夜気が流れ込んできた。枕元に置いた蚊取り線香は燃え続けていて、灰が渦を巻いている。

〈人の子〉

 ざあっと吹き付けた風に混じり、聞こえてきたのは、水脈怪獣ムラクモの声だった。

「なんだよ、ムラクモ」

 ムラクモの重々しい声色は、寝起きのぼんやりした頭では響き過ぎて聞き取りづらい。

〈天の子は息災か〉

「見ていたくせに」

〈ああ。見ていたとも。人の子よ、その道は誤りだ〉

「解ってるさ」

 解っていても、どうにもならない。狭間はツブラの触手に指を通すと、ツブラは小さく声を漏らした。

〈人の子よ、お前にだけは伝えておこう。明晩、我は罪を犯す〉

「何をだ」

〈我は――――人を、殺める〉

「は、え、あぁ!?」

 思いがけない言葉に、狭間は一息で眠気が吹き飛んだ。

〈忘れてはおるまい、人の子。お前と共に我の傍らにて戯れていた、千代の左目が潰れた時のことを〉

 狭間にだけ聞こえる、地鳴りにも似たムラクモの語り口によって記憶の蓋がこじ開けられる。十五年前の出来事 だが、昨日のように思い出せる。忘れようとしても、決して忘れられはしない。六歳の狭間と千代は同年代の子供が 傍にいなかったこともあって仲が良く、毎日一緒に遊んでいた。その頃の狭間は自分の能力と世間との折り合いを 上手く付けられなかったが、千代はそんな狭間を面白がって仲良くしてくれた。あの日もそうだった。怪獣の声に 誘われるまま、狭間が森に入ると、千代も狭間を追ってきた。
 草むらを掻き分け、木の根を飛び越え、どんどん進んだ。進んで、進んで、進んでいくと、ムラクモの巨大な体に 隣り合っている川まで辿り着いた。だが、いつまでたっても千代が来ないので不思議がっていると、引きつった悲鳴 が響き渡った。ムラクモが脈動し、川が濁り、木々が波打った。怪獣達に導かれて声の元に向かうと、そこには、 千代が倒れていた。慌てて抱き起こすと、左目に木の枝が突き刺さっていて――――

〈人の目は欺けようと、我の目は欺けぬ。我はこの身と罪を抱き、光に召されよう。あの娘を救えなかった我を 裁き、許しがたき罪を犯した人間を罰するには、それ以外にない。故に、人の子よ。我が人を殺めた後に現れる光の 巨人を、天の子の力を借りて消し去ってくれ〉

「おい、待てよムラクモ、おい!」

 狭間は網戸を開け放って叫ぶが、ムラクモの声はそれきり聞こえてこなかった。窓辺にずるりと座り込んだ狭間の 背中に、目を覚ましたツブラがのっそりと這い寄ってきた。背中から巻き付けられる触手の柔らかさも、今ばかりは 狭間の心中を安らがせてはくれなかった。心臓が痛み、喉がひりつき、頭痛がする。ムラクモは強硬派ではないし、 何より土着の神も同然の怪獣だ。それなのに、なぜ人を殺そうとする。千代の目を潰した犯人がいるとしても、それ を裁くのは人間だ。なんとしてでも止めなければ、最悪、ムラクモごと船島集落が消えてしまう。
 なんとしても、防がなければ。





 


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